解放の通信
「解放の通信」創刊号(2002.3)

―われわれが直面している反戦闘争の課題

角 行成      


 九・一一の同時テロが突き出した問題は、その激烈な結果に目を奪われて、一方で、小市民的反撥と単純平和主義の大合唱、他方で、反米帝無条件賛美の政治的無内容の横行という、階級的視点の欠如が時代を覆っている。
さらにまた、そのテロ行為の果敢さと対照的な実行行為者の政治声明の不在が、それぞれが自らに引き寄せて、さまざまの勝手な解釈を発生させている。
そして、そのテロは「報復」「制裁」の戦争を引き出し、「新たな戦争の時代」の不安をも引き起こしている。
事態の階級的性格・階級的本質が見えにくいということ自身が階級闘争の後退の結果でもある。だからこそ、この戦争はいかなる性格を持っているのか、この戦争によっていかなる秩序が突き出されんとしているのかを、正確に提起していくことは、われわれがいかなる時点にたっているのかを明らかにし、その時代的課題を握りしめるためにも重要である。

「戦争の性格に現代世界の問題が集中的に表現されざるをえないのはきわめて当然であり、この問題へのリアルな接近を離れて現代革命を問題にすることはできない。」(滝口弘人『中ソ論争と永続革命=世界革命』、一九六四年)

 われわれは、六〇年代の反戦闘争の中で、戦争の性格規定について歴史的議論に踏まえながら次のような把握を持ってきた。

「第一次世界戦争は、純粋に帝国主義諸国間の戦争であった。ロシア大プロレタリア革命が存在して以後、国際ブルジョアジーは、この目に見えるようになった敵を見つめて階級的自己意識を高めざるをえず、前述の転化過程が徐々にであるが必然的に進行する。第二次世界戦争は、反革命戦争(階級的抑圧のための戦争)の衝動をつねに孕んだ帝国主義諸国の戦争であった。スターリン主義者は戦争がソ連の参戦以後、帝国主義戦争から人民戦争(ただし民主主義のための国民的戦争)に転化したとしてファッシズムに対する民主主義の戦争として「民主主義的」帝国主義の合唱隊となって帝国主義戦争に協力したが、トロツキストは終始一貫ただ、帝国主義戦争であったとした(「人民戦争」の底にはらまれ、かつ国民的桎梏の内に閉じ込められている階級戦争の解放こそが問題であるにもかかわらず)。」(前掲書)
「この一つの戦争の中で生まれる論理は、資本主義社会の歴史的発展の過程の中でも進行する。資本主義社会の最終の段階としての帝国主義段階における歴史の進行の中で、人民の闘いの前進はますます顕在化して来る。それはロシア革命という形で、はじめてこの地上にプロレタリア権力の樹立を見るまでに進行する。この権力自身は疎外され、官僚的に歪曲されはするが、やはり労働者運動、この社会に真向から対立する革命的団結の一つの表現である。現在のソ連、中国、東欧、キューバ等の、いわゆる「社会主義」諸国は、全世界労働者人民の二重権力的団結の一環としての、その疎外された地上における表現なのである。
 そのように疎外され、歪曲された形で表現されているにしろ、ブルジョア権力の打倒をくぐった権力の樹立の前進は、階級闘争をして、新たなる段階へとおし進めた。資本相互の分裂と抗争を、民族的国家間の帝国主義間戦争へと爆発させることは、歴史的に現在的に階級的団結をつきつけられている以上、不可能となり、戦争としては、人民抑圧の支配者の連合と、それを背景としての人民抑圧戦争への全面傾斜の時代に、特に第二次大戦以降は入っていった。
 第二次大戦以降の戦争はその内容をもって進行した。朝鮮戦争、第一次ベトナム戦争。これらのいわゆる「北」との戦いも、先ほどのべたことからも明らかなごとく、全世界労働者人民の団結の顕在化したものとしての「社会主義圏」への人民抑圧戦争なのである(唯そのような中で、ブルジョアジーは、階級対立を、その現象的表現としての「社会主義圏」と「資本主義圏」の体制間矛盾のごとく宣伝して戦った)。その資本そのものの存立を否定する二重権力的団結を目前にしては、ブルジョアジー相互の分裂も、体制維持という共同行動へと進まざるをえないのである。
 全世界労働者人民の闘いの完全な抹殺の成功――その一環としてのソ連、中国の体制的反革命の勝利を含めて――がない限り、第二次大戦以降のこの構造は変化しえない(ソ連、中国の体制的反革命の勝利は、全世界のブルジョアとプロレタリアの闘いの力関係の中で決定するであろう。いかに現象的には無力に見えても、全世界労働者人民――ソ連、中国のプロレタリア人民を含んでの――の闘いの中で、ソ連、中国の「社会主義体制」は防衛されているのであり、その逆ではない)。」(中原一『安保全学連の根本的止揚のために』、一九六六年)

すなわち、第一次世界大戦は純粋な帝国主義間戦争であり、資源争奪や市場再分割を巡って戦われ、侵略=征服を伴なっている。
 第二次世界大戦は、ロシア革命の成立という階級闘争の段階に規定され、階級戦争の質を底にはらみながら民主主義対ファッシズムの外観をもった帝国主義間戦争として闘われた。
 第二次大戦以降の戦争、すなわち朝鮮戦争、第一次ベトナム戦争等、いわゆる「北」との戦いも、全世界労働者人民の団結の顕在化したものとしての「社会主義圏」への人民抑圧戦争であった。即ち、第二次大戦後の東欧、中国等の「労働者国家」樹立として表現されたプロレタリアートの前進に対する反革命階級同盟の形成を背景にして、南北関係として「植民地政策」から「後進国開発外交」への転換があった。そうした中での南ベトナム人民の闘いの前進に対する恐怖としての第二次ベトナム戦争は端的に、人民抑圧戦争=反革命干渉戦争としてあった。
 こうした提起に対して、「新」旧左翼を問わず、諸党派は「新植民地主義」論や「強盗同盟」なる規定に基いて傀儡政権規定を行い侵略戦争反対を十年一日の如く唱えていたにすぎない。
 さてそこで、今日の戦争を、こうした人民抑圧戦争=反革命干渉戦争規定の単純な延長上に把握できるのかという問題である。

 先進国における戦後第二の革命期の敗北とソ連圏の崩壊、それは「全世界労働者人民の闘いの完全な抹殺の成功――その一環としてのソ連、中国の体制的反革命の勝利」とまではいわないにしても、一歩前進二歩後退、差し引き一歩の後退であり、その後退を受けての新時代を、永続革命第二段階における中期の出現と規定するということは、われわれが前期から後期の過渡期と規定してきたその過渡期が単に間延びしたものとするのではないということ、まさに階級闘争が決定づけたものとして、階級形成上の新しい課題・試練の現出として受けとめるということに他ならない。
そこからはまた、この戦争性格の把握においても新たな課題が課せられているとされねばならない。
 そこには、国際関係の基調が「民族自決・内政不干渉」から「人道的介入」へ、「国際法違反」から「人道に関する罪」へと変化しているという事実がある(ウォーラーシュタインが『アフターリベラリズム』等において、レーニン・ウィルソン規定とする「民族自決・内政不干渉」の時代の終焉としている問題である)。
 この時代の変化にたとえ敏感であったにしても、その上で英米の独走に対する掣肘として国連中心主義を謳うに止まるのは決定的に限界である。その戦争性格の変化の背後にある新しい階級的性格を暴くことで階級形成上の課題を明らかにしていくのでなければならない。
 殉教としてのテロリズム(殉教的テロリズム=自爆作戦)が始まったのは、八二年のイスラエルによるレバノン侵攻によるPLO勢力の駆逐を受けての、八三年秋のヒズボラによる「トラック爆弾」攻撃である。左派の決定的後退によってイスラム復興運動急進派の台頭があったことを銘記しなければならない。
 戦後第二の革命期の敗北は、アラブにおいてはこう現出していたのだ。
 しかしその上で、今回の九・一一テロは、パレスチナを戦場とする殉教作戦とは大きく異なっている(アルカイダが実行したとされる従来の一連の反米テロとも異なっている)。
「これらの行為は、特定の苦境へと注意を向けさせること、もしくは特定の行為に対して復讐することを目的とし、不正義と受け止められる状況の是正を求めるものであった。そして、犯行声明を通じて政治的意義を帯びようとした。
 九月一一日の事件には、特定の状況とのつながりが全く見られない。主要な動機は、何かしら特定の不正義の是正を求めることにはない。そこに認められる戦略は宗教的信条に根ざしており、「西洋世界」に対する全面戦争に「ムスリム世界」全体を引きずり込み、勝利を収めようというものなのだ。 」(ヒシャム・ビン・アブダラ・エル・アラウィー「ムスリムとして、世界市民として」『ル・モンド』〇一年一〇月号)
 というものである。
 行動における激烈さと言葉における沈黙を特徴とするこの行動は、その宗教性を際立たせている。
 その暴力性自体が問題なのではない、問題は、自らの来世にしか展望を見ることの出来ないその絶望である。自らを犠牲にして他を救うという救済主義ですらない。「自らの社会的みじめさの、みじめさの限りでの(みじめさから出発しつつ普遍的・人間的なものへ発展しない)社会への『復讐』は、旧い共同体への回帰を底に持った、ブルジョア的な醜悪な隠された出世主義(その頂点は、自ら『生き神様』になることである)とブルジョア社会への屈服でしかないこと」(中原一「史的唯物論の確立のために〈一〉」、一九六八年)の新たな例を歴史に付け加えてしまったのだ。
 またその沈黙の危険性は、謀略論の拡大のみならず実際の謀略を許す余地を拡大するということにもある。
 このテロへの報復ないし制裁として開始されたアフガン戦争は、特定の領土的あるいは資源的な野心と結びついているのではない。――天然ガス・パイプライン等の利権が取り沙汰されているがそれが直接的目的ではないことは歴然としている(*)。もっとも、再建アフガンにおいて、先進諸国がそうした経済的利権の飽くなき追求をするであろうことを排除するものでもない。また、その敵とした政権によって直接的な経済的権益が脅かされているわけではないし、そこにおける革命が社会革命としての波及力をもって世界市場を脅かしているのでもない。「経済の軍事化」として資本主義の救済策として企図された戦争でもない。――経済的破綻国として、裏経済への衝動をもって市民秩序―世界経済への撹乱要因を含みながら、また先進諸国の経済的援助を不可欠としている国である。

* 「『地下資源もなく、何ら経済的利益を得ることのないアフガニスタンからの撤兵を求められても、なぜソ連は居座り続けているのだろうか」
  アフガニスタンに、金の山も、石油の大海原も、採算の取れる鉱脈もないことは、西側の指導者も知っているし、ソ連の指導者も承知のうえのことだ。もっとも、天然ガスの存在については、周知の通りで、避けようのない地理的条件からソ連に輸出されてきた。……
  それでは、なぜソ連は一日あたり一千万ドルも費やし、自国民の生命と装備を犠牲にしてまで、この地にとどまっているのだろうか」(B)

 いまや打倒対象とされるタリバン勢力の中枢は、共通の敵=プロレタリア的革命勢力が存在した間は、帝国主義諸国が同盟し援助さえもしてきた勢力である。
 プロレタリアートの敗北に手を貸した同盟軍が、その勝利の後に無残に使い捨てされる例は枚挙に暇がない。
 この戦争が直接の対象としている政権の性格を無視して、この戦争を人民一般、革命一般への敵対とすることは正しいだろうか? そこから引きだされる反対のエネルギーからプロレタリア的階級性は発展を遂げていきうるだろうか。
 こうした時代の変化が、アメリカの「戦争」として端的に突き出されたのは――したがってまた「社会主義国」間の戦争などをさしあたり除けば――湾岸戦争以降ということができる。
 九〇年湾岸戦争は、イラクによるクゥエート併合阻止であり、フセイン政権打倒の意図を含んだものであった。九九年コソボ空爆は、セルビア・ミロシェヴイッチによる民族浄化阻止、ミロシュビッチ大統領打倒の意図を孕んだ空爆。そして、今回のアフガン戦争(対タリバン戦争)は、アルカイダ殲滅、タリバン政権打倒である。
 いずれも直接的に敵としているのは、何らかの革命性を孕んでいるとは到底言えない、むしろ人民抑圧的な政権であり、また国連からの制裁を継続中の政権である。
 とりわけ、アメリカはテロリズム支援と裏経済依存に焦点を置いた「ならずもの国家(rougue state)」規定によって、こうした行動を正当化している。――無論ここには、国連決議を無視しつづけているイスラエルが除外されているというダブルスタンダードが存在する。しかし、パレスチナ問題も、何らかの新しい対応を迫られているのが、国連を前面に出した国際協調路線の現段階である。
こうした、今日の戦争を「国際的治安戦争」と規定する。そうであるからこそ、アメリカはユニラテラリズムを脇に置き、テロ包囲網の形成、国連的合意の取りつけに腐心せざるをえない。
 今回のアフガン戦争に即して言えば、「宗教的テロリズムと宗教的軍事的ボナパルティズム政権に対する国際的治安戦争」であると言える。

 アフガン国際治安戦争反対!
アフガン労働者人民とアメリカ労働者の団結、それに連なる日本労働者の連帯!

 タリバン政権を単に宗教的ボナパルティズム政権とするならば、そのボナパルティズム的地位が宗教的に成立していたようにみえる。実際的にはパキスタンやアラブアフガニの支援も含めた軍事力によって、地方軍閥割拠型政権に対して「通行税の廃止」に見られるパシュトゥンワーリ的イスラム的秩序の回復として成立した。宗教的軍事的ボナパルティズム政権と規定する所以である。
 この国際的治安戦争に反対するということは、その戦争の相手である「宗教的テロリズム」や「宗教的ボナパルティズム政権」を支持することを意味しないのは当然のことである。そして、あらゆる治安行動を通して帝国主義ブルジョアジーの支配の権力が強化されていくのであり、戦争のもたらす直接的な悲惨とともに、その支配の強化に反対することが突き出されなければならない。
 国際的治安体制の持っている潜在的反革命性を暴き出していかなければならない。この治安・保安を通して、いまアフガンにおいていかなる社会性が再建・確立されようとしているのか、その階級性を問題にしていくということである。

 暫定行政機構による族長支配の強化反対!
 大土地所有の復活反対・農地解放! 水利権の解放!
 かつてアラブ・中央アジアにおいて広範に見られた「植民地支配による大土地所有の創出」、その再来が国連介入によってあってはならない。

 我々は、例えば大学立法闘争の位置付けにおいて、「治安立法」という規定に反対した。それは、それが直接に治安的性格を持っているということを否定したのではない、その「治安」ということを通して抹殺しようとしている、あるいは逆にいえば、貫徹しようとしている「社会的な質」の意識化を迫ったのである。すなわち、教育闘争のもっていた革命的質である。しかし、いわばプロレタリア的な革命勢力の敗北にうち続く、反革命の同盟軍である諸勢力の反抗に対するブルジョアジーによる鎮圧は、治安そのものであろう。
 しかし、注意されねばならないのは、この戦争性格は、「永続革命第二段階中期」の全体の基調をなすということではない。そもそも中期という規定は、(1)ソ連圏の崩壊、(2)資本主義の八〇年以降の再生、(3)先進国における階級形成の遅れ、において生み出されたものとして規定し、この中期においてさまざまな疎外形態を含めてプロレタリア勢力の再興を開始していく階級的任務の設定として主体的に捉えるべきである。新たな矛盾が世界市場の弱い環で爆発し、後期に向っての過渡期の性格を帯びれば帯びるほど、戦争についても人民抑圧戦争=反革命戦争が再び登場してくるであろう。

 (付)アフガニスタンの近代化とその破綻
 アフガンの悲劇が、中世的ないし牧歌的未開の生活に野蛮なソ連が突然侵攻することによって始まったであるかのような報道があふれている。しかし、アフガンなりの近代化の過程、そしてその延長上に外国の援助と結びついた「非資本主義的発展の道」の追求があり、そうした近代化路線の破綻の結果として、内戦の二〇年をみていく必要がある。

◆アフガニスタン王国の建国
 一七四七年のアフガニスタン王国の建国時の国王の地位は、部族制社会における族長と同じで、「同輩中の第一位」であって、専制者ではなかった。
 アミール・アブドゥル・ラフマーンの治世に国境「デュアランド・ライン」の画定(一八九三年)と中央集権の樹立と王位継承法の確立。部族連合から王権の確立した領土国家へと変化した。
 一九〇七年英露協商調印。アフガニスタンはロシアの勢力圏外にあること、イギリスはこの国を占領または併合せず、またはその内政に干渉しないことを合意した。緩衝地帯としての存在意義の確認であった。

◆アフガニスタンの独立と近代化
 一九一九年独立(外交権の回復)を達成したアミール・アマヌッラは、八カ月の海外視察からの帰国後、急進的な近代化案を発表し、トルコのケマル・アタテュルク、イランのレザー・シャーに倣ったが、反撥を招き反乱が相次ぎ、近代化策は挫折した。
 ザヒール・シャーの国王就任が一九三三年。叔父のムハンマド・ハーシムが首相として補佐。第二次大戦が終わり、四六年、やはり叔父のシャー・マフムードが首相に就任した。このマフムード時代は「第七国会〈リベラル・パーラメント〉」時代(一九四九〜五二年)とのちに呼ばれる民主化が行われ、五〇年には出版法が発効し民間人による初めての新聞が刊行された。
 一九五三年九月二十日無血宮廷クーデターで、国王のいとこサルダル・モハマド・ダウド・ハーンが権力を握った。ダウドは、当初再三にわたって軍事援助をアメリカに要請したが、アメリカはこれを拒否、五六年以降ソ連と東側から軍事援助を受けるようになる。
 ソ連の援助はアメリカより三年遅れて、一九五四年から始まった。アメリカの援助額が一九五五年まで年間二百万ドル程度だったのに対して、ソ連は最初の五四年に三百五十万ドルを与えた。これは第二次大戦後、ソ連が非共産圏に対する初めての援助だった。
 ダウドはパシュトゥニスタン問題で対パキスタンに対して強硬姿勢で臨みパキスタンと断交した。この事件は、ますますアフガニスタンをソ連に追いやることになった。
 一九五五年バンドン会議の後エジプト・ナセル大統領がカーブル訪問。ナセル路線への共感からソ連への傾斜を深める。ソ連ブルガーニン首相とフルシチョフ第一書記のカーブル訪問を機に一億ドルの開発援助を行うと発表した。翌年アメリカは対抗上、援助額を一挙に千八百万ドルまで引き上げ、米ソのアフガニスタンへの援助合戦が始まった。
 一九五二年にアメリカの援助でヘルマンド河域開発公社(HVA)。「ヘルマンド河はアフガニスタン第一の大河で、この国の中央山地に源を発し西南に流れてイランとの国境付近の湖に注ぐ内陸河川である。春には雪どけ水で洪水をおこし、夏から秋にかけては渇水となる。この水量を調節すること、その水力による発電、この水を利用した灌漑による新農地の開拓、そしてそこへの遊牧民の定着」を目指していた。
 ソ連の援助でソルビ水力発電所やジャララバード運河が造られ、さらに一九六〇年にはジャララバードの上流でカーブル川にダムを作り、発電と灌漑をしようというニングラハール河域開発計画が着手された。(B)
 道路整備も米ソの競争になり、カーブル――ドーシー――クンドゥス(――キジルカラ=ソ連領)間とカンダハール――ヘラート間の道路がソ連の援助で造られ、カーブル――トールハム(――ペシャワール)間とカーブル――カンダハール間の道路がアメリカの援助で造られた。ドーシーとクンドゥス(製綿)間には、バグラーン(製糖)・プリフムリ(紡織)の工業都市が並ぶ。
 しかし、「ヘルマンド計画が失敗であったことはアメリカの学者達もみとめてい」て、「ダムは政府の名誉のためであり、ハイウェイは外人旅行者のためである。」(B)と言う。
 そのほか、空港の建設も米ソが力を競ったが、援助額においてはソ連の方が圧倒的だった。一九七七年までの累積額を比較すると、アメリカが四億ドル、ソ連が十二億ドル強と三倍もの開きがあった。
 一九五六年に始まった相次いで経済開発五カ年計画が実施され、経済的にはある程度の進展がみられた。しかし、パキスタンとの間のパシュトゥニスタン問題が再び激化し、一九六一年九月、再度国境は閉鎖された。国王や保守勢力は、ダウドのパシュトゥニスタン強硬姿勢を非難し、遂に一九六三年三月、ダウドは首相辞任に追い込まれた。
 ダウドのあとに首相に就任したドクタル・モハマド・ユースフは初めての平民宰相である。ユースフ新首相は、王族を含まない内閣を組織し、六三年五月にパキスタンと国交が回復した。六四年十月一日、三度目の憲法がザヒール・シャーにより発布され、新憲法は立憲君主制を明記しているものの、主権在民、王族の政治関与の禁止、政治結社の自由、普通選挙、三権分立などの条項が盛り込まれた。
 この政治の季節は「新民主主義」時代と呼ばれ、新たな出版法や普通選挙法などが制定された。一九六五年には初めての総選挙が実施されたが、一九六五年一月に創立された「アフガニスタン人民民主党」も国会議員にふたりの当選者を出した。

◆アフガニスタン共和国の成立
七三年七月のダウドのクーデターにより王制が廃止され、アフガニスタンに共和国が誕生する。クーデターの中心になった中央委員会はダウドを大統領に選んだが、中央委員には多くのパルチャム派が入っていて、ダウド政権の改革計画を推進した。
 ソ連はいち早くダウド政権を承認し、十二月にはインドを訪問したブレジネフ書記長が帰途にカーブルに立ち寄り、七四年六月ダウドはモスクワを公式訪問した。ダウド政権の当初は、両国は緊密な関係が続いていた。しかし、ダウドは数度にわたってソ連派閣僚を排除し、七五年四月のテヘラン訪問によって七億ドル余の借款を得てイラン・パーレビの石油の富に基づく近代化路線に接近していった。
 七六年八月に土地改革法が成立すると、ダウドは親米派を登用しパルチャム派の追放に乗り出す。
 七七年、ロヤ・ジルガを開いて新憲法を採択して、大統領に権力を集中したダウドは、パルチャム派を除いた新内閣を組閣し、四月ダウドは再び訪ソするが、表面上の取り繕いとは違って、アメリカからの援助受け入れ停止を求めるブレジネフと決定的に対立したと言われている。五月には大統領特使を急遽イランに派遣し更なる援助の取り付けを行った。

◆四月革命とアフガニスタン民主共和国の成立
 七八年四月にハイバルの暗殺に抗議する大衆運動に対して、ダウドはタラキ、カルマル、アミンなど人民民主党幹部を逮捕した。これに対して、七三年のクーデターでも活躍した人民民主党系軍人幹部三人が決起し、タラキが革命評議会議長兼首相になり、カルマル第一副議長兼副首相、アミン副首相兼外相という政権が樹立され、四月革命となった。
 四月革命の直後の五月にクナールの反乱が起きたのに続いて各地で散発的な反乱が起る。多くのイスラム活動家は相次いでパキスタンへ避難しさまざまに離合集散を繰り返しながら、急進的な社会改革や無神論政権への反撥として、七九年三月にはジハードを宣言し内戦が拡大する。

 ◇人民民主党――ハルク派とパルチャム派
 一九六五年一月一日に創立された「アフガニスタン人民民主党」は、「非資本主義的発展の道を通じ民族民主革命を目指す」という綱領を持っていた。
 一九六五年の総選挙が実施され、衆議院議員にバブラク・カルマルとアナヒタ・ラテブザド女史のふたりの人民民主党員が選出された。
 タラキ書記長の率いる多数派の「人民〈ハルク〉派」、カルマルを中心とする少数派は「旗〈パルチャム〉派」と新旧の機関紙の名前で呼ばれてる派が発足当初から存在した。ハルク派が革命運動において労働者階級の主導権を主張し、知識人や社会エリートを意図的に避け都市貧民や農民に接近しようとしたのに対して、パルチャム派は資本主義が萌芽的状態の中で労働者階級は未成熟であり、あるゆる階級が民主革命に参加する必要があるという考え方で、知識人、中堅将校、官吏などの中に支持者を見出す必要があるとした。
 タラキもカルマルも親ソ派であったが、ハルク派のハフィズッラー・アミンは民族共産主義者とでも言うべき存在でソ連への警戒感を捨てず、「パルチャム」紙の元編集長でカーブル大学の教授をしていたミール・アクバル・ハイバルは公然たるスターリン批判派で四月革命のきっかけとなった彼の暗殺はそれが理由であると言う説もある。(B)
 人民民主党から第三の派が生まれ新民主党を名乗ったが、六八年四月に創刊された機関紙「永遠の炎〈ショライ・ジャヴイド〉」の名前から、ショライ・ジャヴィド派としての方が有名であるが、文化大革命に共鳴した毛沢東主義者が結集したが少数派にとどまった。
 ソ連は当初よりカルマル支持であったが、四月革命後カルマルは人民民主党のヘゲモニーを取れなかった。七月に入ると両派の対立が表面化し、パルチャム派のカルマル副首相、ヌール内相、アナヒタ社会問題相などが更迭されていくが、ソ連はタラキ政権を支持しつつ、カルマルを庇護の下においた。

 ◇イラン革命との相互作用
 アフガン四月革命(アフガン人民民主党による反ダウド・クーデター)が七八年四月、イラン革命に先行すること一年に満たない。一般にソ連派とみなされていたダウド首相(首相期:五三〜六三、七三〜七八)は、七三年のクーデター以降、数度にわたるソ連派閣僚の排除、七五年四月ダウド・テヘラン訪問で七億ドル余の借款によってイラン・パーレビの石油の富に基づく近代化路線に接近していった。
ホメイニは、このアフガン四月革命に身構えて、「イスラム革命」路線を打ち固め、またソ連はイラン革命に身構えてアフガンへの介入の度を深めていったといわれる。

◆タラキ、アミン、カルマル政権からナジブラ政権、ソ連のアフガン撤退とラバニ政権の成立
 七八年十二月にタラキ議長がソ連で「友好善隣協力条約」に調印。民族主義的傾向の強いアミンの台頭を警戒したソ連の意向を受けて、タラキは七九年九月アミン粛清を企てるが逆にクーデターで倒される。革命評議会議長に就任したアミンは、KGBの指導によってつくられた秘密警察AKSAを解体し新たな秘密警察KAMを創設し、ソ連大使の召還を求めるなど、ソ連の影響力を排除しようと試みた。それに対して十二月、ソ連はカルマルを擁立して軍事介入に踏み切る。
 カルマルが見捨てられて、ナジブラ政権に替わるのは八六年五月、ソ連には既に一年前にゴルバチョフが登場し、ペレストロイカ路線を推進し、八六年二月の第二七回党大会でアフガンからの段階的撤退を打ち出していた。カルマルは失脚直前に一カ月ほどソ連に滞在しているが、カルマル派がおとなしく納得したわけではない、直後にもまた八七年一月にも武装対立を引き起こしている。
 ナジブラ政権の役割は、ソ連軍の撤退のための地ならし、「国民和解政府」の樹立にあった。八七年六月には国名をアフガニスタン共和国へに戻し、新憲法草案を発表するなどの融和策を続けたが、反政府側は歩み寄る気配はなかった。
 八八年四月「アフガン和平協定」がデクエヤル国連事務総長の同席のもとアフガン・ワキル外相、パキスタン・ヌーラニ外務担当相、ソ連・シェワルナゼ外相、アメリカ・シュルツ国務長官の四者による調印式が行われた。しかし、この和平協定はソ連のアフガン撤退のためのものではあっても内戦終結のためのものではなかった。
 八八年五月ソ連軍の撤退開始、八九年二月ソ連軍の撤退は完了する。
 ムジャヒディン・イスラム同盟(IUAM =スンニ派ゲリラ七派の連合)は、八八年六月にペシャワルで暫定政権を結成するがすぐに雲散霧消。八九年二月にもペシャワルでシューラ(評議会)をアフガニスタン・イスラム連合評議会(イランに本拠地、シーア派)欠席のまま開催し、穏健派のアフガニスタン民族解放戦線のシブガトラ・ムジャディディを大統領に、原理主義派イスラム統一体の指導者ラスル・サヤフ氏を首相に暫定政権が設立された。ソ連軍撤退でナジブラ政権が崩壊すると想定、その受け皿として作られたのだ。ゲリラ側は短期決戦をめざしてジャララバード攻撃を開始するが、政府軍の予想以上の高い士気、ゲリラ組織同士の対立などで、五月までに敗退する。
 その後も各地でイスラム党(ヘクマチアル派)とイスラム協会(ラバニ・マスード派)両派の衝突が続発した。
 九一年一二月ゴルバチョフ辞任、九二年一月米ソの武器供与停止を受けて、九二年三月政府側の民兵組織幹部ドスタム将軍がナジブラ大統領に反旗を翻し、マスード派と組んでマザリシャリフを陥落させた。
 九二年四月一五日ドスタム将軍配下の軍用機が首都に入り戦闘が起きなかった。政府軍の首脳とマスード指揮官派、ドスタム将軍派の間で、何らかの合意や妥協が成立していた。一六日、ワキル外相はナジブラ大統領が全権をはく奪を発表した。政府軍幹部と一部の反政府ゲリラ指導者との連合勢力による軍事評議会が実権を握ったとも、四人の副大統領と与党・祖国党が引き続き政権の座にあるともいわれたが、最終的に二八日ゲリラ側による暫定評議会に全権委譲されたが、二カ月以内に政権の受け皿となる「指導評議会」を設置、その四カ月後に暫定政府を正式に発足させ、一年以内に総選挙を実施するとなった。
 しかし、直後からマスード派とヘクマチアル派の間で戦闘が発生した。
 ヘクマチアル派に割り振られた首相ポストは空席のまま、「首相不在の内閣」で実権を握ったのはマスード国防相で、暫定評では陸軍参謀長にイスラム革命民族戦線(ガイラニ代表)の指令官を任命したが、数日後この人事は覆され、マスードは旧政府軍のディラワル参謀長を留任させた。マスードは「外務省や大蔵省はもちろん秘密警察の旧幹部もかなり登用した。
 六月、暫定評議会のムジャディディ議長は任期の二カ月が終了し、全権がラバニ議長に委譲された。ラバニ議長の任期は一〇月末までの四カ月間。
 八月になってイスラム党ハリス派はラバニ議長が政権移譲手続きに違反し共産主義者を擁護していると非難し、指導評議会からのメンバーの引き揚げを宣言。またカーブルでヘクマチアル派とも衝突。一五日、イスラム党(ヘクマチアル代表)が首相として送り込んだファリドを解任した。
 ラバニ議長の任期は当初四カ月だったが、その後四五日間延長された。しかし後継体制を決めるための政策決定評議会が招集できず、ラバニ議長はそのまま政権を担当していた。一二月三〇日、政策決定評議会はラバニ指導評議会議長を同国の国家元首に選出した。任期二年。
 勢力争いをつづけてきた旧ゲリラ八派は九三年三月和平合意文書に調印した。大統領にラバニ留任。任期は九二年一二月から一八カ月間。首相はヘクマチアルかその推薦者が就任することが合意された。五月マスード国防相、ジャララバードの合意に従って辞任。六月一七日ヘクマティアル内閣発足。
 九四年一月一日カーブルで、マスード派とヘクマティアル派の衝突。ドスタム派がヘクマティアル派と組む。
 九四年一一月タリバン、カンダハルとクエッタの中間で通商トラック部隊を救助。カンダハルを制圧。九五年二月タリバン、ヘクマティアルの司令部を占領。三月カーブルでマスード派によって初めての敗北、つづいてヘラートでも政府軍に敗北。
 九六年九月タリバンがカーブル制圧、ナジブラ処刑。

◆アフガンの土地改革
 「種族共同社会、自然的共同体は、土地の共同体的占取(一時的な)と共同体的利用との結果としてではなく、その前提としてあらわれるのである。」(『諸形態』)という生存様式の遊牧状態的段階を濃厚に残存させている。「この原始的共同社会がどれほど変形されるか、またはされないか、種々の外的、気候的、地理的、物理的、その他の諸条件にかかるとともに、彼らの特殊な自然的素質など――彼らの種族的性格――にもかかるであろう。」(同上)
 そしてアフガンの場合の最大の条件として、水利問題がある。その方法は、河川の水をジューイ(水路)によってひくか、地下水をカレードによって導くかである。
 「水の意義はきわめて重要で、水の量が生産力を土地よりもはるかに強く制約する。農民に彼の耕している土地の広さを尋ねてみよう。面積がいくらというような返事は帰ってこない。配分される水の量がいくらというように農民は答える。」(@)
 「アフガニスタンの広い地域、主に東部、南部、西部では、カレーズ(あるいはイラン式にカナート)と呼ばれる伝統的水利施設である地下トンネル式横穴井戸が使われてきた。この地域では、紀元前の昔からカレーズを掘り、農業用水・生活用水を手に入れ、砂漠に人工のオアシスをつくり、生活してきた。このカレーズがあったおかげで、西洋と東洋の中間にある乾燥地帯を横切って隊商が往来できた。」(A)
 「地表から数十メートルおきに縦穴を掘り、そのあと各穴の底から水平に横穴を掘り、その横穴を必要な長さだげつなげたトンネルである。このトンネルをつかって、山裾の高水位の地下水を水源にして平地まで水を引く。カレーズの終点が水の流出口となり、ここに集落ができ、ここから用水路で畑に水を引く。集落や用水路の周囲には水の蒸発を防ぐためにポプラが植樹されている。」(同上)
 「アフガニスタンにおいては、土地所有者つまり地主とともにカレーズの所有者つまり水主なる階級の存在がある。カレーズを持たない地主は、水代を水主に払わねばならない。土地を持たぬまったくの小作は、地代とあわせて水代も払わねばならない。」(同上)

 一八世紀のベンガル地方等では、ザミンダールと呼ばれた領主層と、その支配下にある農民とのあいだに、本質的には領主制といってよい関係が存在し、領主の土地所有権はザミンダーリー・農民の占有権はミルキーヤと呼ばれていた。イギリスがインド全域を支配下におさめた時、インド北部では地主や領主から税を徴収するザミンダール(徴税請負地主)制を、インド南部では直接農民から税を徴収するライヤットワーリ制を採用した。ザミンダーリー制はこの農民の占有権を没収し、ザミンダールを土地所有者=地主とし、農民たちは小作人にされ、地主=ザミンダールが地税を支払う。
 アフガニスタンにおいても、このインド北部と同様の地主・小作関係があったと思われるが、国王権力が植民地権力ほど強力でなかったこと、概して大土地所有といっても規模が小さく自作農との間にさほどの差異が見出せないことが特徴とされている。
 「また地主は小作人を追い出すこともできない。小作人は、モウルーシ(世襲耕作者)として数世代にもわたって、そこに住んでいる人々だからである。」「農村と政府の関係は意外に少ない。農業や牧畜の収入には課税されない(納税するほどの収入がないのである)」「通常、アフガニスタンで地主と小作人をその外見で見分けるのは非常に難しい。着ているものは同じだし、家もまったく変わらないし、食べるものも同じだ。ごく限られた大地主だけが、バーンあるいはマレクといった称号を示す服装をしている。だが山岳地帯には、このような大地主はほとんど存在せず、せいぜい四十−六十ヘクタールの大きさだ。ウズベク系住民の多い北部、西部のファラー、ニームロゼ州だけは、まさに大農園という規模だが、これら地域には灌概施設が実質的にはまったくなく、水が非常に乏しい。」(D)

一九六七年七月 農地改革法発布(マイワンドワル首相期)
七六年八月土地改革法発効(ダウド首相期)
七八年一一月 農業改革のための土地法令、一二月布告第八号が革命評議会によって発布。
 布告第八号は、八章四〇条から構成され、農・牧民の厳密な階層区分を基礎に土地の分配方法を規定している。
 土地の肥沃度に応じて土地を七階級に分類した。一級地は果樹園やブドウ園、二級地は灌漑された二期作地、三級地は五〇%以上が耕作されているか灌漑された一期作地、四級地は五〇%以下しか耕作されていないか、あるいは灌漑されていない一期作地、五級地は一年置きに耕作されている乾燥農地、六級地は二年置きに耕作されている乾燥農地、七級地は二年以上置いて耕作されている乾燥農地とされた。一級地に換算して一世帯の土地所有の上限を三〇ジェリブ(六ヘクタール)に定めた。七級地だけなら一世帯で三〇〇ジェリブまで所有できる。これは一世帯が十分に生活できる広さである。
 布告では、土地の分配を公正に行なうために分配方法を具体的に定めていたが、布告の内容が守られなかった。布告の実行のうえでも問題があった。たとえば、布告の実施によって土地を持っていなかった農民が土地を得た。しかし、かれらは耕作に必要な機械、肥料、種子、資金などを持っていなかった。だから、かれらは土地を与えられても耕作のしようがなかった。
 また布告八号は、カレーズなど水利・灌漑施設の私有を禁じている。
(Aにより要約)

 「タラキの布告で彼らには一家族当たり、○・六―〇・八ヘクタールの土地が与えられることになった。ところが平穏な生活に対する危機感を覚えた農民たちは政府の派遣した土地分配チームがやって来ると、反逆して彼らを殺害するという行動にまで出た。」(D)

七九年七月 予定を半年早めて、土地改革の第一段階終了(改革実施の中断――タラキ議長期)。
八一年八月 カルマル政権、革命評議会布告第八号(土地改革令)改正令。同改正令は一一条からなる(土地改革の実質的放棄)。
一、モスク(イスラム寺院) 、宗教学校などに寄進された土地は、保管人の任意とする
二、聖職者や宗教指導者等の制限を超える余剰地は没収しない
三、国内および国外の革命の敵との戦いで顕著な働きをした部族長の土地は没収しない
四、政府軍将校の土地は没収せず、その男子が軍務に就くなら相続が許される。こうした土地からの収入は軍に対する報償とみなす
五、国外逃亡者(難民)が帰国した場合、一定の限度内で土地を返却する、など

参考文献
@大野盛雄『アフガニスタンの農村から』、一九七一年
A野口寿一『新生アフガニスタンへの旅』群出版、一九八一年
B永田雄三・加賀谷寛・勝藤猛『中東現代史Tトルコ・イラン・アフガニスタン』山川出版社、一九八二年
C恵谷治『アフガニスタン最前線』芙蓉書房、一九八三年
    『アフガン山岳戦従軍記』小学館文庫、二〇〇一年
Dモハマッド・ハッサン・カリミー『危険の道――秘史アフガニスタン侵略』読売新聞社、一九八六年三月

                 2002年2月記