中国の「新左派」・「自由主義」論争 NO.2
  ――「二つの文革」論をめぐって                 


時田 研一            

  注:
 第3号で当局の「文革徹底否定」論を「新左派」に先立って批判し、「文革二年(ないし三年)」説、「毛沢東の文革、人民の文革」という「二つの文革」論を主張しているかつての造反派紅衛兵の一部の論者たちにふれた。
 彼らが両派の論争に加わっているわけではなく、またそこでこの問題が直接争点の一つとなっているわけではない。だが「新左派」は当局の「文革徹底否定」論、とりわけ「自由主義」の文革総括を批判するに当たって「二つの文革」論の基礎にある「社会的衝突」論や「文革二年(ないし三年)」説に助けられている。その上で彼らは「二つの文革」論の「毛沢東の文革」の見方への批判を行なっている。 ほとんど救出する余地がないかに思われ、またその諸結果が日本のそれの比でない傷跡を持つ文革についてなお行われているこれらの作業は、「内ゲバ、連赤」以降の悪評のなかにある日本の新左翼運動の真っ当な総括にとっても意味あるものだろう。
 ここでも前回に倣って彼らの見解の一端を紹介し、現時点でのわれわれの若干のコメントを付すというスタイルを取ることにする。そして余力があればいつの日かそれらを積極的な形で再構成することにしよう。
 なお引用の出展については著者・文章名以外は明示しないが、別記なき場合すべて中文サイトで公開されているものからである。(訳は少々拙速、杜撰)




☆ 目次 ☆

はじめに
 文革史は書き換えられた――「二つの文革」論登場の背景
一、「一〇年文革」、「十年浩劫」―――ネーミングはきわめて政治的だった
 1.「文革徹底否定」論の動機
2.新たな課題
二、「二つの文革」論の提起者たち
 ● 楊小凱――一「一九六六年八月から六八年は革命だった」
 ● 劉国凱――「文革には『人民の道筋』と『当局側の道筋』があった」
 ● 鄭義――「文革には第一の文革(は毛沢東の文革)と第二の文革(人民の文革)があった」
 ● 王希哲――「人民の文革には潜在的な発生過程があった」
三、「二つの文革」論の批判者たち
 ● 金春明――「共産党に反抗した造反派組織は一つたりともなかった」
 ● 徐友漁――「人民の覚醒は文革の結果だった」
 ● 粛喜東――「造反派と毛沢東、中央文革小組とは『政治連盟』の関係にあった」
 ● 芦笛――「異端思想と毛沢東の政治的理想の思考パターンは同じである」
四、引き出された問題点
 1.「毛沢東の文革」の評価の仕方
 2.「政治連盟」か「相互利用」か
3.「走資派」論
 4.毛沢東の「大民主」について
 5.「二年(ないし三年)文革」以外の時期は何だったのか
 6.思想の継承での媒介性
 7.「人民の文革」の総括
五、今後の検討課題――「告別革命」論をどう見るか


はじめに 文革史は書き換えられた――「二つの文革」論登場の背景

 

文革終息後、勝者たちによってなされた文革史の書き換えほど大規模空前かつ圧倒的に成功を収めた例は世界でも数少ないものであろう。有名な話として華国鋒、葉剣英らによって伝えられた江青・張春橋グループ(「四人組」)に対する毛沢東の言葉がある。

「〔『四人組』の問題は〕今年前半に解決できなかったら後半に解決する。今年解決できなかったら来年に解決する。来年解決できなかったら再来年に解決する」。

中国語の「解決」には「始末する、消滅させる」という語義もある。つまり「四人組」打倒は毛沢東の意思だったというのだ。しかし華国鋒らは毛沢東の亡き今ここでさり気なくちょっとした言語操作を行なっている。彼らは毛沢東が続けて述べた「江青たちは劉少奇批判、林彪批判で功績がある。小さな問題を大げさに取り扱うことはない」という言葉を省いたのである。こうして毛沢東の言葉のニュアンスはまったく逆のものへと描き出されることとなる。

もう一つ例を上げれば、一九七六年一〇月六日の江青・張春橋グループ打倒をめぐる問題である。それは彼等の「反革命的クーデター」の動きを「一挙に粉砕」したものだったとされてきた。

范碩『葉剣英在一九七六』(中共中央党校出版社、一九九五)という本がある。この時期での文革派と反文革派双方の動き、とりわけこれまでよく知られていなかった葉剣英らの「四人組一挙打倒」へ向けた「特殊な戦闘形態」の動向を詳細に追い、他の類書へのテキスト・クリティークも含むなかなか優れたものだが、そのなかに興味ある二つの記述がある。

「華国鋒は我慢して『四人組』が喋り疲れるのを待って発言せず、最後に江青に『あなたはつまるところ何をしたいのか?』と尋ねた。『三中全会の政治報告の起草について討論しようということだ』。江青はこの言葉によって機密を漏らした。張春橋が引き続いて『毛遠新を行かせることはできない。彼は三中全会の報告を準備しなければならない』と述べた」。

「嵐吹きすさぶ一〇月、一触即発の一〇月! この月、中共中央政治局と『四人組』の間の闘争は決戦段階に入った。この局面に臨んで事態は明らかとなった。『四人組』は戦いの準備をすすめ、武装騒乱を実行する配置についた」。

前者は毛沢東死後の政治局会議での紛糾の一幕である。晩年の毛沢東の「連絡員」として力を振るった甥の毛遠新を本来の任地である遼寧省に戻すかどうかで両派は対立したのだが、江青・張春橋グループはそこで三中全会での決着を準備しているという「機密を漏らし」た、と范碩はいう。

ところがもう一つの記述では彼らは「武装騒乱を実行する配置についた」と延べている。これは少々変ではないか。後者の証拠として、江青が「盛大な祝日を待て」、「身体を鍛錬しておけ」と指示したとか、王洪文が国家主席就任のための「肖像写真」を撮ったとかいうことが上げられている。

彼らは「クーデター」を葉剣英らのように極秘裏にではなく、祝祭のように華やかに前宣伝をつけて進めたというわけである。もちろん事実はそんなことでありえず、諸般の事情から察すればこの時期での江青・張春橋グループは政治闘争と組織会議の場での決着を図っていたと見るのが妥当なようである。

華国鋒らは江青・張春橋グループが「照過去方針辦」(過去の方針に照らして行なえ)という毛沢東の言葉を「按既定方針辦」(既定の方針にもとづき行なえ)に「簒改」したと非難した。たしかに姚文元らはそれがあたかも毛沢東の臨終遺嘱であったかのように主張し、自分らの権力掌握を有利にしようとした。だがそれら小「簒改」は華国鋒らの空前の大「簒改」に呑み込まれ無力化されたのである。
 ところが文革史の書き換えが真に大規模に、底知れぬ破廉恥さをもってなされたのは江青・張春橋グループに対してより造反派に対してであったという。「二つの文革」の主張者たちの念頭にあったのはまずそのことだった。劉国凱はこういう。

「中国共産党が中国大陸を統治して四〇数年、それがある程度成功したなどとするとすれば、それは文革造反派を邪悪なものに描き出したことが最も得意な傑作の一つと数えられるだろう」。(「略評文革造反派」)

たとえば文革初期になされた紅衛兵たちの蛮行として名高い「紅八月」の赤色テロルや「破四旧」、家宅捜索、等はじつは高幹子弟の「老紅衛兵」たち、今日、中国の権力中枢と社会の要所を占めている「太子党」の前身たちの仕業だった。
文革記録には多くの「家破人亡」(一家が悲惨な目に遭う)、「含冤而死」(冤罪で死ぬ)、「含恨而去」(恨みを抱いて死ぬ)光景が描かれている。世に伝えられたそれらの哀切な記録は、ふと考えればそのほとんどが「走資派」たち、高級幹部や高級知識人たちのものだった。だが実際には文革のなかで真に弾圧に晒されたのは造反派だったという。

「取り上げるに値する史実は、全国的に有名な大虐殺事件で殺されたのは、いわゆる『黒五類』(「地、富、反、壊、右」すなわち「地主、富農、反革命分子、悪人、右派分子」のこと)を除けば、大多数は『文革』のなかでの造反派だったことである。たとえば広西チワン自治区で一九六八年に殺された十一万人の無実の者たちはほとんど造反派だった。湖南省道縣で殺されたのは、その一部は『黒五類』とその家族だったが、その他の大部分は大衆組織『湘江風雷』に参加した造反派だった」。(宋永毅「『文革』中的暴力与大屠殺」)

当然それらは公認文革史には記されることもない。たとえば広西の場合などは「広西の大虐殺はあのように酷かったのだがのちに北京人の鄭義が書いた以外に、広西人自身が書いていない。なぜか? 広西造反派は抹殺され尽したからである」(劉国凱「致YQY先生的信」)という有様だったのである。

「中共の歴史についていえば、老紅衛兵の殴打・破壊・略奪、道縣の大虐殺、広西大虐殺はみな共産党の土地改革での大虐殺と一脈相通じるものである。文革中、造反派にも暴力行為があった。だがこの暴力行為は一つには分散的、かつ非組織的なものであり、二つにはその多くは恨みごとへの仕返し、冤罪に対して冤罪で報いるというものであり、三つ目としてそれは共産党的のあのように非人道的極まる系統的な暴力ではなかった。そして今日、当局の宣伝の中では文革での暴力はみな造反派の罪業となり、保守派の個々人は出世し、正しい路線の代表者となったのである」。(楊小凱「再談『文革』」)

「二つの文革」論はこうした書き換えに抗議して登場している。

 

一、「一〇年文革」、「十年浩劫」―――ネーミングはきわめて政治的だった

 

「二つの文革」論が言葉として登場するのは一九八〇年代になってからである。それは当局の「文革徹底否定」に対置してなされた造反派紅衛兵世代の文革総括であった。というのも一九八一年十一中総六中全会の「歴史決議」はこう述べていたからである。

「文革はいかなる意義からも革命ではなく、社会的進歩でもなかった。それは何らの建設的な綱領も提起せず、ただ混乱と破壊、後退をもたらしただけであった」。

「『文化大革命』は指導者が誤って発動し、反革命集団に利用されて、党と国家および各人民と民族に甚大な災害をもたらした内乱であった」。

「徹底否定」の言葉こそないが、「文革徹底否定」論の源である。文革終息後、すでに勝者たちによる「三種人」(「林彪、江青グループに追随して造反し出世した者、派閥意識の甚だしい者、殴打・破壊・略奪分子」)狩が過酷に展開されてきていたのだが、この「決議」をもって「文革徹底否定」論は国是となり、中国全土を覆い尽くしていく。

同時に「一〇年文革」、「十年浩劫」(「一〇年の大災禍」)という言い方も定着していく。文革は一九六六年五月の「五・一六通知」の採択を前後して始まり、一〇年後の一九七六年一〇月、江青・張春橋グループの失脚により終息したということになり、当局側の視点とは必ずしもいえない厳家棋、高臬の文革史も端的に『中国「文化大革命」一〇年史』となっている。(邦訳は『文化大革命十年史(上・下)』岩波書店、一九九六)

当初これらの表現に接したとき当時造反派だった劉国凱は怪訝な感じがしたという。
「七六年、四人組が失脚したあと葉剣英、華国鋒が、文化革命は現在すでに一〇年やってきた、今その終わりを宣言すると述べたことを覚えている。当時、私はそれを聞いておかしく思った。文化革命は実際にはとっくに終わっていたのではなかったのか? まだこのようにまことしとやかに正式宣告を行なう必要があるとは。しかしその後の発展につれて『一〇年動乱』、『一〇年の災禍』がつぎつぎと登場し、私はあっと気がついた。まず中国共産党の元老たちは隙につけ込んだのだ。つまり毛沢東が文革の終息を正式に宣言していないので、彼らがそれを宣布することができたのである。こうして六六年から七六年、すなわち一〇年文革論の基礎がすえられた。文革一〇年論のでっち上げには中国共産党の元老たち、最高指導部たちの緻密で、精巧な考えがあったのである」。(「略評文革造反派」)

ここには歴史のある時期、ある動機や意図のもとに産み落とされた概念や言葉がそれまでの現実に代替して次第に定着し、ふと気がつくとそれが人々の現実を見ていく通念となっていく様が描かれている。

愕然とした造反派紅衛兵世代の一部の者たちによる困難な闘いが始められていく。文革には「二つの文革」、すなわち「毛沢東の文革」と「人民の文革」があったのであり、前者をもって後者を否定するのは誤りだという主張である。そして「人民の文革」は一九六六年〜六八年の二年間(ないし〜六九年の三年間)だったのであり、「一〇年文革」というのは当局の「文革徹底否定」史論にもとづくものであり、誤りだというのである。

一九九〇年代初め、楊曦光がその種の主張をしたときそれは集中的な非難に遭ったという。それらが海外中国人社会から始まって、大陸でのインターネット論壇などで一定の共鳴者を見い出し、事態がやや改善されたのは九〇年代中頃だというからごく最近のことのわけである。

それでは彼らは「文革徹底否定」論と「一〇年文革」、「一〇年の大災禍」説をなぜ大きな誤魔化しと見なしたのか。


1.「文革徹底否定」論の動機

「文革徹底否定」の主張者たちは言うまでもなく、文革において「走資派」として批判と打撃の対象となった層であるから、勝利者となった彼らが文革を否定するのは当然といえば当然だろう。

しかしそれは社会主義と人々の解放の名において主張されている。となるとそれに対して文革はただ「徹底否定」されるべきものだったか、そして文革後の現実は社会主義と人々の解放の道であったかという意見が登場するのは避けられない。「文革をどう評価するかの問題は、単に歴史学の問題であるだけではなく、現実問題でもある」(劉国凱)からだ。

そして彼らは「文革徹底否定」論はきわめて手の込んだものだという。そこには中国共産党の統治の仕方での悪魔的な知恵が働いているというわけである。

まずそれは文革のなかにあった二つの要素、すなわち共産党の政治運動的要素と人民の解放運動的要素を区別しないまま一括りにして否定しているわけだが、この「四人組批判」としての文革批判の陰で実際に「徹底否定」されているのは「人民の文革」なのだというのが彼らの主張である。

また「一〇年文革」という、われわれにしてもごく当然のように考えてきた言い方は、文革の実際に合致していないのみならず、そこにはきわめて政治的な思惑が働いていたという。

その一つは、従来の「政治運動」と区別される文革の特質を中国共産党の統制から相対的に自立した大衆組織と運動の登場、それによる抑圧的官僚制への攻撃ととらえるとき、その頂点は一九六六年八月の「十六条」採択から、一九六八年(ないし六九年)ということになるのだが、「文革徹底否定」論はこの見方を「徹底的に」排除している。

さらにもう一つ、「一〇年文革」論は文革の「被害者」たる中国共産党官僚たちの一つのイデオロギー的な命名であるという批判である。

「文革に対して中国共産党官僚たちは彼ら自身の感受の仕方がある。彼らの見るところ、文革は彼らの尊厳と権勢とが厳重に傷つけられた大災禍でしかなかった。文革一〇年説を最初に提出した葉剣英らは元来は毛沢東の粛清の対象ではなかったのだが、文革の大波のなかで彼らの権力と尊厳も攻撃された。社会の下層からの彼らの尊厳への攻撃が彼らに根本的な傷を与えることはできなかったとすれば、毛沢東が支持し厚く信頼している林彪と四人組から与えられた彼らの権勢への攻撃は何度も彼らを危うく深淵にたたき込むところだった。毛沢東が崩御し、四人組が覆滅させられてはじめて彼らの地位、権勢は安定したのである。だから彼らの感じ方は今回の悪夢は彼らを一〇年に渡って苦しめたということになる」。(劉国凱「三年文革与両條綫索」)

しかもここには党官僚たちのメンタリティーが絡んでいたという。

「上述した直接の感受以外に、中国共産党の官僚たちが文革を一〇年と認定する上でさらに感情と現実上から二重の必要性があった。権勢並びなく、地位高貴な中国共産党の官僚たちは文革三年の間、倍増する恥辱を受け、自己批判を書き、批判に会い、誤りを認め、罪を認め、声は低く元気なく、畏れ入ってびくびくしていた、あの悪夢のような記憶は彼らの心にぬぐい難い陰影を残した。彼らの願いで最も望ましいのは彼らが羞恥してやまない光景を歴史から抹消することである。だがそれは結局不可能である。そこでやむを得ず次善を選んだのだ。少なくともあの現実を歴史上の独立した章節にしないことである。それをその後の七年間と混合し、大は小を呑み込み、溶かしてしまう、まことにいい案ではないか!」。

 王希哲もこう述べている。

「葉剣英は文革を『一〇年の大災禍』という一語で定義した。この『大災禍』の内容は完全に造反派の彼等への造反と『殴打・破壊・略奪』のことであり、彼らおよび彼らの子弟が人民に対して犯した累累たる犯罪、すなわち工作組の暴政、紅八月のテロル、一九六七年の殺戮、一九六八年の大虐殺はまったく『大災禍』などとは見なされていないのだ。

造反派は今に至っても『懺悔』が必要とされるのだが、あれら本物の両手が鮮血にまみれている保党派の殺人犯たちは早くに『第何々世代(の指導層)』として育てられ、すでに大挙して権力を継承しているのだ。こうして歴史は彼らによって書かれるのであり、造反派の案件は彼らによって判決が下される。彼らは勝利者であり、中国の今日の権勢者なのである」。(「関于翻案文革史論述提綱」)

 

2.新たな課題

さて、以上の「二つの文革」論の提起は「文革徹底否定」論の支配をくつがえし、文革を新たにとらえ返す上で大きな意義を持ったといえよう。だが「二つの文革」論の主張は主張者たちに新たな困難さを課すことになった。「毛沢東の文革」への批判を深化させるとき、それは「人民の文革」そのものの内実を問うものとなるからである。

それは「人民の文革」もただちに激烈な内部対立に陥ち込んだというにとどまらず、「毛沢東の文革」を「政敵粛清」、「権力闘争」などという一面的把握を越えて真に批判しようとしたとき立ち現れる問題である。

 「二つの文革」論者たちは「毛沢東の文革」は権力闘争だったが、「人民の文革」は社会的矛盾を受けた変革運動だったとする。

 文革がそういう「二つの文革」的要素を持っていたのは確かだが、難しいのはそれら相互の関係をどうつかむかということである。双方がまったく同質ならそもそもこの課題は生じないわけであり、また双方がまったく異質ならその関係の評価に難しいことはない。

実際には「毛沢東の文革」もまた中国社会主義がはらんだ社会的矛盾に突き動かされていたのであり、だからこそ造反派もそれに鼓舞され、それは「人民の文革」を生み出す母胎、媒介たりえたのであった。双方の関係はまったく異質なものの外的関係(「相互利用」等の)ということではなかった。

劉国凱が「ブルジョア反動路線批判は〔……〕、文革造反派の輝かしい一頁だった」(「略評文革造反派」)というとき、それはその時期での毛沢東、中央文革の路線と切り離すことはできないものだからである。しかしそこには相互に反発し合う要素も濃厚にはらまれており、とりわけ「毛沢東の文革」には「人民の文革」的なものへの本能的な警戒と抑圧への衝動が当初からあった。

両者は「二年(ないし三年)文革」の一時期、すなわち文革期での毛沢東、中央文革の活動の内容的な頂点で一瞬融合したと見るべきなのだろう。しかし総体としての文革はそれがはらんでいた諸問題とそれが生み出した反動によって失敗し、「ケ小平の反文革」路線の制圧を許したのである。

 こう立てると問題はただちに「人民の文革」論にはね返ることになる。すなわちそれは「毛沢東の文革」が失敗した問題をどう認識し、どう克服しえたのか、と。

 そしてここでさらに困難な問題が生じる。それは「毛沢東の文革」の失敗は毛沢東と江青・張春橋グループの誤りの結果というだけでなく、革命そのものの問題性に由来するものでもあるという認識の登場である。「人民の文革」論がこの「告別革命」論にどう立ち向かうかが問われることになる。

 まずはその主張をも少し詳しく見ておこう。

 

二、「二つの文革」論の提起者たち

 

ところで「二つの文革」論は、文革にはその社会的根拠があったのだという主張、すなわち「社会的衝突」論と切り離せないものである。つまり「二つの文革」論は系譜的には造反派紅衛兵たちの「新思潮」まで遡る必要があるわけである。
 湖南省無聯の楊曦光は一九六七年一月闘争のあと、「二月逆流」のなかで逮捕され、出獄後、北京に闘争経験の交流に赴くなかで「新思潮」にふれている。以下の回想はすでに早くから造反派紅衛兵たちの中に毛沢東の文革路線とは異なる矛盾感覚と闘争のエネルギーが生まれていたことを示していて興味深い。

「私は一九六七年一月革命のなかで都市の市民が共産党当局に示した強烈な不満を思い返し、あらためて文革爆発の原因等を考え出した。〔……〕文革前、市民が示した共産党幹部への尊敬はすべて偽りであり、大多数の市民は共産党の専横にすでに以前から恨みを抱いているのを知った。私はこの種の社会矛盾は毛沢東の『プロレタリア独裁下の継続革命』や『二つの路線の闘争』理論をもってしては決して解釈できないことに気づいたので、マルクス主義の原著のなかに答えを探し、系統的な社会調査を通して社会の真実の状況を知り、文革中に都市の市民と共産党幹部との間の激烈な衝突をもたらした真の原因を明らかにしようと決心した」。(「『中国向何処去?』大字報始末」)

ここで取り上げる論者たちは湖南省無聯の楊曦光(改名して楊小凱)、広州「旗」派の劉国凱、精華大学付属中学出身の作家鄭義、「李一哲大字報」の王希哲の四人である。

なお、ここでは論者たちが直接「二つの文革」論、「文革二年(ないし三年)」説に言及した個所だけ切り取っており、それは彼らの論点の一部分でしかないのだが、その主張のニュアンスを知る一助にはなるだろう。


● 楊小凱――一「一九六六年八月から六八年は革命だった」

【一九四九年生まれ。湖南省無聯イデオローグ。「中国はどこへ行く?」執筆者。一九六九年から一〇年間に及ぶ刑期を終えて出獄した楊曦光は、幼名の楊小凱を復活。湖南大学で数学を学び、社会科学院研究員、武漢大学教員をへて、一九八三年アメリカに留学。プリンストン大学でエコノメトリックス(計量経済学)を専攻、その学問的業績は高く評価されているという。現在はオーストラリアのモナシュ大学の経済学部教授。その獄中記『牛鬼蛇神録』(牛津大学出版社、一九九四)は湖南省無聯の実態についての興味尽きない記述に満ちている。最近彼はカトリックに改宗したという】

楊曦光「中国はどこへ行く?」はここで取り上げた三人の論者たちにも決定的な影響を与えた文章であった。彼らが楊曦光との一致点、異同を確かめる場合でも、湖南省無聯の活動と楊曦光のこの文章をその原点としている。

楊曦光はそこで「コミューン革命」論を提起したわけだが、周恩来批判を含めてそれが根底的かつブリリアントであった分、その部分的な手直しは不可能であり、それがその後の「コミューン革命」論の放棄、さらには「革命」そのものの否定へと繋がったのかも知れない。しかし中国の民主化問題、中国共産党の「一〇年文革」論のごまかしについては今日なお批判の発言を続けている。

「文革は一貫した『十年文革』ではなく、おおよそ三段階に分けられる。第一段階は中国共産党が共産党組織を通じて政治を粛清した段階であり、おおよそ五・一六通知から一九六六年八月までである。この段階では非官製の大衆組織はすべて非合法あるいは反革命であり、あらゆる批判運動はみな共産党の厳密な統制下におかれていた」。(「再談『文革』」)

「文化大革命の第二段階はおおよそ一九六六年八月から一九六八年二月の間である」。

「この段階において、中国政治制度に重要な変化があった。その一つは『十六条』が学生は自発的に組織を作っていいと正式に規定したことである。この種の非官製組織は中共党史上ではすべて反革命であった。ある人は『紅衛兵、造反派のイデオロギーはすべて共産党の付属品であり、真の自由結社とは見なしがたい』という。しかし中共党史上、組織が非官製であり、イデオロギーが共産党に接近していた場合、この種の非官製的が蒙った迫害はより厳しいものだった。なぜならこの種の結社が一層危険と見なされたのは、いわゆるトロッキストだからである」。

「フランス大革命同様、自由な結社と革命は一たび発生するや、それは急進的方向に不断に分化し、軍事的強者が暴力をもって秩序を回復するまで突き進んでしまうことになる。こうした点からいえば、一九六六年八月から一九六八年に至る文化革命は政治学でいうところの革命であった。その特徴はそれまでの社会秩序は完全に崩壊し、それまでの政府と共産党は潰され、社会は半ば無政府状態となった。政治は軍隊にあり、各政治党派の間で弄ばれた。共産党の政治統制は半ば崩壊し(軍隊を除き)自由な思想は自ずから自由な結社から発展した」。

 

● 劉国凱――「文革には『人民の道筋』と『当局側の道筋』があった」

【一九四五年生まれ。文革期、親族に国民党上層部関係者がいたので「出身不好」の、広州「旗」派の活動家。文革渦中の一九七一年、今日なお高く評価される『文化革命簡析』を執筆。劉国凱がその執筆を考えたのは一九六八年の毛沢東による造反派大鎮圧の後だったという。「私はあの時、この政権は完全に人民を鎮圧する権力であり、あらゆる活動空間はすべて扼殺されたと思い、心の中で理論的にこの政権を徹底的に分析しようと考え、資料の収集を始め、一九七一年ひそかに『文化革命簡析』を執筆した」。一九八九年、アメリカに移住】

楊曦光「中国はどこへ行く?」の精神をまともに引継ぎ、自らの経験をふまえた文革研究のなかに最も生かしているのはこの劉国凱であるように思われる。文革についての該博な知識、人を引き込む筆致、論旨の明快さは劉国凱の各種の文章を、ここでのテーマについての必読のものとしている。

「文化大革命というこの政治運動はその独特な、これまでの各運動と区別される特徴を持っていた。この特徴の存在と消失がすなわちその始まりと終わりを明らかにする。四九年に大陸で権力を握って以降、中共は多くの政治運動を行なってきた。三反、五反、鎮反、粛反、反右、四清、一打三反、清除精神汚染、反自由化等々である。文化大革命とこれらの政治運動を比較したとき、その特徴が明らかで分かり易くなる」。(「三年文革与両條綫索」)

 「その特徴の一つは他の政治運動は矛先が下に向けられ、民衆を苦しめるものであった。反右派闘争では党員幹部が災難に遭ったが、その数は少なく、主流の現象ではなかった。四清では幹部が痛めつけられたとはいえそれは末端の幹部たちだった。だが文化大革命では矛先は下に向けられると共に上にも向けられ、それは省・市の指導的ないし中央の上層幹部を対象にした。

 特徴の第二は他の政治運動では、中共上層では認識を統一し、歩調を共にしていたが、文化大革命の間、中共の上層は深刻な分岐ないし分裂を起こしていた。

 特徴の第三は他の政治運動では中共の各級の党組織はきわめて効率よく回転し、運動の指導権をしっかりと握っていた。だが文革期間、中共の地方の各級および各単位の党組織は等しく麻痺ないし半麻痺状態となっていた。

 特徴の第四は文革期間、民衆は空前絶後、多くの組織を成立させている。これらの組織は自主的に集会、デモ、言論、出版等の民主的権利を行使した。中共政権は最後の関門を除いてこれらの組織を制御する力を失っていた。

 これら四つの特徴は六六年初夏から続々と出現し、最も典型的には六七年から六八年早春まで示された。そして六八年初夏から始まり、六九年の中共『第九回大会』に至って終わりを告げたのである」。

 「文化大革命の四つの特徴に注意し、またその基本的史実を全面的に了解するならば、文化大革命には二つの道筋、すなわち当局側の道筋と人民の道筋があったことを容易に見て取ることができる」。

 以上の把握の上に立って、劉国凱は王希哲、鄭義ら他の論者たちの見解への自分の意見を述べている。

「私の主要な観点は文革中には人民の道筋があったということである。この道筋は最初の三年間に出現し、その後は存在しなかった。李一哲は文革一〇年説を堅持している。彼らの一九七四年の闘争もまた文革のなかの『人民の闘争』だったとしている。しかしこれは適切ではない。なぜならそれは全国に影響を与えたとはいえ局部的な活動だったからである」。(亜衣「草根階層的社会民主主義者――訪『紐約華人譴責印尼虐華暴行連合総会』事務組召集人劉国凱」)

「私は『人民の文革』という言い方には賛同しない。この言い方は私の考えに接近しているかも知れないが、しかし『二つの文革』という提起の仕方は厳密ではない。私がいうところの『人民の道筋』と『当局側の道筋』は、ある時には分かれ、ある時には接近し、ある時には混合するのだが、仔細に見ると赤と黒に分けられるのである」。

 つまり劉国凱は鄭義のいう「人民の文革」と「毛沢東の文革」はそうはっきり分けられるものではなく、相互の関係はもっと複雑だという。だが、文革の頂点の時期を「新思潮」と同一視する見方、すなわち「二年(ないし三年)文革」期の毛沢東、中央文革と造反派の思想と活動における同質性という把握は拒否している。のちに見る粛喜東の「政治連盟」論を受け入れていないわけである。

 「中央文革メンバーがパリ・コミューンの原則を称揚したのは僅かに一九六七年初めの短い期間であり、まして中央文革の少壮グループ――王力、関鋒、戚本禹は文革中期、すでに粛清されたのである」。

 

● 鄭義――「文革には第一の文革(は毛沢東の文革)と第二の文革(人民の文革)があった」

【一九四七年生まれ。紅衛兵組織発祥の地、精華大学付属中学の「出身不好」の造反派紅衛兵。のちに作家。「二つの文革」論を提起した『歴史的一部分』、広西チワン自治区での武闘と「食人事件」を扱った『紅色記念碑』を書く。一九八九年の天安門事件後、難を避けて中国各地を流浪。一九九三年、妻北明と共に香港経由でアメリカに亡命】

 鄭義は「第二の文革は人民の血の海の中から胎動した」と述べている。「血の海」はいうまでもなく文革初期を支配した劉少奇、ケ小平らの「工作組」と、その後の高級幹部子弟の「老紅衛兵」たちによって生み出されたものであった。

 そして「工作組」と「老紅衛兵」の支配を打ち砕いたのは、毛沢東と中央文革による「ブルジョア反動路線」批判の提起であった。この時の「解放感」を鄭義は最大限の言葉で語っている。一方、鄭義の「毛沢東の文革」評価はほぼ全否定である。これらはどういう関係になっているのか? 鄭義は「二つの文革」に連携があったとすれば、それは「相互利用」の関係だったからだという。

「現在、中国内外の学術界では、毛沢東が文革を発動したのは人民を利用して政敵を粛清したものだという点についてはすでに共通認識となっている。毛沢東は崇高な革命的理想の解釈に酔っていたのだと考えることは明らかに浅薄であり無邪気にすぎよう。しかし文革の民主的要素、すなわち第二の文革についてはなお認識不足である。このことはきわめて重要である。文革において打撃を受けたあとまた官職に復活した人々はみな非常な悪意をもって第一の文革を攻撃しており、文革を朱元璋が功臣を殺した狂気のように描いている。以来、彼らは自覚的に無自覚的にか、文革のなかで民衆が彼らに対して示した正義に満ちた憤怒、彼らが作り出し、維持している制度に対する民主の追求を覆い隠し、自分は不正義な暴君による無辜の被害者のように扮している。彼らの口に上る『文革徹底否定』の『徹底』はおおむねはまさしくあの人民の文革を指しているのである」。(「両个文化大革命雏议

 「八〇年代後期、月刊『作家』に発表した一つの文章のなかで私は明確に『二つの文革』についての分析を提起した。第一の文革は毛沢東の文革であり、これは大衆運動が共産党の権力構造を押し潰すのを利用して、政敵を打倒し奪われた権力を奪回する上層部の権力闘争であった。第二の文革は人民の文革であり、皇帝を利用して腐敗した役人を打倒するものであり、自覚的ではないにせよ民主的色彩を帯びた人民蜂起であった」。

 

● 王希哲――「人民の文革には潜在的な発生過程があった」

【一九四八年生まれ。「李一哲大字報」執筆者。文革終息後、北京の春(民主の壁)で活動し、一九八一年四月「反革命罪」で逮捕、懲役一四年。一九九五年に満期釈放。天安門事件七周年を控えた一九九六年五月三一日身柄拘束、六月一五日釈放。一九九六年一〇月、香港経由でアメリカに亡命、民主化運動に参加】

 劉国凱は当初「李一哲大字報」に接したとき、「右派」的に感じたという。なにしろそこでは「コミューン革命」は語られず、「赤色ブルジョアジー」批判もなく、副題は「社会主義の民主と法制」だったのである。王希哲自身、自分は楊曦光と異なり、当時の文革に「右」として対したと述べている。しかし「李一哲大字報」には紅衛兵世代の明らかな政治思想の成熟があった。

 「『二つの文革』の観点は私が一九八〇年に正式に提出したものであり、一九七四年の民主と法制に関する文章〔「李一哲大字報」〕のなかにこの種の視点の萌芽はあった。私が出獄した後、最初に『開放』誌上で劉賓雁先生が鄭義が『二つの文革』理論を提起したと述べているのを見たとき私はきわめて怪訝に思った。昨日、鄭義先生に会ったとき尋ねたら、われわれは『期せずして同じ』だったのですねと言っていた。彼もまた楊曦光に啓発されて一九八八年にこの観点を提起したのだが、それは私に遅れること八年であった」。(亜衣「為了国家和民族的尊厳――訪中国民運的先駆者王希哲」

 「しかし私と楊曦光の同じでない点は、彼は官僚階級の体系を打ち砕くにはパリ・コミューン原則をさらに左に実行すべきであり、だから周恩来を打倒しなければならないというのである。われわれは官僚体制に反対し、現代西欧の民主と法制を実行しなければならず、『右』に向かい、民主を拡大する方向へ向かったのである」。

「人民の文革には潜在的な発生過程があった。一九六九年の中共『九回大会』の前では『人民の文革』と『毛沢東の文革』とを分けることはきわめて難しいことであった。『九回大会』以後次第に区分できるようになったのである。『九回大会』の後、中国共産党は民衆を全面的に圧迫しこうして『人民の文革』が始まったのであり、初めは純経済的な性質のものであった。当然このような言い方は実際的にはあまり正確ではない。というのは文革そのものはやはり共産党のものであり、人民はただこのスローガンを借りたのである。一つ正確にいえるのはこれが文革の中での人民自身の政治的反抗だったということである。問題は共産党がこれらすべてを文革だといい、一旦文革を否定するや人民自身の反抗をも道ずれに否定し去ったことである」。

 「上山下郷への反対を含め、復員・退役軍人の経済的利益をかち取る運動、労働運動等々は、もはや毛沢東の利益のためのものではなく、人民自身の利益から出発した政治運動だった。当然その表現の仕方は毛沢東を擁護するというものであり、共産党的なものだった。これは胎児が母親の懐で育つように、一つの過程なのであり、さもなければのちの七九年、八九年の民主化運動がその元、源がないままなされたということになる」。

 

三、「二つの文革」論の批判者たち

 

 これらの「二つの文革」論に対して当然多くの反発、批判が生まれたのだが、それはどのようなものだったか。中国共産党サイドのものは当然「文革徹底否定」論の立場、つまり文革をそもそも認めない立場からの批判であり、その論点に何か啓発される点があるわけではない。ここでは彼らがどのように周到に文革を否定しようとしているかの見本として見ておくことになる。

内容的に興味ある批判は「自由主義」や「新左派」からのものである。つまり共に中国共産党の抑圧政治を批判しつつも、「自由主義」は「二つの文革」論という形での文革救出を認めず、一方、「新左派」の「文革徹底否定」論批判は「二つの文革」論者の「毛沢東の文革」批判も認めないわけである。

ここでは四人の論者を取り上げてみよう。まず中共中央党校の金春明、つぎに社会科学院の徐友漁、そして在米「新左派」粛喜東、最後に在米中国人インターネット論壇の芦笛である。

粛喜東の論にはここでのテーマをめぐる叩き台として、われわれの思考を刺激する内容が含まれているので少し詳しく見ておこう。

芦笛についてはとくに選んだわけではなく、最近たまたまその主張を知って関心を持ったのだが、その論点はここでの論議をつぎのテーマである「告別革命」論へと繋ぐことを可能とするように思われ、ここで取り上げてみた。

なお、ここでも論者たちが直接「文革徹底否定」論や「二つの文革」論、「文革二年(ないし三年)」説を批判した個所だけ切り取っており、それは彼らの主張の一部分でしかないことをつけ加えておこう。

 

● 金春明――「共産党に反抗した造反派組織は一つたりともなかった」

【一九三二年生まれ。中国共産党中央党校マルクス主義研究所副所長、教授。文革初期の一九六六年、金春明は「学術権威」として批判され、六九年「五七幹校」に下放。「文革徹底否定」の代表的なイデオローグであり、『「文化大革命」論析』(上海人民出版社、一九八五)、『「文化大革命」史稿』(四川人民出版社、一九九五)、席宣との共著『「文化大革命」小史』(邦訳、中央公論社、一九九八)等で知られる】

金春明は「二つの文革」論について二つの点から批判している。(「訪金春明:『文革』起因十説」、「『両个文革説』与『文化大革命』的定性研究」)

第一は文革は「革命」でも何でもなく、あくまで中国共産党が一九四九年以降くり返してきた「政治運動」の特殊形態であること、第二に思想的、組織的、実践的にこの枠を越え出た造反派組織は一つたりとも存在しなかったのであり、「二つの文革」論者の主張は捏造である。

このように金春明は文革に積極的な要素など一切認めないのだが、しかし彼が依拠する「歴史決議」の規定については今日その「内乱」規定に補足すべき問題があるという。すなわちそこでの「反革命的内乱」規定にとどまるのではなく、文革を中国共産党の歴代の「政治運動」の一特殊形態としてとらえ返すべきだというのである。

「『文革』の結果からいえば〔『歴史決議』の〕この結論は正確である。ただし学術問題としてはやはり掘り下げることができよう。なぜなら『内乱』という言葉は中性詞であり、革命も内乱だし、反革命も内乱であって、内乱そのものは文革の特徴点を示すものではない。私個人は文革をこう定義している、すなわちそれは特定の歴史的条件のもとで発生した特殊で大規模な政治運動である」。

それでは「建国以来これまで毎回の政治運動」とはどのような性格のものだったのか。金春明はそれをつぎのように規定している。

(1)「すべて権力を握っている共産党がアッピールを出し、発動したものであり、運動の方針と目標はすべて上で決めたものである。大衆は一般に党の呼びかけに応じ、組織的に運動に参加し、ある程度の自主性があるにせよ、一般に指導部が決めた範囲を越えることはできない」ものであること。
 (2)「共産党の行なう政治運動の特質は上から下への結合であり、広大な大衆を動員して参加させるもの」であること。
 (3)百万、千万の人々が参加する一つの政治運動はそれが同一のスローガン、語録を掲げていたとしても、それに参加した者たちの動機や要求、運動スタイルは千差万別だが、しかしそれらのことによって「運動の性質を決定したり、改変することはすべて不可能であった」こと。

 このような規定は基本的には文革にも当てはまるのだが、しかしそこには七点の「特殊性」があったという。

「@それは党の最高指導者が自ら発動したものである、Aそれはプロレタリア独裁下の継続革命理論を指導方針としていること、Bそれは特殊で神聖な使命、たとえば『反帝反修』をスローガンとしていたこと、Cそれは特殊な革命対象――『走資派』および『反動学術権威』を持っていたこと、Dそれは特殊な内容――党の政財文の大権を奪うこと、Eそれは特殊な方式――四大(大鳴、大放、大字報、大弁論)を用いたこと、F歴史に例のない規模となったこと、このような七点が造り出したのがすなわち内乱であった。多くの人が私の観点に賛成している」。

以上の金春明の主張は文革の「特殊性」の強調にも関わらず、つまるところ従来の「政治運動」に比べて文革の何が「特殊」なのかがはっきりしないものとなってしまっている。上げられた「七点」は文革の外見的な内容説明であっても、その「特殊性」の解明となってはいない。
 その上で金春明の全努力は「二つの文革」論者たちが強調する「大衆運動」の独自性なるものは存在しなかったのだということの論証に費やされている。

「だが私が個人的に接触し了解した状況からいえば、『文革』期間に公開で発表された各造反組織の成立宣言あるいは綱領のなかで『共産党の暴政に反抗する』ことを目的とした大衆組織を確実にまだ発見できていない」。
 「『文化大革命』中の大衆組織は各派が林立し、その数は数え切れない程多かったといえる。しかし毛主席を支持せず、文化大革命に不賛成で、共産党と社会主義制度を打ち倒すとする公開声明やそういう綱領、要求を探しても、一つとしてなかったと言えるだろう」。
 「彼らは『旧世界を粉々に粉砕する』、『真紅の新世界を建設する』と叫びもしたが、造反の対象は中国共産党、そして社会主義制度でもなく、いわゆる『党内走資派』と『反革命的修正主義路線』であった。造反の目的は政権の交代でもなく、国家権力の転覆と共産党の打倒でもなく、『プロレタリア独裁の強化』、『赤い祖国が永遠に変わらないよう守る』というものであった」。
 「以上のことが、『文化大革命』中の造反派が、論調がきわめて高く、規模が広大であり、口調が猛々しく、代償がいかに大きかったとしても、その到達目標は極めて限られたものでしかないことを決定づけた。『文化大革命』中の名が知れ渡り、きわめて活動的な『赫々たる左派組織』も、偉大な指導者が決めた範囲内の活動が許されるだけで、それを一歩も越えることはできなかったのである」。
 「共産党の指導を打ち倒し、社会主義制度を変えることを目標とした造反派組織が一つもなかったというのか? 中国の広大なること、当時の大衆組織の名目の雑多さ、形式の雑然さ、今に至るも十分緻密な調査と系統的な深い研究が欠けていることの故に、私は絶対的な結論を出そうとは思わない。だが私が個人的に接触し調査した状況からいえば、『文革』期間に公開で発表された各造反派組織の成立宣言あるいは綱領の中で『共産党の暴政に反抗する』ことを目標とした大衆組織は確実に見つからなかった。この基本的事実を無視して、『文革』時期に発生したある個別的事例を主観に任せて誇大化し、さらには個々の『史実』を捏造し、すでに共通認識となっている『文化大革命』の性質についての正しい結論を変えようとすることは、億万の『文革』を自ら経験した人々に受け入れられることは不可能であり、徒労なだけである」。

見られるように、金春明が「共産党を非難した造反派はいなかった」というとき、彼がその証拠として上げているのは「成立宣言あるいは綱領」についてであった。金春明はある集団の性格を知るには、それが掲げた「公開声明やそういう綱領、要求」だけでなく、その集団の運動形態や「綱領」という形では示されない社会的意識、そしてその構成要員の社会的基盤の分析が必要という初歩的認識も持ち合わせていなかったわけである。

それに当時中国共産党と異なる内容の「成立宣言あるいは綱領」を公然と掲げたときどういうことになったかを知らないとでもいうのだろうか。

金春明の結論はこうである。

「『文化大革命』はただ一つであり、それは中国共産党の最高指導者である毛沢東が自ら発動し指導し、億万の大衆が参加した、一〇年の長きにわたる特殊な大衆運動である。これが第一。
 『文化大革命』に参加した億万の大衆は、その動機は異なり行動は千差万別であったが、総体的に見れば毛沢東が策定した枠を超え出るものではなく、毛沢東の理論、方針以外のどんな独立した政治的綱領と異なる目標をも公開で明確に提出した人はいなかった。これが第二。
 広大な幹部と大衆のなかに『文化大革命』への不満、反抗と闘争が終始存在したことは争えない事実である。これらの反抗と闘争は『四人組』の粉砕、『文化大革命』の終息、その後の『文化大革命』の徹底否定にとって広汎かつ深い大衆的基礎と思想的基礎を築いた。これらの抗争は効果が顕著だったのであり、その功を否定できず、認めなければならない。だがこの抗争といわゆる『暴政』への反抗とは性格が別のものである。この反抗と闘争は本質からいえば、党内の正しい路線と誤った路線との闘争であり、マルクス主義を堅持して『左』傾の誤りに反対する闘争である。闘争の目的はまさに共産党の指導を堅持し、社会主義制度を強固にすることであった」。
 

● 徐友漁――「人民の覚醒は文革の結果だった」

【一九四七年生まれ。四川省造反派の指導的メンバーの一人であり、大武闘をくぐっている。現在は中国社科院哲学所研究であり、「新左派」と論争中の「自由主義」の代表的イデオローグの一人。かっての造反派活動家百余人からの聞き取り含む『形形色色的造反――紅衛兵精神素質的形成及演変』(中文大学出版社、一九九九)等の著書がある】

かつての造反派世代のなかで毛沢東と文革の評価に最も厳しいのは徐友漁のように思われる。「悪」がたまたま「良い結果」も生み出したからといって「悪」を働くのか、「異端派」の文章にも遇羅克らごく少数を除いて採るべきものは何もない、と言ってのけ、唯一の「成果」は文革と毛沢東思想を対象化し、批判できる自由な諸個人を生み出したことだという。

「ある意味ではわれわれは『文革』に感謝すべきだろう。それはわれわれを幻想の中から目覚めさせたのだ。〔……〕『文革』は一切を変えたのであり、私は真の人間となった。だからといって私は『文革』を決して褒め称えたりしない。失敗と痛苦は人に教訓をあたえるが、だからといって失敗と痛苦そのものは称賛に値しないのだから」。(「総括和反思)

彼にとって「新左派」たちの文革ノスタルジーなど児戯に等しいものだったわけである。

「二つの文革」論を認めない徐友漁も、その前提となる「社会的衝突」論については高く評価しており、彼の紅衛兵運動分析もそれを基礎としている。

「私の見るところ社会的衝突論には以下の明らかな優位点がある。第一、それは当局の文革についての神話を打ち砕き、文革の真相を追求した。その神話とは文革中に文革派が作り出したものであれ、文革後に反文革派が生み出したものであれ、政治に服務するというイデオロギーであった。

第二、それは文革中の紅衛兵とその他の大衆の行為を説明することに力を注いでいる。大衆が異なる派閥に分裂した事実を正視し、運動に身を投じた大衆を各自の利益を持った主体と見なし、文革中の億万の人々の情熱、相互の争い、および人々の思想が文革の発展につれて変化し、そのことが文革発動者の予期しない結果をもたらしたこと、等々である。

第三、それは文革爆発前の社会状態と社会構造を示すことに力を注いだが、それは文革中ないし今日の中国の多くの重大な社会問題の理解にとって重要なことである。

 これらの理論は種々の長所があるにもかかわらず、しかしそれは文革の説明にとって依然として多くの誤りないし不正確さがあると私は考えている。そのことを以下簡単に分析してみよう」。(『様々な造反――紅衛兵精神素質の形成と変遷』中文大学出版社、一九九九)

 徐友漁は陳佩華、楊曦光という代表的な論者の見解を取り上げて反論している。彼らはこう主張していた。
 「六六年から六八年の文革は反官僚運動だった」。「文革が始まったばかりの頃、造反派は圧迫から解放されて自分のスローガンで立ち上がった。最初一年間は中央文革小組に操作された後、彼らはすぐさま発展して自己の政治計画を持った独立勢力となった」。(陳佩華)

 「文革中に積極的に造反した人は皆市民の中で共産党に不満を持っている人だった」。(楊曦光)
 徐友漁はここでいわれている造反派勢力の「独立」性、「反共産党」性に異議を唱えている。徐友漁にとってそれらのことは文革をへて、文革をくぐることによって、事後的に初めて可能となったのであり、文革を美化することなくそれをはっきり否定しなければならないのである。

 「王希哲の『人民の文革』の理解はこうであった。『毛沢東は国民経済体系の中に独立した利益を持たない多くの青年学生を騙し、煽動して造反に立ち上がらせ、「紅衛兵」ファッシスト運動を発動した。しかし運動の発展につれて、人民は毛沢東の追求する目標と中国人民の根本的利益は相容れないことを認識するに到り、ついに毛沢東の政策を否定しそれに反抗した』。だが厳格にいえば、王希哲の主張は社会的衝突論とは一致しないのであり、それはある意味では『一つの文革』論である。なぜなら人民の覚醒と抗争は毛沢東のあの文革への反応なのであって、それら二つは並存関係ではなく因果関係だったからである。私は王希哲の青年学生は独立した利益を持たないという見方には同意しない。また文革のなかで遇羅克、楊曦光などごく少数の先知先覚者がきわめて早くに人民の利益はどこにあり、官僚の利益は何なのかを見抜いていたことを認める。そうではあるがしかし私は『二つの文革』論の観点を無条件に受け入れようとは思わない。なぜなら文革に巻き込まれた大多数の大衆(とりわけ紅衛兵)についていえば、自分らの正当な利益を意識するに到ったのは騙され利用された後だったのであり、彼らが目覚め悟ったときすでに『人民の文革』に従事するどんな機会もなかったのである」。

 

● 粛喜東――「造反派と毛沢東、中央文革小組とは『政治連盟』の関係にあった」

【「社会学者(香港)」、「中国人留学生」、「在米中国人左派」等の断片的な経歴が出てくるが、詳細な経歴は分からず。一九六〇年代〜七〇年代の世界的な運動の高揚と後退のなかに文革の運命を位置づけ、日本のベトナム反戦闘争、三里塚闘争にも言及しているところをみると、香港で育った若い世代なのだろうか。民族主義的毛沢東主義者のようだが、その論旨展開は現代的水準を示しており、示唆される諸点がある。】

 粛喜東は「二つの文革」論について人の意表をつく指摘をしている。それは「二つの文革」論は当局の「文革徹底否定」論と時を同じくして形成されたものであり、それへの妥協、譲歩であるというのである。

「『二つの文革』の観点は現在、文革に自ら参加した、とりわけ造反派左派の人たちの間で流行している。しかしこの観点が文革の清算、保守復旧の風潮の影響と圧力のもとで、造反経歴を持つ人が心理上当局の『徹底否定』の観点に譲歩、妥協した結果であった」。(「『両个文革』、或一个文革?」
 「しかしそれは主流の観点の影響を深く受けており、ある意味では主流の観点との妥協であった。実際上、主流の観点の形成過程は『二つの文革』論の形成過程であった」。

つまり「人民の文革」の抽出により文革を救出しようとしたそれは、「毛沢東の文革」の否定を代償にしており、その点で「文革徹底否定」論への追従になっているというのである。
 その上で粛喜東は「二つの文革」論の意義から出発する。

 

@ 大衆造反運動の意義

「『二つの文革』論での、文革中の大衆運動が備えた民主を争い、迫害に抗する性質への評価はこの文章で基本的に正確だと認めている。この分野でなされた『二つの文革』論による一元化された『徹底否定』という主流の観点への妥当な批判と訂正は優れたものである。実際、きわめて遺憾なことに現存の歴史的著作であれ文学作品であれ、文革大衆運動のこの重大な内容にふれ、それについて語ることは極めて少ないのだ。この『二つの文革』論と『徹底否定』という当局の一元化された観点を比較したとき、エリート以外の大衆と大衆の政治に着目したことは肯定に値するものと見なすべきである」。

粛喜東も文革は「一〇年文革」ではなく、「本物の史上前例のない事件としての文革運動は一九六六年八月から一九六八年八月の二年間」と見るべきだという。

「その根本的理由は、政治行動の方式がただ六六年八月から六八年八月の時期に文革固有の性質と特徴点、すなわち社会主義制度下での大民主の実験の全面的展開が行なわれ、人民大衆が結社、集会、出版、言論と四大自由を十分に持ち、左翼急進的な革命イデオロギーが人民大衆の手中の武器となり、もはや空っぽの教条、官僚の手中の道具となることはなかったのである。六六年八月以前および六八年八月以後、政治運動の操作方式はこれらの特点を備えておらず、文革前一七年あるいは七六年以後の方法と大同小異だった」。

粛喜東が文革の起点を一九六六年八月としているのは、その月、「十六条」が公布されたのであり、世に「文革綱領」といわれる「五・一六通知」は文革固有の政治行動の特質にまだ合致していないとする見方からである。

「二つの文革」論者たちがその「二年(あるいは三年)文革」説を、その時期での大衆運動と組織の自立性にその根拠を置いているのに比べ、粛喜東の特徴はその時期での毛沢東、中央文革の指導方式、「政治運動の操作方式」の新しさに着目してことである。


A 毛沢東文革論と大衆造反運動の切断

以上の評価の上に立って、しかしここから「二つの文革」論への批判が始まっていく。

「だがそれは毛沢東の『造反有理』の思想と文革での大衆の造反運動を引き裂いてしまい、また中央での二つの司令部の闘争と社会のなかでの造反派と保皇派の闘争との間にはその脈絡がはっきりした連盟と対立の関係があることを認めようとしない」。

「『二つの文革』の観点から見るとき、中央の闘争と大衆運動の発展はただ時間的に重なっただけであって、イデオロギー上の一致はなく、ただ利用、被利用の関係があり、政治連盟的関係を認めない」。

 「『二つの文革』論は文革のその他の側面について、とりわけエリートの闘争およびエリートと大衆との関係の問題では主流の観点とその程度は異なっても一致している」。

その結果、「二つの文革」論は文革期の幾つかの顕著な現実を説明できないという。


B「二つの文革」論が説明できないもの

それは文革後期(原語「後文革時期」)をどう見るかに関連する問題である。

「『二つの文革』論の最も主要な根拠は、毛沢東の文革理論と文革期間に大衆のなかに自発的に生み出された官僚に造反する思想理念とは性質がまったく別だという認識である。多くの人々の思考パターンのなかでは毛沢東は『極左』思想を集めて大成した人であって、真の民主的思想を持ちえていないのである。他方、一時期、大衆の手中の強大な武器となった大民主、集会・結社・言論の自由等も『極左』の『社会主義新段階』といかなる必然的連繋も不可能だとされる。この二つの仮定を根拠に毛沢東は文革中の大衆運動を利用したのであり、その目的はただ上層グループ内の政敵を打倒するためであったと推論している。しかしこの種の推論は文革の経過および文革後期での一系列の事実の発展には符合していない」。

「『二つの文革』論が説明しようがないもう一つの歴史的事実は文革後期での毛沢東はそれによって文革を発動し、文革中に造反派を支持したあれらの理論を決して取り下げていないことである。この時期、毛沢東はさらに確信を深めて修正主義に反対しなければならないことを強調し、当時の中国が多くの分野で『解放前と変わらない』と認識しており、反官僚、反特権を強調している。毛沢東が文革後期に提唱した『反潮流』の精神は『造反有理』の再版であることは歴然としていた。

 仮に『権力闘争』的言い方で、単に『文革の成果を擁護』し、打倒された『政敵』の復活を防止するという角度から出発するなら、社会主義になお存在する『暗黒面』、『修正主義に変色する危険性』をくり返し強調する必要はなく、さらに『反潮流』である必要はないからである。唯一の合理的解釈は、文革中はもちろん文革後期でも、毛沢東は『継続革命、不断革命』の高度な理論次元で問題を考察していたのであり、政敵を打倒し、自分の名誉を維持するという低次元からではなかったということである」。

 

C「政治連盟」論

ここで注目すべき粛喜東の「政治連盟」論が登場する。

「六六年六月から八月のあいだ、〔……〕中央文革がすでに全国の学園に広がった反工作組の学生運動をくり返し支持したあと、造反した学生たちは精神的、理念的に中央文革を認め、支持したのである。そして各地の造反派の中央文革への賛同は今度は中央文革の地位を強化した。この連携は政治的取引、あるいは政治操作によって作られたのではなく、政治的観点の基本的一致の上に築かれたものであり、一種の典型的な政治連盟であった」。

しかしこの「政治連盟」は破綻する。

「文革後期(六七年八月意以後)、左派連盟に重大な亀裂が発生し、中央の急進派内部に分解が生じ、中央文革と地方の造反派との関係にも緊張が生まれた。そこには三つの要因があった。一つは大衆造反派内部に宗派主義的紛糾が発生したこと、もう一つは左派の小部分が理論上先行して発展する一方、幾つかの省での造反派の運動が深刻に停滞し、全国の運動が不均衡に発展して、各省の状況を相互に支持し合うことが不可能となったことだった。さらに最も重要だったのは、以上の二つのことの原因でもあったのだが、まだ強大な実力と資源を持った保守派官僚が左派陣営の効果的な瓦解、分裂と挑発工作を推し進めたことである。このことはあらゆる文革著作がふれないことなのだが」。


D 相互作用論

ここで粛喜東は「政治連盟」の内的関連を分析している。

「最後に指摘すべきは、『二つの文革』論のなかで毛沢東と文革大衆運動とを切り裂こうとする企図は成功しないということである。毛沢東の反修防修、継続革命理論は抽象であり、広い観点で大衆造反運動を呼びかけるものであった。造反派大衆運動のなかに自生的に生まれた反血統論思想は具体的なものであり、それは微視的な観点から反修防修に生き生きした社会学的内容を与えたのである。毛沢東が六〇年代以来、反修防修と継続革命の問題において発展させてきた各種の特異な思想と言論は、大衆組織の非官製的な出版物を通して民間と社会に伝わった。それは当時、理想主義に満ち造反精神を持って運動に入った青年たちにとってきわめて大きな新鮮さと吸引力を持った。同時に造反派大衆のなかに自力で育った反血統論思想は具体的、微視的な次元で反修防修の巨視的な抽象的理論に生き生きした社会学的内容を与えたのである」。

ここで粛喜東は「二年(ないし三年)文革」期の毛沢東路線と造反派とは同質の「思想体系」にあったと述べている。

 「文革運動のなかで生み出された一種独特な左翼思想と闘争言語は、反修防修、継続革命理論と反血統論、『大衆が自分で自分を解放する』等の内容を結合したということができる。文革中の一系列の上から下への闘争、資本主義を引き入れるに熱心な党内官僚への闘争を含めて、これら官僚階層の子弟家族が形成する特権集団への闘争、当時の社会にあった新旧の不平等な関係に対する闘争がすべてこの統一的な闘争言語に統一された。われわれもまた『思想体系』という言い方を使うとすれば、毛沢東晩年の思想はその思索が切り拓いた理論(ブルジョア的権利の批判等)、さらに省無聯『中国はどこへ行く?』を代表とする民間左派理論(今日われわれがそれをどう評価するかはともあれ)を含めて、堅強な核を持った毛沢東晩年の思想体系、すなわち『継続革命』の思想体系が形成されたのである。六六年から六八年に到る大衆運動はすなわちこの思想体系の最初の具体的実践であった。『中国はどこへ行く?』のなかの思想と『五・一六通知』、『五・七指示』は同一の体系に属していることは否定しがたく、フルシチョフの秘密報告、あるいは〔……〕ゴルバチョフの思想体系とは天地の差があった」。

 

E 毛沢東の「民主主義」論

「二つの文革」論者たちの毛沢東「大民主」論批判についても粛喜東は反論する。
 「一九六〇年代末以降の世界的規模での反体制的左翼運動の衰退以来、人々は習慣的に社会主義社会内部の反体制運動を『自由化』と関連づけている。〔……〕ソ連体制の批判の上で、現存する社会主義制度は徹底的な改善を必要としているという認識の上で、毛沢東と彼らの見方はある程度接近している。しかし社会主義制度がはらむ弊害の根源に対して毛沢東は彼らと異なる診断と処方を編み出している。〔……〕一言でいえば毛沢東は別の道を通って左翼的な方向から社会主義の改革、社会主義的民主の実行を試みたのである。まさしくこの意義において中国文革と六〇年代のおおよそ同時期のヨーロッパ新左翼運動とは図らずして一致したのである。……この『新左翼』と『旧左翼』の重大な差を無視してはじめて『毛沢東は骨化した社会主義を堅持している』との結論を出しうるのだ」。

 

F「二年(ないし三年)文革」以外の時期の見方

 さて、粛喜東は「二つの文革」論者たちと共に「社会的衝突」論、「二年(ないし三年)文革」説をもって「文革徹底否定」を批判するわけだが、「二つの文革」論は取っておらず、また「毛沢東の文革」批判も受け入れていない。つまり「一つの文革」の立場なのだ。そうすると粛喜東にとって「二年(ないし三年)文革」期以外の時期は何なのか? 文革なのか文革でないのか?

 「『二年文革』説の最も重要な根拠はやはりこの二年間のかつてなかった政治操作方式であった。毛沢東はこう述べていた。『過去われわれは農村での闘争、工場での闘争、文化界での闘争を行ない、社会主義教育運動を進めてきたが、しかし問題を解決できなかった。なぜなら、大衆を下から上へと立ち上がらせることによって、われわれの暗黒面を公然と、全面的に暴露する一つの形式、一つの方式を見つけ出すに至らなかったからである』。この種の形式と方式は文革のなかで探し出され、二年間のあいだ全面的に運用されるに至った」。

「これと比べると六八年九月から始まった一系列の、後に続く運動と事件、すなわち階級隊列の純潔化、一打三反、精査五・一六、批陳〔陳伯達〕整風、批林〔林彪〕整風、批林批孔〔孔子〕、評法〔法家〕批儒〔儒家〕、批判ブルジョア的権利、評水滸伝、経済整頓、教育整頓から、反撃右傾翻案風、批ケ〔ケ小平〕に至るまで、それが上層の急進派あるいは実務派が起こしたものであれ、程度の違いはあってもすべて上から下へ、形は『左』だが実質は『右』の『大衆を運動させる』形式を回復させたのである。そして毛沢東が呼びかけた『造反有理』の新たな提唱――『反潮流』――は文革のなかでの大衆の自発的な造反運動に類似したものの形成を促進することはできなかった」。
 「六六年から七六年に至るこの時期は新中国の歴史の上で勿論その特殊性を持っていた。この文章と他の文章で筆者は六八年末から七六年末までの時期を『文革後期』と呼んでいる。この時期、文革前後に誕生した党内『極左』綱領は部分的に実践あるいは実験に付された。文芸革命、教育革命、衛生革命、五七道路、大寨・大慶、鞍鋼憲法等々である。同じくこの時期、整風、四つの現代化、整頓等、党内実務派の政策綱領の実施もあり、一九七五年の反撃右傾翻案風、階級隊列の純潔化、精査五・一六等の文革造反派を清算する運動もあった」。

粛喜東によれば「ここでいう『文革後期』は文革の後期〔原語「文革之後的時期」〕という意味であり、一部の文革を『文革以前』〔原語「前文革」〕と『』〔原語「後文革〕とに分ける観点がいうところの「ポスト文革」ではない」という。つまり粛喜東は「六八年末から七六年末までの時期」も文革に含めていると見てよいのか?

しかしこの点は微妙であり、はっきりしない。それが中国語の多義性による解釈の幅なのか、あるいは当方の初歩的読解力の故なのか、それとも粛喜東自身がはっきりしていないのか、よく分からない。「二年(ないし三年)文革」以降は文革期なのかそうでないのか明言すればよいことであり、また「後文革時期」、「文革之後的時期」等の紛らわしい言葉を使うべきでないだろう。

いずれにせよ、それは文革を文革たらしめた「政治操作方式」はすでに失われている時期だという。
「六六年八月以前および六八年八月以後、政治運動の操作方式はこれらの特点を備えておらず、文革前一七年あるいは七六年以後の方法と大同小異だった」。

● 芦笛――「異端思想と毛沢東の政治的理想の思考パターンは同じである」

【在米民主化運動従事者。インターネット論壇著名人。詳しい経歴は分からず。ただ芦笛は遇羅克「出身論」についてこう述べている。「当時あの文章がわれわれ黒い犬の子の心中に引き起こした震動はまさに言葉で表現できないものだった。何の誇張もなく言って、あの文章は私の暗黒の心に開けられた一つの明るい窓であり、毛沢東思想の他に世の中にまだこのように生き生きした別の思惟方式があることを初めて知らされたのである」。「黒い犬の子」、すなわち「出身不好」の紅衛兵世代である。現在、民主化運動の一部の指導者と悶着を起こしているようである】

だが今日、遇羅克の文章を読み返した芦笛はそれを「裏がえしの血統論」だと感じる。それまでは「出身好」が革命的とされていたのに、今度は「出身不好」が革命的、「出身好」はダメとされただけで思考のパターンは同じではないかというのである。

芦笛がこのように考えるに至るには献身的な造反派としての生き方から「真性の反革命」へと至る経過があったという。遇羅克、楊曦光、王希哲から最も大きな影響をうけたという芦笛はその後、これら「異端思想」こそ民衆にとって、「走資派」、さらには毛沢東以上に危険であって、もしその「パリ・コミューン式の」社会が実現したら悲惨極まることになったろうと考えるに至っている。

「文革一〇年での、見つけられた限りの毛沢東の一切の内部講話を私は仔細に読んでみて心底思ったのだが、毛沢東の内心深くにあった政治的理想はこれら『異端』の思索者たちが提起したものとまったくそっくりなものだったのである」。(「先知先覚者的悲劇――兼論『両个文革』」)

ところがこの思索者たちは毛沢東の二面性を理解しておらず、毛沢東の現実的側面に頭をぶつけて「毛沢東の文革」と異なるものとして「人民の文革、われらの文革」を言い出したのだが、実はその「人民の文革」は毛沢東の理想的側面がはらんでいたものだったのである。

「毛沢東と同様、彼らも民主を鼓吹した。だが不幸なことに彼らはこの重大な問題で毛沢東の教義を黙認した。すなわち民主は階級とイデオロギーを超越したものではなく、ただ人民にだけ与えられるのであり、『反動派』には与えないのである」。

「これらの『異端』思想家は毛沢東の心を深くつかんだが、しかし彼らにとって不幸なことに毛沢東は矛盾に満ちた人物であり、根深く『葉公龍を好む』気質を有していた。一面では彼は紛れもなく共産党の高級幹部のなかでただ独り比較的『抽象的な』思考を好み、明らかに理想主義的傾向と『ロマンチズム』気質を持った革命家だった。他方、彼はまた老謀深算〔細心に計画し深遠に見通すことのできる〕、無比の精妙さを持った政客、謀略家であった」。

毛沢東はコミューンを語りながら、実際に上海が「上海コミューン」を名乗ったら怖くなって逃げ出した「葉公」だといえるが、他方、一つの政治思想が諸関係を通してどのような実践的帰結をもたらすかを測定できる卓越した、かつ謀略に富む政治家でもあったというのである。(なお、中国語の「謀略」は「謀に長けた」という意味でそこに「陰謀」的語感は希薄なようである)。

「不幸なことに、『異端』思想家たちは毛沢東の『二面性』を見抜いていず、毛沢東のユートピア的な断片的な言葉に酔い、インスピレーションを得、マルクス・レーニン主義の用語をもってあれらの言葉の断片から比較的整った思想をつむぎ出し、『中国はどこへ行く?』、『社会主義の民主と法制を論ず』を書き上げたのであった。想像に難くないことだが、これらの文章が現政権の存在を脅かしたが故にただちに当局によって厳しく弾圧されたのだが、毛沢東は当然にもこれら民間思想家たちの生死を気にかけることはなかった。冷酷にいえば『異端』思想家たちは毛沢東に騙された忠臣たちだったのである」。

「遺憾なことに、『われらの文革』は真に『人民の文革』だったかも知れず、社会的に圧迫され、差別された『出身不好』の者たち、『落ちこぼれ分子』たちが立ち上がり、『走資派』、党員・青年同盟員、積極分子と真に闘ったのかも知れないのだが、不幸だったのはこのように主張する人たちが二つの基本的事実を見落とすか粗略に扱ったことであった」。

「第一に、『われらの文革』が仕えていたのは依然として『われわれの思想を指導する理論的基礎はマルクス・レーニン主義である』ということだった。のみならず、その革命精神が徹底的であり、その政治理想が現実的な弾力性に欠ける故に、その実践は必然的に中国に劉少奇、ケ小平ら平凡な管理より、更に大きな、更に深刻な災難をもたらし、だから更に反動的なものとなったろう。〔……〕これら『人民の文革』は、毛沢東が『徹底的な革命精神を』を欠いていたがゆえに、いまだ全国に広められなかったのは、人民にとってまさにいかに大きな幸運だったことか」。

「第二に、『われわれの文革』、あるいは真の『人民の文革』は、その人民の半分のものに過ぎず、少なくとも保守派という半分を含んでいないものだった。『人民の文革』が勝利した幾つかの地区では、それら半分の人民が受けた迫害は毛沢東の共産党が統治した以来の最高水準を越えていた。それと同時に伝統的な『階級の敵』の災難はまったく終わっておらず、『階級隊列の純潔化』、『一打三反』という民衆を踏みにじる運動のなかで再び残酷に蹂躙されたのである」。

芦笛はどの地区のことを言っているのだろうか? それに「階級隊列の純潔化」、「一打三反」はそれこそ毛沢東による陰惨な造反派掃滅の運動だったのに。

しかし「人民の文革」はその政治思想の質からすれば「イラン・シーア派の原理主義的イスラム革命的なもの」になるという芦笛の「異端思想」、「コミューン型革命」論批判の論理は強力であり、「二つの文革」論者たち、そしてわれわれもまたそれに答えなければならない性格のものではある。


四、引き出された問題点

 

さてこのように見てくるとき、そこからは検討を深めるべき多くのテーマが出てくる。しかしここではそれらに一定の結論を提起する準備がなく、問題の輪郭を若干整理しておくことにとどめよう。とりわけ7.「人民の文革」の総括、は重要かつ興味あるテーマとして詳しく扱われるべきものだが、今回はそのごく一端にふれることしかできない。

 

1.「毛沢東の文革」の評価の仕方

鄭義は「今日、中国内外の学術界では、毛沢東の発動した文革は人民を利用した政敵の粛清であったということはすでに共通認識となっている」と述べていた。

「共通認識」であるかどうかはさておき、「二つの文革」論者たちもまたほぼ「毛沢東の文革」の全否定に近い考えに達しているのは事実のようである。だがそういう認識に今日到達したにしても、それに至る変化過程の分析が重要である。造反派にしても当初は圧倒的な毛沢東の影響下にあり、その言葉から彼らの文革論を組み立てている。

しかしその後彼らは、自分らは毛沢東の「権力闘争」に利用されたのであり、その文革理論はそのための手段だったとして、そこに「人民の文革」の存在理由を立てている。ここには当初の幻想からすれば彼らの認識の深まりがあるわけだが、同時にそこには対象分析力の後退もある。というのはそこでは毛沢東文革論への共鳴とそこからの離脱の思想的経過が捨象されてしまっており、「毛沢東の文革」はその当初からダメだったというように一面化されているからである。

毛沢東が一九六七年以降、造反派の抑圧に向かい、ついにそれを鎮圧したのは事実である。問題はここに毛沢東の当初からの本質を見るのか、あるいは毛沢東の退化、堕落としておさえるかということである。

毛沢東は人民大衆の運動を利用したのだが、人民大衆もまた「毛沢東の文革」を利用して自分らの利害を貫こうとしたのだと鄭義はいう。

この整理はスッキリしているが、下層民衆の場合にそういう要素もあったとしても、造反派運動の過程はそういうことではなかったろう。その社会的要因はあったわけだが、直接には彼らは毛沢東の呼びかけのもとに立ち上がったのであり、毛沢東と中央文革が劉少奇、ケ小平の「工作組」、高級幹部子弟たちの「血統論」を厳しく批判して造反派を擁護したとき、一瞬、相互の利害は一致し、その関係を粛喜東が「政治連盟」的な性格を帯びたというのは荒唐無稽なことではない。

ただ毛沢東のこれら「四大」(「大鳴〔大いに意見を出す〕・大放〔大いに討論する〕・大字報〔大字報を貼る〕・大弁論〔大弁論をする〕」)は毛沢東の政治路線にもとづき「走資派」を批判するかぎりで容認されたものであり、真の意味での「大民主」でなかったというのが「二つの文革」論者、そしてその批判者である徐友漁らの主張である。

このことは事実であり、「四大」は粛喜東ら「新左派」が評価するほど解放的なものではなかった。これをどう見るのか。

たしかに毛沢東の造反派に対する態度をただ「利用」と見ない場合でも、その「社会主義」観、「民主主義」観はマルクス主義的、あるいはレーニン主義的ですらないスターリン主義的な性格を持っており、「新思潮」派のコンミューン路線とは異なるものである。さらには一九六八年以降の過酷な造反派弾圧の記憶は、「毛沢東の文革」をそれもまた一つの変革運動だったと見なすことはできないとする見方を当然生み出す。

だがそれをもって「毛沢東の文革」を「政敵粛清」を専らとしたものと見なすことは、事実の経過として、また総括の仕方、批判の仕方として誤りを含んでしまうことにならないか。


2.「政治連盟」か「相互利用」か

「二年(ないし三年)文革」の時期、造反派と毛沢東、中央文革とは一種の「政治連盟」の関係にあったと指摘したのは粛喜東であった。考えてみればこの指摘は文革総括にとってきわめて重要な問題領域である。というのは文革終息後、造反派は「三種人」として貶められ、摘発の対象となり、中央文革に至っては「怪物」(葉永烈)であり、何の積極性もないものとして、真剣な総括の対象となっていないからである。そしてそれらの見方は「文革徹底否定」論の不可欠の属性だった。

だが「二つの文革」論者にとって中央文革は一九六六年八月以降の「革命」の時期の記憶と結びついていた。今日、「毛沢東の文革」には厳しい彼らだが、造反派の運動と中央文革の活動とがある時期重なり、連携したことを認めている。そして中央文革の盛衰は文革のそれと結びついていたのである。

楊小凱

「ある人は文革のなかで造反派は人に利用されたのだという。しかし政治は従来も相互利用なのであり、毛沢東は造反派を利用し、ケ小平に言わせれば造反派のなかの『悪人』は毛沢東を利用したのである。私は『中国の春』に連載した回想録〔のちの『牛鬼蛇神録』〕のなかで実際の人物と出来事によって説明したが、当時たしかに頭の優れた右派が自覚的に造反派を利用していた。彼らは現在自分が頭がいいと思っている一部の人々の比ではなく、彼らはずっと造反派を利用して共産党に反対した。彼らが失敗したのは覚悟がなかったからではなく、毛沢東が造反派を支持して実権派に反対し、造反派が自分の利益から出発して毛沢東と手を組んで劉少奇、ケ小平を代表とする共産党の打倒を願ったからであった」。(「再談『文革』」)

劉国凱

「これら二つの筋道はそれぞれ独立した内容を持つと共に相互に交錯する要素もあった。

六七年早春の鎮圧反革命〔「二月逆流」〕、六八年の夏季大鎮圧、これらは当局側の道筋そのものであった。『反経済主義、『文革新思潮』、これは人民の道筋独自のものだった。『ブルジョア反動路線批判』、『一月革命』、六七年暮春の『名誉回復』〔「二月逆流」による弾圧からの〕等は二つの道筋が交叉した産物だった。文化大革命の四つの特徴はその外在的表現であり、二つの道筋はその内容だった」。(「三年文革与両條綫索」)

王希哲

「人民の文革には潜在的な発生過程があった。一九六九年の中共『九回大会』の前では『人民の文革』と『毛沢東の文革』とを分けることはきわめて難しいことであった」。(「訪中国民運の先駆者王希哲」)

鄭義

「軍隊の上層部は一方では中南海で毛沢東と争い〔「二月逆流」〕、他方で全国的規模での血なまぐさい造反派鎮圧を開始し、四川省だけで数万人の多くが逮捕されている。この生死にかかわる重大な時期、毛沢東と民衆は困難を共に切り抜け、運命を共にする関係を客観的に取り結んでいた」。(「両个文化大革命雏议

このように彼らは「相互利用」論の鄭義を含めて「人民の文革」と「毛沢東の文革」との関係をただ相互に外的なものの「相互利用」であったとは見なしていない。だがそれではその関係は何だったのかという問題をほり下げることはしていない。「毛沢東の文革」の文革を「政敵粛清」と見るかぎり、双方を関連づけられないのである。

だから決して解放的なものではなかった「毛沢東の文革」を「人民の文革」に関連づけるためには、双方が同質であったということ以外の条件を見つけ出し、設定することが必要となる。
 われわれの考えでは「毛沢東の文革」もまたその全過程が均質なわけではなく、対抗勢力との関係、文革派の主体的条件の変化、等によって、一つの頂点に達したり、沈滞したり、混迷したりという帰趨をたどると見ることによってそれは可能となるのではないのか。運動の質的変化という概念を導入するということである。

「二年(ないし三年)文革」期、その運動は一つの頂点に登りつめ、そこで「人民の文革」的要素と交叉し、交錯したと見ることもできよう。劉国凱のいう「ブルジョア反動路線批判は〔……〕、文革造反派の輝かしい一頁だった」の時期である。自分と同質でないから「悪」だとすることは、異質なものとの協同と対立が政治の世界であることを見失っているだけであろう。

しかし「上海一月革命」をへて、とりわけ一九六七年二月の「二月逆流」以降、それはまた次第に乖離していく。

 

3.「走資派」論

 文革をどう見るかの重要な判断指標の一つに「走資派」論がある。「文革徹底否定」論は当然そんなものは存在しなかったという。

毛沢東は「官僚主義者階級」、「官僚層」等の言い方をへて、最終的には「走資派」という表現を選んでいる。

文革綱領「十六条」が「今回の運動の主要な対象は、資本主義の道を歩む党内の実権派である」と謳い上げ、一九六七年五月の『紅旗』、『人民日報』の共同社説が「社会主義社会において、とくに生産手段所有制にたいする社会主義的改造が基本的に完成されたのちに、階級と階級闘争がなお存在するかどうか。〔……〕プロレタリア階級独裁の条件のもとでも革命を行なう必要があるかどうか。誰に対して革命を行なうのか。どのように革命を行なう」についての重要な寄与であると称賛したこの「走資派」規定には、しかしある後退がある。

というのは当初「官僚主義者階級」という表現で、社会主義社会での官僚制というトロッキー、ジラス以来の難題に取り組んだかに見えて、すぐさま再び「ブルジョアジーの代表者」という安易な、あるいはスターリン主義的な規定に逆戻りしたからである。

造反派はその「社会的衝突」論からいっても官僚主義の問題には敏感であり、彼らの劉少奇批判もそこにあった。楊曦光の周恩来=「赤色ブルジョアジーの代表者」論がそれであり、彼らはその打倒を主張した。

だが毛沢東による造反派弾圧や、「上山下郷」先で「走資派」に接したりするなかで、彼らの「走資派」認識は次第に変化する。楊曦光も自分の周恩来評価がその後何度かブレたことを認めている。そして「李一哲グループ」はもはや「「赤色ブルジョアジー」論や周恩来打倒を主張はしなかった。

王希哲は自分が次第に劉少奇、ケ小平ら「走資派」を「ブルジョアジーの代表」としてではなく、中国社会主義の民主化にとって、毛沢東勢力と比べて「よりまし」な政治勢力と考えるに至ったと述べている。それは「走資派」にも十分責任ある中国社会主義の抑圧性の容認ではなく、それを実際にどう変えるか考えたとき、毛沢東の道はそれに繋がっていないと考えたからであり、すでに「中国コミューン」は掲げられず、「社会主義の民主と法制」が主張されている。

「李一哲グループ」のメンバーであった龔小夏は今日、毛沢東のいう「走資派」とは異論派、自由主義的指導者であったという。

「毛沢東は従来トロッキーやジラスのようにあれら共産党内の官僚集団を人民を搾取、圧迫する新階級と見なしてはいなかった。彼の『走資派』あるいは『党内ブルジョアジー』に関する指摘は、まず自由化傾向あるいはその嫌疑をかけられた共産党の指導的幹部を標的にしており、そこには彼の政敵および党内で彼に不満を抱く人々が含まれていた」。(「文革及毛沢東的偽激進主義意識形態」)

今日、「新左派」も「走資派」論について自らの見方を提出している。
「本来、毛沢東の文革の対象は『党内走資派』であった。しかし、『党内走資派』、『党内ブルジョア階級』の類の言い方は正統マルクス・レーニン主義の『言語構造』にその合法的位置がなかった。そこで『党内走資派』は往々やむを得ず社会上のブルジョア階級、小ブルジョアジーの『党内の代理人』と言いならされてきた。すると真の文革対象――党内官僚集団はしばしば『地、富、反、壊、右』と知識分子に打撃を与えるやり方に闘争の大方向を転移することになる。王紹光の研究によれば、文革最初の五〇日のとき、各級の指導者は往々にして文革を『第二の反右派闘争』として行なっている。湖北省の省長張体学の一つの話は湖北省の秘密にふれている。『われわれすでに三家村を放り出したが、再び何人かを自発的に放り出せば、省委員会に問題はなくなる』。こうして見ると、『旧言語構造』が文革の誤まった指導の一端だったのである」。(崔之元「毛沢東文革理論的得失与『現代性』的再建」)

「文革中の『ブルジョア階級』という言葉は三つの意味で使われた。第一は解放前のブルジョア階級の残余であり、第二にそれは人の政治的態度、行為、あるいは『階級的立場』を指すこともできた。第三に最も厄介でもあるのだが、それは党内官僚集団を指すことも可能だった。第三の意味での『ブルジョア階級』こそ毛沢東の真の文革対象だった。しかし毛沢東はいまだ正統マルクス・レーニン主義の『言語構造』を徹底的に切り離していない結果、各派の勢力に自分らの利益によって『走資派』という言葉の意味を操作する十分な余地を残し、最後には各派の闘争の結果が彼の発動した文革の本意に反することになったのである」。

「毛沢東が正統マルクス・レーニン主義をいまだ徹底的に乗り越えていないことを示すもう一つのことは、彼の文革理論が過分に『ブルジョア的権利』の概念に依拠し、それを『党内ブルジョア階級』の社会経済的基礎と見なしていたことである。〔……〕しかし単に『ブルジョア的権利』の角度から『党内走資派』を見るのはきわめて狭隘である。この見方はただ収入、分配上の差別に注意するだけであり、根本的問題、すなわち『党内走資派』あるいは官僚集団の生産過程と生産手段への支配に注意していないのである。さらに大事なことはただ分配上から『ブルジョア的権利』に着目する理論は『後ろを見る』理論であり、それは経済制度の建設的な創造を計画する上で文革を大きく妨げた。その結果、『打ち破るを掲げて、建設がなかった』という結果になったのである」。

なかなか興味ある文革総括の一視点である。文革が「経済制度上での大民主」を創出できなかったというのは毛沢東文革理論の核心、文革総括の核心にふれる問題であるからだ。
 その上でよく分からないのだが、「走資派」論の曖昧さによって「『地、富、反、壊、右』と知識分子に打撃を与える」やり方を許したということによって、崔之元は本来の文革対象である「党内官僚集団」との闘いはどうあるべきだったといっているのだろうか?それは「敵」ではなく、本来「人民内部の矛盾」として対応すべきことだったというのだろうか? 

この問題に関連して粛喜東はこう述べていた。

「「文革の意義をさらに全面的に総括するに当たって、われわれは『人民内部の矛盾を正確に処理する』という範例に立ち戻り、文革を人民内部の矛盾を処理する方式を見つけ出す大胆な試みと理解しよう。……文革を人民内部の大民主を行なう大胆な試みと見るか、あるいは人民大衆が『官僚主義者階級』を打ち倒す政治大革命と見るかがキーポイントなのである」。(「一九六六年的五十天:記憶与遺忘的政治」)

つまり文革での「官僚集団」との闘争は「人民内部の矛盾」として処理すべきことだったと言っているようにも思われるのだが、しかしここにはかなり厄介な問題がある。毛沢東の「走資派」批判は異論派としての劉少奇、ケ小平への誤った批判だったのか、それとも彼らは打倒されるべき抑圧的官僚層だったのかという問題は今日なお明快な回答はなされているわけではないからである。

ところで龔小夏は崔之元の主張についてそんなことではないのだという。

「文革中、大量の決して『走資派』ではない普通の人民が残酷な政治的迫害を蒙ったのは、崔之元が〔いうようなことではなく〕、毛沢東は根本的にいかなる独立した政治思想と政治批判にも存在する権利を与えず、多年わたる政治実践においていわゆる「階級の敵」――とりわけ思想上の異論派――に対して不断に迫害を加えてきたのである。まさにこの種の政治的迫害をスターリン主義的政権下で合法化することによって、はじめて毛沢東は政治的対抗者を『ブルジョア階級』の範疇に投げ入れ、以来それによって彼らに迫害を加えたのである」。

「走資派」といわれた層が龔小夏がいうように異論派、自由主義的指導者だったとすれば、それを「敵」として批判し、打倒した文革は最悪のものとなる。そうではなく新たな抑圧的官僚層だったとすれば、それを「敵」として打倒したのは必ずしも間違いではないということになる。

これに関連して興味あるのは、「ブルジョアジーの代表者」と規定された劉少奇が、奇妙なことに党員としての倫理性を問われて弾劾され、自己批判を要求されたことである。彼は文革中三度にわたって「自己批判書」を書かされている。

ここには異論派と「敵」とを概念的に区別できない中国共産党の理論的欠陥が露呈しているのだが、同時にそこには異論派とも官僚層とも截然とは分けられない「社会主義的官僚層」の特質把握の困難さも示されていた。

劉少奇、ケ小平ら「走資派」とはそういう層だったわけであり、単なる「思想闘争」としての批判では、文革前に毛沢東が、北京は「針も通さず、水も通さぬ独立王国」だと愚痴ったように、封じ込められ、無力化されてしまう可能性があるし、また文革初期の「工作組」の対応が典型的に示したように、あらゆる内部的批判の動きに対しては党組織は強力な抑圧機関として登場するのであり、批判は大衆運動の動員をもってしなければ有効性を持ちえない。

だから毛沢東の「走資派」論、造反派の「赤色ブルジョアジー」論や大衆運動をもってする批判の展開がただ誤りだったかといえば、そこでは「社会主義的官僚制」の問題が感受されていたわけである。

しかしそれらの官僚制批判が有効性を持つには、それが「走資派」の社会的基盤を解体しうる「社会革命」的要素を持っていなければならなかったのだが、江青・張春橋グループの「新生事物」はそういうものたりえていない。理論次元では崔之元がいうように、その「ブルジョア的権利の制限」論(毛沢東、張春橋)ではそこをほり下げることはできなかった。

そして中国共産党と毛沢東に当初から根深くある異論を異論として見るのではなく、すぐさま旧支配層の残滓、反共勢力と見る傾向が全面化している。これらのことは文革後期、「走資派」層の道義性を回復させる要因となっている。

 

4.毛沢東の「大民主」について

「新左派」崔之元、粛喜東らが毛沢東の「大民主」を「パリ・コミューン型原則」として高く評価するのに対して、「自由主義」の徐友漁ら、そして龔小夏は、それは毛沢東の路線への支持を大前提にしたものであり、真に自主的なものの承認ではなかったことを強調していた。

毛沢東の「生き生きした政治的局面」という有名な言葉も、決して異なる見解の対立と共同として自由な政治空間を意味しなかったように、それらの指摘は当たっている。王力によれば毛沢東は端的に「大民主はプロレタリア独裁を前提とする」と述べたという。そして中国共産党の「プロレタリア独裁」がいかなるものであったかを考えるとき、「新左派」たちの「大民主」賛歌はそのことの総括の上になされるべきであろう。

ただ注意すべきことは毛沢東の「大民主」はただ「民主主義の欠落」でなく、レーニン「プロレタリア民主主義」論にもとづく主張だったということである。今日、「民主主義の軽視」を非難されるレーニンだが、それはレーニンが反民主主義的思想の持ち主だったからではなく、その民主主義論は将来社会における「国家の死滅」、「政治の死滅」、従って「民主主義の死滅」という壮大な展望の中に位置づけられていたのである。そしてそこにこそ異なる意見の撲滅をはじめとする「民主主義の軽視」ないし否定の根拠がすえつけられていたのであり、それはつぎのような論理構造を備えていた。

「レーニンがここで言おうとしているのはつぎのようなころであろう。

そもそも『平等な権利』や『多数者への少数者の服従』、『少数者の保護』等の『民主主義』の根底にあるのは『共同生活の根本規則』のことなのだが、それが『民主主義』という制度形態をとるのは階級矛盾が存在しているからであり、『民主主義』というのは『共同生活の根本規則』の疎外形態なのだ。もちろんわれわれは『民主主義』を軽視しないし、汲みつくしていかなくてはならない。だが『民主主義』の実現が目的ではなく、階級の消滅する共産主義社会では『国家形態としての民主主義』は『死滅』し、『共同生活の根本規則』が社会を律することになるだろう。

ここでさきの引用個所の一つをふりかえってみよう。

『われわれは多数者に少数者が服従するという原則が守られない社会秩序の到来を期待しているのではない。しかし、われわれは社会主義をめざしながらも、社会主義は共産主義へと成長転化するということ、またそれにともなって人間にたいする暴力一般の、ある人間の他の人間にたいする服従の、一般住民の他の一般住民にたいする服従の必要はすべて消滅することを確信している。なぜなら、人間は暴力なしに、服従なしに社会生活の基礎的諸条件をまもる習慣がつくだろうからである』。

だがここにはある理論的飛躍ないし欠落があるのではないだろうか? そしてこの間隙から将来における『民主主義』の死滅の名による現在的な『民主主義』の軽視がしのび込むことになる」。(倉田洋『非抑圧的政治の再生へ』新世出版同人、一九九一)

スターリンはこの論理を援用して、「国家の死滅」のための「国家権力の最大限の強化」を主張した。

毛沢東の「民主主義は手段」という主張も同じ文脈でなされているものである。だからレーニン、そして毛沢東の「民主主義」論を真に批判するとしたら、その「プロレタリア民主主義」論、さらにはこれまでの共産主義論、その将来社会論そのものの点検が必要なのである。「政治の死滅」論的「国家の死滅」論を心情的、無批判的に保持したまま、「民主主義の軽視」を非難してもはじまらないのである。


5.「二年(ないし三年)文革」以外の時期は何だったのか

 一九六八年ないし六九年をもって文革は終わっているとしたとき、それではそれ以降七六年までの時期は何だったのか。そこでは文革前の中国共産党の統治の復活が行なわれたのか、あるいはその共産党による旧来の「政治運動」が展開された時期なのか。

 だが「二つの文革」論はこの問題について曖昧であり、そこにはその論としての未熟さがあるように思われる。

なぜこの問題をテーマとして成立するのか? 「二年(ないし三年)文革」期以降も「走資派」権力が復活したわけではなく、粛喜東がふれたように一連の運動が続いている。それはもはや「六六年八月以前および六八年八月以後、政治運動の操作方式はこれらの特点を備えておらず、文革前一七年あるいは七六年以後の方法と大同小異だった」としてもである。

とりわけ毛沢東が文革本来の課題としていた「闘・批・改」(「闘争・批判・改革」)段階での「教育革命」をはじめとする中国社会各領域での「改革」の試みが始まったのは一九六九年以降である。

江青・張春橋グループによって「社会主義的新生事物」して大宣伝されたそれは、真に大衆的な創造物というより、「新興勢力」と表現された彼らの党派系列の者たちがヘゲモニーを握れば「革命的」というようなもので、のちにケ小平の「整頓」によって鋤き返されてしまうような底の浅いものでしかなかったが、「二つの文革」論者たちが総括問題としてもほとんど関心を示していないのはやはり彼らの弱点だろう。

「新左派」は少なくとも「鞍鋼憲法」の再評価を語り、「経済制度上の民主的制度」の未達成が文革失敗の一つの要因となったとすることによって、彼らなりの文革「闘・批・改」と「新生事物」の総括を深めようとしているのである。

しかし以上のようなことはさておいても、造反派世代が毛沢東路線の対象化、相対化、そしてその圏域からの自立の歩みを始めるのは、彼らにとって重要な世代経験となった「上山下郷」、林彪事件(「五七一工程」文書での文革批判の衝撃を含む)などを含めて、「二年(ないし三年)文革」のあと、すなわち彼らが文革から除外した時期においてなのである。

この時期を文革本来の特質が失われた平凡な時期として考察の対象から除外するのはやはり貴重な苦難の経験の浪費だろう。

一九七六年一〇月、江青・張春橋グループの打倒とその後の全国的な文革派勢力の掃滅が行なわれ、さらに徹底した「三種人」の掃討がなされたということは、「二年(ないし三年)文革」が消滅して以降も文革あるいは何らかの変革が続いていたことを意味する。それは造反派内「極左派」や「新思潮」によるコミューン革命路線ではなかったが、「走資派」の復活、旧来の共産党統治への逆戻りとは明らかに異なるものであった。

「二つの文革」論はコミューン革命路線以外の「革命」路線を対象化する力量を、当時の渦中ではともあれ、現在の総括論議においても持ち合わせていなかったようであり、だから毛沢東と江青・張春橋グループによる「闘・批・改」と「新生事物」、「批林批孔」、「批ケ反撃右傾翻案風」運動等にはほとんど関心を示していない。

また意味は異なるが、歴史に同じような現象は起こっており、たとえば旧社会に対するスターリン時代の「革命性」、さらにはナチスの「革命性」というものはあったのである。(アレクサンドル・ジュノビエフ『余計者の告白 上・下』河出書房新社、一九九二、ヘルマン・ラウシュニング『ニヒリズムの革命』筑摩書房、一九七二、等を参照)

 

6.思想の継承での媒介性

 ここでの問題は毛沢東文革理論から造反派が相対的に自立していく過程についてである。なぜこのことが問題となるのか。それは「新左派」たちの毛沢東理論の見直し、「文革再評価」――それは「改革開放」のもとでの貧富の差などを基礎にしつつも、多分に西欧で摂取した新理論の応用、グローバリズムのもとで触発された民族主義、等を心情的な背景としているのだが――を文革の現実を知らない者たちの幼稚な論と批判しつつ、かっての造反派世代が軒並み、全否定に近い毛沢東批判を行なっていることに関連している。

彼らの世代が「二年(ないし三年)文革」期、毛沢東と中央文革の大きな影響のもとで運動に関わり、毛沢東文革理論を読み込み、読み替えるなかから「新思潮」への歩みを始めたにもかかわらずである。

そこには一九六八年以降の毛沢東による造反派弾圧がいかにも過酷だったことからくる幻滅がまずあった。そして運動の沈下したこの時期、彼等の間で「地下読書運動」が盛んとなり、そこでマルクスの原典をはじめとして毛沢東理論以外の世界の左翼思想を大量に摂取されている。それは毛沢東思想の対象化、相対化の始まりを意味していた。

宋永毅によれば、文革後期、青年世代のかなりの層に「異端思潮」の大衆的基礎が作られていたが、「毛沢東思想」から「異端思潮」へのこの転化を準備した一つはこの「地下読書運動」だったという。(「文化大革命和他的異端思潮」田園書屋、一九九七)

彼らはこうして文革、さらには中国革命そのものを新たな目で見直し始めている。王希哲の、毛沢東を「農民革命」の指導者として見れば傑出した指導者だったが、プロレタリアートの党、共産党の指導者として見るのなら、「毛沢東にこの領域での貢献はあったか? ない、一点といえなかった!」という言葉はその代表的な一つであった。

「ウラジミール・チトーがこの世を去るとき、彼はユーゴスラヴィア人民に繁栄の自治社会主義と労働者民主主義を残したが、毛沢東がこの世を去るとき、彼が中国人民に残したのは経済的崩壊と警察のテロルだった」。(「毛沢東与文化大革命」)

これらのことがほぼ全否定に近い毛沢東評価の底にあったのだろう。こういう思想は滅び去るべきだというのが、彼らの実感であり、それはわれわれにとっても分からぬことではない、しかしそのことと彼らの「毛沢東の文革」、さらには毛沢東思想は当初からダメだったという把握が正しいかどうかは別である。

この問題を考えるとき王希哲が「自分は毛沢東をその最高の可能性で理解しようとしていた」と述べていたことが印象的である。そして彼は「人民の文革には潜在的な発生過程があった」、「これは胎児が母親の懐で育つように、一つの過程なのであり」とも言っている。

つまりそういうことなのである。新たな思想がまったく自力で、純粋培養されるということはありえず、それは何らかの形で優れた先行思想を引き継いでいる。毛沢東のそれを読み込み、読み替えるなかから造反派の「新思潮」も形成されたのであり、現在の到達地平から古いものを全否定するのは事実として誤りというのみならず、自分らの思想の形成過程を対象化し、教訓化することを放棄することを意味する。

「毛沢東は正統と異端の二重性格を兼備していたが、その根源は一九四九年建国以降の社会主義社会での階級、階級闘争への二重の概念にあった。宋永毅の異端の分類に対してここで強調しておくべきことは、宋永毅の文章が列挙している文革三大極左思潮(『新生官僚特権階級の打倒』、『旧国家機関の粉砕』、『階級関係大変動論』)は実のところ均しく毛沢東およびその文革グループに直接源を発しているのである」。(雲林「文革異端的判別標準」)

同じことを粛喜東、芦笛も述べていることを先にふれたが、新たな思想はそれを組み替える(それは時にはその部分的廃棄も含むだろう)ことを通して可能となったのである。

 

7.「人民の文革」の総括

 文革終息後、「反思」という言葉が流行した。「反省」とややニュアンスの異なるこの表現は、「新語辞典」によれば元々は哲学用語だったが、今は「往事のことの得失是非をふり返り、そこでの教訓と経験を総括し、認識する」という意味で用いられている。

だが「二年(ないし三年)文革」を民衆が共産党の恐るべき秩序に抗した「革命」と見る彼らは、「革命」を反思しようがないではないかという。

「われわれが誠実な態度で革命を反省するのはいいことだが、しかし私はあのような中国共産党当局による造反派迫害を基礎にした文革への反思を受け入れることはできない。革命への反思といえば、私には身体で感じ取った重要な何点かがある。第一点は共産党の秩序は革命の中の無秩序より恐るべきものだということである。第二点は共産党による系統的な政治的迫害は、秩序が保持されているときは人々にわざと忘れたふりをさせることができたとしても、人々はもはや儒家の思いやり、弱者の保護という原則を信じてはいず、こぞって迫害者を侮っている。というのは共産党の秩序なるものは、迫害を蒙っていない者、迫害された者への傍観者までもを差別するものだからである。しかし人々はこれらの迫害を本当には忘れていないのであり、だから一旦政治的支配が緩むや迫害された者たちはすぐさま革命愉快症となって爆発するのである。「六・四」時の学生たちが自分たちは平和的、非暴力的なのだと述べたとき、彼らは革命が一旦真に爆発するや、その結果は誰にも止めようがなくなる可能性を決して分かっていなかったのだ」。(「再談『文革』」)

ここには「革命」を経験した者のリアルな権力観がある。同時にそこには彼ら「コミューン革命」派をもとらえていた「革命」を「改朝改代」(王朝の交代)、「階級関係の大変動」、「財産と権力の再分配」と見る中国左翼の「革命」観の面影も伝わってくる。その上でこの「革命」に関わった者としての反省、総括はなされているわけだが、興味あるのは彼らが「文革徹底否定」論が人々に広範に受け入れられたのは造反派の運動の欠陥の故でもあったと認識していることである。

 

 王希哲――「各派間の民主」の問題が提起された

 「プロレタリア文化大革命以来、階級闘争の反映である各派間の闘争の経験は、新しい問題の研究を望むマルクス主義者の面前に、各派間の民主を突出した形で提起した。なぜならこの双方はいずれも民主的権利を持つべきだからである。一つの派が別の派を圧迫したのではうまくいかない。この種の後遺症は今なお少なくなったといえるだろうか?

ここでわれわれは理解するのだが、革命の隊列内部における、現在ではいわゆる『潮流派』と『反潮流派』の間の、過去においてはあのような圧迫と被圧迫との間の、甚だしくは鎮圧と被鎮圧の関係を、団結にもとづく批判と反批判の関係に変えるのでなければ、階級的民主は存在しえないのである。人民民主独裁が各派間の独裁に変質するならば、その独裁的な党派がたとえ『正しく』とも、広大な人民大衆を団結させることはできないのであり、それが誤っているときはまさしく社会ファシズムの始まりとなる」。(「李一哲大字報」)

 日本での党派間対立を考えるとき重要なこういう認識が、一九七四年の時点ですでにあったわけである。

楊小凱――「文革徹底否定」には「民意の基礎」があった

「実際のところ、彼らは中国共産党が維持してきた一七年間の暴政、各級官僚による政治的迫害と経済的搾取に対して反抗し、報復したのである。それに迅速に出現した大衆組織のなかにはある社会集団の利益を鮮明に代表する労働組合に似た一部の組織があった。たとえば『全国紅色労働者造反総団』(簡称『全紅総』)は契約工、臨時工が闘い取った経済的利益を鮮明に代表する造反組織だった。〔……〕概していえば、造反派大衆組織の発生は萌芽的な人権意識の要素をはらんでおり、それは正義性を具備していたのである。

しかしそれではいかなる原因が理性を備えた組織を迅速に暴力へと向かわせ、自己と他人と社会に重大な災難をもたらしたのか? ケ小平復活後の中国共産党が『文革』を全面的に否定したのは、これらの組織と造反が発生した所以である正義性を覆い隠すためであった。彼らは各々自らの『十七年の暗黒』を持っていたのである。

だが否定できない事実は、『全面的否定』には相応の民意の基礎があったことである。その根本的原因は造反派の行為の社会的結果への民衆の幻滅と嫌悪であった。そしてこの感情は今に至るも共産党当局によって、真の民主政治、政党政治と自由に反対するのに利用されているのである」。(楊建利、楊小凱「身体自由脳袋不自由――『文革』中『結社自由』的性質、教訓及対未来民主憲政的啓示」)

「従って、われわれは『文革』中の『自由』の本質を正確に把握しなければならず、造反派の行為方式に対する詳細かつ徹底的な分析と自己批判をしなければならない。そしてこれらの分析と自己批判はかっての造反派の良心の呵責というより、自己自身が未来に向けて提出する戒めと期待なのだ」。

「造反派はその発端において正義性を備え、萌芽的人権意識を持っていたとはいえ、根本的には『毛沢東』の枠組みから超脱できていず、すべてのことの最終的決裁者は『毛沢東』であった。その発端が左であれ右であれ、人々は皆やむを得ず思想的には左に寄ったのであり、行動上左翼的であることを競い、完全に毛沢東の左の穴に落ち込み、さらには毛沢東より左翼的であろうとしたのである。だからそこでは共産党イデオロギーからの独立は生まれず、さらに明確な民主的憲政思想が育つこともなかった」。

「造反派が一定程度自由思想を持っていたとしても、それは消極的意味での自由思想ではなく、積極的意味でのそれが主導的地位を占めていた」。

楊小凱らはここで積極的自由の追求は独裁を招来し、消極的自由の追求こそ民主主義への道だというバーリン「自由論」(みすず書房、一九七一)を援用しているわけである。


鄭義――「第二の文革の敗北の歴史的必然性」

鄭義は「第二の文革の敗北もある種の歴史的必然性を持っていた」として、つぎの二点を上げている。一つは造反派運動がおおむね「毛沢東の呼びかけに応じて」、「奉旨造反」という形を取ったことの諸結果であり、もう一つはそれがたちまち激烈な「内戦」となったことである。

毛沢東の名を用いての「奉旨造反」は当座はきわめて大きな効果を発揮し、闘争の発展に有意義に見えるが、しかしそれは大きな危険をはらんでいるという。

「プロレタリア独裁の名で毛沢東を奉じることは、きわめて厳密に編成されている専制主義の虚言の網の目に絡め取られることになる。もし無自覚に利用したのであれば、それはわれわれの思想を束縛し、虚言を持って真実とし、偽りが本当のこととなり、虚言の欺瞞を強めることになる。たとえ自覚的に利用したとしても、それはわれわれを自縄自縛に追い込み、歴史的チャンスが真に到来したとき、すでに腐敗した政治的枠組みを乗り越え、真に民主的な要求を提出することを困難にしてしまうのだ」。(「両个文化大革命雏议」)

「民衆と『皇帝』との関係の他に、民衆内部の関係もまた研究に値する課題である。ここには避けてはならない問題がある。第二の文革(すなわち人民の文革)は人民と共産党の大小の貪官汚吏との闘争であるのに、どうして激烈で残酷な内戦が各派大衆組織のあいだに爆発したのか?

中国共産党の『十七年』の暗黒統治を弾劾し、官製組織と各級の共産党機構を攻撃していた時期では各派の造反派組織は大体のところ協同一致していた。不幸なことに、奪権が始まり、真空になった権力を補填し権力を再分配する局面に直面して、造反派の分裂は滅ぼすか滅ぼされるまで闘うことを誓った両大派の対立となり、長矛大刀から機関銃、戦車の各種の武器を用いた血戦が始まった」。

「第二の文革は疑いもなくある種の民主的色彩を備えていたが、しかしそれは現代的民主制度を建設することを試みるには程遠かった。打倒は制度の転換ではなく、造反は取って代わることを意味した。権力構造の問題を根本的に解決するのでなければ、権力の争奪はまずわれわれ自身を内部から打ち砕くことになる。恨みを晴らすではダメであり、造反打倒ではダメであり、王朝の交代的な取って代わるではダメなのである。それは自由への道ではなく、それにそれら無原則的な権力闘争は人民に多大な苦難をもたらしたのである。これがすなわち一般民衆にもまた『文革徹底否定』の傾向がある一つの原因なのである」。

 このように彼らは「人民の文革」に無批判的なわけではなく、その反省、総括を進めているわけだが、ここでは思いつく二点を指摘するにとどめよう。

 その一つは、楊小凱、鄭義の総括を見るとき、先にふれた中国左翼の通弊たる「改朝改代」、「財産と権力の再分配」という「革命」観への反省、総括がなされつつあると感じられることである。この「財産と権力の再分配」という言葉は毛沢東が『戦国策』について語った中にあったものを江青がその講話「人民のために新たな手柄を立てよう」で引用し、当時、造反派紅衛兵たちに甚大な影響を与えたものである。「コミューン革命」論はその種の「革命」観の転覆であったのにもかかわらずである。

 一方、にもかかわらずその「コミューン革命」論が「社会革命」論としてほり下げられていないことである。それはたとえば先に見たように「闘・批・改」期の「社会主義的新生事物」への無関心に示されている。

 しかし造反派紅衛兵世代や「新思潮」派にこの問題領域への関心がなかったわけではなく、彼らは自ら「社会調査」を行なったり、臨時工・契約工の運動に関わったりしてきた。

だがそれらは弾圧され、また江青・張春橋グループの「新生事物」への反発もあってそれを深めていないということなのか?

 

五、今後の検討課題――「告別革命」論をどう見るか

 

 さて、「二つの文革」論者たちは「毛沢東の文革」を批判しつつ、そこから「人民の文革」を分化させ、そうすることによって自分ら造反派の運動を救済し、今日の「民主化」運動に繋げようとしている。そして「人民の文革」も無傷だったわけではなく、毛沢東崇拝からの脱却の過程、とりわけ悲惨な造反派間武闘について反省、総括しようとしている。

だが彼らの前に一つの強力な論点が持ち出されている。すなわち「告別革命」の主張である。

戊辰変法(一八九八年)のあと、二〇世紀に入っての中国は、辛亥革命(一九一一年)、国民革命、そして中国革命(一九四九年)と三度にわたる革命を行なってきた国である。とりわけ五・四運動(一九一九年)以降、革命、それもマルクス主義的な意味でのそれが体制批判者たちにとって追求すべき第一義の課題となり、そして当然一九四九年以降は、革命は疑いを許さない絶対的価値であり、くり返し想起すべき栄光の事跡となった。

 その中国でついに革命を否定する言説が登場したのである。民主派知識人たちの一部による「告別革命」論の提起である。李沢厚、劉再復の対話録(『告別革命――回望二十世紀中国』天地図書、一九九五)の表題に用いられたこの言葉は以後人口に膾炙し、それへの賛否両論がインターネット論壇を賑わしている。

その背後にあったのはいうまでもなく文革体験であった。ケ小平とそれ以降の中国共産党当局は建前としてはマルクス主義と革命を保持しつつ、「文革徹底否定」大キャンペーンによってそれを空洞化させていく。そして一八九八年の「六・四」運動(天安門事件)、それを前後するソ連・東欧の崩壊のなかで、国際的なマルクス主義と革命への否定の流れが中国にも波及したわけである。

「告別革命」論に先立って二〇世紀中国の革命経験をふり返る論議が始まったのは一九九〇年代の「急進主義」批判である。それはまた「六・四」運動の総括でもあった。だがそれらとは別に紅衛兵世代のもう一つの総括作業が進行していた。その代表的なものとして楊小凱の革命批判がある。

楊小凱が革命の否定的問題性にふれた「中国政治随想録」を書いたのは一九八七年であり、「六・四」の前である。つまりそれはソ連・東欧解体以降の全世界的な社会主義と革命の権威失墜の前であり、楊曦光にとってそれは文革総括の一端だったわけである。今日、楊小凱は自らの「反革命」としての立場を部分修正している。

「現在、私はこの観点を修正しようと考えている。というのは革命理論にもその合理性があるからだ。〔……〕革命は総じて統治者に対する一種の威嚇である。この威嚇がなければ政府の人民への奉仕の承認も信じがたい。威嚇があってはじめてその行為も物事の筋道から大きく外れることができなくなるからだ」。(向継東「革命与反革命及其他――奥州社科院院士、経済学講座教授楊小凱訪談録」)

楊小凱は「革命権」を再確認したわけである。

「二つの文革」論との関連でいえば、「告別革命」論の主張は、文革の失敗はそれが「毛沢東の文革」だったからだけでなく、「革命」そのものの問題性なのだということになる。ということは「人民の文革」もまたそれを免れないことになる。

「新左派」たちの一部はすぐさまこの「告別革命」論に噛みついている。

「一つの幽霊、革命よさらばという幽霊が中国を徘徊している。一つの声、革命よさらばという声が中国に木霊している。それらをちょっと聞いてみよう。

孫中山は二十世紀中国の乱臣賊子である。辛亥革命は巨大な歴史的悲劇であり、中国の憲政への道を閉ざしてしまった。

毛沢東は李自成と始皇帝を足したものであり、中国革命は根本的に一つの歴史的誤解であって、日本の侵略が中国革命の成功の機会を与えたのであった。

一九六八年五月、パリの街頭に流れたあの鮮血こそ革命の太陽が歴史の天空に投げかけた最後の残照だった。〔……〕

一九九〇年代の中国はもはや二〇余年前のあの中国ではない。すべてのものはただ形式上禁止されるが、個人的交流の場に持ち込まれることを誰も禁ずることはできない。こうしてこの何の論証も必要とせず自然に成立した命題が中国に流伝し、それが広まる速度は比べようのない伝染病そのものだった。

ここ数年、人々が皆喜んで受け入れた有名な言い方は『中国は絶対乱れてはならない』であった。

ここで教授先生たちはいう、革命よさらば、中国は混乱してはならない。民主人士たちはいう、革命よさらば、革命はただ専制をもたらすだけである。社会のエリートたちはいう、革命よさらば、革命はただ富を奪い、貧者を救うだけである。青年学者たちはいう、革命はただ流血の犠牲をもたらすだけである。官位に就いた貴人たちはいう、革命よさらば、安定が一切を圧倒する。……革命よさらば! 革命よさらば!」(粛武「革命死了、革命万歳!――為革命申弁」)

 それでは「二つの文革」論者たちはこの問題にどういう態度を取ろうとしているのか? それがつぎのテーマである。


追悼:この7月7日、楊曦光死去とのことです。55歳(あるいは56歳)。 ネットに元造反派たちの追悼がたくさん流れ、劉国凱、王希哲らが弔辞を書いています。

(編集部)