世界資本主義、国際階級情勢の段階規定について

                           大野 浩一

はじめに

 

われわれは、今日の情勢をどのように段階規定するべきなのか。

これまで、「ロシア革命から出発した永続革命の第2段階の後期」という世界革命の推移の段階規定をしたことがある(196070年代において)。この規定の方法と別に、70年代に入って、「戦後第2の革命期」という規定をしたことがある。その経済的側面の規定は、「構造的停滞期への突入」(労動力商品に対する資本の過剰を根拠とする)というものであった。

これらの規定は、前者については、八九年のベルリンの壁の崩壊に象徴される歴史的事件を中心とした「社会主義圏の崩壊」によって、段階規定を改めるべき事態を突きつけられた。後者については、八〇年代に入り、資本主義は危機を脱出し、政治社会秩序を再編成した。結果的には大戦直後の「戦後第一の革命期」より浅い革命期として終焉した。結果的には、ヴェトナム革命とイラン革命が起こった。前者は、戦後第一の革命期の延長としての性格が強く、また、後者は宗教色の強いものであった。プロレタリア的質をもつ革命運動は、階級闘争が激化した程度で、結局は起きなかった。

 その当時から、世界資本主義の現段階を「病める都市と沈み行く農村」として捉える観点があった。これは単なる帝国主義腐朽論(あと一撃論)ではなく、世界資本主義の現代おける本質を表現しようとしたものであった。われわれが革命期と規定する方法として、次のような過程を重視した。政治過程は、政治的社会的秩序の「安定期」、「動揺期」、「再編期」の過程をくぐること、そして、この「再編期」を革命期として規定したのであった。その深さは、もっぱら、資本の力の強弱の規定されるものであるとした。

今日的反省として、この「再編期」=「革命期」という規定は、言葉の厳密な意味で、内容を表現するに不十分であるばかりか、不要な混乱を生み出す問題点を含んでいる。すなわち、「革命期」という規定は、広くは革命が可能性として含まれる階級闘争の段階であるという内容であるが、狭くは、階級支配の打倒を目的とする階級闘争の段階であるとい規定とも取れる。これは、党の内部において、戦力的視野として、革命を視野に入れて戦略的に構えるという観点から、その限定的意味を明らかにしての内部確認として意味のある規定とする場合は、あまり問題はないであろう。しかし、大衆的に表明されるとなると、現在直下の運動に影響を与える現実的性格を付与される。この曖昧さは、主体に跳ね返る。そして、いつのまにか革命そのものを展開するべきだとか主張する人々が出てくる。闘争の面からは、単純に内乱の時期だとつんのめる傾向や、逆に情勢に対して、労働者の側の内部には革命の直接的雰囲気は無いとして、革命期そのものを否定し、組合主義に陥るなどなどが混濁して、戦略戦術上の混乱を生み出す結果となった。

われわれは、七十年代前半、内部における戦略論論争を「革命期前期における革命的階級形成の時期」という規定においてまとめるという過程があった。階級形成の内容をさらに一歩進めて、政治支配能力の獲得へと進めるべきだという考え方である。しかし、先に述べた諸傾向は、克服されないまま、小ブル急進主義グループが生み出された。この反省を踏まえて、次のように整理したい。

 「再編期」は、「階級闘争の激動期」として捉えるべきであろう。労働者人民のゼネスト・評議会運動の前進を勝ち取ることを大衆運動として高揚させることを目指すべきであろう。そして党の戦略的環としては、「革命的階級形成の時期」とし、階級支配を前提とした階級闘争から、階級支配の転覆へと向かう過渡をなす時期において、政治支配能力の獲得へむけて先進的準備を進める時期なのだととらえるべきであろう。そして、大衆運動に向けて表明するものとしての「革命期」という規定は、階級支配の転覆が現実的となる時期にたいして規定されるべきであろう。

  今日、上記の反省過程をくぐって世界資本主義の現段階をどのように規定するべきであろうか。

 

(1)先進資本主義における新たな貧困、開発途上国の深まる貧困

1905年ロシア革命以降の「社会主義」を一部に含んだ2度にわたる帝国主義戦争(第2次大戦は反革命階級同盟を含んでの帝国主義戦争であった)は、その結果として、「社会主義圏」を生み出し、「東西対立」という横の関係のなかに、資本の反革命階級同盟と労働者人民と社会主義圏との連動とが縦に対立するという国際関係を生み出した。すなわち、現下の階級闘争の結果としての社会主義圏として、国際的階級関係を縦に含んだ横の対外関係という構造において、「東陣営」と反革命階級同盟という2重構造を持っていた。したがって、国際関係が国内階級闘争に作用し、また反作用するという構造であった。

  1989年ベルリンの壁崩壊に象徴される「ソ連・社会主義圏」の崩壊により、国際関係は、資本の側に一見有利に見えるように変化した。国際関係(対外関係)が国内階級関係に反作用する結果となり、労働にたいする資本の側の力が強まった。すなわち、「資本主義の勝利」、「社会主義の失敗」と、資本主義的市場経済を絶対視する傾向が一挙に拡大した。このことの結果として、国内階級関係に関していえば、資本に逆らうべからず、市場経済以外に選択肢はないのだと、傲慢な姿勢に打って出た資本の力を強くする方向に振れることとなったのである。世銀・IMF等による「ワシントンコンセンサス」は、1905年ロシア革命以来の「資本主義と社会主義の競争」(本質的には後進国1国から開始された世界革命の出発から、先進国後進国を貫いて全世界を変革するまでの過程としてつかまれるべき歴史的対立の表面的つかみ方である)に対する「歴史的勝利」として、市場経済万能の考え方で、のちに「新自由主義」と語られる方向を示した。

その特徴は、金融緩和、国営企業の民営化、財産権の承認にあった。

「ワシントンコンセンサス」路線は、特に中南米において、融資条件の強制による経済混乱、貧困の増大によって、失敗であることが表面化し、「ポストワシントンコンセンサス」となる。ここには、「新自由主義」に反対する「社会経済」や「連帯経済」の考え方が生み出される。グローバリズムが、先進国の多国籍企業中心の論理であることに対する対抗として、「ブエノスアイリスコンセンサス」が登場した。市場経済を全般的制約としつつ、部分的に社会経済、連帯経済などのいわゆる「共生経済」を内包するという構造である。教育、福祉、保険の重点をおき、失業対策を強める政策が、公的、私的セクターと別に第3のセクターとして、共的セクターを制度化し強化する方向で進められている。

 「ソ連・社会主義圏」における、スターリン主義的権力支配と経済的停滞の崩壊は、同時に中国、ヴェトナムの解放経済路線を生み出し、資本主義的経済が取り入れられた。

「社会主義に対する勝利宣言」を、労働者に対する資本の永遠化宣言としても謳い上げた歴史的な階級関係の変化、それは、とりもなおさず資本の利潤率の上昇を期待するものであった。先進国の株価は急上昇した。慢心した資本主義は、資本の露骨な本質、社会の発展のために資本があるのではなく、資本にとっては資本の再生産こそが究極の目的であること、この本質を臆面もなく表面化した。しかし、この表面的なお祭り騒ぎとは別に、この背後に先進国資本主義の構造的矛盾はより深刻に進んでいた。すでに、1970年代より始まり、85年には大問題となってきた資本の過剰、すなわち、利潤率の低下により再生産過程に投入されない過剰資本が世界中に溢れていた。アメリカ、日本に代表されるバブル現象は、それ以前の、労働力商品に対する資本の過剰という状況を、資本の力を強化する力関係の変化を期待することが可能と思われる歴史的政治的事件をきっかけにはじまったのである。実経済が好転するという期待を背景に、投機的なマネーゲームがひろがり、そして急速に破綻する。これは、資本主義が構造的限界に突き当たっていることを改めて示していた。すなわち、労働力商品に対する資本過剰は、早々簡単には解決されないのだという壁にぶち当たってバブルははじけた。これは単に、強欲資本主義という批判によって解決される種類の資本の側の倫理問題ではない。先進国における巨大な富の集積と他方貧困国、破綻国家における圧倒的貧困と飢餓が問題であり、グローバリズムの名の下に進められた多国籍企業化と、それに起因し規定せれる労働市場の国際的緊密化による資本の力の強化と、構造的停滞、すなわち労度力商品に対する資本の過剰を原因とする停滞がかさなり、「雇用の拡大なき景気回復」と言う言葉に象徴される慢性的高失業社会が生まれている。富の偏在は世界規模では、2%の富めるものが51%の富を所有し、全世界の50%の貧しき者が1%の富を所有している。(2000年国連経済大学)この国際的格差はすべての国の内部においても少数の富める者と、圧倒的な貧困層への2極化として進行している。

 新興諸国は、これまでの教育水準の向上、一定の資本蓄積、技術力の向上、新中間層の形成という社会条件が、新しい生産システムを先端的に導入する基盤となり、多国籍企業の投資を引き込んだ。ほとんどの内容はが、部品の輸入と加工輸出のスタイルである。それは、先進国から見れば資本の海外流出であり、賃労働の側から見れば、安い海外労働力市場との直接的な、かつ緊密な競争を強いられる結果となる。

 EUは拡大を続け、特に労働力市場の国境を越えた流動化をもたらした。これが、資本の側にとっては安い労働力を入手する可能性が広がり、有利に働き、他方労働の側においては、低賃金を加速するばかりか、さらに安い労働力により雇用を脅かされる事態となっている。競争に疲れ果てる労働者が、市場経済の過酷な論理に対する不満から、過去の東ヨーロッパ諸国において、旧共産党、社会党系の政治勢力への支持へと流れ、復古的風潮が強くなっていることにも示されている。

 

(2)先進資本主義の資本過剰と多国籍企業化

今日の資本主義的生産は、1960~70年代までの重化学工業化路線から、80年代に於けるIT革命により、生産ラインの自動制御の発達、産業ロボットの導入がすすみ、生産ラインの軽量化、自動化により、労働者の直接的作業が減少し、必要な部門は臨時、派遣型労働の供給によって維持するという構造的変化がおきた。

重化学工業重視の生産構造までは、「社会主義圏」も資本主義圏に互角に成長を遂げた。しかし、それ以降の過程は、資本主義の競争の論理のより科学技術による生産ラインの高度化をめぐる激しい競争によって飛躍を遂げる流れにたいして、社会主義圏においては切迫した変革要因とはならずに科学技術的高度化が遅れた。特に東欧の工業生産は破産状況にあった。

 労働力商品に対する資本の過剰は、単に資本の過剰蓄積と言うことではない。再生産に資本を投下することが困難になることを意味する。

商品の過剰生産と過当競争は裏表である。賃金コストを下げるという圧力は、生産ラインからの生身の労働力の排斥を強く推し進める。同時に、資本が安価な労働力を求めて、国境をこえて他国籍企業化する。1980年代から90年代にかけて進行した国際的規制緩和は、為替・関税・金融のこれまでの多国籍企業にとっての障害を取り去る過程であった。

 多国籍企業は、特に新興諸国に現地進出するにあたって、多くは合弁会社方式をとり、最新の技術提供と現地雇用関係の結合を進めている。特徴的には、R&D(開発研究)をも現地で立ち上げることが進んでいる。たとえば中国でのR&Dの要員は110万人規模と、技術者層の厚さが際立っている。今日の生産システムは、高度な科学技術の基盤が必要とされ、この条件がない国は、外国資本の投下が困難になる。すなわち、安い労働力というだけでは資本が動かない。安いということだけなら、貧困国や破綻国家がたくさんある。新興諸国とそれ以外の差は、大きくここに原因がある。一定の教育レベルと、中間層の存在が、多国籍企業の直接投資の必要条件となっている。新興諸国においては、消費の拡大と教育熱の高まりがすすみ、更には税収が増え、社会的インフラ整備が進み、これらの国々の新たな成長サイクルを生み出す。

 中国が、自動車新車販売台数が世界一となり、GDPは、日本を追い越し、米国に次ぐ2位となる予定である。粗鋼生産は2000年の4倍の5億トンとなり、モノの輸出はドイツを抜いて世界第1位(2009年上半期)となった。

 2010年にはASEANとのFTA(自由貿易協定)が発効し、更に、人民元による東アジアとの試験的決済を始める。将来的には中日韓とASEANで自由貿易圏を形成し、人民元を決済通貨とする方向である。日本の民主党政権が掲げる「東アジア共同体構想」の経済版は中国の人民元決済圏の形成と重なることになる。

 このことは、直接米国のドル危機と直結する構造をもっている。すなわち、ドルの米国還流構造が破綻する可能性と結びついている。米国政府がこの動きを警戒するのは、巨大な財政赤字を解決することの困難性と、ドル還流構造の変化が結びつくことにより、体制そのものの危機を感じているからである。

しかし、中国において、現在すでに、外国資本の直接投資が減少に転じている。労賃の高騰が始まっているからである。資本過剰がこれからの問題となる。巨大な市場の成立は、同時に賃金の上昇圧力の高まりと並行することから、最近では多国籍企業は近隣の新興国であるヴェトナムへ向っている。ヴェトナムで生産し、中国市場で売るという流れである。

 

(3)資本の利潤率の低下

現在、世界資本主義は、構造的低迷に陥る先進資本主義国と、急成長を遂げ新興諸国とそれ以外の貧困国または破綻国家の三っのブロックに分かれる。

 ここでは、特に構造的低迷に陥る先進資本主義国について扱いたい。 

現在世界の経済状態を特徴付けていることは、巨大に発達した生産力が、90年代以降のグローバリズムの下で、世界市場の緊密化と平均化が進み、先進資本主義諸国において資本主義そのもの壁に直面しているということである。

なぜGDP大国が同時に貧困国なのか、先進資本主義国の失業率がなぜこのように高止まりしているのか。なぜ中間層の劇的崩壊が進んでいるのか。

資本主義的生産は、そのすさまじい破壊作用を持っていると同時に、社会の文明をたかめる役割を持っている。特に、中間層の形成により、消費力、購買力が高まり、さらに教育、文化への支出も高まる。高度に文明化された社会は、交通網、エネルギー供給システム、医療、教育、社会保障が発展し、次の世代の養育・教育―新たな労働力商品の生産―を含む労働力商品の再生産費用が高くなる。このような社会が一旦出来上がると、社会の平均的必要収入ができてくる。その社会の賃金はこれに規定される。

資本の利潤率の低下は、単に、資本が拡大再生され、蓄積される一方、労働力商品は資本側からは勝手に作り出されることはないという単純な論点から導かれるのではない。また、単に、資本の有機的高度化を技術革新において成し遂げれば、利潤率は無限に維持可能というようなことでもない。

資本主義的生産の推進動機は、資本の拡大再生産である。しかし、一定の生産の発展によって作り出される社会が、次は前提となって現れ、規定力を持つことになる。賃労働と資本の関係は、力関係である、というのは、単に、直接の労使対立ということのみならず、この社会の平均的生活と平均的収入の維持という社会的圧力を資本は感じざるを得ないということでもある。資本の拡大再生産の推進動機は、利潤の拡大である。この圧力を超えるために、相対的過剰人口の形成と、相対的剰余価値の拡大のために、不断の技術革新と生産力の高度化を進める。他方、緊密化した世界市場における競争によって、短期にその競争力が失われ、利潤率が低下する。資本は、利潤率の低下を資本量の拡大で補おうとする。ここ10年間、国境を越えた資本の集中合併が進んだ。

先進国の資本にとって、ここにきて大きく二つの問題が横たわる。

技術革新は、特に、コンピュータの大幅な導入により生の労働を排除した生産システムを生み出すことによって、剰余価値を高めつつ可変資本部分を削減することで、利潤を確保する努力を続けてきた。しかし、これは同時に、大量生産システムであり、他方では、膨大な資金を必要とする技術開発競争でもあり、限定される消費に対する過剰生産と、商品販売における過当競争となる。この結果、生み出された資本は生産過程に再投入される場合の利潤率が低下するのみならず、安い労働力を使う新興資本との競争に勝てなくなる。すると国外流出するしかない。多国籍企業の現地への投資において、有機的高度化を遂げた資本の生産システムそのものが、現地への直接資本投下か合弁型資本投下かは別として、導入される。このことが、技術独占を不可能にし、先進国は常に技術開発を強いられることになるし、新興諸国は高度な技術を短期に横取りする。先進国において、資本は利潤率を確保するためには、一方では技術開発を進め、資本の有機的高度化を図ると同時に、相対的過剰人口を生み出し、かつ雇用形態を変化させて賃金の抑制を図らねばならない。

 このような事情がいったん生み出されると、労働市場に大きな変化が生まれる。

生産力が高度化することによって、生産ラインに必要な労働力が減少するのみならず、一定の労働能力の質が問われることになる。したがって、人口中の労働能力のある部分の大多数を、事実上労働能力のない部分として再生産することになる。このような部分は、低い生産性の劣悪な労働条件や、単純労働の条件の下でしか雇用されなくなる。労働者は、技術技能、諸資格を身につけて、高い労働能力を売ろうとするが、そのことによりさらに競争が激しくなる一方である。

このようにして、雇用の激減と、低賃金不安定雇用の増大が構造的に生み出されることになる。

失業率は高くなり、労働市場が有資格、高等教育、技術技能に裏打ちされる高級・中級労働力と、単純労働力とに二重化するのであるが、生産力の高度化は、前者を少数化し、後者を多数化することによって、これまでの平均的労働者の生活を解体し、いわゆる中間層を崩壊させながら相対的貧困を拡大する。そして、それは、家族という小共同体を媒介して行われる、新しい世代の労働力の再生産過程の教育過程における二重構造の再生産と一つのものである。一時的ではないこの社会構造の再生産こそ、今日の構造的低迷の姿なのである。

われわれは、1970年代の経済危機を、労働力商品に対する資本の過剰を根拠とする構造的停滞期としてとらえた。それは、世界的規模での「病める都市と沈み行く農村」として表現した。このことを背景に、戦後諸関係の劇的な再編成の時期、これまでの社会秩序の根底からの改変に時代として「戦後第二の革命期」と規定した。

結果的には浅い革命期でしかなかったが、ヴェトナム革命、イラン革命がおこった。

生産過程では、これまでの重厚長大型の設備からコンピュータ技術を導入した一段高い生産力を目指した。単に機械の導入ということに止まらず、生産工程の自動化、半自動化がすすめられ、それ以前の熟練労働力を排除する過程が進んだ。すなわち、利潤率の低下に対して、利潤量の確保のために資本量を拡大するという過程の限界を、可能な限り労働力を排除し、剰余価値の拡大によって超えようとしたのである。この過程は同時に、「社会主義諸国」の重厚長大型生産ラインがそのまま持続されることによって、世界的競争に負けてゆく大きな差が発生する過程でもあった。「社会主義諸国」が世界市場から飛び出して成立していたのではないということが1980年代後半に経済破綻として表面化することになったのである。

われわれが1970年代に、戦後独占資本の「構造的停滞期」(労働力商品に対する資本の過剰を根拠とする)と規定した段階から、1980年代のコンピューター技術革新による生産ラインの自動化、高度化(流通過程も同様である)が一巡して、生産力の高度化による、それにともなう不要労働力の排除による相対的過剰人口の形成を背景に、剰余価値の拡大による一定の利潤率の確保が可能となった。しかしこの事情は同時に、膨大な開発経費、新技術導入の設備投資の増大を不可欠とする過程であり、利潤率を下げる要因も強くなる。そこで、この技術の差、高度化の差によって生み出される剰余価値を、短期勝負で大量生産によって他の追随が及ばないうちに確保しようとすることになる。

しかし、これを繰り返すうちに、更なる次の段階を画すような高度化の方策が見当たらない中での、しかもグローバル化の結果を受けたあとでの、国際競争の激化は、瞬く間に利潤率を引き下げ、生産過程を急速に活力のないものにしているのである。

たしかに、部分的には新エネルギー部門や、高集積回路やバイオ技術などの科学技術のいっそうの発展はこれからも続くであろう。だが、生産ラインの高度化はすでに極限化しており(資本投下の現実的効率から考えてそれ以上の高度化が利潤に結びつくかどうかは現実的に判断されるということである)。

しかも決定的には、それは現在進行している労働市場の、一部の専門化、および高度化と大多数労働力の不適応化(すなわち、価値の低い労働力として再生産する)を促進こそすれ、この改善は考えらない。

この現状を、1970年代の「構造的停滞期」と区別して「先進資本主義の構造的低迷」の段階と規定することにしたい。

 

(4)資本深化の限界と労働力の排斥による利潤率の保持―固定する就職難と高い失業率

利潤率の低下を、利潤量の絶対的大きさによっておぎなうという独占の再合併は限度を向かえ、さらにコンピュータを利用した生産ラインの自動化・高度化も限界に来て、先進資本主義国において賃金の抑制にいついては社会的限度があるとなると、総資本利益率(R.O.A)はどんどん下がる。このことを原因とする先進資本主義国における国際的な株価の低迷は、再生産に投入されない資本の過剰をさらに生み出さざるを得ない。

過剰資本がいかに処理されるか、このことが次に深刻な問題となってくるのである。

過剰資本は、利子を求めて金融市場にあふれる。1980年代初頭の「ワシントンコンセンサス」は、IMF、世界銀行の貸付条件として、国有化を排除して民営化すること、金融の自由化をすることなどを示したものであるが、それは同時に「社会主義計画経済」にたいする「資本主義市場経済」の勝利を歌い上げるものともなっていた。この結果はすでに明らかなように、後進国経済の破綻と南米にみられる「リベラル」または「左派」政権の誕生となっていること、「リーマンショック・世界金融危機」として暴発したことに示される。

リーマンショック以降、雇用の拡大のない景気回復ということが言われる。「総資産当期純利益率(R.O.A)」が落ち込み、たとえば、トヨタでも2009年3月期1.4%となっている。新日鉄はBGRICSの成長に乗っていたのだが、同期6.9%と大幅に落ち込んだ。

先進国全般に、新中間層の没落、消費の低迷、企業の財務内容の回復の遅れ、これらがリンクして、実態経済の低迷は続き、ひしめく過剰資本の金融商品への投機は拡大する。しかし、再生産過程に回されない過剰資本は膨大であるがゆえに、金融街は早々と明るさを取り戻し、片やデトロイトは寒風が吹きすさんでいる。このような今日の先進資本主義国における、過剰資本と高い失業率と相対的貧困の拡大は一つのこと、資本の目的と動機は利潤であり、それ以外ではありえないということであるにもかかわらず、この社会は、資本主義的生産を社会的生産過程としてもっているということの矛盾、すなわち、生産と社会は相互媒介的であり相互規定的であるということの先進国における現われである。

資本主義のもっとも大きな問題は、資本の性格そのものにあるということ、すなわち、資本の目的は、自己の拡大再生産であり、行動の動機である。この資本の根本性格と社会生活の衝突は、とりあえず、新中間層の没落から始まっているのである。この限界の露呈過程が同時に現在のリベラル政党による、資本主義の根本的弊害の国家の側からの補修過程となっている。

これは単に新自由主義とか市場経済万能主義とかの路線の修正なのではなく、資本主義の根本的限界の露呈とその補修なのであること、したがって、停滞+高失業+相対的貧困の増大が、構造的に現れていること、このように捉える必要がある。

マルクスの資本論の「第三部 資本主義手生産の総過程 第三篇 利潤率の傾向的低下の法則」の項は、今日の先進資本主義の矛盾を鮮明に照らし出していると考える。

先進国の資本主義的生産の今日の姿は、その成立する基盤である社会を食わせることができなくなっているということだ。

アメリカにおいては、「フードスタンプ」という食料購入補助制度受給者が3700万人にのぼり、実に米国人の8人に1人が空腹と闘っている。また、中間層の没落の大きな引き金になっている医療費の高さは、保険問題となって焦点化している。

今日の10%を越える高い失業率は、解決の道を見出せないでいるのが現状である。

 

(5)新興諸国の抱える矛盾

新興諸国においては、しばらく生産の拡大と労働者の生活向上と社会の発展がすすむであろう。しかし、その限界はすぐ先に待ち変えている。社会全体の消費の拡大、生活費の高騰は、労働力商品の再生産費用の高騰につながる。賃金の高騰の壁は多国籍企業にとっては現地生産の利点を失うことにつながる。そうすると、資本はさらに安い労働力を求めて移動する。製品の中枢パーツをブラックボックス化して持ち込み、組み立て型の生産をするような生産システムを持つ資本は、すでに述べたように、中国からヴェトナムへの移動が開始されている。加工輸出型の貿易構造の限界はそこにある。

このような真っ先に問題となる労賃の高騰を抑制する手段として、相対的過剰人口の形成がすすむ。中国の農民工の吸収と排出は、都市と農村の格差を拡大し、社会の二重構造を作ることになる。おそらくは短期に先進資本主義国のたどった構造的矛盾の露呈過程に入ることになる。公害問題、社会保障問題、教育問題、人権問題への対応は簡単に短期には充実できないことから、矛盾が噴出しかねない。中国政府が政治の安定を求めてあまりにも強権的に進めるならば、経済矛盾から政治闘争へと人民が動く可能性がある。階級分裂が深まり、都市と農村の矛盾が広がり、階級対立が強くなる。

日本の1960~70年代の高度経済成長末期の政治状況は、社会的矛盾の拡大を背景としていたのであり、新興諸国において歴史的に再現する可能性がある。

 

(6)利潤率の傾向的低下の法則について

これまで、多くの論議を生み出してきたが、多くは、この法則性の関連する諸関係を全体として把握することなく、部分を弄り回すことに終始してきたと思われる。

基本的な軸になる本質として、次のことがつかまれなくてはならない。

資本主義的生産の目的は資本の自己増殖であること、同時に、資本主義的生産は、生産力の絶対的発展の傾向を持つこと、この矛盾の展開される過程が、資本主義的生産の発展過程であるということである。

マルクスは、産業革命、すなわち、蒸気タービンエネルギーを駆使した機械の導入による大量生産による生産工程の劇的変化を目の当たりに、剰余価値率が高くなること、工場制度の下で労働の集積が行われること、そして決定的には、資本の蓄積と集積がおこなわれること、この変化の内的関連をつかんだ。

われわれは、今日、科学技術の高度な内容が、生産工程に導入され、労働者の量が激減する過程を目前にしてきた。この過程は、剰余価値率を高め、同時に、資本の有機的高度化を進めるものであった。それは、ある一定の規模での設備規模と大量生産による利潤量の確保を条件としている。すなわち、資本量の拡大を条件とする。そして、次に、技術革新競争の激化による急速な利潤率の低下、しかも、グローバル化の下での、国際的競争激化による、技術低優位によって築いた特別利潤の急速な低下が問題となる。短期に設備投資を回収することがでなければならない。この繰り返しが起こっている。そして壁にぶつかっているのである。

技術革新によって、利潤率の低下は次々と克服可能であるということを主張した見解があった。70年代80年代にはそのような事情を現象的に垣間見たかもしれないが、しかし、これは本質的ではないことのみならず、事実としても、なぜ90年代に国境を越えた大独占が生み出されたのか、資本の過剰があからさまな形で、国際的金融投機として表面化したのか、そして、先進国の株価の軒並みの下落が進んだのかという問いに対してとして無力である。これらの現象の背景をなす、利潤率の傾向的低下という現実が、資本制生産の矛盾として意識されているのである。

「すでに指摘したことであるが―――そして利潤率の傾向的低下の本来の秘密をなすこと―――であるが、相対的剰余価値を生産するためのいろいろな方法は、だいたいにおいて、一方では与えられた労働量のうちからできるだけ多くを剰余価値に転化させ、他方では前貸資本に比べてできるだけわずかな労働一般を重用するということに帰着する。したがって、労働の搾取度を高くすることを可能にするその同じ原因が同じ総資本では以前と同量の労働を搾取することを不可能にするのである。これはお互いに反対に作用する傾向であって、一方では剰余価値率を高くする方向に作用しながら、同時に、与えられた資本によって生産される剰余価値量、したがってまた利潤率を低くする方向に作用する傾向である。」(資本論「第三部第三篇第十四章第一節」)

この論点は、生産過程における、技術的機械的要素と人員配列の要素の一方または両方の高度化による相対的剰余価値率の向上が、同時に、剰余価値の量の減少傾向をもち、したがって、資本量の拡大による利潤量の確保が課題となることを示している。しかし、資本量の拡大は、同時に過剰生産の壁にぶつかる。競争が作用する以上、限度が与えられる。

1960年代の合理化が、新たな機械体系とそれに見合う人員配列の改変、すなわち人的合理化であり、首切り合理化であったと同時に、労働指揮権の資本の側の完全掌握ということが目標とされた。三井三池に代表される新たな機械の導入と、組合からの労働指揮権の奪還がひとつのものとなって攻撃されたのである。この同じ内容が、国鉄のマル生合理化であった。近代的労務管理の浸透は、それまでのもの取り主義的労働組合運動を弱体化させ、資本の社会的力は強化された。民間においては三井三池、官公労では国鉄のこの2つの大きな敗北により、労使協調路線の帝国主義的労働運動が広がった。

1970年代の構造的停滞期をくぐって、先進国資本主義は、これまでの重厚長大型の資本の拡大が限界をむかえることにより、生産工程の自動化、コンピュータ管理システムの導入により、高度化を図る方向に向かった。熟練労働の領域まで浸透した。そうなると、少数のオペレーターと安い賃金で雇用可能な単純労働力の大きくは二種類の労働配置でラインが動くことになる。この構造が、少数の本工労働者と一時的不安定雇用労働者の拡大という構図を生み出したのである。この分断こそが労働の側の力の弱さとなっていくのである。

このような性格の合理化により剰余価値率は飛躍的に高くなる。しかし、同時に搾取量は少なくなる。また、新興諸国の追随がはげしくなり、たとえば当時、鉄鋼においては、韓国、台湾、中国に次々と最新鋭設備を持った巨大工場が建設され、新たな高度な技術による設備投資による特別利潤を手に入れる時期は短く、利潤率は急速に一般利潤率にまで下がる。他の産業においても、同様のことが現象したのである。

剰余価値率を高める要因が、同時に資本の有機的高度化を進める要因でもあること、したがって、不払い労働を多くするためには、資本量を大きくする必要があること、利潤率の低下に対して、利潤量の拡大が課題となること、しかし競争が利潤率を引き下げ、瞬く間に旧来の技術を不要化すること、そして資本は利潤率の壁に追い詰められてゆく。米国の自動車産業の衰退は、その象徴である。

資本の側から見れば、利潤率の低下は進み、しかし、それを突破するには、さらなるコスト削減と研究開発費用の負担軽減しかなく、一層の資本の合併、国境を越えた巨大独占の形成しか道はなくなる。それは労働の側から見れば、国境を越えた連帯の必要性を拡大する道ともなっている。

 

(7)現在の先進資本主義の低迷の本質的性格

<資本制生産様式そのものの構造的低迷>として、現在の先進資本主義体制の矛盾を規定するべきであると考える。これは、これまで述べてきたように、70年代の<構造的停滞期>という規定とは次の点で区別される。

第一に、70年代の矛盾は、独占の形成によって利潤量を確保するというやり方の限界が露呈したものであった。それ以降、剰余価値率の高度化が必死で追及されコンピュータを駆使した産業ロボットの開発による生産工程の自動化が進み、一言で言えば、技術革新によってこの構造的停滞を突破したのであった。ちなみに、社会主義圏、特にソ連圏においては、この過程が急務となる必然性が弱かった。

第二に、生産ラインの技術的高度化は極限的に追求され、それ以上の研究開発費と設備投資が、利潤に結びつくかどうかの瀬戸際まできていること、すなわち、剰余価値率の向上の現実的限界に近づきつつある。

第三に、新興諸国における生産力の拡大は、これまでの先進資本主義国がもっぱら得意としてきた商品領域の独占を許さなくなった。自動車、家電、コンピュータ関連において、過剰生産、過当競争に入っている。すなわち、資本量の拡大で利重量を確保するという抜け道が難しくなってしまっているのである。

第四に、先進資本主義国は、慢性的な高率の失業率が定着し、かつ、自動車産業に見られるように生産活動は不活発となり、国家が資本と賃労働の両方を面倒見なければならないという状態になっている。すなわち、生産と社会が相互規定的であることから、これがよい方向に発展的に向かっている時期はよいのであるが、これが悪い方向に向かうと国家がこの関係そのものの重圧を受けるのである。労働者救済の社会保障と、資本救済の経済対策としての財政支出が、国家の財政を大きく損なっており、最近では、米・英・独・仏の国債の評価が一段と低下する始末である。すなわち、政治社会秩序全般にわたる体制的な停滞に突入しているのである。

第五に、一時的に活況を見せている中国、インドをはじめとする新興諸国の成長は、世界市場にとっても好材料となっている。しかし、これまでと違い、短期に矛盾が表面化するであろう。なぜなら、一つはグローバル化された世界市場の成立という背景があり、かつ、先進資本主義国で開発された生産力が直接導入されていることから、この高度化の余地が少ないからである。相対的過剰人口の形成による賃金の引き下げの効果は、生産の拡大によって消されてしまい、賃金コストが問題となる。かくして、近い将来、また、資本主義そのものの制限である利潤率の壁にぶつかることになる。

 

(8)今日の国際的政治過程―リベラルの全世界的登場の必然性

慢性化した病気のように進むこの体制的構造的停滞は、多少の浮沈があったとしても、労働者にたいする救済の諸方策が必要であり、国家は、生活共同体を維持するためにこの役目を果たすべく変質する。先進諸国の政権がリベラル派になっているのは偶然ではない。

大独占を中心とする資本の活性化を中心として政治経済政策を組み立てる政権は、その力を失った。代わって、労働者の救済を如何に社会的に展開するべきかという政策を中心に掲げるリベラルが登場する。これは、資本深化もリストラも限界に来ている資本が、この社会を発展させる原動力足りえなくなっていることの端的な表現である。そして、人々は、このリベラルに経済の好転を期待するが、方策はない。低迷のまま進むしかないのであるから、人々の不満は高まり、再度保守勢力に期待する傾向とならざるをえない。しかし、すでに資本の活力のない社会は、経済を好転することはできない。そして、戦争経済のみが突破口のように見えてくるのである。今日に時代の保守派は、独占ブルジョアジーの健全な発展の道を再興することができない以上、再度非難の渦に倒れる運命にある。今日の社会が、資本主義的システムの崩壊を実感してゆく長い過程に入っているのである。したがって、現在の先進諸国の政治過程は、固定化する経済の構造的低迷を背景に、リベラルとリベラルの無策の反動としての保守回帰を波のように繰り返す過程であるといえる。

そして、この低迷の中から、資本主義的市場主義を維持しつつ、資本主義を修正するのだとする諸方策が提出されている。その前提には、社会主義は失敗であったと言う認識がある。われわれは、国有化社会主義の失敗を認めるべきであり、協同組合的社会主義としてそれを超える道を明らかにするべきであろう。

資本主義的生産が、「生産力の絶対的な発展へのこの生産様式の傾向」(資本論)を持ち、かつ、「生産条件を一般的な共同的な社会的な生産条件に作り上げてゆく」(資本論)性格を持つのであるから、この側面を維持しつつ、資本の持つ弊害をなんとか弱めようとする考えが出てくるのは不思議ではない。しかもソ連圏の崩壊と言う歴史的事件をくぐったばかりであるからして、市場を前提とした経済を模索する傾向にあることは歴史的な事実として認めうる。しかし、にもかかわらず、連帯経済運動、生産協同組合運動、共生経済モデル等々は、資本主義の現下で、それを超える質を内包しているものとして、評価されるべきであろう。しかし、われわれの目標は、資本と賃労働の両極ながらの廃棄であること、労働者の社会的解放が、人間解放の条件であること、自らの共同による自らの労働の支配を目指すべきこと、これである。

 

(9)循環的把握を困難にする現状を如何に捉えるか

上記のことから、われわれが政治過程を「安定期」「動揺期」「再編期」という循環的把握をしてきたことそのものについての再検討が必要である。たしかに景気循環があるだろうし、社会問題の噴出、沈静化もあるだろう。しかし、いわゆる「安定期」が生み出されるためには、政治、社会の秩序の安定の根幹に、経済の活性化がなければならないであろう。先進資本主義諸国において、10%前後の失業率は解決可能であろうか。貧困率は下がるだろうか。貧困の世代的再生産が定着しつつある事態は変わるのだろうか。中間層の没落は止まるだろうか。これらを改善する要素は見当たらない。社会的諸手当をいかに効率よく厚くするかということだけが中心課題となっている。

新興諸国の経済発展はしばらく続くであろう。膨大な相対的過剰人口を背景に、資本が発展している。最新の技術が直接導入され、低賃金構造で生産されることにより、総資本利潤率が先資本主義国と比べ物にならないくらい高いことが発展の根拠であるが、この構造そのものが、その限界を生み出すことになるであろう。したがって、長期であるか短期であるかの違いこそあれ、矛盾は深まってゆくしかない。

以上みてきたようにこれまでの循環的把握は、今日あてはまらなくなり現状を把握する方法としては難しくなっているのである。それとは異なり、慢性病のごとく進行する資本主義のシステム自体の矛盾の傾向的深化過程と捉えるべきである。

簡潔にまとめるならば、利潤率の傾向的低下の壁に直面する資本主義システムそのものの構造的低迷期への突入----このように段階規定するべきであろう。

 より詳しくは、Ⅰ先進資本主義諸国における資本主義的生産様式そのもの構造的限界の露呈 Ⅱ新興諸国における階級分裂の深化 Ⅲ低開発諸国の経済破綻と貧困の拡大という情勢規定となる。

これに伴う国際的政治過程の変化としてのリベラル政治潮流の登場と社会救済諸政策の必要性と、それに伴う財政危機の進行が現在の特徴点である。

したがって、引き出される課題は、資本主義的生産様式そのものを超える方法と展望を導くことが必要となっている。この課題を導くには、長期にわたる組織化と運動が必要であり、その局面、局面における系統的な矛盾の暴露により、資本主義が単なる歴史的な、制限された生産様式に過ぎないものであり、その欠陥、賃金奴隷制としての非人間的欠陥を根本的に超えて進まなくてはならないという意識をまずは広げなければならない。

生産協同組合運動、連帯経済運動、NPOなどの協働型の運動は、資本主義体制の中から、生産の社会的性格、労働主体の生活のための生産活動を部分的に広げる役割を担うであろう。

さらには、究極的には賃労働の廃止を目指すべき社会運動の今日的あり方について掘り下げるべきであろう。故滝口氏は「賃労働廃止労働者協会」という問題意識をもち、その綱領についての研究を行っている。(滝口弘人著作集第三巻)この名称が最大限綱領主義的であることを除けば、労働者党の新しいあり方の模索となっていると考える。

これまでの戦略論組織論の枠組みを根本から見直し、今日の情勢の段階規定と、それに見合う新しい階級的組織体のあり方についてさらに深める必要がある。

したがって資本主義システムそのものを変革する戦略論組織論が要請されているのである。そのためには89年のベルリンの壁の崩壊以降の、「社会主義」の終焉と資本主義市場経済の勝利という虚構を暴き、上からの国有化社会主義に対する、下からの共同の発展による共同社会主義を打ち出してゆかなければならないと考える。

この提起は、左翼戦線において、今日の情勢の段階規定が十分に行われていないという現状を克服するという問題意識に基づくものであり、論議が起きることを期待している。

 

<編集委員会後記>

この論文は、昨年(2010年4月)に執筆されたものです。

それから1年経過していますが、内容と現実の情勢との齟齬が余り無いので、そのまま掲載することにしました。

討論中の論文です。新たな問題提起として受け止め今後議論してゆきたい。