解放の通信
「解放の通信」第2号(2002.9)
レーニン「革命的階級意識=外部」論について


斉藤 明            

  <問題の所在>
 先号において「われわれは、既に40年前からレーニン主義を批判してきた。それは主要には『何をなすべきか』における『外部注入論』批判として展開してきた。」と述べた。この反省的掘り下げが必要となっている。この「外部注入論」という言葉自身が正しいのかということまで遡る必要がある。このことを痛感したのは、「外部注入論」という言葉が、われわれ内部のみならず、あまねく使われているのだということを知ったからである。
 「マルクスを読む」(情況出版)「ソ連共産党崩壊後の前衛党」廣松 渉・山川 暁夫・小林 昌人)において、廣松は彼の理解するレーニンの「外部注入論」を展開している。レーニン自身、「外部注入」とか「外部注入論」とかの言葉は使っていない。
 われわれはレーニンの「なにをなすべきか」における誤りを、「意識の外部からの持込」諭として要約し批判してきた。(「解放6号」「共産主義=革命的マルクス主義の旗を奪還する為の闘争宣言(草案)」1961年5月 「滝口弘人著作集 第一巻」に収録)
 組織内部でこの論文以降、この「意識の外部からの持込」論を、端的に要約したものとして「外部注入論」という言葉が用いられるようになった。それ以降、この言葉は、誤った理解を引きずりながらも、「意識の外部からの持ち込み」論と同じ意味なのだ言う理解で使われてきた。今日、これまで不分明であった事柄を内容的に分離し、鮮明にする必要があると考える。
 廣松は、「外部注入論」という言葉をどこから入手したのか分からないが、一面的に理解されている。
 「解放6号」で展開されたのは、正確には、「外部からの意識の持込」論に対する批判なのである。たしかにこの「外部からの意識の持ち込み」論を表面的に理解するならば、現象的な理解ものとに誤解される面をもつ。
 60年当初におけるわれわれ内部の論争の不十分性は、レーニン主義への回帰という傾向を不断に発生させてきたのであった。
 廣松は「外部注入論」を、現象論または前衛党と労働者大衆との関係論としてしか理解していない。したがって、結論としては、「外部注入」は必要だ、で終わる。なんと深みのない政治意識であろうか。なんと本質をつかめない理論的抽象なのだろうか。
 そもそも、われわれも使ってきた言葉であるのだが、「外部注入」論という言葉は、多くの誤解を与えるとともにレーニン主義の誤れる肯定と誤れる否定を生み出して来たように思われる。そして、現に多くの事例が見られる。
 「階級意識の外からの持込」論について、再度その内容を深める必要があると考える。本質的には「革命的階級意識=外部論」として展開されていること、ここに転倒が根拠付けられていること、ここから深める必要がある。

<「外から注入する」という文脈について>
 先に「外から注入する」という表現があるのだということを述べた。ここから「外部注入」という言葉が作られ一人歩きしたのではないかと思われる。(「外部注入」論という言葉がいつからどのように使われ始めたのかについては調べている最中です。)
「解放6号」において、「プロレタリアートが意識をぬきにした"単なる存在すなわち物質の自己運動"として与えられ、存在を理論的に認識したものを「階級意識」と称して外から注入するという風に考えたところに、レーニンが、存在と意識の二元論に陥り、プロレタリアートとその運動を単なる物質とその物質的運動として固定的にとらえ、"理論”の体現者としての社会主義的中間層に支配的役割を与えた誤りが構成されたのである。」このようにレーニン主義を批判した。
 この文章に引き続き、マルクスを引用して
 「理論的意識と実践的意識との混乱した理解に対しては、マルクスの次の言葉が重要である。『頭脳に中に思惟全体として現れる全体は、思惟する頭脳の産物であって、頭脳は、世界を自分に可能な唯一の仕方で領有する。それは、この世界の芸術的な、宗教的な、実際的精神的な領有とちがった仕方である。室在する主体は、依然として頭脳の外ににあって、その独立性をもっている。すなわち頭脳がただ思弁的に、すなわち、ただ理論的にふるまうかぎりでは。それゆえに、理論的方法においても、主体、すなわち社会は、つねに観念の前に前提として浮かばなければならない。』(『経済学批判序説』「第三章経済学の方法」)
 『実践的精神』=実践的意識を含んだ存在を、頭脳が自分で可能な方法でとらえるのが理論的意識である。理論の前に、共産主義的意識を多かれ少なかれ流し出している主体=プロレタリアートが『前提』として浮かばねばならない。」と続く。
 この文章は、レーニン主義者が、唯物論を誤解する結果になるのであるが、好んで使う「レーニン的物質」に対する批判を根底において展開していることが、理解力ある人々には判っていただけると思う。(先号参照)
 レーニンは意識の社会的性格(人間の社会的存在)を捉えることなく、直接脳髄の所有者個人が理論的意識の主体であるとしてしまっている。この脳髄は物質であるから唯物論である、とすることが誤りであることは既に明らかにしてきた。
 上記の文脈における「存在と意識の二元論」に対する批判と、「"理論"の体現者としての社会的中間層に支配的役割を与えた誤り」に指摘が、「外部からの意識のもちこみ」論の誤りの第二。」の中心的論点なのである。
 「プロレタリアートに教養的要素を"供給する"者(プロレタリアートの立場に移行したブルジョア・インテリゲンツィアその他)が解放の意識的担い手=主体なのではなくて、この教養的要素を自らの「武器」として"獲得した"者、すなわちプロレタリアートが主体であることである。」
 このことの「逆立ち」が問題なのである。これは原則問題であって、多少の部分的な誤りなどではない。この原則的な問題における誤りが、レーニンにおいては、その誤りの全面的成熟が見られないだけで、すなわち、レーニンの「日和見主義との闘争」という命題に沿った「現実的政治判断力」によって緩和されているだけで、スターリンの時代には、プロレタリアートに対する支配権の確立のために強調され、この原則的誤りが発展した姿において顕在化し全面化するのである。多くのレーニン批判は、何が基底的原則からの逸脱であり、何が誤りなのかを見抜く力がないまま、ふらふらになって、単なる民主主義者に成り下がったり、逆にいいところと悪いところがあるなどと、批判にもならないものが散見される。
 原則問題として、「革命的階級意識=外部論」は誤りであり、贋物の「プロレタリアートの前衛党」なのだということ、したがって、「外部注入」が良い悪い、必要が不必要か、このような脈絡において使われる「外部注入論」は全くの読み違えであるばかりか事の本質を誤らせるものである。
 ネット上で検索してみると良くわかるが、この「外部注入論」という言葉は広く使われている。しかし、残念ながらほとんどの「外部注入論」はこの誤りのなかにある。
 ブントしかり、第四インターしかり、「外部注入論」という言葉を使っているのであるが、どのような概念規定なのかを明らかにする必要があると考える。 

<廣松の「外部注入論」>
 できるだけ正確に内容を把握するために文章を引用する。多少長くなる。
 「レーニンの場合の外部注入論は、図式そのものから言うとカウツキーでしょうし、『何をなすべきか』でもカウツキーを引用してきて議論している。これは経済主義者の路線に対する批判にカウツキーの権威をもってきたという面があると思いますが、とにかく外部注入という限りでは、階級意識を覚醒させていくという意識面での話ですね。これを遡っていくと啓蒙ということにつながっていく。もう一つが陰謀組織という面、これは陰謀と訳すとニュアンスが悪いいんですけど、コンスピラシオン。こう見ますと、元来、外部注入ということで出てくるコンテキストと陰謀家組織とはちょっと異質なもののような気がするのですよ。ロシアの場合に限定して言えば、後期のナロードニキの運動なんかに秘密組織の伝統みたいなものがあって、この連中は人民の即自的な要求にもとづく運動のオルガナイザーの面が強いので、外部注入という話はむしろ西ヨーロッパ的な啓蒙主義の伝統に連なるんじゃないか。レーニンの場合良く言えばその二つのものを結合したということでしょう。」(p164)(*@)
「先ほど外部注入論には啓蒙主義以来のものがあると言いましたけれど、一般大衆に言わせればお節介だと言われかねないような押しつけみたいなことをするのは、体制内改良派をも含めた社会改革者に共通にあるパターンなんじゃないでしょうか。押し付けのネガティブな面は認めます。けれどそこがまさに外部注入に引っかかってくることで、ほうっておけば経済主義的、改良主義的なレベルでしか体制に内在している大衆は考えない。それだけでは駄目なんだ、本当の解決にならないんだということで、ある意味ではお節介をすることも必要だという気がするんです。ネガティブな面はあるんですけど、しかし避けがたい構造のような気がするんですけど。いかがでしょうか。」(p166)(*A)
「大衆的に蓄積されているエネルギーを単なる不満の爆発、単なる反乱に終わらせるかどうかという問題の時に、これは単純な外部注入じゃないんだけど、ある種の思想性がものを言う。革命思想が平時に十分納得されたり、ただちに賛成されたりということはないにしても、それをある程度聴いていて一応の知識として大衆が持っているということがないと本番の次のステップにまでいかないだろうと。」(p178)(*B)
 世俗的大衆が錯認識にあって、学知的真理によって正されねばならないという廣松の考え方が、実際の現実的意味としては如何なるものなのかということが、政治意識として現れるとまったくお粗末なもでしかないということがこの3つの引用文を読むだけで判る。
 廣松は、『何をなすべきか』における「意識の外部からの持込」論を正確に理解していない。正確に読んでみるならば、「外部注入論」と要約することが誤りであることは直ぐ判ることなのだ。対談という軽い話の中での展開ではあるのだが、政治内容的には俗流のレーニン主義でしかないといわざるを得ない。

  <ローザ・ルクセンブルグ「ロシア社会民主党の組織問題」の意義と限界>
 1904年「ノイエ・ツァイト」誌に、同年ジュネーブで印刷された「一歩前進、二歩後退」に対する批判が掲載された。
 「ロシア社会民主党の組織問題」という表題のローザ・ルクセンブルグの論文である。1905年のモスクワにおけるソヴィエト運動の高まりのなかで、レーニン派が波打ち際に打ち上げられる前に既にレーニン型の党の本質を見抜き的確に批判している。しかし、なぜこのような誤りに落ち込んでいるのかということまでは明らかに出来ていない。なにが問題であるのかを以下述べることにする。
 ローザ・ルクセンブルグはこの論文において主要に3点の指摘を行っている。
 その一つは、社会民主主義運動の捉え方についてである。
 「社会民主主義運動においては、組織もまた、それ以前の社会主義のさまざまなユートピア的試みとは異なって、宣伝の人工的産物ではなく、階級闘争の歴史的産物であり、社会民主党は、その闘争のなかに、ただ政治意識だけをもたらすにすぎない。」(「ローザ・ルクセンブルグ選集 1」p249)
 「社会民主主義的運動は、階級社会の歴史上始めて、運動のあらゆるモメント、そのあらゆる過程において、大衆の組織とその自立的直接行動を考慮におく最初の運動である。
 この点で、社会民主党は、これ以前の社会主義的諸運動、たとえば、ジャコパン・ブランキスト型のそれとは、まったく異なった組織型を創造する。」(同書 p252)
 「社会民主党の行動の諸条件は、これと根本的に異なっている。その行動は基本的な階級闘争から歴史的に生まれる。その場合、この行動は、弁証法的な矛盾の中で動いてゆく。すなわち、プロレタリアの軍隊は、この時、闘争そのものの中ではじめて生み出され、闘争のなかではじめて闘争の課題を明らかに悟らされる、ということである。この場合、組織と啓蒙と闘争は、ブランキスト的運動の場合のように、切り離され、機械的に、また時間的に分離されたモメントではない。それらは、同一の過程の異った諸側面であるにすぎない。」(同書 p253)
「ロシアには、大きな、極度に中央集権化された労働者政党を実現するための前提条件がすでに存在するという、レーニンの倒錯した確信には、いっそうおどろかされる。そして、かれが、今やすでに、『ロシア社会民主党内の、プロレタリアートではなく,多くの学者先生たちは、組織と規律の精神において自己教育を迫られている」と楽観的に呼号し、プロレタリアートを生まれながらにして『規律と組織』にかなうように成熟させる工場というものの、プロレタリアートにとっての教育的な意義を称讃するとき、そこにはまたしても、社会民主主義的組織についての、余りにも機械的な一見解が示されている。レーニンのいう『規律』は、決して、単に工場によっても、兵営によっても、また、近代的官僚政治によっても、すなわち、――中央集権化されたブルジョア的国家の全体的メカニズムによって、プロレタリアートに叩きこまれるものではない。しかも、指揮棒につれて機械的に運動をする、多手多足の肉塊の無意志・無思考性と、一つの社会階層の意識的な政治行動による自発的な協調、また抑圧された一階級の盲目的(ママ)従順と、解放のために闘う一階級の組織された反乱、というような対立する二つの概念を、等しく『規律』と名づけるならば、それはスローガンの不当な乱用以外の何ものでもない。資本主義的国家によって叩きこまれた規律の関連づけることによってではなく、――ブルジョアジーの手から一つの社会民主主義的中央委員会の手へと指揮棒をおきかえることによってではなく、この奴隷的な規律精神を打破し、根絶することによって、はじめてプロレタリアは新しい規律――社会民主党の自発的な自己規律へと、教育されるのである。」(同書 p254)  
 さらに第二には、「社会民主党は、労働者階級の組織と結合されているのではなく、労働者階級それ自身の運動なのである。」という原則からの批判である。
 「それゆえ、この二つの原則、――皆に代って考え作り出し決定するような一つの中央権力のもとに、党組織のすべてが、その活動のごく細部までをも含めて、盲目的(原文のママ)に服従すること、ならびに、レーニンによって弁護されているように、党の組織された中核をそれをとりまく環境からきびしく峻別すること、という二つの原則にもとづいて、社会民主主義党内の中央集権を作り上げることは、われわれには、ブランキスト的な陰謀家サークルの運動の組織原理を、労働者大衆の社会民主主義的運動へ機械的に翻案することである、と思われる。おそらく、レーニンは、自らの『革命的社会民主党員』を『階級意識ある労働者の組織と結合されたジャコパン主義』と規定したとき、自己の立脚点を、かれの敵たちのいずれかがなしうるよりも、はるかに鋭く認めていたであろう。しかし、実際には、社会民主党は、労働者階級の組織と結合されているのではなく、労働者階級それ自身の運動なのである。それゆえ、社会民主主義的中央集権主義は、ブランキスト的中央集権主義とは、本質的に異なった状態であらざるをえない。この中央集権主義は、労働者階級の個別的グループや個別的個人とは対立する、労働者階級の啓蒙された闘う前衛の意志の絶対的集中以外の何ものでもありえない。それは、いうなれば、プロレタリアートの先導的層の『自己中央集権主義』であり、それら先導的層自身の党組織内での多数支配なのである。」(同書 p254)
 結論として第三に、「ロシアの革命家の『自我』は、せっかちに逆立ちをし」ていると指摘する。
 「ロシア社会民主党の一部にあるこの恐るべき努力、あのように希望に満ちて生き生きと努力しつつあるロシアの労働運動を、全治全能の一中央委員会の後見によって、失策から守ろうとする努力は、いずれにせよ、われわれには、すでにしばしばロシアにおける社会主義思想を悩ませたのと同じ、あの主観主義の仲間入りをしているとしか見えない。尊敬すべき歴史の人間主体が、自己の歴史過程において、時たま行う跳ね上がりは、まったくもって笑止である。ロシア絶対主義によって教え込まれ、押しつぶされた自我は、その思考世界の中で自らを王座にすえ、――存在しない「人民の意志」の名をかりた陰謀家の一委員会として――自己を全能と宣言するすることによって、復讐を行った。しかし、『客体』はいよいよ強力に自らを明らかにし、 やがて皮鞭が勝利を占め、かくて皮鞭は、歴史的過程の所与の段階の『正統』な現れであることを証した。やがて、その画面には、歴史過程のより正統な子供として、――ロシア労働運動があらわれ、ロシアの歴史において初めて、今や現実に一つの人民の意志を創り上げるべく、きわめて美しいスタートを切った。しかるに今、ロシアの革命家の『自我』は、せっかちに逆立ちをして、またしても、自らを歴史の全能の操縦者であると、――この度は、社会民主主義労働運動の中央委員会という至高の権威に包まれて宣言するのである。その場合、向こう見ずな軽業師は、今やこの操縦者の役目を手にする唯一の主体は労働者階級の大衆的自我であり、その自我は、誤謬を犯しつつも、身をもって歴史的弁証法を学ぶべきことを頑強に固執する、ということを見逃しているのである。 そして、最後に、われわれは内輪でははっきり次のようにいっている。現実に革命的な労働者運動が現実のなかでおこなう誤りは、歴史的には、最上の『中央委員会』の完全無欠にくらべて、はかりしれぬほど実り豊かで、価値多い、と。」(同書 p270)
   ローザ・ルクセンブルグのこの3点の批判は、当時のレーニン型組織を的確に批判している。特に3番目にあげた批判は、革命運動の主体にかかわる重要な問題についての逆立ちを批判している。では、この真実の主体が、この逆立ちした贋の主体をいかに突破するのかが問われる。しかし、この問題を、労働者階級の側から、更に、共産主義運動の側から如何に突破してゆくべきなのかという点については、十分に明記されてはいない。一つの文章に全てを要求するということではないが、すくなくとも次のことははっきりしている。  レーニンの「中央集権」について、「仮借ない中央集権主義」により、「その結果、中央委員会が党の根源的な活動の核となり、残余の組織はすべて単に、それの実行の道具として現象する。」ことになるであろうと結論付ける。しかし、この中央集権についての考え方について、実は二つのことに分けて論じるべきことを不分明に展開することによって結果的には中央集権を程度の問題とし、階級闘争の段階的推移に依存するべき問題としてしまうことになり、このレーニン的中央集権主義を超える方策を明示できないことになる。  「社会民主党には、一般に、強い中央集権的な傾向が内在していることは、疑いを容れない。……所与の国家の枠内におけるプロレタリアートのいかなる部分的またグループ的利益にも反対して、階級としてのプロレタリアートの全体的利益を代表する使命をになって、社会民主党は、オーストリアにおけるような異例の事情のため、例外的に連邦主義的原則を余儀なくされる場合は別として、あらゆる場合に、労働者階級の民族的、宗教的、職業的諸グループのすべてを統一的な総合政党に陶冶してゆくのを当然の任務として努力してきた。」(同書p251)
更に続けて
 「この点に関しては、ロシア社会民主党の場合にも、この党が、無数の民族的、地方的個別組織の連邦的な集合体ではなく、ロシア帝国内の統一的かつ強固な労働者政党を形成しなければならないということに、何ら疑問の余地はなかったし、現在もない。しかし、それとはまったく別の問題として、中央集権化の度合いの多少から生ずる、そしてまた、統合された統一的なロシア社会民主党内部のより立ち入った状況から生ずる問題がある。」(同書p251)
 このように問題を設定している。
 中央集権について、ローザ・ルクセンブルグは二つに分けて論じている。その一つは、「労働者階級の啓蒙された闘う前衛」について、その一つは「闘争政党としての社会民主党」について。
 前者については、「社会民主党は、……労働者階級それ自身の運動である。」という原則から、次のように導く。
 「社会民主主義的中央集権主義は、ブランキスト的中央集権主義とは、本質的に異なった状態であらざるをえない。この中央集権主義は、労働者階級の啓蒙された闘う前衛の意志の絶対的集中以外の何ものでもありえない。それは、いうなれば、プロレタリアートの先導層の『自己中央集権』であり、それら先導的層自身の党組織内での多数支配なのである。」(同書p254)
 前衛的部分の、全体的階級利害を断固として掲げる推進力を根拠として、また、その部分が労働者階級それ自身の運動のなかから生み出されているのだということを前提として、中央集権が支えられているのだということとしている。したがって、そのような諸条件が必要となる。その条件として二つ挙げられている。「すでに政治闘争で教育されたプロレタリアの相当数の層の存在、ならびに、(公開党大会、党機関紙、等々において)影響を直接的に行使することを通じて、それらの層の自由裁量能力に表現をあたえる可能性、である。」(同書p254)
 後者について、闘争における誤りや日和見主義を如何に取り扱うべきかという問題と重ねながら次のように展開する。規約問題について、実践的に試練されるべきであること、のみならず、「社会主義的組織型の一般的理解から導き出されるものは、大きな基本的諸特徴であり、それはすなわち、組織の精神である。そして、この精神が、特に大衆運動の初心者たちの場合に、主として、社会民主主義的中央集権主義の、杓子定規な排他的性格ではなく、協同的包括的を条件づけるのである。しかし、運動の原理的強固さおよび運動の統一性にたいする鋭い視線と結合された、この政治行動の自由の精神が党の秩序のなかに受入れられるならば、そのときにはどんな、あるいは、何らかの不手際に起草された組織規約の峻厳さも、早急に、実践そのものを通じて有効な修正を受けることにとなろう。一つの組織形態の価値を決定するのは、規約の文面ではなく、活動的闘士たちによってその文面に盛り込まれた意志と精神なのである。」(同書p260)と「政治行動の自由の精神」を強調する。
 さらに、レーニンが「民主主義にたいする官僚主義、それがまさに、日和見主義にたいする革命的社会民主党の組織原則である。」とすることに対する反論として、中央集権主義と分権主義との関係を扱いながら、「労働者階級の革命的自立行動およびその政治的責任感」をこそ強化するべきであると主張する。
 「一般に、労働者大衆が、その革命的部分においてまだ強固でなく、運動そのものが浮動しつつある時、つまり、事態が現在のロシアのそれに類似した諸事情のもとにある時には、日和見主義的なアカデミーにふさわしい組織的傾向として、まさにこの峻厳な、専制的な中央集権主義が容易に指摘されうるのである。もっと後の段階では――議会主義的環境の中で、強力な固く結合された労働者政党にたいしては――これと逆に分権主義が日和見主義的アカデミーのこの段階での傾向になるのと、まったく同様である。……実際、闘う労働者階級が一『委員会』の従順な道具に成り下がっている場合、そのような官僚的中央集権主義のよろいの中に運動を閉じこめてしまうことほど、容易かつ確実に、まだ若い労働運動がアカデミシャンの支配欲に提供しうるものは、何一つない。これと逆に、労働者階級の革命的自立行動およびその政治的責任感の強化ほど確実に、労働者運動が、野心的なインテリゲンチャの一切の日和見主義的悪用にたいして、自らを守りうるものは何一つない。」(同書p266)
 さらに、労働者運動の不可避的な前進と後退を貫いて問題とするべきこととして、「自らの勝利を目指すプロレタリアートの世界史的前進は、ここに歴史上はじめて、人民大衆自らが、あらゆる支配階級に逆らって、自らの意志を貫徹し、しかも、今日の彼岸に、それを乗りこえた所に、自らの意志を打ち立てずにはおかない、という点にその特質を有するような、そういう一つの過程である。しかし、大衆は、他面では、既成秩序との日常的闘争の中でのみ、それゆえ、その秩序の枠内でのみ、この意志を形成しうる。全既成秩序を超える目標と偉大な人民大衆の統一、革命的変革と日常闘争との統一、それは社会民主主義運動の弁証法的矛盾であり、その運動はまた、二つの暗礁、大衆的性格の放棄と終局的目標の放棄、セクトへの退行とブルジョア的改革運動への転落という二つの暗礁のあいだをぬって、全発展過程をひたすら前へと動きつづけてやまないのである。……社会民主主義的運動がまさに一個の大衆運動であり、それをおびやかす暗礁は、人間の頭からではなく、社会的条件から発生するものであるがゆえに、日和見的混迷は予め防ぐことはできないのであって、その混迷は、それが実践の中で明確な姿態をとった後になって始めて、運動そのものによって――もちろん、マルクス主義のあたえる武器の助けをかりて――克服されるのである。こうした観点から考察するとき、日和見主義はまた、労働運動そのものの一産物として、運動の歴史的発展の不可避の一モメントとして現れてくる。……日和見主義をこのような紙上の手段で防ごうとする試みは、実際には、日和見主義を寸断しえないで、ただ社会民主党そのものをずたずたに分断するばかりであり、また、そのような試みは、党内で健康な生命の脈動を妨げ、それによって、闘争における抵抗力を、日和見主義にたいしてばかりでなく、また――たとえ、いくらかの意味はあるとしても――既存の社会秩序にたいしても弱めるのである。手段が目的に刃向うのである。」(同書p270)
 ローザ・ルクセンブルグは、二つのことを分けて論じている。生成された全体(運動の中から生成し定立された全体)と、大衆運動の中から形成される階級的団結体が個別的特殊的な活動を含みつつ結合を通して総合され、普段に全体を歴史的に形成しつつ前進してゆく闘争態としての労働者党についての論理に分けている。そこには、現実の運動の生き生きとした教訓が述べられている。
 しかし、先に共産主義的前衛と労働者党の区別性と同一性において、レーニン主義的な贋者の前衛党を超えなければならないという課題を設定したが、このことをローザ・ルクセンブルグは社会民主主義党の単に二つの性格として捉えている。
 このように述べられる限りでの中央集権主義批判は、実はこの「中央」なるものの外的性格、生成される前提を欠落した単に規定するだけの全体であるという性格、このことを見抜けていない。したがって、同時に階級的全体性がいかに生み出されるのか、そして定立されるのか、したがって、個別性が総合を通してのみ全体に高まるという論理に貫かれてのみ「前提作用が同時に措定作用である」(ヘーゲル)普遍性が生き生きと形成されるのだということを明示しえていない。レーニンに対する批判は、その純化した発展した姿態において醜悪なまでにその本質を剥き出しにするスターリンの段階を予感さえさせる鋭さを持つのであるが、やはり、コミンテルンの中において、この良質な主張は次々とかき消されていったのである。
 しかし、ローザ・ルクセンブルグは、運動と組織の初期においては、分権主義が、さらに発展の一定の段階においては中央集権が必要だと述べているその意味を捉え返す必要がある。

<分権的組織と中央集権の過程的統一について>
 レーニン主義の批判を「意識の外部からの持込」論すなわち、「革命的階級意識外部論」の批判は、レーニン型組織が前衛党の贋物でしかないこと、その中央集権主義は、その根本的な「中央」のア・プリオリな性格を見破ることはもとより、その克服にまで突き抜けてゆかねばならない。
 レーニンの「中央」は、スターリンの「プロレタリア社会主義」と結ぶとき、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせる。
 「共産主義内の『左翼主義』小児病」(1920年6月発表)において、ボルシェヴィキの国際的意義を論じながら次のように独裁における「中央」の意味を述べている。
 「階級を指導しているものは、普通、大多数のばあい、少なくとも近代の文明国では、政党であり、通則として、政党を支配しているのはもっとも権威があり、勢力があり、経験にとんでおり、もっとも責任のおもい地位に選ばれ、指導者とよばれる、多少とも安定したグループである。すべてこうしたことはいろはである。」
 「政治家の技量(および共産主義者がその任務を正しく理解すること)は、どんな条件のもとで、またどんな時期にプロレタリアートの前衛は成功のうちに権力を握ることができるか、また権力をにぎるばあいとにぎったあとで、労働者階級と非プロレタリア的勤労大衆とのかなり広範な層のかなりの支持をかちとることができるか、またそのあとでますます広範な勤労者大衆を教育し、訓育し、自分のほうに引き寄せることによって、自分の支配を維持し、つよめ、ひろげることができるかを、正確に測定することである。」
 「指導者-党ー階級-大衆の相互関係、同時に労働組合にたいする、プロレタリアートの独裁とプロレタリアートの党の関係は、いまわが国では、具体的には、次のようになっている。独裁を実現しているのは、ソヴィエトに組織されているプロレタリアートであり、このソヴィエトを指導しているのは、最近の党大会(1920年4月)の資料によれば、61万1000名の党員をもつボルジェヴィキ共産党である。
……党は、年次大会(最近の大会は党員1000名につき代議員1名)を召集するが、この党を指導しているのは、大会で選出された19名からなる中央委員会である。そして、モスクワで日常活動をおこなわなけれがならないのは、さらにもっと小さな合議機関、すなわちいわゆる『オルグビュロー』(組織局)と『ポリトビュロー』(政治局)である。このビュローは、中央委員会総会で選出され、5名の中央委員をもって構成される。だから、こうして正真正銘の『寡頭制』がでてくるのである。わが共和国のどの国家機関も、党中央委員会の指導的な指令がなければ、どの重要な政治問題あるいは組織問題をも、決定することはできない。」
 この「中央」は、形式的には下から選出されたものではある。しかし、この「中央」を支える内容は「前衛の自覚」でしかない。このことが、スターリンの「プロレタリア社会主義」と結びあわされると、プロレアリア大衆を睥睨する神となって聳え立つ。
 「無政府主義か社会主義か?」(1906~1907年)においてスターりンは、「プロレタリア社会主義」を次ぎのように規定した。
 「プロレタリア社会主義がたんなる哲学的学説なのではないのだ、ということを知らなければならない。それは、プロレタリア大衆の学説であり、彼らの旗であり、全世界のプロレタリアがこれを尊敬し、これにたいして『ひざまずい』ている。したがって、マルクスとエンゲルスは、たんになにかある哲学的『学派』の父祖であるだけではなく、日一日と成長し、つよまっている、生きたプロレタリア運動の、生きた首領である。」
 このように、マルクス、エンゲルスを首領として崇め奉ることによって、「プロレタリア社会主義」が絶対的権力としてその姿を現すはるかに以前に、すでに1907年に種はまかれていたのである。
 いわゆる<レーニン最後の闘争>は、自分が敷いた路線の煮詰まりが恐るべき姿において醜悪に聳え立つことにたいする嘆きでしかなかった。
 分権的組織の有効性は次のところにある。現実的な全体性は、個別的特殊的な運動と組織の結合と総合を通してしか形成し得ないということである。したがて、この個別的、特殊的な運動と組織の躍動が全体の前提である。同時に、この特殊的なものの総合を通してのみ普遍的なものが措定される。ブルジョア的中央集権に対抗する自治能力を鍛え上げることこそが労働者の自立を鍛え上げることになる。そして、ここに背中合わせに問題となる個別分散主義、狭いエゴイズムの運動を超えるもの、それは、労働者階級の主体的共同性である。社会的権力に抗して生み出される団結の結合を通して、中央集権的政府に対決しつつ全国的政治的団結を生み出して行くこと、この階級形成の中でこの主体的共同性を鍛え上げることこそが党建設の原動力である。
  階級支配の動揺期における、戦略的課題として特に重要な革命的階級形成の推進という観点から考察するならば、労働者階級の統治能力、全社会的解決能力を急速に発展させ現実的に開示することが必要である。このことは、徹底した自治能力の発展の上にしか成立しない。そして、この自治能力が、同時に全人民の苦悩からの解放のイニシアチブとなってゆくことにおいて、実は労働者階級自身の解放が成就する不可欠の条件ともなっていると掴まねばならない。労働者階級の運動が、単なる労働者階級のみの狭い特殊利害としてしか理解されないならば、小市民の反動の嵐の前に押しつぶされてしまうであろう。
 他方、中央の形成は、階級形成のなかで繰り返し生み出される普遍的全体性を定立する努力として意味を持つ。したがって、党建設の現実的過程は、この分権主義と中央形成の弁証法的統一の関係を段階的に明らかにすることである。さらに、それは共産主義的前衛組織と党的組織の関係として裏打ちされねばならない。共産主義的前衛組織は、中央集権の組織であるべきであろう。なぜなら、普遍的全体性を直接前提とするからである。しかし、階級形成の中かの党は、分権的組織体と各段階に応じて強められる中央形成との統一体であるべきである。
 しかし分権的自治的組織体と中央の形成は矛盾し、個々の現実的局面にあっては対立するものでさえある。この対立を対立の中から統一へと普段に高めてゆく媒介は、階級形成の中で成長する主体的共同性である。社会的隷属をその原因に遡って、すなわち賃金奴隷制の廃止に向て闘う結合された力として、現実的個人が現実的諸主体として社会的関係を新たに構成し立ちあがってくる闘争と団結の質こそがこの主体的共同性の基礎でありさらに組織的に活動する実践の中で鍛え上げられてゆく物である。この成長こそが総合から全体への、したがって中央形成の推進力である。この推進力なしにはこの対立は解決しない。逆にいえば、その段階における主体的共同性の程度においてしか中央は形成されないのである。これを自然成長的組織論と非難する人もいるであろう。観念体全体から現実的全体へと思考のなかで構成した党を考案する考えには理解できないことであろう。党は、単に理論から出発し、出来上がったものが拡大し多数性になればいいのではない。党はわれわれ労働者階級自身が生成する物なのである。
 ここで当然にも注意しなければならないのは、組織の本質的根拠と組織の現実的構造は同一ではない。この点を注意しなければならない。労働者の政治的社会的結合としての主体的共同性ということが、直ちに組織の実際のあり方なのではない。それは、組織の本質的根拠である。
 党組織は、労働者階級の解放の全過程を戦略的に明らかにし、政治的経済的開放の戦略の内容においてその真贋を大衆に問うことにより、その他の政治潮流との運動の推進をめぐる抗争の中に自らを形成することによって前進可能なものである。その本質的根拠がどこに据えられているのかということは、その戦略内容として明らかにされるものでなければならない。なぜなら、主観的に労働者の党であるということは、かならずしも革命的であるとは限らないからである。客観的に革命的であることを全体大衆の前に開示してこそ現実的労働者階級の現実的代表として指導性を発揮しうるのである。しかし、労働者の党で無い限りは、決して本当に革命的とはならないのもまた真実である。

 要約するならばこうである。労働者の自治能力の発展強化と、階級的全体性の形成は矛盾するように受け止められがちであるが、自治能力の発展抜きには主体的共同性は生み出しえないこと、生きた全体は結合の中からの総合過程を構造的に保持していてはじめて成立すのだということ、そして、この"主体的共同性=生きた全体性"を媒介にして個別性が全体的個別性として発展しえるのだということ、労働者のどこまでも発展的な団結の社会的性格にふまえ、この弁証法的円環が組織論として整理されねばならない。分権的組織と中央形成は主体的共同性の発展を媒介に統一されるのである。<階級形成の中からの党>とはこの立体的全過程である。現実的総合過程を内的論理として持たない組織は、生きた普遍性を生み出しえない。疎外された中央しかうみだしえない。
 したがって、階級形成と党建設は歴史過程をもつのである。そして、その過程は、大きく2段階に分けて区別されねばならない。「階級支配のもとでの、それを前提とせざるをえない段階の階級闘争」および、「階級支配の転覆が現実的課題となっている時期の階級闘争」に分けられる。前者においても資本のもとへの隷属の結果のみならずその原因へと向う闘争意識を蓄積しつつ、階級的政治性を発展させて行くのは当然であるが、後者における革命的階級形成とそれを根拠とする労働者の党建設の課題こそが、これまでの国際的階級闘争の歴史において欠落している中心のものである。
 そして、それがどこまで形成されたのかによって、形成された勢力によって決定的な階級決戦がおこなわれる。
 ローザ・ルクセンブルグの運動の一定の段階においては分権主義が、運動の発展した段階においては中央集権が、という問題意識は、革命的階級形成と形成された階級による政治決戦の時期との関連の中に捉え返される。
 われわれは、現実的な党の形成過程を組織構成とする観点から、革命的労働者協会の出発に当たって、基本組織と産別委員会、農民委員会、並びに、社会党委員会、社青同委員会、学生委員会等の特別委員会を設けて組織を構成した。この組織構造をさらに、明確に分権的組織と中央形成の統一体として反省する必要がある。
 とりわけ産別委員会の営為の中味は重要である。なぜなら、われわれの組織建設において、各地方に形成された諸組織の連合を結合へと高めてゆく媒介として位置付けたのが産別委員会である。従って、きわめて重要な媒介であり、かつ、どの程度統一性をもった結合へ成長しているかのバロメーターとしての性格をもっていたのである。われわれ内部における現実的総合過程はこの構造において推進されようとした。この実際の過程を総括することはこれからの組織の再建のキーをなす重要ポイントであると考える。この領域へとさらに総括を深めてゆかねばならない。
 レーニン主義批判の深化を課題として、われわれの組織的反省を進めている。上記の骨格の上に、「革命的階級意識=外部論」批判を組織論へと深める中から新たな組織論へと展開して行かねばならないと考える。

<われわれにおける問題点>
 ところで我々の内部で、繰り返し「レーニン主義」への回帰の流れが発生したと先に述べた。そして、実はレーニン主義という名の小ブル急進主義的なブランキズム程度のものでしかなかったのであるが、それにしてもなぜレーニン主義なのか。われわれのレーニン主義批判が一面的であったのか。または、これまでのレーニン主義批判の内容が十分理解されていなかったからなのか。
 この問題を、実際の闘争と組織建設の過程の中に掴み取らねばならない。
 レーニンの「何をなすべきか」から「一歩前進二歩後退」の過程は、経済主義との闘争という課題を全面に押し出した論争の過程であった。この時期は、我々の政治過程論で言うならば「階級支配のもとでの、それを前提とせざるをえない段階の階級闘争」および、「階級支配の転覆が現実的課題となっている時期の階級闘争」への過渡をなす時期における、階級闘争の前者への固定化の流れと、後者への推進をめぐる論争と言う性格として捉え返すことが出来る。
 このことは、ドイツ階級闘争における、ドイツ社会民主党の「中央派」からベルンシュタイン派とスパルタクス団派への分裂過程に対応するものである。
 このような課題を、レーニン的に推し進めようとしたときにレーニン的誤謬が前面化したのである。
 したがって、われわれに返して問題をつかんでみるならば、「戦後第二の革命期」すなわち、帝国主義的ブルジョア政府の打倒とソヴィエト政府の樹立が現実的課題となる時期の到来、したがって、革命的階級形成と党建設が急がれねばならないという段階的戦略的任務のもと、組織と運動を転換して行かねばならないという局面において、この新たな政治状況の中での組織的混乱のなかから、小ブル急進主義的傾向のなかにレーニン主義的誤りが発生したのである。
 他方、たしかにこれまでの「階級支配のもとでの、それを前提とせざるをえない段階の階級闘争」からの転換は、生産点の現場の組織メンバーにとっては実際にはとても難しい課題であった。革マルとの党派闘争はこの困難をさらに重いものにした。この正面からの内容的突破が問題であったのである。この点について確かにわれわれは成功したとはいえない。むしろその作業以前に組織混乱と一部の小ブル急進主義的傾斜によっておこなわれた「遅れた産別労働者」への打撃的政治的対応によって前進を阻まれたのである。情勢としては、革命期は浅いものとして終焉し、「スト権スト」の敗北を決定的メルクマールとして階級関係は劣勢に転じた。これとともに、われわれの戦略的転換を明確にするべきであったが、革命期の終焉を局面の転換を明らかにすることができなかった。したがって、このわずかな期間の経験なのであるが、革命的階級形成という戦略と、それと結びついた組織転換の内容についての貴重な総括をふかめねばならないと考える。
 それは、「連合赤軍」の内部粛清が、彼らの戦略と結びついた一つの組織問題であることも他山の石とする総括課題なのである。
 政治過程論と階級形成論の統一とは、前者の、先に述べた大きくは2段階に対応した2段階の質の異なる階級形成を意味する。70年代中期のわれわれ内部の論争の中央集約としての、端的には「革命的階級形成」である、とした内容を深化することにおいてレーニン主義の内容的批判的克服が可能となる。注意しなければならないのは、一部の構造改良主義潮流がすでに陥っている傾向なのであるが、もしこの点に踏み込まないレーニン主義批判は、当時の「経済主義」、「評議会共産主義」の潮流のレーニン主導のボルシェヴィッキに対する反撥とややもすると同類のものに堕することになるであろう。再度階級支配が揺らぎ革命期が到来する時期に、小ブル急進主義を超えて、革命的階級形成を推進することができるかどうかは、この領域の深化の中からわれわれが何を掴み取るかにかかっているのである。
 賃金奴隷の世界から、賃金労働と資本の両極ながらの廃止へと向かう全過程が段階的に戦略化されねばならない。今日の戦略論は、世界市場の広がりの中に資本主義的賃金奴隷制を廃絶してゆく国際的性格の戦略でなければならない。その意味でも、繰り返し現れる日本的小ブル急進主義の克服はわれわれの重要な課題である。
 革命的階級形成の推進と革命の現実的能力をもった党の建設を急速に進めなければならない時期において、短期に一切の内容が膨れ上がり、次々と質を高め大量の革命的労働者が登場するであろう。しかし重要な問題は、これを共産主義的に指導する前衛の力にある。全階級全人民の政治的一進一退を指導する内容的権威を欠落するならば、ブランキズムや宗派主義的敵対の混乱のなかに成功を取り逃がすことになるであろう。
 偽ものの前衛党をきっぱりと拒否し、自らの社会的隷属と政治支配からの解放のための革命的労働者党の建設のために再度布陣を広げよう。
 共産主義的前衛組織の建設を進めよう。
                                          2002・8・16