われわれはいかなる時点にたっているのか(2) |
(注)二〇〇一年五月〜八月の討議用レジュメに加筆・改稿(二〇〇三年三月) この稿は「われわれはいかなる時点にたっているのか(1)」を受けて、情勢分析、政治過程分析の前提として討議用に提起したものを発表用に加筆したものです。 |
(一)帝国主義の現段階
「グローバリズムとIT革命」といわれていることの核心――金融市場の中心(国)の移行=ニューヨーク市場から電網市場へ(榊原英資)、ということであって、もう一度中心国としてアメリカが復活するのでもなく、次なる基軸産業としてIT産業があるのでもない。
現在の危機の深刻度は、表層の危機ではなくて、
@金融市場の中心地における危機=アメリカにおけるバブルの崩壊
A基軸産業の交替
に根拠をもっていることにある。いずれにしても一〇年のタームでの危機といえる。
宇野段階論は、経済政策の変化の背後に資本の蓄積様式の違いを把み、その蓄積様式を主導する基軸生産部門に言及している。しかし、逆にいえば、宇野にとって基軸生産部門といいうるものは蓄積様式の変化を生み出し、経済政策の変化を生み出すような生産部門なのであって、単純に「その時代を主導する工業国家の基軸生産部門がその時代の世界的な経済構造を決定する」というのではないともいいうる。
第一次大戦以降(ロシア革命以降)の経済政策の変化の主因を社会主義国への対抗として捉える限り、新たな段階は設定されえない。
宇野段階論を「その時代を主導する工業国家の基軸生産部門がその時代の世界的な経済構造を決定する」というものとして規定しなおし、「イギリス・ドイツ・アメリカの鉄鋼業と鉄道建設に代表される古典的帝国主義、アメリカの自動車工業・耐久消費財生産部門とその関連産業によって特徴付けられる現代資本主義、そして、大衆向けコンピュータ(典型国はやはりアメリカか?)に象徴されるこれからの資本主義」とするならば、それが発展段階論たりうるためには、それぞれがいかなる蓄積様式の特性を持ち、いかなる経済政策(財政政策)を不可避とするのかまで説明しなければならないというべきであって、そうでないなら単に経済史の叙述にとどまるというしかない。
解放派「産業合理化論」の段階論的地平は、体制間対立を階級対立の疎外形態と捉えることによって、大戦間の産業合理化運動の体制的展開を「帝国主義の国家独占資本主義的展開の鬨の声」として把むということにあった(その本質論的地平としては、産業合理化は搾取の強化のみならず資本の支配の強化ととらえることにある)。
大戦間の「産業合理化運動」と第二次大戦後の「産業合理化運動」の段階的差異については直接には言及していない。
しかし、対外政策としては、大戦間はそれは未だ侵略=市場再分割戦と結びつき、第二次大戦後は反革命階級同盟の成立と「後進国開発政策」と結びついていることを鋭く指摘した。
そして、資本主義世界体制の現段階を金融市場の中心(国)の移行と基軸産業の交替と捉えたとして、それは世界史大においていかにプロレタリア階級に対する支配の強化としてあらわれるのか、したがってそれは、いかなる国際関係(東西関係と南北関係)の変化を伴なわざるをえないのかが問題である。
ヨーロッパにおけるEUとユーロの出発を傍目に見ながら、また九七年アジア金融危機を受けながら、「円決済圏」の構想が再び登場している。グローバリズム(金融電網市場)に対して地域主義(ブロック化)が台頭し、拮抗しようとしている。しかしそれにしても、日中朝・韓の北東アジアの二一世紀新時代の構想抜きにはありえない。
そうした時代において、プロレタリア・インターナショナルの道を探っていくのが我々の課題である。
旧ソ連の体制を覆したのは、階級闘争の帰結としての民衆蜂起であったことは間違いない。
しかし、スターリン主義体制とは、徹底したプロレタリアートの団結の解体の結果に成立している体制である以上、それ自身の国際的に孤立した闘いによる転覆は、ある意味では必然的に再び「簒奪」されざるをえなかった。体制的危機におけるスターリン主義党官僚の分裂、主要には党中央官僚に対する地方党官僚の分立。
そして、「官業払下げ」にも似た地方党官僚による国営企業の簒奪。
ソ連圏崩壊後の東西関係・南北関係。
民族問題、宗教対立として現象している南北問題。
「貧困」が改めて問題になる時代。
「民族自決・内政不干渉」(レーニン、ウィルソン的段階)から「人道的介入」の時代へ。
「周辺事態」として問題にされた台湾問題とは「集団的自衛権」の問題ではなくて、むしろこの「人道的介入」の問題として、「一つの中国=台湾は内政問題」というニクソン・ドクトリン=日中国交回復の地平を越えているものを含んでいたことを凝視しなければならない。
九・一一以降の対テロ戦争。
(二)今日の政治状況
〈1〉小泉政権の性格
小渕政権から森政権へという政権のたらい回しという危機が「加藤の乱」を生み出し、森辞任から小泉の予想外の勝利へと帰結した。「自民党をぶっ潰す」と言った候補が圧倒的に支持を受けて自民党総裁になるということに示される自民党支配の手詰まり状況がある。
「改革者」として登場した小泉――真の意味での「改革」は既得権益の破壊である。既得権益の側からの反撃がどれほど強いのか(ゴルバチョフ改革と共産党クーデター)を知っている我々は、結局彼はニセの改革者であるという批判だけでは十分ではない。
いま岐路に立っている「改革」は何を巡っているのか、この「改革者」としての小泉政権の性格は何であるのか、そのためには少し時代をさかのぼって検証していくことが必要である。
「われわれはいかなる時点にたっているのか(1)」で、
戦後第二の革命期の敗北によってもたらされた戦後資本主義世界体制の第二期がかくしてG5協調体制として本格的に開始された。この第二期は「農地流動化」のみならず「土地と労働の流動化」の時代である。
この第二期の先進資本主義国における政治過程論を、さらに歴史に学びつつ深化していかなければならない。
と、述べた。
この第二期の第一段階の政治的体制を中曽根政権の成立の時期に焦点を絞りながら解明していくことがまず第一に果たされなければならない。
それは、ブルジョアジーが政治支配能力をすでに喪失し、しかしプロレタリアートが政治支配能力を獲得していない一時期において必然的とした、われわれの「ボナパルティズム」論(あるいはグラムシ的に言えば「カエサル主義」)をいかに反省し、いかに深めるべきかということでもある。我々はそれを政治過程のいわば「原理論」ともしていたのだから。
五五年体制において成立した自民党と自民党政府について、六九年の革労協結成にむけた政府スローガン=政府・権力問題の提起において、「帝国主義ブルジョア政府、すなわち独占ブルジョアジーを中心としたブルジョア連合の政府」と捉えた。
この規定が、七六年の新自由クラブ結成をもっての自民党の分裂の部分的開始と七九年大平政権を嚆矢とする連立政権時代にあって、いかに発展させられるべきなのか。
戦後日本国家独占資本主義は、政治的に見れば一九八〇年を前後する時期に、一つの転換点がある。五五年体制と言われる体制がどこまで続いたのかについては議論がはっきりとしていない。しかし、この八〇年を前後する時期に、自民党から新自由クラブが離脱し、社会党から社会市民連合、社会民主連合が離脱していったことの意味を捉え返す必要がある。
それはまた、ロッキード裁判とともに進行した「田中派支配」といわれたものの実体は何であったのかということでもあるだろう。
七八年自民党総裁選予備選、大平勝利。福田「天の声にも変な声がある」
七九年一〇月、総選挙敗北を受けて、四〇日抗争、保保連立(新自由クラブ)で大平政権発足。赤字国債依存体質からの脱却として一般消費税導入を提起。
八〇年、福田派の欠席により大平首相不信任可決。総選挙中に大平急死し、自民圧勝。鈴木政権を過渡とし中曽根政権へ(しかし鈴木政権は日米関係で言えば単に過渡ではないものを含んでいる)。
八二年自民党総裁選。総総分離という妥協形態を拒否して、予備選挙に。河本優勢の事前予想を田中派による業界団体を通した締め付けで覆し、中曽根逆転勝利。八三年参議院選挙に比例制導入。自民党は分野別利益団体を比例選の順位獲得のためにということで動員し、系列党員を拡大し組織化した。
自民党は田中列島改造以降、政・官・業癒着の基軸政党として変質しつつ、この比例選を通した三〇〇万自民党の組織化で制度化を完成させた。
八四年総裁選を巡って、野党の一部を巻き込んだ、鈴木・福田・河本等による二階堂擁立劇。八五年創成会発足で田中派分裂。
八六年衆参同日選挙において、衆議院三〇〇議席を獲得し、中曽根は「左にウィングを伸ばした」と自認した。中曽根行革は、臨調という合意形成方式を導入し、民活の名で官・業癒着を拡大した。
この時代は、大平による一般消費税の提起から中曽根政権の売上税を経て、八年がかりで八七年一二月竹下による消費税の導入と、ロッキードからリクルートに到る政治スキャンダルの時代であったが、政治制度としては、@自民党総裁選予備選挙の導入、A参議院選挙の全国区に代る拘束名簿式比例選挙の導入、B「第二臨調」という議会外での国民的合意の形成によって特徴づけられる。
この体制は、旧来の議会を通した妥協の形成が曲がり角に立ち、他方で、全国的業界団体の組織化をすすめ、議会外での合意形成を模索しているという意味で、欧米に倣って、日本的コーポラティズムと規定づけてもいいが、しかしそれは「労働なきコーポラティズム」であり、連合結成はその体制に遅れて参与を目指したものだが、この時期には協調主義の一翼を占めるには到らなかった。
そしてこの体制も八〇年代における日本経済の国際的台頭――プラザ合意に到る――とともに、政治的諸制度の再編成を繰り延べし、九〇年代のバブルを演出し、その破綻によって、その時代的限界を示した。
九二年日本新党の結成にはじまり、九三年新党さきがけ、新生党の発足(平成会=旧田中派の分裂)による九〇年代政界再編成の始まりは、この八〇年代の日本的な政・官・業癒着体制のいきづまりを示しているものといっていい。
九三年八月の細川連立政権(八党派連立政権――社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合)の成立という荒業は、日本新党という都市型小ブルジョア政党をシャッポにしての改革派連合政権であった(「国の基本政策について、これまでの政策を継承しつつ」「自由民主党政権の下ではなしえなかった抜本的な政治改革を実現する」――七月二九日「連立政権樹立に関する合意事項」)。
そして、ともかくも小選挙区制の導入という選挙改革は導入された。
この九〇年代政界再編成の一方の旗頭でありつづけたのは小沢であったが、小沢は結局この政・官・業の中央集権的調整システムの申し子であり、政権獲得による上からの組織化以外の手法を知らず、日本新党・新党さきがけとの連立によって、既得権益化した自民党的地方ブルジョアジー・農村勢力に中央・都市中間層利害を対置したにすぎない。
そして、なによりも細川政権が「国民福祉税」構想で破綻したことに示されるように、産業的国民的基盤のダイナミックな変化は、中央集権的調整手法自体の終焉を意味しており、時代はそれに変わるシステムを要求しているのである。
羽田連立政権は連立の構成こそ辛うじて維持されたが、同床異夢の過渡的なものであり、「社・さ」が離脱して自民と連立し、村山・自社さ連立政権が成立する。社会党の「左派」がヘゲモニーをもっての自民との連立――。
戦後資本主義世界体制の第二期の第一段階の日本における政治的体制は中曽根行革によって生み出された新たな政・官・業・癒着システムであった。
中曽根「行革」は何をもたらしたのか? 土光臨調による「特殊法人等を制限」によって特殊法人・認可法人から公益法人へと「焼けぶとり」。民活によって拡大したのは地域開発だけではない。行政機能の代替という掛け声で公益法人による検査、検定、認定、資格付与などの領域が拡大した。それは官僚のシステム化された腐敗を広範に生み出した。
そして、政権運営に不慣れな少数党による連合政権は、外交の継続、政策の継続の建前で官僚独裁の傾向を強めることさえ許した。この構造を前提にしているかぎりでは細川連立政権も村山連立政権も、その意義は少なくないとは言え短命に終らざるをえなかったのだ。
大蔵省スキャンダルを筆頭に、厚生省、警察、外務省とうち続いたスキャンダルまみれの官僚や各省庁にへばりついた公益法人システムは、この利権集団がグロテスクにまで肥大化したことを示している。この利権集団に対する不信は、すべての政策に対する公正感を奪い自民党支配の究極の危機が訪れていたのだ。〇一年の自民党総裁選挙を前にした状況は、尻すぼみに終った加藤政局によって、誰の目にも自民党の最後を告げているようにみえた。
だからこそ、自民党員自身の危機感のもとで総裁選は実質的な全党員参加の予備選挙となり、有利といわれた橋本が業界団体の締め付けもきかず一般党員の圧倒的反乱の前に敗れ去り、小泉政権が登場した。これは、二〇年前の中曽根勝利と逆の結果なのだ。自民党員自身の行動がこの二〇年続いたシステムの終焉を告げているのである。〇一年の参議院選挙に比例選に非拘束名簿式が導入されたのは、業界団体の組織力の低下を危惧した青木らが、その組織的強化のテコとして導入したものであるが、歴史の皮肉は、その組織力の低下を白日のもとにさらした。二〇数年ぶりのタレント選挙の復活もしかし歴史は単純回帰ではないことを示した。
〈2〉民主党を読み解くキーワード――反政府連合党としての民主党の性格
八九年末の連合発足、九〇年代に入ってのソ連圏の崩壊、日本経済のバブル崩壊を通して、細川政権という非自民政権が登場した。この細川政権、そして細川連立政権の崩壊の引きがねとなった、小沢―武村対立、その背後にあった、消費税を福祉目的税七%にという大蔵省路線。更に羽田政権の崩壊に繋がる新・新党構想、その対立の中から自社さ連立として村山政権が出発する。そしてこの村山政権から橋本政権へと「自社さ」を通して自民党政権が復活していく。
民主党は、自社さ政権の中から、社さ合併構想を否定して、反自民政党として出発した。
八九年 日本労働組合総連合発足(一一)
九二年 日本新党(五)
九三年 新生党、新党さきがけ発足(六)。細川連立政権(八)。
九四年 羽田内閣(四)、自・社・さ連立村山政権(六)
九五年 山花新党挫折(一)
九六年 橋本政権(一)、第一次民主党発足(九)、衆議院選挙、社・さ連立離脱(一〇)、太陽党(一二)
九八年 新進党分裂、統一会派「民友連」の合流で第二次民主党発足(三)。
第一次民主党はリベラルを旗印に「官から民へ」を合言葉にさしあたっては第三極を形成するとして登場した。その後、野党第一党であった新進党の解党とその一部が合流することで、第二次民主党として野党第一党に進出した。この第二次民主党において諸階層の連合がいかに成立しているのかが問題であるが、しかしその出生の経過に規定されて「リベラル」の性格を濃厚に帯びている。
この「日本的リベラル」を巡っては第一次民主党の結党当時はそれなりに論議を呼んだがその後の経過の中であいまいなまま残されてしまった。しかし当時、高野孟が「社民リベラル」、「保守リベラル」、そして「市民リベラル」の合流と位置付けたのは、旧来の諸勢力の連合と対抗とは異なる配置図を「リベラル」=中央集権批判として描くということであったように思われる――そして実はその時の高野にとってのキーワードとでもいうべき視点は「市民リベラル」という層の登場ということにあったのではなかったか。
そして、ローカル・パーティの連合党という形式での社会勢力の糾合をもふくみつつ政党としての成長を展望したが、その途上において、新進党の一部の合流によって野党第一党の役割を担うということで、二重の未成熟を抱えたままの出発となった。
出発にあたっての、この政党自身の自己規定はどうか?
「私たちの基本理念――自由で安心な社会の実現をめざして――」(一九九八年三月)において、「私たちの立場」をこう宣言している。
「私たちは、これまで既得権益の構造から排除されてきた人々、まじめに働き税金を納めている人々、困難な状況にありながら自立をめざす人々の立場に立ちます。すなわち、『生活者』『納税者』『消費者』の立場を代表します。」
そして「私たちのめざすもの」についてはこうなっている。
「第一に、透明・公平・公正なルールにもとづく社会をめざします。
第二に、経済社会においては市場原理を徹底する一方で、あらゆる人々に安心・安全を保障し、公平な機会の均等を保障する、共生社会の実現をめざします。
第三に、中央集権的な政府を「市民へ・市場へ・地方へ」との視点で分権社会へ再構築し、共同参画社会をめざします。
第四に、「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」という憲法の基本精神をさらに具現化します。
第五に、地球社会の一員として、自立と共生の友愛精神に基づいた国際関係を確立し、信頼される国をめざします。」
「透明・公平・公正」を掲げて「これまで既得権益の構造から排除されてきた人々」の立場に立つと明言しているように、民主党は、直接的には八〇年代型既得権益層に対立して形成された今日の国家独占資本主義を何らかの桎梏とする諸勢力の連合党であると言うことが出来る。「市民の政治」は「利権の政治」に対置された概念であった。
その一翼に、中・高級労働者層の利害の擁護者として組織された「連合」が連なっている。「連合」は、既得権益構造にも組み込まれながら、しかし現在の危機の中でその利害も揺らぐなかでは、反自民の政権に自らの利害を托さざるをえないし、膨大な未組織労働者の大群を意識せざるをえない。
国家独占資本主義とは、「国家独占資本」が支配的な資本主義でもなく、国家が単に財政・金融政策を通して経済過程に介入するのでもない。財政投融資や公共事業を通じてのみならず、あらゆる規制を通じて、政権との結びつきなしには経済活動が不可能なほどまでに、経済と政治が癒着している資本主義である。それは福祉国家の外観を取ろうと土建国家の外観を取ろうと同様である。
その戦後日本国家独占資本主義が八〇年代再編成によって、既得権益層の政治腐敗・官僚腐敗が新たな様相を呈し、国際的環境からも日本資本主義の発展にとって桎梏となっている。その背景には、旧来型の建設・土木中心の公共投資の経済浮揚効果(波及効果)が効果的に現われなくなったことに示される日本経済の構造変化、アジアの低賃金構造を利用しながらの国際分業の再編成、構造的円高による国内産業の「空洞化」がある。
若手官僚の顕著な自民党離れ。銀行、建設・土木ゼネコンの危機。ベンチャー系の政治無関心。
それらが今日の中央政治における自民対反自民の政治攻防を規定している。
しかし、最大の問題は、地方政治においては、民主党もさらには社民党も既得権益に絡めとられたままの政治勢力でしかないことにある。対抗が政治的理念的なものにとどまり社会勢力にはなりえていない。
しかし、民主党はいずれにしても一つの社会性を代表する政党ではない。
市民政党や国民政党という規定は、市民や国民という社会性が存在するということを前提としている。しかし、「市民」「生活者」という規定性は現代社会の表層的理解にとどまるのである。だからといって、「民主党」がなんらかの社会性によってすぐに引き裂かれていくというのも短絡した理解である。
四肢の隅々までに張り巡らされた「公共」の名による既得権益は人々の生き生きとした力への寄生の上に成り立っている。プロレタリアートがその力を普遍的なものへと形成することが決定的に弱まっている現在において、この力の強大さは「これまで既得権益の構造から排除されてきた人々」の連合を成立させるに十分なのである。
了