いま何故、過渡的要求なのか
プロレタリア統一戦線―共同戦線と社民内分派闘争路線

                    角 行成

1 二〇〇三年総選挙――その諸結果に現われたもの

@ 今次総選挙の結果を保守二大政党制の成立として総括していく流れが、「左派」を称する人たちの間に根強くある。果たしてこういう見方は正しいのか?
 単純に言って、九六年総選挙と比較してみるならば、こうした見方の一面性にはすぐ気付くであろう。

    
一九九六年総選挙の結果
   計  選挙区 比例区
自民党 239 169 70
新進党 156 96 60
民主党 52 17 35
共産党 26 2 24
社民党 15 4 11
さきがけ 2 2 0
民改連 1 1 0
無所属 9 9 -
合計 500 300 200
二〇〇三年総選挙の結果
   計  選挙区 比例区
自民党 240 171 69
民主党 177 105 72
公明党 34 9 25
共産党 9 0 9
社民党 6 1 5
保守新 4 4 0
無の会 1 1 0
自由連 1 1 0
無所属 8 8 -
合計 480 300 180



 周知のように、九六年の新進党は、主流としては民主党へと合流しているが、自民党復帰組(今回の保守新党を含む)、公明党を含んだ数字である。このときの総議席数は500であり、自民党は過半数割れで連立を継続せざるを得なかった。
 数字的だけを見るならば、「保守」二大政党的流れは、既に九六年の段階で現実的に存在し、それに対して民主党がリベラルの第三極を掲げて挑戦を挑んでいたのである。それから七年を経ての民主党の「躍進」を、民主党の保守化の末と見るのか、自民に対する「対抗軸」の設定の有効性ととるのか、それは新進党の分解の評価にもかかわっているのだが、そこから今日の二大政党制の性格を評価していくべきである。
 九六年の結果が、掻き集められた細川連立政権からの後退戦の中での二大政党対立であるとするならば、〇三年の結果は、対峙へと移行しつつある二大政党対立である。民主党によるこの対峙への移行が、自由党という都市ブルジョアジーの期待を担う政党の吸収によって可能になったことを看過することは出来ないにしても、しかしヘゲモニーが移行したわけではないことも確かである。

A そしてまた、この二大政党制の時代は、五五年体制の一方の旗頭であった社会民主党の没落をさらに改めて告知した。
 「護憲」のスローガンが虚しく響いていた。憲法九条は、自衛隊(警察予備隊)創設以来の度重なる解釈改憲によって、ずたずたに踏みにじられ、法の無力、無力の法であることをさらしつづけている。この無力の法を護れというスローガンが虚しくないはずがない。民主党の躍進が、二大政党制の成立と総括されて与野党伯仲を生み出さなかったことは、民主党の議席増が、社民党や共産党の議席を食うかたちで為されていることにもある。しかし、民主推薦を受けた社民候補の得票率を見るならば、社民党の敗北は「マスコミによる二大政党制キャンペーンによって埋没した結果」であるというような見方がいかに皮相であるかを示しているだろう。
 しかし、社民党がこのまま消え去ってしまえばいいというものではない。この選挙結果の次のステップは、与野党逆転であろうが、そのとき社民党として表現されている左派第三極の果たす役割は決して小さくはないだろう。
 プロレタリアの利害がしっかりとネットワークされているならば、そのネットワークが民主党的反対党の中に組み込まれていても問題は少ない。しかし今日のようにそのネットワークが弱体である場合には、民主党的反対党の外部に左派第三極が現実的力をもって存在していることの意味は大きいのである。しかし、「社民」の再生のためには、「擬似社会主義」的政策以上の新政策を模索しない限り、最小限の再生さえ困難というべきかもしれない。

2 社民内分派闘争路線の総括

@ 我々は「社民内分派闘争路線」を六〇〜七〇年代を通して、いわば「党是」としてきた。しかし、民主党の発足以来の再編過程の中で、社会党内に残って活動していた多くのメンバーも、地域事情や支持組織の態度等にも規定されつつ、実践的な政治空間を求めて、ローカル・パーティや民主党に移行してきていた。
 八九年の「連合」発足以降も辛うじて残されていた、「平和センター」等の総評・社会党ブロックのさまざまな形での運動体が、九八年の民友連の合流、新民主党結成をうけた連合政治センターの発足(九九年)によって、解消に向ったのである。
 我々は、七〇年代において社会党の「帝国主義社民化」を問題にし、それへの対抗を呼びかけた。「帝国主義社民」という規定を多かれ少なかれ、「帝国主義の戦争とファシズムへの突撃」という脈絡の中で捉え、帝国主義社民をその道に抵抗し得ないのみならず、その道を掃き清めるものとして捉えていた。旧民社・同盟の極端な反共ナショナリズムは、まさにその予兆を示すかであった。
 しかし、八九年の「連合」結成は、「右翼的労働戦線統一」であったことは疑いのないところではあるが、その後の展開はその意味での「帝国主義的労働運動」とまでは言い難いものであった。それは、社会党的反対党に見切りをつけて、政府と直接に制度・政策について協議し取り引きするという「ネオ・コーポラティズム」への衝動を持ったものであった。しかし、日本型コーポラティズムは、「労働なきコーポラティズム」であったと総括されるように、「労線統一」は対政府交渉においてほとんど力を発揮することはできなかった。連合の政治活動は、社会党の土井ブームの片棒を担いだ、連合発足直後の「連合候補」台頭の時期に一時的に脚光を浴びたにすぎない。

A 九六年に出発した民主党は、ローカルパーティ連合的流れとの協力関係を含んでいたとはいえ「議員党」として自覚的に自己限定して出発した。その後、地方議員や議員候補等の位置付けという議論や党首選を巡ってのサポーター制の導入などの支持層の組織化という観点はあっても、かつての社会党のような党活動家層という問題意識はない。それは「議会政党」としての純化である。それは五五年体制的反対党への反省・訣別として、この国家を前提とし、その枠内での政府交替を目指す政党としている。無論、五五年体制下の社会党も全般的にはそうした性格の党であったのだが、部分的には労働者大衆党的性格を孕んでいて、それが「左翼バネ」ともなっていた時代があった。民主党はそういう意味での大衆政党ではない。大衆運動のネットワークは党の外に立てていくしかない。反戦青年委員会の形成や国際反戦デー、全国各地の反基地闘争、あるいはまた反原発闘争などに、それなりの役割を果たしてきた社会党との大きな違いである。
(民主党の性格については『解放の通信』第4号「われわれはいかなる時点にたっているのか(2)」中の「〈2〉民主党を読み解くキーワード――反政府連合党としての民主党の性格」の項も参照のこと)

B 我々の六〇年代社民内分派闘争は社青同の青年活動家の組織化が実態であり社会党内の内実は、党活動家層の拡大までにはいたらず、党オルグ層への配置・浸透をはかれたにすぎなかった。最も強調された職場支部の建設は全く不充分だった(革同ですら)。まして議員活動への取組は、七〇年代を通じて「革新無所属」が主軸で、「党員議員」は個別的事情にとどまった。
 八〇年以降、「社民内分派闘争路線」への回帰を主張する部分の実際上は、単に社会党(社民党)内への舞い戻りであって、「分派闘争(路線)」は皆無である。

C こうした民主党、社民党の現状の中で、我々はもう一度、我々の社民内分派闘争路線とは何であったのか、出発点からの提起に戻りつつ、その現在を確定しよう。
 「『革命的新党』へ既成政党から革命的部分がこぼれ落ち、そうして、既成政党が破壊されるという期待の上にたてられた党建設の不充分さは、第三インターナショナルによる多くの共産党の建設、特にドイツ共産党の運命が証明している。革命期でさえも社会民主党は破壊され得ず、日和見主義を完成させつつ強大なままで生き残してしまった。」(『解放6号』)として、「新たな労働者党は既成政党の分派闘争による解体過程を通じてのみ建設される」という原則を立てた。
 『解放6号』において「アプリオリ」だったのは、「社民内」(社民のかつ内部から)ということであって、「既成政党の解体を通して」ということは、「現実的普遍(の形成)」として立てる我々の基底的原則からの当然の帰結である。
 その後、通信委員会において、革労協・革労団・革労委構想として立てつつ、当面、革労協に集中するとしていく過程は、現実の実践過程に規定されたものであると同時に、国独資における「合理化論」とそれに基く「社民論」の深化があったといっていい。
 七〇年代初頭の反戦・革労協パージは、たとえそれを「部分的分裂の開始」と言うことは出来たとしても「社会党の解体過程の始まり」ではなかったという現実がある。
 それは、今日から振りかえってみるならば、なお「総評」「総評青年協」は戦闘性を残し、他方では、労働組合を出発点から生み直しつつ、それを越えるとした行動委員会運動とその全国連合(全国行動委連合準備会)が七〇年代においてなお力を持ちえていないという実態であった。社民内分派闘争を実現形態とした行動委員会運動の中からの党建設という路線からすれば、この分野の未成熟こそが党建設の段階を規定づけていたとするべきである。
 「プロレタリアの階級への形成従って党への構成」として、プロレタリア党の建設過程を現実的普遍の形成過程として捉えていくとした場合、部分的分裂の「部分性」、「普遍的特殊」の現段階性は、単に自らの組織建設の状況のみならず、「他者」の現実的力によってもまた測られなければならない。
 すでに七〇年代にたとえば「『プロレタリア統一戦線論』の検討」(倉田洋)において、
 「たとえばレーニンは、自らがすでに『第二インターナショナルの崩壊』において、公然と分裂を呼びかけ、さらにローザが「腐臭ふんぷん」と形容したドイツ社会民主党について、一九二〇年の段階で、なおかつ次のように述べている。」
 として、『共産主義における「左翼」小児病』の次の一文を引用している。
「ついでながら一言しておくが、われわれが一貫してまもって来た意見、すなわち革命的なドイツ社会民主党―この革命的社会民主党こそ、革命的プロレタリアートが勝利するために必要とする党にいちばん近いという意見を、今日歴史が、大きな世界史的な規模で確認しているのである。戦争の時期と戦後の最初の年月とのあらゆる恥ずべき崩壊と危機がすぎ去った一九二〇年の現在、西欧のあらゆる党のうちで、革命的なドイツ社会民主党こそがもっともすぐれた指導者を出しており、またこの党こそがほかの党よりも早く立ち直り、回復し、ふたたび強化されていることは、はっきりしている。このことは、スパルタクス団にも『ドイツ独立社会民主党』のプロレタリア左翼――これはカウツキー、ヒルファーディング、レーデブル、クリスピンの日和見主義と無節操とにたいしてねばり強く闘争している――にもみられる。」
 しかし、こうした指摘は、社会党を帝国主義的社民への転落と規定した七〇年以降、しかしなお生命力を保ち展開していた社会党に対する方針としては活かされず、政治上の実践空間を求めての社会党への回帰はあっても、路線的な捉え返しはほとんどなかった。
 実際上の社会党の分裂過程は、次のように進行した。
 七七〜七八年の社市連、社民連の結成という部分的分裂。そして、八九年一一月総評解散=連合発足と九四年六月村山政権、九六年一月社会民主党に党名変更という過程を経て、三月新社会党結成、九六年九月民主党発足(九八年四月民友連合流)によって、本格的に社民党は分裂していった。
 すなわち、労働戦線の右翼的統一を背景にしながら、直接には政権参加――細川政権への参加から村山・自社さ政権へという過程――の結果として現在の社民党は存在している。この政権参加が、選挙による社民党の前進の結果ではなくむしろ後退の過程で起きたことによって、社民党は混迷を深め、その混乱は現在まで尾を引いている。

D 革労協は七〇年パージの後には、社会党の中では分派としての公然たる活動を控えざるをえなかった。七〇年パージ自身は、社会党の右傾化路線であったこと、それが左派的エネルギーを刈り取り、社会党の長期低落からの再生の芽を自ら摘むものであったことを指摘するのはたやすいが、しかし我々の中に問題点はなかったのか。
 八五年の段階で、「共同戦線党」論について、社会党内活動の再定立の過程で、次のような把握に至っていた。
「この共同戦線党という規定に対するマルクス主義者の側からの代表的な見解の一つはこうであった。
 共同戦線党とはそれ自体自己撞着である。真に共同戦線であればそれは党ではなく、真に党であればそれは共同戦線ではありえない。党は党である限り何らかの利害が一般的制約となって存立する。現実の社会党は小ブルジョア的利害(より正確には帝国主義段階において成立する小ブルジョア的利害と労働官僚的利害の癒着したもの)を一般的制約者とし、プロレタリア的利害を部分的制約者とした政党である、と。
 したがって、そこから導き出されるマルクス主義者の任務はプロレタリア的運動の推進・発展とともに必然化するこの二つの利害の衝突を分派闘争として組織し闘い抜き、プロレタリアートの政治的定立−労働者党としての定立をめざすというものであった。
 こうした見解の正否を問うのがこのの小論のさしあたっての目的ではない。問題はこの立論の欠落部分である。それは何なのか。
 この把握の限りでは、分派闘争の進展に応じて、いいかえればプロレタリア的分派の発展に応じて、リアクションは当然に想定されうるし、その攻防を通してある意味では分裂は不可避であり、問題は少数か多数か、あるいは質的ヘゲモニーをどちらがにぎるかの問題となる。
 その結果、形成される社会党の右派も帝国主義社民の規定のもとに民社と一括され、早晩それは合流するものとされる。いやむしろ、プロレタリアの闘いはそうした右派を“析出する”とさえされていたのではないか。
 くり返していえば、その洞察の正否が問題なのではない。問題にすべきは、果してそうした立て方が“政治”でありうるのかということである。ことの正否は闘いの結果でしかない。何らかの意味で、現在、共同の戦線を組んでいる部分との決裂を“析出する”という立て方はいわば敗北主義である。
 そうした立て方にはこの共同戦線の成立の契機が何であり、その目標が何であるのか、ということの欠落があるのである。すなわちその共同の目標は小ブルジョア的な制約とされ積極的な意味を与えられていないのである。
 いいかえれば、この共同戦線の契機が積極的なものとしてつかまえられていないという問題は、「真に共同戦線であるならば党ではありえない」という時の“党”観の問題でもある。日本社会党が党を名乗るからといって、マルクス主義的意味での党的組織であらねばならないというわけではない。
 党とは徒党の党、程度であって十分なのだ。
 こうして、社会党を共同戦線として明確につかむならば、当然にも、いかなる共同戦線かの問題を避けて通ることはできないことになる。
 その共同戦線の中に“強固にプロレタリア的である分派”が存在してもいい、しかし、その分派は分派の成立の契機とともに、共同戦線の一翼を形成する契機を鮮明にしていくことも必要とされるのである。
 少し、抽象的規定にこだわりすぎたかもしれないが、要は、共同戦線である限り、ある幅をもって諸グループ、諸政治傾向が並存しうるであろうが、その政治的競い合いが、一派による他派の制圧や排除ではなくて、共同戦線全体の前進に帰結するような組織論、作風が求められているということである。」
(永倉進「ニュー社会党路線と大衆運動」『新地平』85年4月)
 すなわち、共同戦線としての共同目的をプロレタリアの独自性に対する小ブル的な制約性としてのみ掴むのではなく、その共同戦線としての共同目的の積極性を評価し、その前進の中でプロレタリア的独自利害の発展も捉えていくということである。
 こうした評価は、ある必然性をもって「中間政府」とされてきたものへの再評価を含まざるをえないことになるが、この論文は大衆運動がテーマとされていて、そのことは明示的ではない。
 「中間政府」は、「プロレタリア階級の政治支配能力」の遅れの結果であり、ファシズムへの道を掃き清めると規定してきた。しかし、「プロレタリア階級の政治支配能力」はまたその「中間政府」のせめぎあいの中でこそ磨き上げられるのであって、その「外」で開示され獲得されていくということではない。
 解放派は、ややもすればプロレタリア的独自性のみを強調し、共同戦線については敵に規定されて自ずと成立するものとされ、消極的である傾向を否めなかった。しかし、七一年高見選挙において「過渡的要求」の全面的整理を開始し、「七〇戦線」という共同戦線を自ら作り出そうとした稀有な経験をもう一度捉え返す必要がある。

3 いかなる展望をもってこの過程にかかわっていくのか
    ――共同戦線の大胆な推進、そのための過渡的要求

@ 「既成政党の分派闘争による解体過程を通じてのみ建設される」とした「我々の路線」の現段階的継承の道は何であるのか。政党の再編成過程を直視しながら、既存の労働者組織を前提しつつ、しかしその内在的超越・超越的内在によって、階級形成をはかっていくしかない。社民党の分裂=民主党の発足は、戦後第二の革命期の敗北、資本主義の戦後第二期の開始、東西対立の解消、等を承けての新たな政治的対抗軸の形成を意味していた。
 労働組合の社会的規定力(道義的力)はますます後退し、組織率の低下を食い止めることも出来ていない。連合は、政府との直接交渉という道さえも「政権交代」抜きには発言権もないというなかで、民主党政権実現へ傾斜している。
 しかし、連合は戦争協力勢力ではないとしても、「改革」勢力ではない。もちろん今日の「改革」や「規制緩和」が単に戦後国独資の制度疲労(官・業癒着―官僚腐敗)の改革ではなくて、「工場法」のレベルでの労働者の権利を奪わんとする傾向をもっていることは見逃すことのできないことではあるが、しかし連合の改革反対は下層人民の利害を含んだ普遍的利害とは無縁な「労働貴族的」特権にしがみついているにすぎないという傾向が根深くある。だが、労基法改悪や有事法制を巡っては、全労協、全労連との共闘に踏みこみ、「連合評価委員会」の提言を受けるなど新たな道を模索している。
 連合の支持を得ている民主党はかつての社会党のように労働者大衆を党員として抱えているような政党ではなく、議員及び議員予備軍を中心とした政党である。今後この党がその性格を変えていく可能性がないとは言えないにしても、おそらくプロレタリアの階級としての組織化の前進が民主党内分派として育つということは考えにくい。むしろ政党の内外を貫いた「共同戦線」を構築し、そこを通していかに連携していくかが問われているのではないか。そのために民主党に対して内在的批判的に関わっていくことは重要である。
 そして、それとともに左派第三極の形成を、独立左翼が力を発揮して、社民党、新社会党、脱共産党グループ等との連携の中で急速に成し遂げることが重要な課題となっている。
 そうした政治戦線を中軸に重層的な「共同戦線」の中から「プロレタリア的要素」を育て発展させていくことこそが我々の任務であろう。「過渡的要求」に向けての努力ははこうした二重三重の役割を持っている。独立した利害を公然と掲げながらの重層的な共同戦線を張り巡らして行かなければならない。

A 同時に、ヨーロッパ社民的政権交代が必ずしもプロレタリアの階級形成に結びついていかない欠陥を如何に越えていくのかを射程にいれておかなければならない。
 ヨーロッパ的社会民主主義とは、要約するに、資本主義的先進諸国において、国家権力の掌握を通して、資本の社会的権力は擁護しつつ、しかしそれに制限を加えて、国民の福祉の向上、労働条件の改善を図らんとするものだということが出来る。それはしたがって、資本主義的先進諸国の特権的地位の維持が生存条件であり、したがって、国際競争力の維持、ナショナリズムを不可欠としている。
 こうした社民の弱点を見据えその弱点を超えていく社会運動に力点を注ぐことが、あらかじめ失敗の道を先回りして防ぐことになるだろう。

B過渡的要求のための留意点
注・「何故に闘うのか――現在の闘いの意味と方向」一九六八年一二月、「佐藤訪米阻止闘争の“敗北的前進”」一九六九年一二月、「何をなすべきか――帝国主義ブルジョア政府打倒・労働者政府樹立の道の確立のために」一九七〇年六月等を参照せよ。
 過渡的要求は政治権力に向けての階級としての要求、すなわち何らかの法律をもぎとるなどの階級としての政治運動である。
 過渡的諸要求の一つ一つを孤立的に取り上げて見れば、全てブルジョア社会の限界内の要求である。
 しかし「一連の過渡的要求」又は「過渡的要求の全系列」――過渡的要求の「全部」の実現は、ブルジョア社会の限界を超えており、結局賃金制度の廃棄に導く。過渡的諸要求の全部ではなく一部は小ブルジョアの支配の下でも可能である。だから過渡的諸要求の一つ一つは「原因」に手をかけるものではなく「結果」にかかわるに過ぎぬが、その全系列は、単なる結果にとどまらず、原因と結果が一つになった“一つの原因”又は“相互作用の総体”であり、一つに手をかければ次々に手をかけていかざるをえないような関連にある。――だから、この過渡的諸要求の全部の実現は、ただプロレタリア独裁によってのみ可能となる。
 階級的要求=過渡的要求は、労働と資本の関係に本質的な変化を少しももたらさないものでありながら、革命の主体をなす、労働者大衆の革命的成長の促進にとって条件となるようなものでなければならない。それは、支配階級に対して突き出される労働者大衆の切実な当面する要求でありながら 、同時に労働者大衆の革命的成長を促すような要求である。
 それは、労働者階級にとって直接の成果になるとともに「真の成果」将来の一般的解放のためにも成果となるような要求でなければならない。

4 われわれの過渡的要求

     (続稿)
             (2003・11・25)