階級形成論の深化のために(中)

                                         斉藤明

はじめに

 @(上)において、レーニン主義、およびそれを根拠とするスターリン主義の組織論の根底に、レーニンの社会民主主義論の外部規定、および、スターリンによるマルクス・レーニン主義なる独特の理論を作り上げて教条化する過程があることを明らかにしてきた。そしてこのような教条的理論を背景に、共産党が革命理論の担い手として、労働者大衆の上に君臨する構造となっていることを示した。さらに、労働者に対しては、「自然発生性との対決」という名の、専制的支配権力として登場することになることを示した。

 このような理論にとっては、実は階級形成という理論課題は成立しない。労働者委員会、労働者評議会を評価するが、その政治的ヘゲモニーを簒奪すること、そして、支配に転じることしか興味がない。労働者の結合が、生産態であると同時に統治態であるという独特の性格を持つべきであるというマルクス主義の基底的原則の否定の上に、党の統治権力がそびえる構造である。

 このレーニン、スターリンの外的な理論とその担い手という理論構造に対して、労働者の階級意識に着目して、真の階級意識という考えを示したのがハンガリー生まれのルカーチであった。それまでの教条主義的なマルクス主義理解に対して、「階級意識の客観的理論は、階級意識の客観的可能性の理論」という考え方を示した。しばしば日本でも注目を浴びた。

 それは、労働者の目の前の直接的な要求を「心理的意識」として、「物象化された意識」ととらえ、これに対して、物象化を超えた人間的世界を求める意識を「真の階級意識」とし、その間を、「客観的可能性」という言葉でつないだものである。日本でも、ソ連におけるスターリン批判以降、教条主義批判という観点から、ルカーチの初期論文が注目されるようになった。

 ルカーチの物象化論は、外化に注目する物象化論と、人間性の回復の面に重点を置く疎外論に分離されて理解された。しかし、このルカーチ物象化論そのものが、実は、物象化が、人間の物象化とされ、かつ、疎外論が人間なるものの本質の回復というものであるがゆえに、実は一つのものである。物象化の理解そのものが、マルクス主義からの離反であったことが問題である。

 結論から言うならば、レーニンの「社会民主主義論の外部規定」を、「物象化された意識」という標語によって焼き直しただけの補完物以上でも以下でもないものとなっている。

 我々の階級形成論は、階級意識形成論ではない。我々の階級形成論においては、実践と認識の統一という性格を持つ。階級形成論が認識論を含むということは、階級主体の発展を明らかにする理論であるから当然のことなのである。階級意識論というテーマの立て方そのものが、労働者階級にたいして、外的なかかわり、外的な規定を行う立場を表明しているのである。

 

 Aルカーチの『階級意識論』は、一九二三年ハンガリーの革命政権の崩壊以降、その反省をも含めて執筆されている。ハンガリーの急進サンディカ運動の限界を、労働者の階級形成・党建設の不十分性という方向へ向かうのではなく、労働者の運動に対する、共産党の指導の必要性という方向へと克服せんとしている。その共産党の内容は、レーニン主義とスターリン主義を混ぜ合わせた物となっている。

 スターリンは、「レーニン主義の基礎」において、レーニン主義こそ現代のマルクス主義であり、マルクス主義は科学であると断言した。すなわち、共産党は、科学に導かれている党である、何人も疑いを入れる余地のない正しい指導部である、と。

 理論問題として、経済学、社会学、歴史学を論ずることと、戦略・戦術内容を論ずることを混同するばかりか、レーニンの主張をすべて科学であると規定することによって、共産党が科学に導かれているとしている。明らかな権威づけであり、レーニンの神格化である。科学であるとすることにより、自分たちの主張を、絶対に否定されるべきではないものへと高めたのである。

 ルカーチは共産党について、「経済的な全状態の正しい理解、つまりプロレタリアートの正しい階級意識―と、その組織形態である共産党」(『階級意識論』84頁)と規定する。この「正しい階級意識」は、史的唯物論によるとする。スターリンとの違いは、レーニンの内容は科学なのだから従え、という乱暴なものではなく、労働者の正しい意識を代表するのだとしているところにある。

 さらに、レーニンが、当時のロシアの革命的インテリゲンチャの先進性を強調する論調の延長に、社会民主主義的意識(共産主義的意識のこと)は、インテリゲンチャの中から出てきたものであり、労働者の中から出てきたのではないと、理論家の指導、革命理論の党の指導に従えとしたことに対して、労働者がなぜ党の指導を受けるべきなのか?という問いに対して答えようとしている姿勢がある。

 すなわち、スターリンもレーニンも、一方的に党の正しさや無謬性を主張し、労働者には、一滴の革命性がないのだ、とする高圧的支配的姿勢に対して、労働者が、なぜ共産党の指導を必要とするのか、受け入れるべきなのか、ということを示そうとしているのである。ハンガリーの敗北の総括から、前衛的指導部の必要性を痛感する思いと、スターリン、レーニンの理論の粗暴さを、マルクス主義に返して補完する狙いがあったのであろう。

 『階級意識論』は、物象化を論拠に、労働者の階級意識の曇りを説明しようとしている。

 しかし、このルカーチの物象化論の誤りをそのまま踏襲する人が多い。自分の頭でものを考えることができない剽窃学者や、レーニン主義に無批判な偽物のマルクス主義者が、物象化論を歪めてきた。

 マルクスは、物象化を歴史的社会的な事象としている。その本質を、「服属」と「依存」としている。また、単に人間主義的な抽象的疎外を語っているのでもない。そうした理解からは、人間としての自覚に目覚めよという啓蒙主義と主意主義的な主観主義が生まれるだけである。

 マルクスは物象化を歴史的社会的発展過程の中で、人間の営みとして分析しているのである。その根底には、生産諸関係と社会的過程との、相互前提的・相互規定的関係を基礎とする歴史把握があるからである。この中で、常に社会的主体において叙述するという理論性格を持っている。

 一部の誤解した解釈のような客観主義的な認識論として展開しているのでもない。あたかも、現象と本質、虚像と実像のごとく、物と人間の関係として論ずる物象化論は、「ルカーチ物象化論」としては正しくても、マルクス主義の物象化論ではない。

 マルクスが『資本論』の中で、物象化の本質を「服属」と「依存」と規定するその理論的姿勢は、社会的主体を理論の主体とするマルクスの根本姿勢から出てくるものである。客観主義者でしかない多くの学者にはこのことがつかめない。従って、ルカーチの誤れる物象化論をそのままマルクス主義の理論のように口移しにすることが多い。これまでの日本のマルクス主義における疎外論、物象化論の混迷に終止符を打ちたい。

 

 B 社会的主体を理論の基礎の据えることのない宙に浮いた理論は、マルクス主義を歪曲し続けてきたのであって、その批判ではなく、その廃棄こそがマルクス主義の今後の発展に必要なことだと思う。

 我々の階級形成論を、多くの人が階級意識形成論なのだろうと誤解する向きがあるが、それは、理論家の立場から、労働者を”高める”または”啓蒙する”という視点において、別の表現をするならば、個々の個人の意識の向上という観点から階級形成を考えるからである。我々の階級形成論は、結合の質の発展を中心テーマとしてる。人間は、結合の中でこそ個々人の発展もあるのであり、結合された目を持つのである。共産主義運動において、理論的意識は実践的意識の理論化されたもの以上でも以下でもないのであって、現実的に再措定されない理論は真理ではない。死んだ宙に浮かぶ真理なるものにしがみつき、それに他人を高めるという態度は日々生命力をうしない、空しいものとなってゆくであろう。

 実践的主体、しかもエゴイスト(自我主義)としての主体ではなく、社会的主体においてマルクス主義を再照射する作業こそ、日本のマルクス主義の脆弱性を克服する道である。レーニンの「物質」(「哲学ノート」)理解が、まったくの出鱈目であること、ヘーゲル「大論理学」の全くの無理解に起因する現象論と本質論の癒着構造を抱えているレーニン主義を克服できていない、レーニンコンプレックスの偽マルクス主義者がいまだ多いが、そろそろ自分の頭で考えるマルクス主義者が多く表れてもよい時期ではないだろうか。レーニン主義を知らない若い層のマルクス主義者の大量の輩出が期待される。

 

T ルカーチ『階級意識論』批判

 

 『階級意識論』は、一九二三年に出された「歴史と階級意識」の中に含まれる一論文である。一九一九年にハンガリーの革命政権ができるが、ルーマニア軍の反革命干渉によって崩壊させられる。ルカーチは政権の文部大臣であったが、ウイーンに亡命することになる。この過程で執筆されたものである。

 後になって、ルカーチは、情勢の変化、危機の深まりと関係なく、ただ、虚偽の意識を真の意識にかえれば、労働者は革命的になる、という主観主義に陥っていた、と自己批判している。

 労働者が、なぜ前衛党の指導を必要とするのか? なぜ従わなければならないのか?なぜ前衛党が必要なのか? 本人の革命の挫折の経験の中から、これらの問いにマルクス主義として回答を出す試みではあった。

 この論文の構成は、ブルジョアジー、小ブルジョアジー、プロレタリアートの階級意識の分析と、プロレタリアートの階級意識の弁証法的分裂の分析としている。

 この論文の中心になる論点は、「物象化された意識」、「究極の目的と当面する目的の分裂」「前衛等の指導の必要性=労働者階級の自己批判の必要性」の三点にある。

 

1 ルカーチ物象化論

 

 @ルカーチは、「真実の意識」と「虚偽の意識」に階級意識を分ける。後者を物象化された意識とする。そして、前者は、階級の究極の目的についての意識であるとする。

 ここから出発して、階級意識の全過程を、「弁証法的」という表現で叙述している。結論から言うと、これは弁証法でもなんでもなく、考え出された、考案されたユートピアの実現に向けて、労働者を手段として利用する方便を、労働者の側の「自己批判」の強要と、党への服従の必要性を強調することで信じ込ませようとする主張に過ぎない。すなわち、一方的に普遍が立ち、それに向けて従属的に高められる実在があるという構造であって、弁証法的でもなんでもない。矛盾も否定も措定も反省も再措定もこの二つの意識の間にはないのである。不動の固定された空疎な普遍、ただひたすら不十分性を自己批判すべきという存在があるだけである。

 その論拠としての物象化を、そして、その究極的目的としての物象化批判を、根拠付けとして展開している。

 

 Aマルクスは、商品の等価交換の段階における物化、貨幣成立後の物化、貨幣の蓄蔵から資本の成立以降の物化の三段階について物象化を論じている。

 ルカーチは、プロレタリアートの階級意識の分析の重要な視点として、物象化を挙げている。確かに、このマルクスの三段階をすべて、その関連については不明にしたまま取り上げて叙述している。しかし、この三段階の内容の違いを理解することなく、平板に人間と人間の関係が物と物との関係となる、と理解している。彼は、物象化に対して、人間と人間の関係を対置して、それを否定するのだとしている。

 さらには、人間の意識も物象化されるとしている。ところが、物象化に服従したり依存したりはするが、人間の意識が物象化されるなどということはないのである。人間の意識が等価交換されるのか、貨幣になるのか、資本になるのか、少し考えてみればわかることである。

 

 Bルカーチ物象化論を見てみよう。

 以下、引用は、『階級意識論』未来社 平井俊彦訳 一九五五年発行 による。

 マルクスの「歴史的批判とは、経済的・社会的な生活の物象化した対象的なもの全体を、人間の間の関係の中へ解消させるといことである。」「社会的構成体とその歴史的運動がもつ、人間とは無縁な物象性をこのように止揚すると、その物象性はその根拠につまり人間と人間の関係に、還元されるからである。」(一八頁)

 ここでは、二つの誤りを指摘するにとどめる。

 「人間とは無縁な」という理解は誤りである。人間の営みの中に物象化は存在しているのである。さらに、物象化は、人間と人間の関係に解消されたり還元されるのではない。共同的社会の意識的協働によって、商品交換を必要とする自然発生的分業の結果としての物象化が解消されるのであって、原因と結果についての理解がない。マルクスは、商品交換が物と物との関係のように幻影すること、商品、および商品の延長にある貨幣、さらにその延長にある資本について、人間の社会的関係が疎外したものであることを暴露したのであって、物象化世界と人間の世界を二つに分けて論じているのではない。人間の営みの中にある呪物的な側面をあきらかにしたのであって、疎外の中で、疎外のもとに人間の歴史は発展してきたというのがマルクスの歴史のとらえ方なのである。

 「『自由の王国』、つまり『人類の前史』の終焉が意味するのは、まさに、人間相互の対象化された関係すなわち物象化が力を失い、人間はそこから解放されはじめるのだという、ということである。」(六九頁)

 ルカーチの究極的目的はここに述べてある。人間なるものの物象化からの解放である。

 マルクスは、労働者の究極的目的について、「賃金、価格および利潤」のなかで、「労働者階級の究極の解放、すなわち賃金労働の究極的廃止」と述べている。ルカーチの究極は、その解決するべきことが物象化という怪物のようなものとされていること、目指すものが人間なるもののユートピアでしかないこと、小ブル社会主義の残念なところである。

 たしかに、マルクスは、『資本論』の第三巻において、「自由の国」について述べている。しかしこれは、剰余労働の資本主義的ありかたの中に、同時に、資本主義を超える段階の物質的条件を形成する側面の延長に、「社会化された人間、結合された生産者たちが、……物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ」(『資本論』第三部第四八章八二八頁)において始まるものという展開であり、単なるユートピアとして述べられているのではない。

 ルカーチの労働者観は、次のようになっている。

 「プロレタリアートは資本主義の産物であるから、かれらは必然的に自分を生み出したもののとる定在形態に従わなければならない。この定在形態とは非人間的姿であり、物象化されたものである。」(八六頁)

 労働者そのものが物象化されているとしている。

 さらに「物象化された意識というものは、粗雑な経験主義と抽象的な空想主義という両極の中に、一様にそして同じくのぞみなく閉じ込められている。」と、意識の物象化を語る。

 ここまでくると、ルカーチの物象化というのは、本来のマルクスの物象化論を超えて、何か魔法使いが、人間を石でできた動くものに変えたような意味合いとなってくる。

 労働者は、物象諸関係に支配され、強制的に依存させられ、そして、それをあたかも不可避的な永遠の形態のように理念的にも現実的生活においても強要されているのであって、労働者そのものが物象化されているのではない。むしろ、物象的諸関係は、敵対的な姿で、現実的に立ち向かうべきものとして眼前にあるのである。

 ソヴィエトについて「労働者委員会は資本主義的神秘化を政治的経済的に克服するものだからである。」(別訳「労働者評議会 は、資本主義的物象化を政治的・経済的に克服するものだからである」)(九六頁)と規定する。

 ルカーチ的な意味付与に過ぎないのだが、この段階において、「直接的利害と究極目的との弁証法的分裂を融和するにあずかるという使命をば、支配をめぐる闘争の中で果たすのである。」(九六頁)とする。そして、「もっとも革命的な労働者の意識状態そのものとプロレタリアートの真の階級意識との間には距離がある」(九六頁)としている。そして最後の行は「真理のみがプロレタリアートの勝利をもたらすことができ、したがって自己批判がかれらの最も重大な要素でなければならないからである。」(九七頁)で終わる。

 真理の側からのプロレタリアートの永続的自己批判の要請が最終行となっている。

 「階級意識の客観的理論は、階級意識の客観的可能性の理論」という定式が、ルカーチの階級意識の根本規定である。

 一見正しいようにも見えるが、この可能性とは、何と何を繋げているものなのか?

 「物象化された意識」と「自由の王国」とを繋げている。「自由の王国」から見れば、賃金労働者の存在は結果的につながっている。しかし、賃金労働者の戦いが、「自由の王国」へは、可能性としてのみ繋がっているとしている。その媒介、媒辞は物象化とその止揚となっている。

 先に見たように、労働者評議会の意義付けにおいて、それは「物象化を政治的経済的に克服する」ものとして、真の階級意識の側から外的に都合良く評価されることになる。

 すなわち、この可能性は、外的な規定とその統一の可能性に過ぎない。

 この可能性の考え方の最大の欠点は、必然性の理路が欠けていることにある。

 内的必然性において明らかにされるべきことが、外的可能性と被されている理論となっている。

 究極的目的とか、真の階級意識とかは、常に現実の労働者の意識の外側にぶら下げられて、それは、別の真の階級意識の権化が握っているということになっている。しかも、抽象的な人間主義のユートピアとして。

 「プロレタリアートの正しい階級意識―と、その組織形態である共産党」(八四頁)が、握っていることになっている。

 物象化論から始まった『階級意識論』は、結論は、無知な労働者は、ひたすら自己批判を繰り返し、レーニン主義、スターリン主義の党の指導に従え、という単純なものとなっている。

 

 2 ルカーチの小ブル社会主義的性格

 

 @ルカーチの理論的姿勢の根本的誤りは、批判の根拠が人間主義に過ぎないからである。抽象的人間の自由や幸福を発条にして社会批判をするので、あらゆることが歪んでゆくのである。それは当然にも、客観主義となる。物象化は、その社会の中で現実的に活動する人間にとっては、経済的社会的生活の一部なのである。ところがルカーチは、物と物との関係が人間の生活の外にかさぶたのようにできた外的なもののようにとらえている。人間の自然発生的分業のもとでの社会的活動が生み出すものであると同時に、それに規定されるという措定と被規定性の中で生活する社会的主体が欠落しているのである。この客観主義の裏返しは、主観的な素晴らしいものと光り輝く人間なるものをそれに対して対置するのである。そもそもある特定の歴史的社会的段階の人間の営みが物象化を生み出していることに対して、人間の関係を対置すること自体では自家撞着であるが、この時の「人間」は、ルカーチの大好きな「素晴らしい人間」なのだから、彼は何かを解決的に述べたような気になっているのである。すなわちユートピア論であることがわかる。

 このような主体認識は、当然にもその視点から物象化を非人間的なものと断罪する姿勢を持ち、そのことを労働者にも当てはめ、そのようなものとして物理力として革命に動員しようとするのである。

 

 A自由の王国という観念的目標へのその手段または実現主体は、なにも労働者という特殊性を必要としない。それは人間なるものを目指す理想主義者の集団でよいのであって、プロレタリアートの社会的歴史的存在とは関係ない構造である。ルカーチは、労働者は、非人間的な物象化された存在と規定することで、これに繋げたのである。

 すなわち、観念的目標がまずあって、次にプロレタリアートにその目標を外から与え、これこそお前たちの目指すべきものとする構造そのものが小ブル社会主義の特徴である。この目的、目標、計画は、特定の自我において考案されたものに過ぎない。

 その自我への動員、その自我の多数性への拡大に過ぎない。

 啓蒙主義のルソー主義者やカント主義者は、理想や当為を啓蒙することが社会主義、共産主義だと思い込むが、マルクス主義は、歴史的社会的主体の存在にとっての必然性において、共産主義を明示するのであって、その全過程の内容そのものが、人間の解放過程となるのだということである。共産主義は、現在と切断された理想なのではない。

 自由の王国を、歴史的必然性抜きに、単に究極的目標とするというようなことを述べるのは、小ブル社会主義の指標である。日本のマルクス主義者も多かれ少なかれこのようなものである。

 このような主張であるから、物象化に対する批判が、抽象的な人間主義になるのは必然である。

 物象化が発生している原因の、プロレタリア的解決という視点がそもそもないのであるから、簡単に、人間と人間の関係を対置するのである。そもそも、物象化に人間と人間の関係が対立しているのではないから、空論なのである。

 

 Eルカーチは、物象化を、人間の社会的関係の疎外として掴んでいる。これは正しい。しかし、その物象化に対する姿勢は、「人間と人間の関係に還元する」こととしている。これは単なる人間主義に過ぎない。疎外のもとでの社会的主体の営みがつかめていないからである。疎外に対する人間の対置という構造は、その延長に空想的社会主義を生み出す。

 疎外のもとでの歴史の発展とその逆転という歴史のダイナミズムを見失うことになる。その結果、物象化の否定の内容が、社会的主体が、自由な共同労働を生み出して賃労働と資本の両極を廃棄するというプロレタリア的止揚につながらない。ただ、プロレタリアが、人間主義、空想的計画に手段として動員されるだけである。

 では、マルクス主義を語りながら、なぜこのような誤った理解に嵌まっているのだろうか。

 

 3マルクスの物象化論の再整理

 

 @マルクスは、商品の等価交換の段階における物象化については、人間の社会的関係の幻影的関係である、としている。そして、その発生の根拠は、自然発生的分業のもとにおける私的労働にあるとしている。商品を含む社会の営みの物象化された姿を分析暴露したのであって、人間と人間の関係の外に物と物との関係が存在するわけではない。物と物との関係のように幻影するということを示したに過ぎない。

 さらには、資本も物質ではなく、物象とするのは、資本が人格性を持ち、意思を持ち、労働者に支配権として、圧迫として、敵対として現れること、この専制的支配力を持った敵対性を、物象化としているのである。労働者、社会的主体にとっては、敵対的なものとして、現実にあらわれるものなのである。ですから、物象化を打破するということは、賃労働と資本の対立を打倒すること、資本と、賃労働の両極を廃棄することを意味するのであって、物と物との関係に人間と人間の関係を対置することではない。

 マルクスは、物象化の発生とその止揚について、三段階の歴史的把握を示している。

 そして、その第二段階をさらに三段階に分けて展開している。

 

 (1) 人格的依存関係

 (2) 物象的依存関係

   a 商品の物象化

   b 貨幣の物象化

   c 資本の物象化

   d 利子生み資本のモロク化

 (3) その止揚

 このような構造である。

 

 (1) 人格的依存関係

 「人格的な依存諸関係は最初の社会的諸形態であり、この諸形態においては人間的生産性は狭小な範囲においてしか、または孤立した地点においてしか展開されないのである。」(『資本論草稿集 T』一三八頁)

 (2) 物象的依存関係

 「物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性は第二の大きな形態であり、この形態において初めて、一般的社会的物質代謝、普遍的諸関連、全面的欲求、普遍的諸力能といったものの一つの体系が形成されるのである。」(『資本論草稿集 T』一三八頁)

 「物象的依存諸関係は、仮象的には独立した諸個人に自立的に対立する社会的な諸関係にほかならない、すなわち諸個人に対立して自立化した相互的な生産諸関連にほかならない。」(『資本論草稿集 T』一四八頁)

 (3) その止揚

 「諸個人の普遍的な発展のうえにきずかれた、また諸個人の共同体的社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえにきずかれた自由な個体性は第三の段階である。」(『資本論草稿集 T』一三八頁)

 基本的な規定は上記のようなものである。

 ここで注目するべきは、第二段階の物象的依存関係という規定である。これは、物象化を通して、社会が疎外された営みをしているということ、その本質は、服属と依存であることを述べている。

 

 A (2)―a物象依存関係の商品の物象化の段階

 『資本論』「第1章 商品」の中に、「商品の呪詛的性格」及び「貨幣の魔術」を論じる箇所がある。

 たしかに、ルカーチはこの箇所の展開を物象化ととらえているが、物象化を単に外化されたものとして、人間の活動と分離したものとして実体的に固定化して、そこで止まっている。それが、物象的依存関係、疎外さされた社会的活動そのものであることを見落としている。ただ、非人間的であるという非難だけである。

 マルクスは、物象化を幻影であるという表現とともに、物的諸関係であると、二重に規定をしている。なぜなら、この物象的諸関係において、二つのことが反映されているからである。

 マルクスは、「商品の神秘的性格」は、「人間が何かの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになる」ことから始まるとしている。「商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。すなわち、商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き換えによって、労働生産物は商品となり、感覚的であると同時に超感覚的である物、また社会的な物になるのである。」(『資本論』第一巻第一章九八頁)

 一面では、生産者の私的労働が、社会的分業の自然発生的体制の諸環として、他面では、異種の諸労働の同等性という社会的性格を価値として等置して商品交換をおこなう。この私的労働は、「お互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に依存しあう」(『資本論』第一巻第一章八九頁)ものとして規定される。

 「交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては諸物の運動の形態を持つのであって、彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである。」(同)

 物象化が、物の関係であると同時に、そのこと自身が社会的関係そのものの反映であり、それに依存し、制御されて、交換を通して必要な諸物を入手して生活しているのである。

 

 B (2)−b物象的依存関係 貨幣の物象化の段階

 商品の価値が、特定商品と凝固され、それが貨幣として外化されると、物象化はさらに進む。

 貨幣社会においては、「活動の社会的性格は、生産物の社会的形態と同じように、生産への個人の参加と同じように、ここでは諸個人に対立して疎遠なもの、物象的なものとして現れる。それは、諸個人の相互的な関係行為としてではなく、諸個人に依存することなく存立し、無関心な諸個人の相互的衝突から生じるような諸関係へのもとへ諸個人を服属させることとして現れる。」(『資本論草稿集 T』一三七頁)

 たしかに、ときにはまれに、貨幣をポケット入れて、物象化の世界において、社会的力を得る人が偶然的に現れることもあるが、「それらによって支配されている人々の大衆はそうではない。なぜなら、それらの諸条件が存立しているということがそれだけですでに服属を、しかも諸個人のそれらのもとへの必然的な服属を表現しているからである。」(『資本論草稿集 T』一四八頁)

 貨幣社会の物象依存性と服属は、支配階級によって理念的支配として、永遠化されようとする。「諸関係のそうした支配が、諸個人自身の意識のなかでは理念の支配として現れ、これらの理念の永遠化についての信仰、すなわちあの物象的依存関係の信仰が、支配階級によって、もちろん、あらゆる方法で固められ、育成され、たたきこまれる。」。(『資本論草稿集 T』一四九頁)

 

 C (2)−c物象的依存関係 資本の物象化

 自然発生的分業に基づく商品交換は、商品流通が発展するにしたがって、商品を売る、貨幣を得る、別の商品を買うというW-G-Wの関係から別の、G-W-Gという関係が生まれ、商人資本が発生する。そして、封建制度的搾取が終焉すること、自由な労働の大量の発生を条件として、産業資本が生み出される。蓄蔵された貨幣が、労働過程を価値増殖過程とすることによって資本となる。

 貨幣は歴史的諸前提を整えつつ資本となる。資本主義的生産様式における物象化が、単に交換の媒体である貨幣の段階における物象化と異なるのは、社会的生産過程がそのまま価値増殖過程とされていることから、労働者の全生活が、資本の物象性に支配されるという点にある。特定の生産様式は、その社会の再生産にたいして規定的に作用する。しかも、生活の糧を、自らの精神的肉体的力である労働を売る以外に手に入れることができない状態にある生活であるということそのものが、強制された依存となるのであるから、資本の支配のもとにある。

 直接的労働過程における資本の専制的支配力のみならず、労働力の再生産過程においても、また、生活の条件そのものが賃労働収入においてしか成立しなくなる大衆の拡大再生産が進むのであるから、産業予備軍の圧力を背景に、ますます資本の力の前にひれ伏すことを強要されているのである。資本にとっては、労働力は消耗品であり、労働者は老いて死するものである以上、再生産過程は、新たな労働力を生み出す費用をも含む。再生産過程は、労働者の子弟が、新たに賃労働者として、労働市場に放り出され、競争を強いられ、這いつくばるレールを作り出すことでもある。教育が、就職のための労働能力の獲得という労働力商品の自己形成という性格に、情けなく、ぎすぎすしたみじめな姿になっている今日、資本の物象的影響の深さが、子供たちに対しても、自然的社会的人格的発展に対する灰色の壁として現れているのである。

 「社会的立場からみれば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具とおなじに資本の付属物である。・・・・・ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。賃金労働者の独立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されるのである。」(『資本論』第一巻第二一章五九八頁)

 「労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価値変動によって媒介さていると同時におおい隠されている。」(『資本論』第一巻第二一章六〇三頁)

 「資本主義的生産過程は社会的生産過程一般の歴史的に規定された一形態である。この社会的生産過程は、人間生活の物質的生存条件の生活過程であるとともに、また、独自な歴史的・経済的生産関係のなかで行われるところの、この生産関係そのものを生産し再生産する過程でもあり、したがってまた、この過程の担い手たちを、彼らの物質的存在条件や彼らの相互関係を、すなわちそれらの特定の経済的社会的形態を生産し再生産する過程でもある。」(『資本論』第三巻第四八章八二六頁)

 資本主義的生産は、社会を再生産する。すなわち、生産関係が社会的諸関係を規定しると同時に、社会的諸関係が生産関係を規定するということ、そして、それはお互いに前提でもあること、すなわち相互前提的であると同時に反作用し、相互規定的関係にある。

 資本の物象化が、全社会を覆う暗雲となるのは、このようなことが、資本主義的生産過程の特徴としてあるからである。

 物象化への服属と依存(強制された依存)の拡大深化の歴史は人間の人格的ありかたを崩す作用を持っている。単に貧困が拡大し、格差が広がるというだけではない。経済的隷属状況の深刻さに比例して社会全体が堕落してゆくのである。あからさまな拝金主義、命も安全も金に換える堕落、性の商品化の拡大、刹那的な快楽主義、教養への蔑視、犯罪の拡大、カルト宗教の拡大、理性の放棄とエゴイズムの衝動的行動、などなど。

 

 D (2)−d 利子生み資本のモロク化―完成された資本の呪物性

 モロクとは、古代フェニキア、カルタゴで礼拝された、人々の犠牲を要求する牛身の神である。

 マルクスは、利子生み資本の発生において、資本はその呪物的性格を完成するとしている。そして、そのことにより、世界中の人類の富を飲みこむのだとしている。

 「利子生み資本というその属性において、資本には、およそ生産することのできるいっさいの富が属するのであって、資本がこれまで受け取ったものは、すべて、ただ、あらゆるものを取り込む資本の食欲への分割払いでしかないのである。資本の固有の法則に従って、資本には、およそ人類が供給することのできるいっさいの剰余労働が属するのである。まさにモロクである。」(『資本論』第三巻第二四章四一〇頁)

 「利子生み資本では資本関係はその最も外的な最も呪物的な形態に到達する。」「利子生み資本の形態では、これが直接に、生産過程にも流通過程にも媒介されないで、現れている。資本が、利子の、資本自身の増殖分の、神秘的な自己創造的な源泉として、現れている。物(貨幣、商品、価値)がいまでは単なる物としてすでに資本なのであって、資本は単なるものとして現れるのである。総再生産過程の結果が、一つの物におのずとそなわっている属性として現れるのである。」

 このように、資本として貸し付けられた貨幣が、その属性であるかのように貨幣を生み出す形をとる。

 このように、利子生み資本が登場することによって、次の事態が生まれる。

 「現実に機能する資本も、すでに見たように、機能資本として利子を生み出すのではなく、資本自体として、貨幣資本として利子を生むのだと、というように自分自身を表すのである。」

 さらに、このことは、次のように転化する。

 「利子は利潤の、すなわち機能資本家が労働者からしぼりるとる剰余価値の、一部分でしかないのに、今では反対に、利子が資本の本来の果実として、本源的なものとして現われ、利潤は今では企業者利潤という形態に転化して、再生産過程で付け加わるただの付属品、付属物として現れる。ここでは、資本の呪物的な姿も資本呪物の観念も完成している。」

 資本が商品として売買される株式会社制度において、株の配当金は、資本の利子として現れ、もともとは、交換の手段として生み出されたはずの貨幣が、自分自身で貨幣を生む姿となる完成された姿を見ることができる。単なる紙切れと契約と、それを担保する法律によってのみ成立している魔術である。これらを反故にすればこの虚像は簡単に消えるものである。

 「われわれが、G−G´で見るのは、資本の無機的な形態、生産関係の最高度の転倒と物化、すなわち、利子を生む姿、資本自身の再生産過程に前提されている資本の単純な姿である。それは、貨幣または商品が再生産にかかわりなくそれ自身の価値を増殖する能力―最もまばゆい形での資本の神秘化である。」(『資本論』第三巻第二四章四〇四〜四〇五頁)

 貨幣が資本になることによって、労働者との敵対的な物象化が起こった。さらに、資本所有と資本機能の分離によって、資本は、利子生み資本として、自己増殖する魔物となって、資本の属性としての指揮権、支配権をふるうことになる。

 資本所有と資本機能の分離は、単に株主と企業という分離だけではなく、持ち株会社とその子会社という姿として、実体的に分離し、持ち株会が、その傘下の子会社を支配するという姿として現れている。「**ホールディング」という会社名を最近多く見かけるようになったのは、ビッグバン以降の株式資本主義とでもいうべき、資本主義の完成へと向かう姿なのである。企業が利潤をあげて配当(利子)を払うということではなく、利子生み資本が利子を生み出す手段として企業があり、企業利潤はその残りであるかのようになる。赤字でも配当をするという転倒は、もはや当たりまえのことになりつつある。

 労働者は、企業という機能資本との戦いと同時に、持ち株会社の機能資本への支配とも戦わなければならなくなる。機能資本が利潤をあげることができなければ、その資本は解体減価することになる。

 大きな企業を分社化して、各部門ごとに利潤を追求し、不採算部門をほかから補てんするということをやめて、解体することで、資本の新陳代謝を活性化させようという狙いがある。なぜなら、商品の価値はその再生産に必要な価値によって判断されるのであるから、固定資本も、資本の高度化が進めば進むほど、比較的短期の再生産の価値において判断されるのであるから、古くなった生産過程や企業環境設備は早急にスクラップ化する必要に迫られる。

 それだけではない。親会社の支配力の圧力は、会社存亡の圧力としてのしかかるのであるから、労働者は、企業にしがみつく限り、一層劣悪な労働条件労働環境に追いやられてゆくことになる。むしろ、企業維持のために、自らを犠牲として差し出したりさえするのである。いずれにしても、無慈悲な利子の取り上げのための、無慈悲な会社つぶし、馘首ができる構造を整えようとしているのである。アメリカ型株式資本主義を見習って。

 資本の物象化は、直接的な機能資本との戦いとして、まず意識される。

 さらに、資本は信用制度の中で発達して、利子生み資本とて、企業の外の、影の支配者として現れ、強力な支配権限を行使する力として労働者の前に姿なく襲い掛かるのである。

 

 E(3) その止揚

 マルクスは、『資本論』の商品の項で、物象化の発生の根拠を、自然発生的分業のもとでの私的労働にあること、低い制限された生産段階における商品交換であることを展開したあとで、物象化をよりわかりやすく説明するために、物象化の止揚の構造を示している。

 それは、物象化の前提にさかのぼり、社会的総労働のあり方の否定的必然的帰結としての推論となっている。

 「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。」「商品生産と対比してみるために、ここでは、各生産者の手にはいる生活手段の分けまえは各自の労働時間に規定されているものと前提しよう。そうすれば、労働時間は二重の役割を演ずることになるであろう。労働時間の社会に計画的な配分は、いろいろな欲望に対するいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役立ち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的参加の尺度として役立ち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分け前の尺度として役立つ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり単純で透明である。」(『資本論』第一巻第一章九二頁)

 生産力の発達にともなう資本の発達は、株式会社制度を生み出した。資本が商品となり、その使用価値は利潤を生み出すという商品となって、株式という形で売買される。株の売買は、配当金をめぐる要素以外に、株価の変動に対する投機として行われることから、富の集中が一層進むと同時に、不安定な制度となるのである。

 資本の物象化の完成された姿こそ株式会社制度である。資本が利子を生む商品となり、その売買が山師的投機の対象となることにより、二重の意味で貨幣が貨幣を生み出す魔術を体現したのが株式会社制度なのである。

 マルクスは、『資本論』の第三部第五編第二七章において、信用制度の発達、株式会社制度の発達を、資本所有と資本機能の分離、個人資本から社会資本への変化を条件として、資本主義生産様式から、協働生産様式(the associated mode of production)への過渡をなすものであると性格付けしている。

 マルクスは、株式会社制度が、資本主義の次の生産体制と社会体制の前提を作り出していると述べているなかで、協働組合工場(the  cooperative  factories)について、次のように述べている。

 「労働者たち自身の協働組合工場は、古い形態の中でではあるが、古い形態の最初の突破である。といっても、もちろん、それはどこでもその現実の組織では既存の制度のあらゆる欠陥を再生産しているし、また再生産せざるをえないのではあるが、しかし、資本と労働との対立はこの協働組合工場のなかでは廃止されている。」

 「たとえ、はじめは、ただ、労働者たちが組合としては自分たち自身の資本家だという形、すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のための手段として用いるという形によってでしかないとはいえ。このような工場が示しているのは、物質的生産力とそれに対応する社会的生産形態とのある発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式から新たな生産様式が発展し形成されてくるかということである。」(『資本論』第三巻第二七章四五六頁)

 ここで注目するべきは、「自然的に」という表現をしていることである。

 資本主義的生産から協働生産様式への過渡形態として株式会社制度をとらえているのである。

 そして、生産協同組合工場は、はじめは組合が資本家であるに過ぎないが、賃労働と資本の廃絶への過渡形態であるとしている。

 なぜ、それが、過渡形態に過ぎないのか。生産協同組合工場が、もし資本を組合が所有しているだけなら、組合が資本と賃労働の二重人格となるだけである。商品を生産し、商品を仕入れし、利潤を追求しているとしたら、意図するしないにかかわらず資本の本性は瞬く間に表面化するであろう。

 なぜなら、資本主義生産形態が、それ自身の法則により、その形態を再生産すると同時にその社会形態をも再生産するのだということ、そして、その相互が、規定的であり、非規定的であるということ、すなわちそれが、一般的制約、一般的制限として作用することを考えねばならないからである。

 生産協同組合工場は、賃労働と資本の対立そのものを廃絶する運動の一環としてその過渡性を自覚する立場を持ち、かつ、労働時間が、利潤に関連させられるのではなく、社会的必要に関連づけられる方向性を内包したものでなければ、資本の共同所有企業と変わらない。

 資本のもとへの社会的隷属を超える方策としての、自らの共同による自らの労働の支配とは、階級として、資本主義的生産過程を支配するものでなければ不可能であるばかりか、労働が、社会的必要の労働時間において測られるという質的変化を全社会的に生み出すことができないからである。

 社会的生産過程が価値増殖過程として支配されている資本主義的生産から、社会的生産過程が、結合された社会的必要生産過程へと変質しなければならない。過渡として、商品の形態は残るであろうが、その基準が社会的労働時間において計測されることを通して、価値の結晶という性質を順次失ってゆくであろう。

 商品の発生以来の物象化の歴史をたどってきたが、信用制度と株式会社制度、この完成された姿において、疎外は頂点に達し、その物象化の敵対性と、その巨大な、制御不能となるかく乱作用が渦巻く時代になることを通して、その止揚の端緒につくのである。

 資本は、生産力の拡大と、高度化によって、自己増殖を進める。そのことによって、もはや個人資本の形から社会的資本の形に、資本が分割された単位において売買されることによって、急速に変化を遂げた。資本機能と資本所有の分離が進み、さらに今日では、持ち株会社と分社化・子会社化への移行が顕著となっている。株の配当を決める会社が、これまでの株式会社の上に抽出されて支配権を握るという完成ぶりである。資本所有と資本機能の実体的分離と、利子生み資本の支配権の確立なのである。

 株式会社制度を終焉させることによって、この歴史的に蓄積された巨大な社会資本を社会的所有へと移行することを滑らかに行うことができる。

 簡単である。株券をすべて無効にすればよい。そして、これまでの株式会社を共同生産公社へと移行して、企業内生産協同組合の所轄から、地域の社会的所轄へと移行すればよいのである。株券が無効になって損をする人がいるであろうが、生活に困る人は少ないのが実態である。

 資本主義的生産様式から協働生産様式への移行のための過渡的処置として国有化という手段が考えられるが、生産協同組合の体制が整ったところから移譲すればよいのである。国有化は、資本が国有になるだけで、資本の本質がなくなるわけではない。協働生産様式とは、協働した諸個人のもとへ生産過程が支配される形態なのであって、国家意志が資本の座に座ることではないからである。そのような国有化は、再び疎外された力を生み出すだけである。自らの共同の意志と異なる別の意志のものへの服従が生み出されるだけである。過渡的に方策として国有化が選択されるとしても、生産者の協同組織の統制下におかねばならない。全体的結合は、この組織の横の連合において作ればよいのであって、その上に外的な全体を作る必要はない。

 今日の株式会社の株主は、「純国産企業」といわれるトヨタ自動車でさえ四分の一は外国籍株主である。日本において、株式会社制度の廃棄を宣言するということは、全世界に、株式会社制度の無効性の衝撃を与えることになるであろう。先進国同時革命は、国際な信用と株式会社のつながりの中で、不可避的であろう。世界市場の連動性は、開発途上国、貧困国へと新しい生産様式を広げてゆくであろう。

 これまで、先進国同時革命は、プロレタリアートの運動の国際連帯と、資本家階級の反革命的結合との国際的対峙を条件として語られてきた。しかし、それにもまして重要な経済的要件として、インターネットで結合された世界市場の瞬時性・連動制の発展は、たとえ一国であっても、株式会社制度の廃棄という資本主義の根底的転覆が実現するならば、一挙に全面瓦解する条件を作り出しているということがあげられる。

 われわれは、大衆的な労働者研究会において、「自らの共同による自らの労働の支配を!」というスローガンを掲げ続けてきた。これは我々が資本の支配を打ち破り、その向こうに目指すべき解決策を端的に指し示したものである。

 実践的共産主義的意識の発生は、競争に変えるに団結をもってすること、この団結のもとに、経済的隷属を突破すること、今日のような社会的性格を帯びている資本として成長してきた資本を廃絶するためには、社会的共同においてしか資本を資本でなくすることが不可能であることからして、必然的なものとなる。

 資本主義的生産様式から協働生産様式への移行、これこそが、賃労働と資本の両極の廃棄という労働者の要求が、必然的に共産主義的性格を持ち、自由な協働社会の形成という共産主義の要求が内容的に一つの物となった現実的活動として統一される過程なのである。

 理論的意識としての共産主義理論は、確かに学習、研究を必要とする。しかし、理論的意識は、実践的意識の理論化されたものに過ぎない。

 

 Uルカーチ「階級意識論」を超えて

 

 @以上みてきたように、マルクスは、物象化を、物象的諸関係への服属と強制された依存を本質としてとらえている。すなわち、歴史の各段階での生産形態と社会形態の関係を、その相互規定的相互前提的な関係としてとらえ、生産の視点から、また、社会の視点か物象化をとらえている。そのことは、物象化の世界における現実的諸個人の営みとして、その矛盾をとらえようとしているのである。

 マルクスの物象化は、商品交換からの貨幣の発生、蓄蔵貨幣から資本への発展、信用制度の下での利子生み資本への発展、株式会社制度の下での資本の商品化への全過程を覆う概念である。その物神性と強制された服属と依存と、さらにその止揚を射程に入れたものである。

 ルカーチ物象化論は、物象的世界と人間の世界を、虚像と実像、または、現象と本質、または、社会の外皮のごとくとらえて、相互に切断し、または、ある時には、労働者そのものが、意識そのものが物象化されえているなどと表現するように、人間に石の呪われた鎧をかぶせるかのごとき把握となり、物象化の世界に人間なるものを対置している。いわば人間主義的物象化論となっている。

 これに対して、抽象的人間を理想としてたてた疎外論であると反発して、物象化を、疎外ではないとして、錯視という認識論に切り詰めて失敗したのが広松である。いわゆる人間疎外論としてではなく、社会的な疎外であると、やはり物象化が疎外であるということを認めはしたが、やはり、物象化の本質をつかめないまま終わっている。なぜなら、社会的主体において物象化を把握するという方法論が欠落して、学者的客観主義に陥っているからである。

 革マルの黒田は、ルカーチの疎外論を引き継ぐのであるが、商品の物象化の把握において、宇野の、恐慌論の中の商品論を梅本的な人間主義的主体性論を重ねて、人間商品論に焼き直して理解して、労働者がそのまま実体的に商品化されているという初歩的に誤った理解に陥り(「プロレタリア的人間の論理」)、これを「ばね」として、「創造的主体」という神秘的で、かつくだらない思い付きの魂をおなかに入れて頑張ろうと「プロレタリア的主体性」なるものを売り出したが、ばねもこのインチキな魂も出鱈目で、失敗におわる。

 筆者はこれまで多くの論文において、繰り返し、マルクス主義は社会的主体において理解する必要があると述べてきた。ルカーチは、現実的な歴史的社会的諸個人についてではなく、一般的な抽象的な人間についての疎外回復としてしか理解することができていない。これは、理論の根底に、自我を、小ブル的自我を据えて、そこから読み込むという理論姿勢しかとれない小ブル社会主義者の残念な姿の一例なのである。

 

 A自然発生的分業と私有財産制を根本とする物象化の発展してきた全過程の止揚ということは、人類史的課題である。我々は、繰り返し、歴史は疎外のもとで、疎外を通して発展してきたという述べてきた。史的唯物論は、この、生産と社会の歴史的発展過程の全体を、社会的主体において照射する理論である。従って、歴史の必然性として、資本主義的生産様式と市民社会の一過性と次の新たな生産様式のありかた、社会の在り方を推論することが可能なのである。

 この理論を根底に、共産主義論がある。さらに、これを現実的に展開する理論として、階級闘争論、過渡期論、共産主義社会論がある。我々が、戦略論を洞察された歴史的必然性ととらえ、その意識的実践の指針として戦術があるのだと規定するのは、以上のことを踏まえるからである。

 この、史的唯物論、共産主義論、および各論の理論上の区別と同一性をしっかりと掴めねばならない。

 さらに、この理論の主体が、人類=人間の立場なのか、共産主義者としての立場なのか、賃金労働者としての立場なのか、このことも重要である。

 このことをないまぜにしたり、区別性を覆い隠して同一性のみを表面化したりすることは、必然的に主観主義となると同時により普遍的な理論が、支配的な位置を占め、組織的には、従属関係を生み出すことになる。

 共産主義者がなぜ労働者党の部分でしかないのか、なぜ共産主義は、階級闘争の延長にしかないのか、そして、物象化の止揚ということも、なぜ不可避的に階級闘争の延長に、そして、共産主義運動延長にしかないのか、これらの必然性の理解は、上記の各理論の区別と同一性の整理の中にある。

 したがって、戦略論と組織論が、階級形成論において統一され、相互に媒介されるのである。歴史の必然性の意識化されたものが戦略論であるということは、労働者の革命的階級への成長の必然性を含み、組織論は、これまた労働者の団結の成長と共産主義者の大量の発生の過程をも含むものとならざるを得ないのである。単に覚醒した革命エリートの組織と、その目的の実現方法と手段の体系が革命理論なのではない。このようになるのは、歴史の外から、ユートピアを目指す小ブル社会主義の特徴である。

 今日のように、全世界的に危機が深まり、混迷を深める時代にあって、あらためてマルクス主義で理論武装した共産主義者の結集と革命的階級形成の推進が課題であると訴える。

 

<続く>

 

 

 *『資本論』は大月書店(全五分冊)を用いた。一部翻訳が適当でないと考えられる箇所については、変更している。頁は、ディーツ版の頁を用いた。

 

 *『階級意識論』は、平井俊彦訳 未来社刊 を用いた。