――「共産主義者通信委員会」の再建のために――
解放派におけるマルクス主義の再生深化の道は何か
                              斎藤 明
<目次>

はじめに
第一章 ヘーゲル弁証法の転倒
一 はじめに
二 三段にわたるヘーゲル批判
三 その一段
四 ヘーゲル左派を超える端緒
五 フォイエルバッハ的宗教批判の国民経済学批判への適用
六 ヘーゲル弁証法の批判的再生=「積極的人間主義」への道
七 フォイエルバッハとマルクスのヘーゲル哲学理解の相違点
八 [歴史的必然性」の概念―『聖家族』」
九 歴史の四つの契機―『ドイツイデオロギー』
十 諸個人の新たな結合
十一現実的歴史把握
十二個の普遍的解放
第二章 抽象作用と政治
一 政治の概念
二 抽象作用
三 特殊のもつ位置とその否定を通しての普遍化
四 レーニンのあやまれるヘーゲル理解
五 階級形成論の原理論の深化を



はじめに

 われわれは、一九六〇年を前後して、潮流としての活動を開始し、@レーニン外部注入論を批判し、A合理化論において、社会的隷属、資本の下への実質的包摂、社会的力に抗する労働者の団結を訴えB階級形成論を明らかにし、社会的政治的階級としての発展の論理をもとに、「行動委員会運動の中からの党建設」を路線とし、C地区協同、コミューン的運動の推進をすすめてきた。それは、レーニン主義とも、宗派主義とも決別した革命的マルクス主義の地平である。

 われわれは、戦略とは、歴史の必然性の認識されたものである、と規定してきた。戦術とは、その意識的実践であると。この意味は、われわれは、目的主義でも理想主義でもないということである。われわれがよって立つ地盤は、現社会の矛盾の人間的否定である。その「人間的」が、理想主義的なのではないか、という意見が必ず生まれる。根源的な本質的な現状の否定の力、その豊かさに規定されているというのが答えになる。すなわち、社会的隷属を超えてゆく実践的な結合の発展の程度においてしか、その内容は築けないということである。したがって、これまでの、われわれもいまだ、大きな限界、制限のなかにあった歴史をもっているということである。しかし、組織建設過程の中で、不十分性を正面から解決できずに、歪んだ傾向を生み出し、その破壊作用は解放派を蝕み、歩みをとめてしまった。しかし、多くの同志が、真の解放派の再興のために闘ってきた。全世界的に階級矛盾が深まり、激的な情勢の変化が予感される今日、反省を纏め上げ、ここだという必要な核心点を共有して組織再建を全国的に推進してゆかなければならないと考える。

 これまでの限界は、端的には、内側から宗派を生み出したことにある。しかも、学生部分のみならず、一部の労働者をも含めての宗派主義の発生である。われわれのレーニン主義批判が、内部において一面的に理解されていた傾向は否めない。スターリン主義批判の前提としてレーニン主義批判を、一歩も二歩も徹底することが必要であるということ、宗派主義とマルクス主義は相容れないということを理論的にも整理することが問われてきた。それは、哲学の止揚としてのヘーゲル批判の地平をどのように確定していたのかという問題とひとつであった。  

宗派主義は、外的な目的が主語で、現実の労働者はその述語とされるという構造をもつ。その目的は、作られた目的であり、想定された空想である。自我の内容を移し変えることによって、主意主義的目的主義が発生する。

資本主義的社会のなかに世俗的に生み出されるエゴイズムそのままに他人と「協同」するとなると、神聖化された外的な目的の担い手として、相互に手段化する以外にない。その担い手の序列が組織となる。そのような、自他ともに手段と化した組織は、必然的に官僚化し、官僚政治を発生させる。なぜなら、担い手が同時に指導部なのであるからだ。外的なものの無理は、姦計を発生させる。主意主義的目的主義は、目的の主観的正当性の名のもとに、諸手段を正当化しようとする。これは堕落の一歩であり、かつ、不可避的一歩となる。  

「スパイ問題」のでっち上げ、内部糾弾の利用(スパイ摘発だとする歪みをもったそれ)、「現在直下の革命闘争」のでっち上げを手段とする、隠された目的としての軍事組織の形成、これらの姦計を駆使しての組織操作が発生した。

この腐敗グループは、組織そのものを外的に制圧するという誤れる行動に出た。そして、組織は破壊作用をうけながら分裂した。

宗派主義は、本来は組織の目的が生み出されるはずの共同性、組織主体は、上から単に働きかける対象としてしかなく、また意見の異なる組織員は屈服させるしかなく、特定の自己意識の多数性への拡大が組織拡大と一つという構造に多かれ少なかれ入る。そうなると、唯一の「正しい目的」の担い手として登場すべく、純化は反対派の排他的殲滅しかなくなる。自分のほうが「唯一の革命そのもの」の担い手であるという主観性は、相手がその反対である以上「反革命」であると一方的に規定して排撃打倒だとなる。

 しかし、なぜ解放派の内部から、このような誤れる宗派主義が発生したのかを根本的に解明し克服するためには、「レーニン主義」が孕む誤りをさらに一段掘り下げることを課題とした。  

それは、スターリン主義批判を徹底するために不可欠であると同時に、解放派におけるマルクス主義理論が孕んできた不十分性を根本的に再整理することの必要性を浮かび上がらせてきたからである。

 このことを整理することは、実は、ヘーゲル批判と、国民経済学批判を通して成立しているマルクス主義の基本的地平を明らかにすることに通じていると考える。それは、同時に、今日のマルクス主義陣営の混乱をも批判的に解明する尺度となるであろう。

 最近になって、「レーニン主義」、とりわけ「社会主義意識の外部からの持込」についての反省を口にする人たちが、「アソシエーション」について多く語っている。そして、初めて知ったかのように「労働者階級の解放は、労働者階級自身の事業である」と謳う。しかし、それらの人々の多くは、レーニン主義のまま、「新たな目的」を掲げて旗を振るだけである。そこからでてくる次の展開は理想主義的人間主義となる。「アソシエーション理論」を、これまでもそうであったのであるが、より一層の理想主義者に変身して、今度はこれだと叫ぶ。再び、善の当為のための理想主義の旗の色が変更されただけのものとなり、単なるこれまでの自分達のマルクス主義の不理解を、今日あわてて言葉として取り戻すということ以外のなにものでもないという傾向がみられるだけである。

 日本のマルクス主義の陣営において、疎外の概念の混乱は、他方の「物象化」または、「物件化」という表現との関係において、顕著に示されている。今日、アソシエーションということをキーワードとして、マルクス主義の「見直し」をおこなうのだとしている潮流、良心的学者が、しかし、なお「物件化」として、歴史認識しようとしていることにおいて、その良心的意義は、再び、労働者階級にとっては、外的な「新しい旗」がまたぞろ登場ということにしかならないということとしてすでに終わろうとしている。

 なぜかというと、世俗的経験的意識には、「地球の周りを太陽がまわり」、理論的意識には「太陽の周りを地球がまわり」、このあやまれる錯認識を、正しい理論で置き換えねばならないということと同じ調子で、「正しい理論」で導くのだと考えているからである。

 「もし、事物の現象形態と本質とが直接一致するならば一切の学問は余計なものであろう。」(マルクス『資本論』)というとき、単に、「存在・本質」の関係として、「物と物との関係として現象する事柄は、実は人間と人間の関係を本質としている」ということを正しく認識するということで終わることでよしとするものではない。『資本論』第三巻第四八章の「三位一体範式」の示すところは、「社会的生産過程の」「秘密」を、すなわち、その物神性をあばき、実践的に否定(止揚)することにある。そして、新たな自分たち自身に基礎をもつ真の認識を生み出す仕方を明らかにすることである。そうでなければ、「現社会の正しい見方」と、「主観的共同認識である」ということを指摘するに終わる。

 「意識している生命活動は、動物的な生命活動から直接に人間を区別する。まさにこのことによってのみ、人間は一つの類的存在なのである。すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象なのである。疎外された労働はこの関係を、人間が意識している存在であるからこそ、人間は彼の生命活動、彼の本質を、たんに彼の生存のための一手段とならせるというふうに、逆転させるのである。」(『経哲』)

 〈意識的存在であるがゆえに、逆転させる〉このことこそが問題の焦点なのだ。「物象化」、「物件化」ということのもとに捉えられなければならないのは、この、逆転させる行為の否定なのである。物神性を、「物象化」と「物神性」というかたちで、〈と〉で結ぶやりかたは、実は、資本主義生産様式のもとの社会的生産過程の秘密を捉えていない、と言わざるをえない。

 「労働を、労賃獲得の手段とする」現代の賃労働の奴隷的性格の否定、そこにこそ、その否定の中から、全面的に発達していく個人の協同が展望される。

 確かに、ヘーゲル左派時代のマルクスは、〈類的人間存在と現実的個人〉に立脚することで、一般的抽象的に、「疎外された労働」を語っている。『ドイツイデオロギー』以降、歴史の段階的発展の本質的力を明らかにすることにより、(後に簡潔にまとめる)現実的具体的に「疎外された労働」を掴んでいると考える。そして、このことを、国民経済学批判として貫徹していったのである。したがって、本来の労働が賃労働という奴隷的性格に「逆転」していることの否定において、人間の現実的普遍的全面的解放が展望されるのである。それは、考えられた理想ではなく、歴史的必然性において明らかにされるものである。

 われわれは、これまでマルクス主義の原理的反省としてはスターリン主義批判を、レーニン主義批判に返し、さらに宗派主義批判に掘り下げてきた。今日、さらにこれを一段深める必要がある。観念論との、また、空想的社会主義との根本的決別の不十分性を見極め、真に克服することが問われ続けてきたからである。そのために、観念論との境界線がいかなるものなのかを再度はっきりさせる作業が不可欠と考える。

課題としてあげるならば次のようになる。

 その一は、ヘーゲル批判、国民経済学批判の地平を端的に掴むこと。

 そして、その二は、歴史の推進力としての「四つの契機」(『ドイツイデオロギー』)を基に、近代社会における疎外が段階的に把握されねばならないこと。

 その三は、真実の普遍性をつかむこと。そこからレーニン外部注入論の原理的批判へ下降し、階級形成論の原理論へと展開すること。

 上記のことを、解放派の反省として整理するならば、つぎのようになる。

 すでに六四年当時、学生戦線のなかから『解放bU』にたいする「批判文章」が提出される。それは、レーニン主義批判の「反批判」という性格にて提起された。当時の論争は、中原一がまとめた、「学生存在論」、および「プロレタリアートの衝撃」、「普遍的共同性」への結合というテーマにおいて一定の整理がなされ、解決したかにみえた。(『中原一著作集』参照)この時点においては、学生の持つ理論性が、外的なものであることが克服される過程が、「衝撃」とされて、内容的に主体化されきっていないという限界をもっていた。それは、中原一のなかでは、「階級的否定」ということに要約される、理論的実践的立場の確立の問題として再整理されていくのであるが、組織全体としては不分明に進んでいった。

 七〇年闘争をくぐり、そのなかから、ふたたび、『解放bU』=「基底還元主義」という批判が提起される。これは、提起者自身が引っ込めてしまったので十分討論されなかったが、その内容的解決は棚上げとなってしまった。しかし、この一石は、浮き足立った一部の活動家にとっては、小ブル急進主義への転落への露払いとして映った。

 これに対する対応は、すでに、解決済みのことであり、単なる理解不足の結果、誤解に基づくところの空転せる批判にすぎないと軽視する姿勢が一方にあり、他方、この誤れる論争提起を踏み台とする形で、学生を中心にレーニン回帰主義が発生したのである。

 なぜ、このようなことになったのか。

 マルクス主義をどのように理解しているのかということを、組織結集の前提とは当然にもしていない。そして、そういうものとしての、厳密な理論的共有と共同理論作業を推進するべき結合体として考えられていた前衛的組織としての「共産主義者通信委員会」が十分活動しきれていない、むしろ、全国的党的組織つくりに集中することが手一杯で休止状態になっていたこと、ここに大きな原因がある。同時に、休止状態を続けざるをえなかったという背景として、我々内部の理論的共有化作業が十分行われてこなかった傾向がある。単に遅れていたということとは違うと言わざるをえない。

 どういうことかというならば、各自それぞれ、マルクス主義に理論的に到達する思想的理論的な回路が異なるのは当然である。すなわち、自分の古い思想、理論、立場の否定が媒介となる。それは、多様である。理論が主体的であるということは、単に、学習して外的に取り込んだ形式的理論でないとすれば、それは、必ず生きた過程をもっている。このことをも対象化したマルクス主義の理論的共有化の作業に失敗してきたということである。それは、マルクス主義が、哲学の止揚の過程を含んだ理論であることとして、その形成過程を対象化することと交差する課題である。

 われわれが、他の党派に対して取ってきた態度とそれは、共通の性格をもつ。外からみると、独特の理論が、不思議な関連で展開されて、理解しにくい、とよく言われて来たのであるが、理論の性格が異なるということである。そのことは、われわれの側からみるならば、ヘーゲル左派の人々とのズレを実感するということになり、彼らの誤解のしかたも、不理解のしかたも、その原因もわかっていた。しかし、わかりやすく丁寧に論争をおこない、批判を展開することは十分おこなわなかった。その余裕がなかった。

 振り返って、そのことを我々のなかにおいてみるならば、反戦青年委員会、全共闘運動の当時、多くのメンバーが他潮流から我々のもとに結集してきた。その多くは観念論的イデオロギーの影響を強く受けていて、そのイデオロギーを下敷きに解放派の理論を理解しようとすると、全部が曇ってしまうことになる。部分的に摘み食いをして、繋いでいるうちは大した問題とは自覚されないし、また表面化しない。しかし、組織的進退、すなわち、各人の実存にかかわる事態に直面するや、不理解は、大きな問題となる。

 厳密な意味での、思想の共有は、団結の質を開明的に自己把握するために必要である。悟性認識から概念的把握に深める。すなわち、真理を主体的に明らかにするという探求の理論作業が共有されるためには、あまりにも思想的共有が不足していた。

 たしかに、組織の理論的作業が、組織の急速な広がりにたいして、十分に間に合っていなかった。だが、それだけではない。問題が発生した折々に、そう、あらかじめ道の角々を想定して理論を整備するなどということはできないのみならず、問題解決の共通の意識性の中に理論的整理は生かされなければならないのであるから、どのように解決的であったのかということが解明されねばならない。別の言い方をするならば、どの程度誤解の余地をもっていたのか、どの程度不理解を発生させる原因を理論自体がもっていたのかを再検討する必要がある。

 『解放bU』以来、レーニンの「社会主義的意識の外部からの持込」批判の徹底、宗派批判の徹底、そこに革命的マルクス主義の再生をかけたのであるが、しかし、労働者運動の推進と、党派形成のための努力とが、乖離してしまった原因を今一度明らかにし、レーニン主義との決定的決別を行わねばならない。

 スターリン主義批判の徹底という課題は、ソ連圏の崩壊以降の共産主義運動の前進にとって、深刻で切実な課題である。特に、スターリン主義批判を組織論にまで貫徹して展開しえないならば、スターリン主義批判は単なる道徳的態度表明にすぎなくなる。「前衛党組織論批判」の地平が、再度鮮明にされる必要がある。

そして、さらには「史的唯物論」の内容において、本質的に裏打ちしなければならない。このレーニン主義との根本的決別がないならば、一部にみられるような、良心的新左翼諸派、学者グループが、たとえレーニン主義批判を口にしても、そのような意義を付与して、「アソシエーション理論」を対置したとしても、問題をずらしていくだけになる。

 「アソシエーション理論」は、それだけが、分離されると、そこに含まれる革命的な積極的意義が半減する。なぜ、それが労働者の解放の指針なのか、階級形成との関連で明示されないとすると、それは、再び、考えられ考案された理想、道徳的要請となってしまうからである。

 われわれ解放派が抱えた問題を解明し、克服し、道筋をはっきりとさせることは、レーニン主義批判を鮮明にして進んでゆくなら必ずと言っていいほど直面し、突き抜けなければならない課題の一つであるとおもわれるがゆえに、すべての心ある人々にとってもあまねく重要な事柄であると考えている。

 レーニンの「外部注入論」批判を、内容的に把握できずに、一面的に理解して、「理論軽視」の傾向において肯定し、さらにその理解が一面性でしかないがゆえに、裏返してまたそれを否定して、こんどはひどい邪悪な「外部注入論」に転落するという事態が内部から発生したのだということ、このように否定的事態の性格を端的に掴まねばならない。

従って、「外部注入論批判」の再度の深化から再度開始する必要がある。テーマとしては、「レーニン外部注入論批判」の根幹をなし、より本質的問題でもある「存在と意識の二元論批判」の内容的深化である。

 『何をなすべきか』における、社会民主主義的意識と労働者の経済主義的意識、組合的意識との区別から、前衛党をとする導き方を形態的につかむとしたら、共産主義的前衛を労働者の党と分離することの意味が不明となる。一方では自然発生性に頼って、しかし、他方では確固たる党的全体性をもって活動する人間が現れないとその困難性を嘆くことから、いきなりレーニン的前衛党に舞い戻るということはたやすく想像できることである。

 レーニンの理論こそが、スターリン主義の発生の根拠なのだということ、その哲学・組織論・戦略論の体系として、非マルクス主義的であるということが問題なのである。『何をなすべきか』の基には、そのあとで記述されたのであるが、『哲学ノート』に示される理論的態度がある。ヘーゲル批判の誤り(『哲学ノート』における転倒の仕方の誤り)と「外部注入論」は、通底的である。その反面が、生産協同組合を欠落させたコミューン論へと展開されるのである。

 「存在と意識の二元論」の批判というテーマ設定は、このような課題を具体的に内容的に掘り下げ、すなわち本質的に解明するために導き出されたものである。ここに照らして、その全関連が、全構造が開かれ明らかとなる。

 新左翼のなかでも、よくレーニンの理論は時代のものである、として、あいまいな肯定とあいまいな割引で、だらしなく利用するという姿勢がみられたことがあった。理論的内容に明確な誤りがあり、もはや不十分性や時代的制約などという種類の事柄ではない性格の欠陥がある。そのゆがみの醜い結果がスターリン主義として結果するのであり、その結果からの反省を部分的なものにしないで、その原因に迫って解決するということが、反スターリン主義を課題とした全潮流の共通の課題であったはずである。そういうものとして、ソ連邦の崩壊以降、いまさらのように「レーニン主義批判」を口にする人々にたいしても、旧態依然たる「レーニン主義者」にたいしても、われわれが先行的に経験してきた過程そのものを明示することは、大切なことであると考えている。

 われわれが四〇年前に、ロシア革命をその意義と限界としてつかみ、レーニン主義批判を開始した当時、日本の新旧左翼は、多かれ少なかれロシア革命コンプレックスのなかに、真実を見失っていた。まして、レーニン主義批判がなぜ必要なのかも理解できずにレーニンの限界の枠内にとどまり続けた。ひとり、われわれのみが、マルクス主義の復活をかけて戦いつづけてきた。そして、われわれ内部においても、ふたたび「レーニン主義の再評価」などと、一部小ブル急進主義的傾向が発生した。しかし、それは共産主義的労働者の大量の形成ということに失敗した結果の裏返しでもあったのだ。主意主義的目的主義に転落し、かつ、「隠された目的」を背後に持った戦略・戦術を「主体形成主義」的に展開するという独特の小ブル急進主義党派性が生み出された。「革命の現在性」を階級形成の質として獲得するのではなく、主観的な軍事的闘争形態としてつくり、しかし、それとして真剣ではなく、それを手段とする主体形成=「自称革命家」の形成――「実戦の中からの党」路線とした。革マルが「隠された目的」への諸手段としての大衆運動という主体形成主義であるのと裏返しての、「観念的哲学の中からの党」に対して、「空想的実戦の中からの党」に転落してしまったのであった。それは、また、われわれの階級形成の遅れの疎外された欠陥として派生したものでもある。特に中央指導部中枢に発生した一部の腐敗、「他の手段もってする党内闘争(スパイ説を捏造しての同志の排除)」の持込を十分に克服できずに組織を混乱させてしまったという痛苦な反省は、エゴイズムを真に超えた新たな活動を再生するという課題をつきつけてきたのである。わが組織は下から崩壊したのではない。中央から解体したのである。したがって、再生の困難さは多くの同志にとって手のつかない遠い課題のように受け止められてきた。手順を追って、新たに生成する気概でこれまでの成果を一歩深化させて、多くの同志の叡智を結合し前進したい。

解放派の思想的深化再生を推し進めることは、われわれ自分自身の人間的解放のためにも、全世界の変革のためにも欠くべからざる共同の事業であると考える。これまでの多くの同志の営為によって築き上げられてきた地平をさらに前進させよう。再度共産主義的結合を開始しよう。

 心ある同志に「共産主義者通信員会」の再建をよびかける。

第一章 ヘーゲル弁証法の転倒

一 はじめに

 マルクスのヘーゲル批判から、ヘーゲルを考えるかたちで入った人々のなかには、本当のヘーゲルを理解しないという傾向があると、加藤尚武は繰り返し語っている。

 ヘーゲルのマルクス的転倒という場合、まず、ヘーゲルそのものがつかまれていないで、すなわち、存在‐本質‐概念と展開される論理を、本質論レベルで理解し、それを、フォイエルバッハ次元に止めたマルクス主義の理解の地平で、「現象と本質」の正しい認識のための学としてマルクス主義を留めてしまうような理解で、「ヘーゲルのマルクス的転倒」が語られている傾向がある。

 それは、まして、「ヘーゲル概念のレーニン的転倒」などと、存在論次元に後戻りながら、「物質」という新たな「実体」を作り出し、「人間の脳」の「自覚」などと、主意主義的汎神論にすぎないものに改作してしまうような場合には特に問題となる。注意すべきは、ヘーゲルの理論は、プラトン的な、イデー顕現論でもなく、スピノザ的な実体の汎神論でもない。

 ヘーゲルは、神学を批判し、再び宗教を再興した。ヘーゲルの人間の回復の論理は、共和制社会と人間的道徳に発する宗教の統一に求められた。人間の不幸の原因を探求して、各段階と過程を通して遂に到達する絶対的精神は、「自然‐類‐人間」すなわち「スピノザ的実体、フィヒテ的自己意識、ヘーゲル的主体」の統一の地平である。ヘーゲルの哲学は、主要には、カントの批判哲学が、神的なものを彼岸化し、此岸と分離したのに対して、自然と精神の世界に神的なものを統一するという観点から、人間性の回復・絶対的なものの実現をめざした論理を明らかにすることにあった。

 したがって、ヘーゲルの批判的継承とはなにか、ということが、ヘーゲルの否定と同時に明らかにされる必要がある。そうでない場合、ほとんど、否定といいながら、一面的にヘーゲルそのままであったり、またはカントへの後退となっている。

二 三段にわたるヘーゲル批判

 「ヘーゲル哲学のマルクス的転倒」というテーマにおいて整理する。

 結論から述べるならば、マルクスのヘーゲル批判は、三段に展開されている。

 その一は、フォイエルバッハ的な〈主述の転倒〉批判である。

 その二は、現実的人間の概念を〈社会的関係〉と〈労働〉を〈歴史過程〉の中に捉えることにより、ヘーゲルの弁証法を、人間回復の歴史的弁証法として批判的に継承することにある。 

その三は、人間性の回復の内容として、個人と類的全体性の統一ということの内容を、一方における人間の、商品経済社会の中における個別化の進行過程と、資本主義的生産の全面的発展の性格との否定的統一として、歴史の必然的過程として明示することにおいて、「個人と共同体の統一のジレンマ」として現れるヘーゲル哲学の厚い壁、(ヘーゲル左派をのたうちさせた最後の難関)を打ち砕いたことにある。

 この一から、二への移行は、認識の主体を、国民経済学批判(内容的に政治経済批判)をとおして、新たな現秩序に含まれつつ、それからはみだすところのあらたな個々人の結合、結合の中の個人、におくことにより、それを〈われわれ〉とし、主体としたところの認識行為としての理論活動として、理論を展開するという地平によって哲学を超えることが可能となっている。そのことにより、一を基礎として、土台として、すなわち主客の関係を、「人間の類的本質と神」の関係として、宗教における人間の疎外を解明、批判する視点から、歴史の各段階に制約され規定された、労働する個々人とその個々人が形成する社会的関係との、その物化された諸関係との疎外された関係の把握に発展させられている。ここでいう疎外には、広さと深さの変様が含まれる。

 さらに、二から三への移行は、ヘーゲル左派の哲学論争が、ヘーゲル哲学の枠内の泥試合となり、そのことにより、哲学が止揚されずに捨てられること、それは同時に、〈共産主義〉をも、再度ユートピア主義として、掲げられた理想としてしまうことから共産主義の旗を救い出す根拠の見極めを意味する。賃労働と資本の関係そのものを、両極ながら廃棄することこそが根本であること。この解明を基礎にすえて、共同体と個人の関係の歴史的変様を、生産関係を軸に捉え返すことによりその現実的統一の道を明らかにしたのである。

三 その一段

 マルクスは、『ヘーゲル国法論の批判』において、次のように「転倒」を批判する。

 第二七九節について、以下のように、主述の転倒と述語の自立化について展開する。

 「もしもヘーゲルが国家の土台としての現実的な諸主体から発足していたとするならば、彼は摩訶不思議にも国家がみずからを主体化するようなことをさせる必要はなかったであろう。『ところで主体性はその真のあり方においてはただ主体としてのみあるのであり、人格性はただ人としてのみある』とヘーゲルはいう。これもまた一つのまやかしである。主体性は主体の一つの規定であり、人格性は人の一つの規定である。ところが、これらの規定をそれらの規定の主体の述語と解するかわりに、ヘーゲルは述語を自立させ、そしてこれらの述語が後で摩訶不思議にも化してそれらの主体となるようなことをさせるのである。」

 さらにつづけて、ヘーゲルの主述の転倒、分離して客体化し、自立化させ、そして現実的な主体が結果とし現れるように展開すると分析する。

 「述語の現存は主体であり、したがって主体は主体性等々の現存である。ヘーゲルは述語、客体を自立させるが、しかし自立させるといってもそれは、それらの現実的な自立性、それらの主体からきりはなして自立させるのである。そうした後では、現実的な主体は結果として出てきたもののように見えるのであるが、じつは反対に現実的な主体から発足してこの主体の客体化を考察すべきなのである。だから、現実的な主体になるのが神秘的な実体の一つの契機として、あらわれる。」

 ヘーゲルのこの主客の関係は、外化とその止揚をくぐりながら、有限性を克服して、ついには、主客の「根源的統一」に到る(回帰する)過程として、展開されるものである。この根源的統一が、理念なのであるから、ヘーゲル的には、人間の精神と神との二元論(たとえばカント)を克服するものとしての、自分自身の過程を持った絶対精神、理念として、思弁的な動的な「一元論」なのであるが(もっともこれらすべてが観念の世界のことなのであるが)、ここではマルクスは、現実に存在する有限なもの、規定されてあるものと、無限なものとの逆転について批判している。

 つづけて、「ヘーゲルは、実在的なエンス(Ens)(=存在するもの)(ヒュポケイメノン、主体)から発足するかわりに、普遍的規定の諸述語から発足するのであるが、それでもどうしてもこの規定の担い手というものが存在しなければならないからこそ、神秘的な理念がこの担い手となるのである。これは、二元論であって、ヘーゲルは普遍的なものを現実的に有限的なもの、すなわち現存するもの、規定されてあるもの、の現実的本質と観ること、換言すれば、現実的なエンスを無限なものの真の主体と観ることをしないのである。」

 フォイエルバッハのヘーゲル批判は、主要に、主体と客体との、主語と述語の転倒という点に絞られ、「神の意識は、類の意識に他ならない」(『キリスト教の本質』)として、ヘーゲルの神的実体を、外部に移された類的本質であると批判した。

 マルクスは、ここでは、フォイエルバッハのヘーゲル批判をベースに、ヘーゲルを批判していると言えるのだが、フォイエルバッハは、みずからの「宗教哲学」を、ヘーゲル哲学とくに宗教哲学の批判を通して展開した。すなわち、宗教、神学批判という、ひとつの限定において主客の転倒を示したのである。

 『将来の哲学の根本命題』において、ヘーゲル哲学の根幹にせまり、「ヘーゲル哲学は、転倒せる―神学的観念論である。」として、

 「スピノザの哲学が、神学的唯物論であるのにたいして、へーゲル哲学は転倒せる―神学的観念論である。それは、自我の本質を自我から切り離されたものとして自我の外におき、実体、神として対象化した。だが、スピノザが物質をそうしたように、自我を神秘的実体の属性ないし形式としたことによって、再び―したがって間接的に転倒して形で―自我の神性を主張した。神についての人間の意識は神の自己意識だというわけである。すなわち、本質は神に属し、知は人間に属するのである。だが、神の本質は、ヘーゲルにおいては、実際には思惟の本質であり、自我、思惟するものを捨象した思惟に他ならない。」

 そして、この批判は、「新しい哲学」として次の三点を強調する。

 1、ヘーゲル哲学の概念的把握の方法については近代哲学一般の真理である。

 2、経験論と観念論の統一。

ただし、「人間と人間との共同性が、真理と普遍性の第一の原理であり、基準である。」

 3、「新しい哲学は人間の基盤としての自然を含めて、人間を哲学の唯一で普遍的かつ最高の対象とするものである。」

 ヘーゲル左派の論争は、このフォィエルバッハの「主客の転倒」によって提起された、神に代る「人間の本質」「類的人間」をめぐる。

 この、「類的人間」は現実的人間といわれながら、再び抽象ではないのか、言い換えられた神秘的実体となってはいないか、このように問題を立てて批判をしたのはブルーノ・バウアーである。「類がいつか現実のものとなり、フォイエルバッハの類的人間が誰か或る個人のうちで存在するに到るとすれば、最後の審判の日、すなわち人類の完成と週終末があらわれていることにとなろう。」(『ルートヴィヒ・フォイエルバッハの特性描写』ブルーノ・バウアー)

 「フォイエルバッハは、述語を理念的なものとして存続させている―つまり、個体的人間のなかでは『不完全』にすぎず、『類の規模で』ようやく完全になる類の本質規定性として、『完全なる人間の本質完全性』として、ゆえに個体的人間にとって理念的なものとして存続させている。」(マックス・シュテルナー)

 「類的人間が現実のものとなるのは、すべての人間が自己を淘汰し、能力を発揮できるような社会、すなわちそこですべての人間が、自己を確証できるような社会においてのみであるからだ。」(モーゼス・ヘス)

 これに対して、フォイエルバッハは、「……フォイエルバッハは、唯物論者でも観念論者でも同一哲学者でもないのである。では一体何か。彼は、思想に関しては彼が行為からしてそれであるところのものであり、精神においては彼が、肉体においてそれであるところのものであり、本質においては彼が感官においてそうであるところのものであり―人間である。あるいはむしろ、フォイエルバッハは、人間の本質を共同性の中にのみ置くのであるから、―共同人〔間〕、コミュニスト〔共産主義者〕と言った方がよい。」と反論する。

 フォイエルバッハは、その哲学の性格を、ヘーゲルの思弁哲学からカントの批判哲学にもどしつつ、神的な物を彼岸化して、認識不可能としながら、再び、可能であるとするならば、このように考えるならば合理的に説明がつく、または、道徳的要請として、神的なものを復活させるという点を取り除き、「表象が人間と対象との中間にある」カント哲学と、「存在を自らの中に有する理念、すなわち対象として思惟された表象」をもつヘーゲル哲学にたいして「最後にわたしの自我―表象を通じてでなく、理念を通じてでなしの、現実の直観。」が自分の位置関係であるとする。(「ヘーゲル哲学の批判」)さらには、「カント哲学が、その思想を―すくなくとも具体的効程において―結んでいるところの事柄を以って、私の思惟が始まる。」(『遺されたる箴言』)としている。もっとも、フォイエルバッハが、観念論を批判するに弁証法をも捨てたという見解には組しない。しかし、ヘーゲル弁証法を止揚するという視座、姿勢は無かったと断言することができる。

 マルクスのヘーゲル哲学にたいする姿勢とは大きな隔たりがあるのであって、単に「フォイエルバッハ・テーゼ」に要約された結論のみならず、内容的に、マルクスが、このようなフォイエルバッハにたいして、どのような位置関係にあるのかを丁寧に分析する必要がある。そのことは、ヘスにたいする関係についての評価にも関係する。これまでのヘーゲル左派の論争が、「市民社会」の立場である、とマルクスが批判した所以のところが明示されねばならない。すなわち、市民社会そのものの分裂にまで突入することで、ヘーゲル左派論争をこえていくのであるが、その理論的武器は、フォイエルバッハに基礎付けられた、ヘーゲル弁証法の批判的適用にあったのである。

四 ヘーゲル左派を超える端緒

 このような、ヘーゲル左派の論争の限界の突破口は、すでに、マルクスの『ユダヤ人問題によせて』(一八四三年末秋)から、『ヘーゲル法哲学批判序説』(一八四三年末〜四四年一月に執筆)において築かれていると言える。

 その一つは、宗教批判を土台として、現実の地上の批判へ、ということであり、その一つは、この「社会が転倒した世界」であり、「人間の世界」を、「諸関係」として理解し、この「諸関係」をくつがえすことであるとし、ここにおいて「個別的人間のままでありながら、その経験的な生活においてその個人的な労働において、その個人的な関係において、類的存在となったときにはじめて、つまり人間が自分の「固有の力」を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な力をもはや政治的な力の形で自分から切りはなさいときはじめて、そのときにはじめて、人間的解放は完成されたことになるのである。」(『ユダヤ人問題によせて』)個人と類の関係が、関係の質として掴まえられている。その一つは、哲学の止揚は、プロレタリアートの階級への形成と結びつかねばならないという観点である。これは、認識活動の社会的立場、認識主体の社会性をあきらかにするものである。

 マルクスは、国家、市民社会のへ批判、政治批判からさらに、国民経済学批判を媒介しながら、ヘーゲル左派の論争を、ブルジョア市民社会の上に成立している論争であり、この市民社会が、転倒した、疎外された社会であることを転覆することが実践的問題であると、哲学を超えて、実践的理論的姿勢を強める。

 宗教批判から政治社会批判へ、この道筋は宗教批判を前提にしての社会批判として貫かれる。そこから逆にヘーゲル批判の深化の課題が、ヘーゲル弁証法の批判的継承の課題として浮かんでくるのである。

 『ユダヤ人問題によせて』において、宗教的疎外と区別された社会の疎外を論じる。

 「人間が、宗教にとらわれているかぎり、自分の本質をある外部の幻想的な存在とするよりほかには、それを対象化できないように、人間は、利己的欲望の支配下では、自分の生産物および活動をある外部の存在の支配下において、それらに外部の存在―貨幣―の意味をあたえることによってはじめて、実践的に活動し、実践的に商品をつくりだすことができるのである。」

 「貨幣は、その前には他のどんな神の存在をもゆるさないよう嫉妬ぶかいイスラエルの神である。貨幣は人間のいっさいの神をいやしめ―それを商品にかえる。貨幣はあらゆるものの一般的な、自立的なものとして構成された価値である。だからそれは世界全体から、人間界からも自然からも、それに固有の価値をうばってしまった。貨幣は、人間の労働と存在とが人間から疎外されたものであって、この疎外されたものが人間を支配し、人間はこれを礼拝するのである。」

 このセンテンスに先立って、マルクスの理論的立場を簡潔に次のように展開する。

 「われわれにとって宗教は、もはや現世的偏狭の根拠とは考えられず、ただそれの現象であると考えられるにすぎない。だからわれわれは、自由な公民の宗教的な偏見を、彼らの現世的な偏見から説明する。われわれは、自由な公民が自分たちの現世の障壁を除くために、自分たちの宗教的な偏狭をすてなければならないとは主張しない。彼らは現世の障壁を除くやいなや宗教的偏狭をもすてると主張するのである。われわれは現世の問題を神学の問題に移すのではない神学の問題を現世の問題にうつすのである。」このように、天上の問題の解決を地上の問題の解決にうつすとして、次に「歴史」にうつる。

 「これまで、歴史はあまりにも長いあいだ迷信に解消され説明されてきたが、いまやわれわれは迷信を歴史に解消する。」

 歴史過程の中に本質を捉えるという視点が登場するのである。この時点において、すでに、フォイエルバッハ的な、静止した一般性としての「類」と、抽象的な人間個体についての哲学の立場と決別しつつあるとつかまねばならない。

 この姿勢は『ヘーゲル法哲学批判序説』では、簡潔につぎのように述べられる。

 「それゆえ、真理の彼岸が消えうせた以上、此岸の真理をうちたてることが、歴史の課題である。人間の自己疎外の神聖な姿が仮面をはがれた以上、神聖でない姿での自己疎外の仮面をはぐことが、当面、歴史に奉仕する哲学の課題である。天井の批判は、こうして地上の批判にかわり、宗教の批判は法の批判に、神学の批判は、政治の批判にかわる。」 

 『ユダヤ人問題によせて』のなかで、簡単で荒っぽい素描ではあるが、人間の解放を歴史的に掴む展開として、ブルジョア政治革命から、市民社会の中の革命へ踏み込み以下のように展開する。

 「完成した政治国家は、その本質上、人間の類的生活であって、彼の物質的生活に対立している。この利己的な生活のいっさいの諸前提は、国家の領域の外に、市民社会の中に、しかも市民社会の特性として存続している。政治国家が真に発達をとげたところでは、人間は、思考や意識においてばかりでなく、現実において、生活において、天上と地上との二重の生活を営む。すなわち、一つは政治共同体における生活であり、そのなかで人間は自分で自分を共同的存在だとおもっている。もう一つは市民社会における生活であって、そのなかでは人間は私人として活動し、他人を手段とみなし、自分自身をも手段にまで下落させて、ほかの勢力の玩弄物となっている。」

 このように、市民社会の疎外状況を掴み、「政治的解放は、同時に、人民から疎隔された国家制度が、つまり支配の権力が、よってたつところの、古い社会の解体でもある。政治革命は、市民社会の革命である。古い社会の性格は何であったか?それは、ひとことであらわすことができる。すなわち封建制度である。古い市民社会は政治的性格を直接的なかたちでもっていた。すなわち、たとえば財産とか家族とか労働の様式とかのような、市民生活の諸要素は、領主権、身分、職業団体といって形で国家生活の要素にまで高められていた。」

 「……こうした革命が、共同体からの人民の分離の表現であったいっさいの身分、職業団体、同職組合、特権を粉砕したのは必然的であった。政治革命は、これによって、市民社会の政治的性格を揚棄した。それは市民社会をその単純な構成部分に、つまり一方では個々人に、他方では、これらの個々人の生活内容である市民状況を形成する物質的および精神的要素に、粉砕した。」

 「封建社会は、その基礎へ、つまり人間へ、解消された。しかしそれは、実際にその基礎となっていたままの人間、利己的な人間への解消であった。」

 「政治革命は、市民社会をその構成部分に解消するが、これらの構成部分そのものを革命批判することはない。」

 「あらゆる解放は、人間の世界を、諸関係を、人間そのものへ復帰させることである。

 政治的解放は、一方では市民社会の成員への、利己的な独立した個人への、他方では公民への、法人への人間の還元である。

 現実の個別的な人間が、抽象的な公民を自分のうちにとりもどし、個別的人間のままでありながら、その経験的な生活において、その個人的な労働において、その個人的な関係において、類的存在となったときはじめて、つまり人間が『固有の力』(註 ルソー『社会契約論』)を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な力を政治的な力の形で自分から切り離さないときにはじめて、そのときにはじめて、人間解放は完成されることになるのである。」

 引用が長くなったが、このように、歴史過程のなかから人間解放の方策を展開する。ここで「諸関係」を変革するのだということが強調される。これは、さらに、『ヘーゲル法哲学批判序説』において、「批判の武器……」の次の文章において、展開される。

 「ところで、人間にとっての根本は、人間そのものである。ドイツの理論がラディカルであること、したがってそれが実践的エネルギーをもつことの明らかな証拠は、それが宗教の決定的な積極的な揚棄から出発したことである。宗教の批判は、人間が人間にとっての最高の存在であるという教説でおわる。したがって、人間がいやしめられ、隷属された存在にしておくようないっさいの諸関係を、くつがえせという、すなわち畜犬税の提案にさいしてフランス人が、あわれな犬よ!おまえたちも人間なみにされようとしているのだぞ!とさけんだ言葉でもっともよくえがきだされている諸関係を、くつがえせという、至上命令をもっておわるのである。」

 確かにここでは、宗教批判から移行して人間主義的に展開されているが、「諸関係」の転覆を!と端的に表現する。なお、ここから、文脈は「物質的な必然性」を背景とする「プロレタリアートの階級への形成」へと繋がるのである。 

 宗教批判を前提とするところの、社会批判は、人間主義を前提とするとするところの、新たな社会性に基礎をおく実践的理論的立場である。『ヘーゲル法哲学批判序説』は、「ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもうおわっている。そして宗教の批判は、あらゆる批判の前提である。」という文章からはじまる。ヘーゲル左派の論争が激しく展開されている最中に、すでに、マルクスは、この論争を地上の批判へと拡張することによって、超えようとしていた。ヘーゲルと共に、市民社会を前提にし、そして、単に、哲学としてユートピアを対置することしかしない連中と分岐していく内容をもっていく。

 「宗教に対する闘争は、間接的には、宗教を精神香料としているあの世界にたいする闘争である。」

 「宗教の批判は、したがって宗教を後光とするこの苦界の批判をはらんでいる。」

 宗教批判としての現実的人間主義は、プロレタリアートを主体とする対象認識と同時に自己対象化である革命的立場に定位する。

 「プロレタリアートがこれまでの世界秩序の解体を告知したとしても、それはただ自分自身のあり方の秘密を表明しているにすぎない。なぜなら、プロレタリアートはこの世界秩序の事実上の解体であるからである。プロレタリアートが私有財産の否定を要求したとしても、それはただ、社会がプロレタリアートの原理にまで高めたものを、すなわちプロレタリアートが手をくわえるまでもなくすでに社会の否定的帰結としてプロレタリアートのうちに具現されているものを、社会の原理にまで高めているにすぎない。」

 明快である。このあらたに定位された現実的な〈主体〉は、歴史をもち、物資的必然性をもち、そして、かつ、階級へと形成される過程をもつ、すなわち、現秩序のなかにあって、それを否定してはみだしていく新たな秩序の形成過程をふくむ。それは、逆にいうならば、現秩序に包摂されるということをも含む。

 『経済学哲学草稿』において、この論文を書く立場は、〈私=マルクス〉ではなく、「われわれ」とされる。

「序文」は、書く主体を「私」においている。しかし、第一草稿の労賃の考察を進めながら「さて、われわれはまったく国民経済学者の立場にたち、国民経済学者にしたがって、労働者の理論的および実践的な諸要求を比較してみよう」と、「われわれ」の位置関係を示す。

 第三草稿のなかで、つぎのように詳しく述べている。

 「社会的活動や社会的享受は、けっして直接的に共同体的な活動や直接的に共同体的享受といった形態でだけで実存しているものではない。……

 しかし、私が、科学的等々の活動をする―これは私がめったに他人との直接的共同のもとに遂行できない活動なのであるが―その場合でも、私は人間として活動しているがゆえに、社会的である。私の活動の素材が私に―思想家の活動がそこでおこなわれる言語さえそうである。だから、私が自分からなにかをつくるにしても、それを私は社会のために自分からつくるのであり、しかも社会的存在としてのわたしの意識をもってつくるのである。

 現今では、普遍的意識は現実的生活から一つの抽象であり、そのようなものとして現実的生活に敵対的に対抗しているが、他方、私の普遍的意識は、実在的な共同体、社会的存在を自分の生きた形姿としているものの理論的な形姿であるにすぎない。だから、わたしの普遍的意識の活動もまた―そのようなものとして―社会的存在としての私の理論的な現存なのである。」

 「個人がそれから切りはなされていることに反抗するような共同体こそ、人間の真の共同体であり、人間的本質だからである。」(『論文「プロイセン国王と社会改革―一プロイセン人」にたいする批判的論評』)この新たな共同体の立場こそ、この「われわれ」の質である。

 ちなみに、ヘーゲルの「現象学」における「われわれ」は、全現象過程を、通覧する哲学観察者としての「われわれ」である。

五 フォイエルバッハ的宗教批判の、国民経済学批判への適用

 『経哲』の序文で、国民経済学を批判するにあたって、ヘス、エンゲルスその他の論文を参考にしていることを述べながら、さらに、フォイエルバッハに触れて以下のように述べる。

 「《国民経済学の批判にとりくんできたこれらの著作家のほかに、実証的な批判一般、したがってまた国民経済学にたいするドイツの実証的な批判は、その真の基礎づけを、フォイエルバッハの諸発見に負っている。……。》

 実証的な人間主義的および自然主義的批判は、まさにフォイエルバッハからはじまる。ヘーゲルの『現象学』と『論理学』以来、真の理論的革命を内に含んでいる唯一の著作であるフォイエルバッハの諸著作の影響は、もの静かであるがそれだけまた、より確実、より深刻であり、より広汎、より持続である。」

 このように、「実証的人間主義的、自然主的批判」の意義を国民経済学批判に適用すると同時に、「現象学」、「論理学」の意義を強調する。

 フォイエルバッハの「批判」を国民経済学に貫徹するというここと、このなかから、フォイエルバッハの意義と限界が浮かび上がってくる。それは、労働をどのように位置付けるのかということが、基軸となる。

 「さて、われわれはまったく国民経済学者の立場にたち、国民経済学者に従って、労働者の理論的および実践的な諸要求を比較してみよう。」と出発し、「国民経済学が、プロレタリアを、すなわち資本も地代ももたず、もっぱら労働によって、しかも一面的、抽象的な労働によって生活する人を、ただ労働者としてだけ観察しているということは、おのずから明らかである。……国民経済学は労働者を、その労働していないとき、つまり人間として観察しないで、……。

 さてわれわれは、国民経済学の水準をこえることにしよう。そしてほとんど国民経済学者の言葉を用いて述べてきたこれまでの説明にもとづき、二つの問題に答えてみよう。

 (1)人類の大部分がこのように抽象的な労働へと還元されるということは、人類の発展において、どのような意味をもつのか。」

 この設問自体が、国民経済学を超えている。

 「国民経済学は、私有財産という事実から出発する。だが国民経済学は、われわれに、この事実(註 前文の私有財産の諸結果を示す)を解明してくれない。国民経済学は、私有財産が現実の中でたどってゆく物質的過程を、一般的で抽象的な諸公式でとらえる。その場合これらの公式は、国民経済学にとって法則として通用するのである。国民経済学は、これらの法則を概念的に把握しない。すなわちそれは、これらの法則がどのようにして私有財産の本質から生まれてくるかを確証しないのである。」

 「物質的過程」を「概念的に把握する」ことが大切であると述べる。ここでいう「概念的」にとは、ヘーゲルを批判的に捉え返すなら、単に悟性的認識としてではなく、単に、分析し、総合し、叙述するということではなく、主体的に、かつ、真理を明らかにするという意において掴まねばならない。ここでいう主体的にとは、新たな社会性、あらたな共同性の、形成、発展、展開を実践的理論的主体とするという意味においてである。学知的観察者が、人間と人間の関係が、物と物との関係として錯認識されているとして、〈正しく〉認識するべきであるという、啓蒙者的立場ではない。(たとえば広松的視角)このこと一つとっても、すでにマルクスの理論的立場は、フォイエルバッハの観照の立場との違いが示される。  

 「……事物的世界の価値増大にぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。……

 さらにこの事実は、労働が生産する対象、つまり労働の生産物が、ひとつの疎遠な存在として、生産者から独立した力として、労働に対立するということを表現するものにほかならない。労働の生産物は、対象の中に固定化された、事物化された労働であり、労働の対象化である。労働の実現は労働の対象化である。国民経済的状態のなかでは、労働のこの実現が労働者の現実剥離として現われ、対象化が対象の喪失および対象への隷属として〔対象の〕獲得が疎外として、外化として現れる。」

 「疎外された労働」の規定のまず第一に示される、「労働の生産物からの疎外」のつかみかたは、フォイエルバッハ的な宗教批判を基にしての、しかも、フォイエルバッハを超えた、ヘーゲル弁証法の経済批判への適用である。

 「……すなわち、労働者が骨身を削って働けば働くほど、彼が自分に対立して創造する疎遠な対象的世界がますます強大となり、彼自身が、つまり彼の内容的世界がいよいよ貧しくなり、彼に帰属するものがますます少なくなる、ということである。」

 このことは、宗教と同じ構造であると指摘しながらさらにつぎのように展開する。

 「このことは宗教においても同様である。人間が神により多のものを帰属させればさせるほど、それだけますます人間が自分自身のうちに保持するものは少なくなる。」

 「労働者が、彼の生産物のなかで外化するということは、ただたんに彼の労働が一つの対象に、ある外的な現実存在となるという意味ばかりでなく、また彼の労働が彼の外に、彼から独立して疎遠に現存し、しかもかれに相対する一つの自立的な力になるという意味を、そして彼が対象に付与した生命が、彼に対して敵対的にそして疎遠に対立するという意味をもっているのである。」

 フォイエルバッハは、『キリスト教の本質』において、宗教的疎外について述べている。

 「宗教―少なくともキリスト教―は人間が自分自身の本質に対して取る態度である。然しここでは自分の本質に対する態度は他の本質(存在者)に対する態度として現れる。神的本質とは人間の本質が個々の人間―即ち現実的肉体的な人間―の制限から引き離されて対象化されたものである。言いかえれば神的本質とは、人間の本質が個人から区別されて他の独自の本質(存在者)として直観され尊敬されたものである。それ故に神的本質の凡ての規定は人間の本質の規定である。」

 「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、かく主体や人格やへ転化されたところの対象化された本質の対象とする。之が宗教の秘密である。人間は自己を思惟し自己にとって対象である。然し人間が自己にとって対象であるのは対象の対象―他の本質の対象―としてなのである。」

 「神とは人間のもっとも主観的で最も固有な本質が分離され且つ選り出されたものである。従って、人間は自分自身からは行為し得ない。従って、凡ての善は神から来る。神が主観的人間的であればある程、人間はそれだけ益々多く自分の主観性と人間性とを疎外する。何故なら神自体は人間の自己が疎外されたものだから。然しそれにもかかわらず人間はかく一旦疎外されたる自己を同時に再び自分の方へ獲得する。」

 先に、フォイエルバッハを超えて、と述べたが、これは、つぎのような意味である。

 フォイエルバッハは、先に引用した『遺されたる箴言』において、次のように、自分の神学批判の実践的意味を述べる。

 「二元性は、分裂は、神学の本質である―分裂は王制の本質である。前者にあっては神と世界との対立を、後者にあっては国家と民衆との対立を見る。前者にあっても後者にあっても、人間自身の本質が別個のものとして人間に対立している―前者にあっては全般的に本質として、後者にあっては現実の、人身的または個別的本質として。」

 「歴史は人類の人間化に他ならない。人間自体にとって最初的で且つ最も近いものは、最後的で且つ最も遠いものなのだ。人間は対象化することによって自己の本質を発揚し、そしてこの本質を、自分の本質と目するより前に、まず、自己から区別され且つ自分以上に位する本質と目するのであって、この道が正しいことは、歴史がザラに実例を提供している。カトリック教にとって神的制度であったものが、プロテスタント教にとって人間の制度物となった。」

 「自由は、人間に対して、人間の全体性、人間のすべての力および素質の適応する無制限の活動範囲を供給すること以外にはない。国家が主体的精神と差別されて客体的真を装わされると、人間は一個の機械に下落させられ、人間性を去奪され、抽象的な量として国家の犠牲に供される。人間が自分で考えているところのもの、自分で想像しているものが、人間に真実にそうであるものの以上におかれる。」

 「思惟の領域においての、神学の人間学への解消は、実践の、生活の領域上においては、王制の共和制への解消である。」

 フォイエルバッハの「人間学」の立場は、従って、「共和制」、ブルジョア社会の立場である。

 マルクスは、すでに宗教における分裂は、地上の分裂に原因があること、そしてブルジョア革命の後の、国家と市民社会への分裂は、市民社会そのものが、分裂していることに根拠をもっていることを明らかにし、市民社会の政治的経済的分裂を解明するとしているのである。

 マルクスは、この労働の生産物の疎外から、生産活動そのものの疎外、類的生活からの疎外、したがって、人間からの疎外即ち資本家との対立関係へと、論を進める。

 これを支える論理は、つぎのようなものである。それは、疎外を、人間と人間の関係において、対象的、現実的なものとして捉えると言う視点である。これは物的な疎外は、人間と人間の関係としてつかまれなければならない、逆に、人間と人間の関係が、物的な疎外の結果であり、又、原因であるという論理である。

 「一般に、人間の類的存在が人間から疎外されているという命題は、ある人間が他の人間から、またこれらの各人が人間的本質から疎外されているということを、意味している。

 人間の疎外、一般に人間が自分自身にたいしてもつ一切の関係は、人間が他の人間にたいしてもつ関係において、はじめて実現され、表現される。」

 「……、人間がかれの労働の生産物、すなわち対象化された彼の労働にたいして、一つの疎遠な、敵対的な、力づよい、彼から独立した対象にたいするようにふるまうとすれば、そのとき彼はこの彼の生産物にたいして、ある他の、彼には疎遠で敵対的で力づよい人間、彼から独立した人間がこの対象の主人であるというふうにふるまっているのである。」

 「人間の自分および自然からの自己疎外はいずれも、人間が自分から区別された他の人間たちにたいするものとして、自分や自然にあたえる関係のうちに現れる。……。実践的な現実的世界では、自己疎外は、ただ他の人間たちにたいする実践的な現実的関係を通じてのみ、現れることができる。」

 ここで展開されている内容は、「経済学批判序説」で述べられる、物と物の関係は、人間と人間との関係であり、また、人間と人間の関係は、物と物との関係として分析されねばならないという視点の原基となる。物象化が同時に物神化であるということ、それが宗教的疎外と区別された、「実践的な現実的世界」における自己疎外なのである。(自己疎外と、物象化を分離し、物象化を、錯認識であって正しい認識を、というような類の主張は、内容を理解する基本的立脚点の抽象であり、したがってなにも探求しない理論である。)

 これまで、やや復習的に、『ユダヤ人問題によせて』から『経哲』の「疎外された労働」までに貫かれてきた論理を追ってきた。

 ここで一つ注意すべきことがある。初期マルクス、特にこの『経哲』の「疎外された労働」から「私有財産と共産主義」をあつかっている個所についての評価について、マルクスはこの当時においては、「疎外」に対して、「本質対置」である、それはフォイエルバッハの影響である、そして、「経済学批判」において克服されたという風な見解がある。はたしてそうであろうか?

 フォイエルバッハは、確かに直接的に感性的に確実なものに立脚する。そして、その認識の立場は、次のように展開されている。

 「真理は,思考のうちにあるのでもなく、知識それ自体のうちにあるのでもない。真理は、ただ人間の生活と本質の全体である。」「人間の本質は、ただ、協同体のうちに、すなわち、人間の人間との統一のうちにのみ含まれている。」(『根本命題』)

 「三位一体は、絶対哲学と宗教の最高の奥義であり中心点であった。しかし、その秘密は、『キリスト教の本質』において歴史的にも哲学的にも証明されたように、協同体的、社会的生活の秘密、言いかえれば、私に対する君の必然性の秘密であり、どんな存在も、それが人間であろうと神であろうと精神であろうと自我であろうと、そしてまたそう呼ばれていようと、ただそれだけでは、真の、完全な、絶対の存在ではなく、真理と完全性は、ただ、本質上等しい諸存在の結合、統一だけであるという真理である。哲学の最高にして究極の原理は、したがって、人間の人間との統一である。すべての本質的関係、すなわち、さまざまな科学の諸原理は、この統一のさまざまな仕方にすぎない。」(前掲書)

 たしかに、これまでの哲学に対して現実的人間の立場が対置されているのであるが、抽象的ではあるが「協同体的、社会的生活」が基礎とされているのである。このことを、肯定的に捉えて発展させること、これがマルクスの一つの課題であったわけで、まさにその視点が、国民経済学批判をとおして展開されているのである。そして、さらに重要なのは、いわゆる「本質対置的」理論展開であるという捉え方が、この経哲において、以下の個所において、端的に否定される。

 「われわれは労働の疎外を、その外化を、一つの事実としてうけとり、そしてこの事実を分析したのであった。そこでわれわれは問おうとする。どのようにして人間は自分の労働を外化し、疎外するようになるのか、と。どのようにしてこの疎外は、人間的発展の本質のうちに基礎づけられるのか。われわれはすでに、私有財産の起源にかんする問題を、人類の発展行程にたいする外化された労働の関係という問題におきかえることによって、この課題を解決するために多くのものを獲得してきた。」(『経哲』)

 「人類の発展行程」にたいする関係の中に「疎外された労働」を解明するという方法から導き出される規定は、その原因にさかのぼり、かつ本質的な解決をも導出するのであって、現象に本質が対置されるという方法ではない。解決を求める主体の解明作業そのものが、主体的理論活動なのであるから、おのずと根本的本質的認識が必要なのである。(この方法は、「第三草稿」の「ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判」において明示される。)

 ここまでを要約しよう。宗教批判を土台として地上の批判を展開すること、そしてこれまでのヘーゲル左派の諸論争が、市民社会の立場にあること、これを労働の分析を通して、新たな社会性の形成を根拠にして、人間性の回復、実現を現実の歴史過程の中に掴むこと、このことにおいていっさいのユートピア主義を超えた共産主義を基礎付けたのである。

六 ヘーゲル弁証法の批判的再生=「積極的人間主義」への道

 すでに、政治批判、経済批判の展開をとおして築き上げてきた理論的地平を、方法論的に整理し、ヘーゲル左派を対象化し、フォイエルバッハの理論の限界を示しつつ、そしてマルクス自身のヘーゲル弁証法の転倒において切り開かれる方法を明示的に整理する作業が、「ヘーゲル弁証法とヘーゲル哲学一般の批判」である。

 フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学について、シェリングの「絶対同一哲学」の延長であるという掴み方が強く、なぜならば絶対者批判の観点からみるならば同種の哲学と捉えられるからであるが、ヘーゲルの弁証法についての関心が薄い。しかし、その弁証法についてその特徴を正確に捉えている。

 『ヘーゲル哲学の批判』において、ヘーゲル哲学の位置を簡潔に次のように述べる。

 「フィヒテはカント哲学を真理として前提した。かれは、それを学へ高め、カントにおいてばらばらになっていたものを結び付け、それらを一つの共通な原理から導きだすこと以上になにもしようとしなかた。シェリングも同様に、一方ではフィヒテ哲学を確実な心理として前提したが、他方ではかれはフィヒテと対立して、スピノザの再興者である。ヘーゲルはシェリングによって媒介されたフィヒテである。ヘーゲルはシェリングの絶対者に反論した。かれは、この絶対者のうちに反省、悟性、否定性の契機が欠けていることを認識した。かれは、絶対同一の胎内を精神化し、規定し、それを概念(フィヒテの自我)の種をもって受胎させた。しかし、かれはやはり絶対者を真理として前提していた。かれは、絶対同一性の存在や客観的実在性を疑わず、シェリング哲学を本質上真の哲学として前提し、ただ形式の欠如という点を非難したにすぎない。だから、ヘーゲルのシェリングに対する関係は、フィヒテのカントに対するそれと同じである。」

 この絶対者は証明を必要としているのであるが、しかし「絶対者の証明は――その過程がどんなに学問的に厳密であろうと――その本質、原理から言えば、たんに形式的な意義しかもっていない。」と、「過程」は「形式的なものにすぎない」とされ、そこで終わっている。

 「絶対理念は、思考する者としてのヘーゲルにとっては絶対的確信であり、書く人としてのヘーゲルにとっては形式的な不確信であった。問題はすでに解決ずみと考え、要求をもたず、叙述を追い越している思考者と、思考者にとって確実なものを形式的に不確実なものとして定立し、客観化するところの要求をもち、継起的に進む筆者とのあいだの矛盾、これが絶対理念の過程である。」

 「理念は、現実的に他のもの――このような他者は、ただ経験的=具体的な知性的直観でしかありえないであろうが――によって自分を生み出し、証明するもではなく、形式的な、見せかけの対立物から自分を生み出すのである。」

このように、このヘーゲルの絶対理念の媒介は形式的なものとされるのであるが、さらに続けてその意味を特徴づけている。

 「ヘーゲル哲学は、合理的神秘主義である。だからそれは全く独特のものであり、したがって神秘的=思弁的な心の人にとっても、合理的な頭の人にとっても、魅力的であると同時に、嫌悪すべきものである。前者にとっては、概念がかれらを失望させ、また暗い表象の神秘的魅力を破壊するから、神秘的なものに合理的なものを結びつけることががまんできない矛盾であり、後者にとっては、合理的要素に神秘的要素を結びつけることが気にいらないのである。」

 フォイエルバッハは、ヘーゲル弁証法の二重性をこのように要約している。このつかみかたはぎりぎりヘーゲル弁証法の内容にせまったものであるがそれ以上ではなく、「形式的」であるとして捨て去っているのであるが、マルクスのヘーゲル弁証法の捉えかえしと通じているものである。

 マルクスは、フォイエルバッハを評価し、そのなかで、つぎの点を強調している。

「(1)哲学は、……。

(2) 真の唯物論と実在的な科学とを基礎づけたこと。しかもこれをフォイエルバッハは「人間の人間にたいする」社会的な関係を同様に理論の根本原理とすることによっておこなったのである。

(3)彼は、……。」

 先にも示したように、すでにマルクスは、この評価の上にたってなおかつ超えている。これを、マルクスによるフォイエルバッハの「改釈がえ」であるなどという解釈もあるようであるが、マルクスのこの時点における方法を内容的に把握していない場合そのような印象をもつのかもしれない。

 フォイエルバッハが、「否定の否定を、もっぱら哲学の自己矛盾としてのみ把握している。」と批判した上で、ヘーゲル弁証法の批判に入るのであるが、すでに先に述べたように、宗教批判と国家と市民社会の批判をとおして、ヘーゲルとの格闘は内容的にすすんできたのだということ、そのうえに展開されているということを念頭におかねばならない。当然にも、この批判から突然に「歴史的・過程的・関係的」把握が生まれたのではないということである。

@「だが、ヘーゲルは、否定の否定を、――そのうちに存している肯定的な関係からいえば、真実の唯一の肯定的なものとしてとらえ、――そのうちに存している否定的な関係からいえば、一切の存在の唯一の真なる行為および自己確証行為としてとらえたのであるが、そうすることによって、彼は、たんに抽象的、論理的、思弁的な表現にすぎなかったが、歴史の運動にたいする表現を見つけだしたのであった。」

A「そして、あらゆる自然的なものが生成してこなければならないのと同様に、人間もまた自分の生成行為、歴史をもっているが、しかしこの歴史は人間にとっては一つの意識された生成行為であり、またそれゆえに意識をともなう生成行為として、自己を止揚してゆく生成行為なのである。歴史は真の自然史である。」

B「したがってヘーゲルは、自己自身に関係させられた否定の肯定的な意味を――またしても疎外された仕方においてであるが――とらえることによって、人間の自己疎外、本質外化、対象剥離、現実性剥奪を、自己獲得、本質変化、対象化、現実化としてとらえている。《要するに、ヘーゲルは――抽象の内部で――労働を人間の自己産出行為としてとらえ、疎遠な本質としての自己に対するふるまいを、一つの疎遠な本質としての人間の活動を、生成しつつある類的意識および類的生命としてとらえている。》」

 人間が対象的感性的自然的存在であること、且つ人間的な自然存在=類的存在であること、このことが前提となって、ヘーゲルの批判が成立しているのであるが、このフォイエルバッハと通じる地平の上に、しかし、フォイエルバッハを超えて、感性的ということは受苦的であるということ、人間は、対象を自然的諸対象から人間的諸対象へと変化させねばならないことから必然的に生成の歴史過程をもつこと、この対象的生命活動が労働なのだということ、さらに、人間的本質の外化が疎外されたものであることを克服しながらの類的歴史過程を必然とすること、この疎外の克服過程こそが「真の人間的な現実にいたる道」なのだとするこの視点から、ヘーゲルの弁証法の特徴を照らし出したのである。

 マルクスは、国民経済学批判を媒介にして、生産、労働の本質的意味をつかむのであるが、このことにより現実的歴史過程を人間が人間となる全発展過程としてとらえることができるのである。たしかに、ドイツの現状の中に悲惨、人民の苦しみをとらえていないヘーゲル左派はいなかったし、また、プルードンのように「労働を擁護し私有財産に反対する」(『経哲』)主張もあった。しかし、資本主義的生産過程そのものが、すなわち賃労働と資本の関係そのものが両極ながら廃棄されねばならないという結論は、あたらしいものであった。

 この視点は、当時のヘーゲル左派の潮流のなかには無いマルクス独特の歴史論理である。このことを理解しない主張は、ややもするとこの時点のマルクスの理論内容をフォイエルバッハ主義的であるとだらしなく勝手に決め付ける傾向となる。フォイエルバッハの論理と、ヘーゲルの論理と、マルクスの論理の相互関係は、決定的にこの一点に照らし出される。このことは重要なのでさらに注意深くみてみることにする。

マルクスは、ヘーゲル『現象学』の二重の誤りとして述べるなかで

 「第一の誤りは、……。人間的本質がみずからを非人間的に、自分との対立において対象化するということではなくて、人間的本質が、抽象的思惟からの区別において。またそれとの対立において、自らを対象化するということが、措定された、そして止揚されるべき疎外の本質であると見なされるのである。」

 「第二に、対象的世界を人間のために返還請求すること――たとえば、感性的意識は、けっして抽象的に感性的意識ではなく、人間的に感性的な意識であるとか、また宗教や富その他は、人間的な対象化の、外へ製作物として産出された人間的な本質諸力の、疎外された現実にすぎないのであって、それゆえ真の人間的な現実にいたる道にすぎないのだということの認識――このような獲得、あるいはこのような過程への洞察は、ヘーゲルにおいては、感性、宗教、国家権力等々が精神的な存在であるというかたちで現れる。」

 「疎外された対象的本質をわがものとする獲得、あるいは疎外――それはどうでもよいような疎遠性から現実的な敵対的疎外にまで進まざるをえないのだが、――の規定のもとでの対象化の止揚は、ヘーゲルにとっては、同時に、あるいはむしろ主として、対象性を止揚するという意味をもっている。というのは、自己意識にとって疎外における障害となるのは、対象の特定の性質ではなくて、その対象的な性質だからである。」

 ヘーゲルの自然と理念の関係についての「外在性」について、「外在性はここでは、自己を発現して光に、感性的人間に開示された感性として理解されるべきではない。この外在性は、ここでは外化の意味において、あってはならない欠陥の意味において受けとられるべきでなのである。というのは、真なるものは依然として理念だからである。自然は理念の他在の形式であるにすぎない。」このように、叙述の順序としては、自然の外在性=欠陥の止揚として回帰した同一性となったものが概念であるとされているが、しかし、すでに潜勢においては止揚された本質としてあらかじめ措定されているというまやかしなのであるが、ヘーゲルの「外化」の意味が鋭く述べられている。この「外化」されたものが、理念を真として、欠陥あるものとして止揚されるという循環過程を持つのであるが、そのうえでなおその外化の止揚が「それの他在そのもののうちにあって自己のもとにある」されることによって、対象そのものが虚無性として否定されて自己確証とされるのである。

 「ヘーゲルにおいては、否定の否定は、まさに仮象本質を否定することによる真の本質の確証ではなくて、仮象本質、または自己から疎外された本質を、それの否認において、確証することである。すなわちこの仮象本質を、人間の外に住みそして人間から独立している対象的本質としては否認し、それを主体へと転化することである。」

 このヘーゲルの「いつわりの実証主義」「見せかけだけの批判主義」は、すでに、『国法論批判』のなかで、ヘーゲル哲学の「無批判」は、その秘法であると指摘されている。

 「これは一つの古い世界観を或る新しい世界観の意味に解釈する無批判的な、まやかしのやり方なのであって、それによって古い世界観は出来そこないのまぜものようなものにしかならず、ここでは姿は意義を偽り、意義は姿を偽るのであって、姿が姿どおりの意義になり、現実的な姿になることもなければ、また意義が意義どおりの姿になり、現実的な意義になることもない。この無批判、このまやかしは現代の国家制度(なかんずく身分代議制度)の秘密であるとともに、またヘーゲル哲学、ことに法および宗教哲学の秘法でもある。」(『国法論批判』)

 そして、『経哲』においてはこの「秘法」は、マルクスによって、明確な形でかつ、分かり易く批判される。

 「もしわたしが宗教を、外化された人間の自己意識であると知るならば、したがってそのとき私は宗教としての宗教において私の自己意識が確証されているのではなく、私の外化された自己意識がそこで確証されているのだということを知るのである。したがってその場合私は、自己自身につまり自分の本質に属している私の自己意識が、宗教においてではなく、むしろ破棄され止揚された宗教において確証されているのを知るのである。」

 「仮象本質の否認と再興」ではなく、その「否定」こそが、自己確証である。マルクスはこう断言する。

 このようなヘーゲル弁証法のもっている思弁的性格、いつわりの実証主義にもかかわらず、その弁証法のもつ積極的意義は、〈「現実的人間」の「歴史過程」〉に基礎づけられることにより、現実的理論として生みなおされる。マルクスは、ヘーゲルの弁証法の生みなおしの中から、「積極的人間主義」を導きだす。

 「いまやヘーゲルの弁証法の積極的は諸契機――疎外の規定の内部での――をとらえねばならない。

 外在態を自己のうちに取りもどす対象的な運動としての止揚。――《これは対象的本質をその疎外の止揚によって獲得するということについての、疎外の内部で表現された洞察であり、人間の現実的な対象化への疎外された洞察である。すなわち、人間が対象的世界の疎外された規定を破棄し、対象的本質を獲得するということへの疎外された洞察である。……》」

 「神の止揚としての無神論=理論的人間主義」「私有財産の止揚としての共産主義=現実的人間主義」にたいして、マルクス自身の「この媒介の止揚――といってもこの媒介は一つの必然的な前提なのであるが――によってはじめて、積極的に自己自身からはじめる人間主義、積極的人間主義が生成するのである。」

 マルクスの理論の基礎、理論の主体はなにかということがここで問題である。

 「思惟もまた、社会や世界や自然のなかで目、耳、等々をそなえて生きている人間的で自然的な主体としての人間の本質発現」であると、「へーゲルが思惟を主体からきりはなした」ことについて述べている。

 先に述べたように、外見的には個人的個人の理論活動であっても、その内容において社会的である理論活動は、特定の社会を、社会性を前提としている。

 『経哲』において、明らかにされた「積極的人間主義」におけるその主体はなにかということは、これまでの論述においてすでに明らかなように、現実的歴史的疎外(疎外として感受する現実人間達の現存があってはじめて疎外なのであるが)を、欠陥苦痛として克服してゆかんとする新たな人間的秩序、新たな社会性こそが主体なのである。それは、将来の想定されたものではなく、現下の進行しつつある「隠れた内乱」、プロレタリアートの団結の只中にうみだされつつある、市民社会に属しつつそれをはみ出してゆく新たな社会性なのである。

 ここまでに明らかにされたマルクスの理論地平は、確かに歴史過程がその政治・社会・経済過程がいまだ抽象的本質としてしか、すなわち具体的現実的に展開されていないが、ヘーゲル弁証法の批判的生成において独自に切り開かれたものである。このことを見落とすと、マルクスは、ただ単に、フォイエルバッハやエンゲルスやヘスやシュテルナーの影響によってのみ、外的影響によってのみ築き上げられる理論家のように思い描かれたりするのである。しかしそれとて、新たな社会性に基礎づけられない「マルクス主義解釈」の個人責任を問えないところの不可避的な〈没主体的〉結果なのではあるが。

七 フォイエルバッハとマルクスのヘーゲル哲学理解の相違点

 フォイエルバッハをマルクスが越えたとわれわれもまた主張する。マルクスのフォイエルバッハ批判に追随するだけの、内容の無い空文句としてこれを主張する人々が多いが、そのような人は、また、レーニンの『哲学ノート』の内容を、これまた、全く矛盾するにもかかわらず、正しいと主張する人々である。このようだらしない理論以前の理論は、今日においては力を失いつつあるが、しかし依然として反省が見られない。このような傾向は、日本の近代の西洋哲学が「新カント派」(ヘーゲル哲学を媒介としてカント哲学を理解する)の影響のもとにあったということから照らし出されることであるが、これはさらにレーニン主義のフイルターを通しての「レーニン主義的新カント派」となることで固定化されることになったという事情の産物ではあるのだが。そして、革マルの黒田は「レーニン主義的新ヘーゲル派」ともいうべきまがいものをでっち上げたのである。

 なぜ両者に大きな違いが発生していったのか、この問いには、確かに、マルクスの政治社会過程にたいする現状認識、批判が存在することを前提にする必要があるし、またフォイエルバッハは、当時は「合理主義者」以上ではなかったとおもわれる。両者にとって、「疎外」は、前者にとっては、現実的な生活上の宗教・政治・社会・経済的生活過程の疎外が、後者にとっては宗教上の疎外があつかわれているということがあるのではあるが次の点を看過できない。

 先にも引用したのであるが、フォイエルバッハのヘーゲルの哲学史的位置付けは、シェリングの同一性絶対哲学の変化したものとして規定されている。

 『哲学改革のための暫定的命題』において、

 「スピノザは現代の思弁哲学の本来の創始者であり、シェリングはその再興者、ヘーゲルはその完成者である。」

 「同一哲学とスピノザの哲学とのちがいは、同一哲学が、後者の実体という生命のない、鈍重な存在を、観念論の精気で活気づけている点にあるにすぎない。特にヘーゲルは自己活動、自己区別の力、自己意識を実体の属性とした。ヘーゲルの神についての意識は、神の自己意識である』とする逆説的な命題は、『延長あるいは物質は実体の一属性である』というスピノザの逆説的な命題と同じ基礎のうえにたっていて、それは、自己意識が実体あるいは神の属性の一つであり、神は自我であるという以外の意味をもたない。」

 この考えを裏打ちするように、『ヘーゲル哲学の批判』において、シェリング哲学を規定して、以下のように述べている。

 「ヘーゲルは、かれの哲学的思考のそもそもの始めから、絶対的同一性の前提からはじめたのである。絶対的同一性の理念あるいは絶対的一般の理念は、かれにとってはいきなり客観的な真理であり、しかも、それはたんにある一つの真理ではなく、絶対的な真理、絶対的理念そのものであった。すなわち、もはや疑うことのできない、あらゆる批判と懐疑を超越したという意味で、絶対的な理念であった。しかし、絶対者の理念は、その積極的な意義からみれば、カント=フィヒテ哲学の主観性の理念に対立する客観性の理念にすぎなかった。だから、シェリング哲学は、その信奉者たちが考えているような『絶対的な』哲学としてではなく、批判哲学の対立物として理解されねばならない。」この註として、「ヘーゲル哲学は、形式的にはフィヒテ主義を受け入れていたけれども、しかしその内容からみて、カント主義およびフィヒテ主義に対立している。このことを認める場合にのみ、われわれはヘーゲル哲学をもまた、正しく認識し、その真価をみとめ、評価することができる。」と念を押している。

 ヘーゲルにあっては、神的なもの、絶対的なものは、自己意識としてのみ展開されている。スピノザの神はそのまま自然なのであって、いわば「汎神論」的展開である。

 シェリングは、たしかにフィヒテ哲学から出発しながら、絶対自我=神とする時に、主体・客体の上においてはじめて成立する意識は、主観・客観をすでに超えている絶対者としての神の規定に反するとし、意識が無いということは人格性が無いということだと論理において、スピノザへ向かう。

 これにたいして、ヘーゲルは「現象学」において、「絶対者は主体である」とし、真なるものは実体としてでなく主体として把握し表現しなければならないとしている。すなわち、区別も運動も無い単純態のような実体が絶対者なのではないとしている。「生ける実体とは存在であっても、真実には主体であるところの存在、或いは言いかえると、真実に現実であるところの存在であるが、現実的であるのは、ただ実体が自己自身を定立する運動である限りにおいてのみのことであり、言いかえると己の他となりながらそうなることを己れ自身と媒介し調停する運動であるかぎりにおいてのみのことである。」

 マルクスは、このヘーゲルの運動し己を知る「主体」を、『経哲』において人間の生命過程の、疎外された神的過程として批判的につかんだのである。

 「……、ヘーゲルにとっては、自己外化および自己疎外としての自己産出、自己対象化のあの運動は、絶対的な、それゆえ究極的な、人間生命の発現、自己自身を目的とし、そして自己のうちに安じており、自分の本質に到達した人間生命の発現なのである。

 それだから弁証法としてのその抽象的形式におけるこの運動が、真に人間的な生命とみなされる。」

 この過程は、ヘーゲルにあっては、神的過程となる。つづけて、「しかもなお、それは人間的な生命の一つの抽象、一つの疎外なのであるから、それは神的な過程、したがって人間の神的な過程――人間から区別されている抽象的な、純粋な、絶対的な人間の本質が、自ら通過する一過程とみなされるのである。」

 そして、この過程は担い手を必要とする。

 「この過程は一つの担い手、一つの主体をもたねばならない。しかし主体は成果としてはじめて生成してくる。それゆえ、こうした成果、すなわち自己を絶対的な自己意識と知っている主体は、神であり、絶対精神であり、自己を知りつつ実証する理念であることになる。」

 「客体を越えて包み込んでいる主体性を、すなわち自己を外化しそして外在態から自己へと還帰するが、しかしそのさい同時に外在態を自己のうちに取りもどす主体としての絶対的な主体を、しかしまたそういう過程としての主体をもつのである。」

 ヘーゲルの「主体」は、このような「神秘的主体」「客体を越えて包み込んでいる主体」と規定されている。これは、あきらかにスピノザ的実体とは異なるものである。

 マルクスは、『聖家族』のなかで、「ヘーゲルの絶対精神」は、スピノザの実体、フィヒテの自己意識との統一であるとし、それは、形而上学的に改作された現実の人間、現実の人類であると述べている。スピノザはヘーゲルの一つの要素ではあるが、フィヒテとの統一においてヘーゲル自体の「主体」が作りだされているのである。

 フォイエルバッハは、ヘーゲルをスピノザ主義的であると規定している。したがって、ヘーゲルの抽象的過程は、絶対的同一性についての、自己を証明するための余計なものとしてしかうけとめることができなかった。したがって、「現象学」のなかから、批判的内容をつかみ出す事ができなかったのである。フォイエルバッハはたしかに優れた批判者ではあったが、ヘーゲル哲学を一面的に批判することの結果は、当然にもその止揚とはならない。

 マルクスは『ドイツイデオロギー』のはじめに、「青年ヘーゲル派は万事にことさらに宗教的諸表象をおしつけたうえで、また万事を神学的だと断定したうえ批判した。青年ヘーゲル派は、現存の世界における宗教、諸概念、普遍的なものの支配を信ずるという点では旧ヘーゲル派と一致する。ただ前者がその支配を無法だと反対するに対して、後者が合法だとたたえるだけである。」と述べ、彼らは「道徳的要請」のみを主張する誤りであると断言する。

八 「歴史的必然性」の概念――『聖家族』

 『経哲』につづいて、更に青年ヘーゲル派に対する批判を深めるのであるが、ブルーノ・バウアー批判は、同時に「主意主義的立場主義」に対する批判でもあり、したがって、『ドイツイデオロギー』の冒頭の「イデオローグ批判」に引き続き展開される伏線となっている。これは同時に、その批判的な内容として、歴史的な必然性、しかも、プロレタリアートにとっての歴史的必然性のついての洞察でもある。そのかぎりにおいて、すでに、繰り返し明示しているように、フォイエルバッハの「主述の転倒」の「主」の内容がたかめられることによって、すなわち、現実的歴史的な実践的人間活動として掴み返されることによって、ヘーゲルを全的に克服した地平にすでに立っているのである。

 青年ヘーゲル派がもがいた空間が、いかなるものであるかを公然と白日のもとに曝したのは、次のようなヘーゲル把握であった。

 「実体と自己意識にかんするシュトラウスとバウアーの闘争は、ヘーゲル的思弁の内部での闘争である。ヘーゲルのうちには三つの要素がある。すなわちスピノザの実体と、フィヒテの自己意識と、この両者の必然的な矛盾に満ちたヘーゲルの統一すなわち絶対精神である。第一の要素は人間から分離されて形而上学的に改作された自然であり、第二のものは、自然から分離されて形而上学的に改作された精神であり、第三のものは、これら両者の形而上学的に改作された統一であり、現実の人間と現実の人類である。」

 すなわち、スピノザ的実体、フィヒテ的自己意識、ヘーゲルの主体が端的に示される。

 ここで、若干立ち止まって、実体と主体の関係についての捉え方についてはっきりさせておく必要がある。「現象学」のはじめに、

「二 精神の現象学

 〔一〕絶対者は主体であること、そして主体とはなんであるのか。

私の見解は、ただ体系そのものの叙述によってのみ正当化させられざるをえないものであるが、この見解によると、一切を左右する要点は」につづいて、「真なるものをただ単に実体として把握し且つ表現するだけでなく、全く同様に主体としても把握し表現するということである。」と翻訳されている個所がある。

 別の訳でも「真理を単に実体としてとらえるだけではなく、主体としてもとらえ表現するか否かにかかっている。」とされている。《das Wahre nicht als Substant,sond ern eben so sehr als Subjekt aufzufassen und auszu-drücken 》の訳としては、「実体としてでなく、主体としてとらえるべきであり、主体のほうがかえて実体をも表現しうるのだ」と言う意味に掴まねばならないと考える。(註 ドイツのヘーゲル学者ゲルハルト・シュミトの見解を渡辺二郎が紹介している見解を参考とした。)

 このようにとらえることによって、上記の三要素が正確に把握される。

 この点が重要である。スピノザの実体のもついわば「汎神論」的性格の批判を、ヘーゲルに投げかけることによって、ヘーゲル批判をしたつもりになって、その上で、マルクスを解釈するという傾向はこれまでよくみられたものである。そうするともう一度、誤って主観主義者や自我主義者が生み出される。観念的な偽者のマルクス主義の発生原因である。

 上記の点を示すために、若干スペースをとるが、簡潔にこの点を扱うことにする。

 『大論理学』「第三部」の冒頭の「概念一般について」は、ヘーゲルの「概念」の何たるかを明瞭に述べている。

 「有と本質を考察する客観的論理学は本来、概念の発生的叙述である。これをもう少し詳しく云えば、実体はすでに実在的な本質であり、あるいは有と合して現実性の中に這入ったかぎりにおける本質である。

従って概念は実体をその前提としてもつのであり、概念が顕現したものであるのに対して、実体はその即自的なものである。因果性と交互作用を通じての実体の弁証法的運動は、それ故に概念の直接的な発生であり、これによって概念の生成の叙述がなされる。」

 「実体は絶対的な力として、或いは自己関係的な否定性として、自分を区別して一個の相関関係とするが、この相関関係のなかでは、あの最初は全く単純であった二契機が二つの実体となり、二つの根源的前提となっている。――この実体の規定的な相関関係は一方の受動的実体(即ち無力で自分を自ら措定することなく、単に根源的な被措定有であるような単純な即自有の根源性)と、自己関係的な否定性であり、そういうものとして自分を他者として措定し、そうしてこの他者に関係するものである能動的実体との関係である。」

 このように、実体を二つの実体とする。これは、シェリングの実体のつかみかたと異なる。フィヒテの「自我と非我」を「精神と自然」と掴み直し、自然と精神の根源的同一性を主張することでその分離対立を克服できるとした。「私は、絶対的な理性、すなわち、主観的なものと客観的なものとのまったき無差別として考えられるかぎりでの理性を、理性と名づける。」として「同一哲学」を打ち出したのである。

これにたいして、ヘーゲルは、矛盾や区別、欠陥がどのようにしてでてくるのかをあきらかにできないとして、その同一哲学を批判する。

 実体を二つに分離して生成したものとしての新たな実体を、「実体の完成」であるとし、「しかし、この完成はもはや実体そのものではなくて、より高次のものであり、概念であり、主体(Subjekt)である。」

 この「主体」こそ、ヘーゲルの核心点である。

 『聖家族』の第五章の「二 思弁的構成の秘密」は、マルクスがヘーゲルのヘーゲルたる所以のところを分かり易く説明する個所として有名である。しかし、多くの場合、この論述の意味を十分に理解しているとは言い難い。それは二つの理由がある。

 その一つは、先にあげた「ヘーゲル的主体」を「スピノザ的実体」との相違において鮮明につかむことに失敗しているか、不十分であること、さらに、ここが大切なのであるが、その一つは、すでに述べた「新カント派」的な「知性」のままにその尺度において「主語と述語」関係を理解し、そのように読み込んでしまう傾向があることである。それは、背中あわせの一つのことである。すなわち、もう一度ヘーゲル的観念性の中に舞い戻るような誤れる「ヘーゲル批判」に転落するのである。

 この個所は、前後の二つの論旨によって展開されている。

前半は、実存する規定されてある個別から、その本質が抽象される過程、後半は、この抽象が規定された実在へといたる過程である。この前半については、「特殊の現実の果実」からの「果実なるもの」の抽象過程である。この抽象過程は、あらかじめ行なわれて済んでしまっていることなのであるが、ヘーゲル的には、普遍的規定のなかに、個別的特殊的規定が含まれている抽象なのである。普遍性の契機のみによる抽象は、形式的で外的な抽象であるとされる。この抽象から、「果実なるのも」から、現実の個々のリンゴ、等々への道が問題である。

 マルクスは、「現実の果実から、抽象的表象たる『果実なるもの』をつくりだすのは、いともやさしいとしても、抽象的表象たる『果実なるもの』から、現実の果実をつくりだすのは、たいへんむずかしい。」と述べ、「それどころか、私が抽象を捨てない限り、抽象から抽象の反対にいくことは、不可能である。だから思弁哲学者は『果物』なるものという抽象を、あらためてすてるが、それを思弁的・神秘的なしかたで、つまりこれをすてないようにみせかけて、すてるのである。」

 この「すてないようにみせかけて、すてる」やりかたは、『大論理学』「第三巻第一篇第一章C個別〔1、個別性の本性〕〔a 普遍〕に詳しく展開されている。

 「普遍は、それ自身において絶対的媒介であり、ただ絶対的否定としてのみ自己関係であるが故に、向自的である。だが、この止揚が外面的な働きであって、その点で規定性の除去であるかぎり、普遍は抽象的普遍である。……――抽象は生命、精神、神、並びに純粋概念を把握することができない。何故かといえば、抽象はその諸々の所産から個別性を、即ち個性と人格性との原理を捨て去り、生命も精神もなく、また色も中味も無い普遍性に達するにすぎないからである。」ここまでは、まっすぐ来るのであるが、反転して

 「ところが、概念の統一は分かち得ないものであって、それ故にこれらの抽象の所産も、それが個別性を捨て去ると言われながら、それ自身むしろ個別的なものである。抽象は具体的なものを普遍性に高めるが、しかし普遍を規定的な普遍としてのみ把握するのであるから、まさにこの普遍こそ、自分に関係する規定性になったところの個別性にほかならない。……抽象的なものそのものが個別的内容と抽象的普遍性の統一であり、従って具体的なものであって、いわゆる抽象的なものの反対のものであることがわかる。」

 最後に「具体的なもの」が「抽象的なものそのもの」と等しいとされるのである。

 概念なるものが、絶対的否定性であるということから、概念は自分を分離し、自分を自分自身の他者として措定する。この自己と他者としての自己との関係が判断される。統一が生み出されると推論となり、完全性をもつ。そして概念の主観性は客観性に移行してゆく。この全過程が、この「すてないようにして、すてる」やりかたなのである。

 マルクスは、スピノザ的な実体の立場と区別して、ヘーゲル的な主体の論理として明確に述べる。

 「だから、実体の立場でのように、ナシが『果実なるもの』であり、リンゴが『果実なるもの』であり、ハタンキョウが『果実なるもの』であるとは、もはやいってはならないので、むしろ、『果実なるもの』が、ナシとしてみずからを定立し、『果実なるもの』がリンゴとしてみずからを定立し、『果実なるもの』がハタンキョウとしてみずからを定立する、というべきであり、リンゴ、ナシ、ハタンキョウを、相互からわかつ区別は、まさに『果実なるもの』の自己区別であり、この区別が特殊の諸果実を、『果実なるもの』の生活過程のうちの区別された分肢にするのである。」

 「いうまでもなく、思弁哲学が、このようにひきつづいて創造行為を成就するのは、ただ彼が、リンゴやナシなどの、周知の性質を――それはこれらを実際にながめれば見いだされるものだが――彼がつくりだした規定だといいくるめることによってであり、また彼が、抽象的悟性だけが創造できるもの、すなわち、抽象的悟性公式に、現実の名称をあたえることによってであり、最後に彼が、それをつうじて彼がリンゴの表象からナシの表象に移行してゆく彼自身の活動を、絶対主体の、すなわち『果実なるもの』の、自己活動だと公言することによってである。」

 「この操作を、思弁的言いまわしでは、実体を主体として、内的過程として、絶対的人格として理解するとよぶ。そして、この理解がヘーゲル的方法の本質的性格をなすのである。」

 ヘーゲルに即してこの展開を追うならばつぎのようになる。

『エンチュクロペディ』の「第三部概念論A主観的概念c推論」において

 「そして絶対者の定義は今や、絶対者は推論である、というふうに言えることになり、この規定を命題にして言い表せば『すべては推論である』ということになる。すべては概念である。そして概念の定在は概念の諸契機の区別である。つまり、概念の普遍的本性が特殊性をとおして自己に外的現実性を与え、このことによって、また、否定的な自己―内―反照として、自己を個別者たらしめる。――これを逆に言うと、現実的なものは一個別者であり、これが特殊性をとおして自己を普遍性へ高め、自己自身と同一たらしめるのである。――現実的なものは一つのものであるが、しかしまた同時にそれは概念諸契機の相互分離でもある。そして推論とは、この概念諸契機を媒介する円環であって、この円環をとおして現実的なものは一つのものとして自らを措定するのである。」(一八二)

 「諸契機のこの観念性ということの中に、推理作用は、それが経めぐる諸規定態の否定を本質的に内包するという規定を含んでおり、したがってまた、媒介を止揚することによって一つのの媒介であるという規定、そして、主語を他者と連結することでなくて主語を止揚された他者と、つまり自分自身と連結することであるという規定を生む。」(一九二)

 「概念のこの実現、この実現において、普遍者は自己へと還帰したこのような一つの統体であり、この統体の諸区別もおなじく統体であり、この統体は媒介を止揚することをとおして自己を直接的統一として規定しているのであるが、この概念の実現、――これが客観である。」(一九三)

 引用が長くなったが、このような「思弁」の過程において、「対象」(表象)が現実的な実存在として生み出されることになる。

 主語が述語に向かう過程と、述語が主語に向かう過程が判断、推論をとおして統一される、または、同一であるということに至ることによって、即自的であった主語と述語の関係が向自化され、媒介そのものも止揚されて直接的に統一されて、客観となる。この客観は、「直接的な有」となる。この「客観」が「目的」によって、「主観」と統一されて「理念」となり、「生命」となり、「類」となる。

 この長い過程そのものが、「抽象」から具体的なこの「りんご」、この「ナシ」にいたる思弁的過程なのである。

 マルクスは、当時のヘーゲル左派の特にシュトラウスとバウアーの論争について述べながら、「二人ともヘーゲルの思弁の内部にたちどまり、それぞれヘーゲルの体系の一面を代表している。フォイエルバッハがあらわれるにおよんで、彼は形而上学的な絶対精神を『自然という基礎のいえのたつ現実的人間』に解消することによって、はじめてヘーゲルをヘーゲルの立場にたって完成し、批判した。それと同時に彼はヘーゲル的思弁の、したがっていっさいの形而上学の批判のために、巨匠をおもわせる偉大な『根本命題』をスケッチすることによって、宗教の批判を完成した。」このように、フォイエルバッハの「現実的人間」の位置をつきだした。

 たしかに「根本命題」において、

 「五〇

 その現実性と全体性とにおける現実的なもの、すなわち新しい哲学の対象は、また、現実的で全体的な存在にとってのみ対象である。だから新しい哲学の認識原理として、すなわち主体は、自我でもなく、絶対的なすなわち抽象的精神、要するに、まったく独立的な理性でもなく,人間の現実的で全体的な存在である。」

 かくのごとく「主体」=「人間」が宣言される。

しかし、先にも述べたように、この「人間」は、やはり抽象であるか、なんらの社会的苦痛、矛盾を感じない人間でしかない。

 フォイエルバッハの「主語と述語の転倒」は、この『根本命題』の二年前の一九四二年に発表した「暫定的命題」の始めに記されているのだが、ここでの「主語と述語」の関係の把握は、「述語=属性」と言うかたちでの理解である。

 「ヘーゲルの『神についての意識は、神の自己意識である』という、逆説的な命題は、『延長あるいは物質は実体の一属性である』というスピノザの逆説的な命題と同じ基礎のうえに立っていて、それは、自己意識が実体あるいは神の属性の一つであり、神は自我であるという以外の意味をもたない。有神論者が、現実の意識と区別して、神のものだと考えている意識は、実在性のない観念にすぎない。物質は実体の属性である、というスピノザの命題は、物質が実体的な神的本質である、と言うにすぎず,同様にヘーゲルの命題も、意識は神的存在であると言うにすぎない。

 思弁哲学一般を改革的に批判する方法は、すでに宗教哲学に適用された方法と同じである。われわれはいつでもただ、述語を主語とし、かくして主語となった述語を客体、原理としさえすればいいのである。だから、思弁哲学をひっくり返しさえすれば、われわれは蔽われない、純粋で、あからさまな真理をもつのである。」

 「抽象するとは、自然の本質を自然のそとへ,人間の本質を人間のそとへ、思考の本質を思考作用のそとへおくことである。ヘーゲル哲学は、その体系がこの抽象作用にもとづいているから、人間を人間自身から疎外した。」

 「抽象によって人間から引き離された人間の本質と人間との、直接的の・明白な・ごまかしのない同一化は、肯定的な仕方ではなく、ただヘーゲル哲学の否定としてのみヘーゲル哲学から導きだすことができる。」

 「思考と存在との真の関係は、ただ次のようでしかない。存在は主語であり、思考は主語である。思考は存在からでてくるが、存在は思考からは出てこない。」

 すなわち、人間を主体とする、「自然をも含んだ人間」(『根本命題』「五四」)を主体とする哲学が新しい哲学であるとする。

 ここまでみたように、フォイエルバッハの新たなる主体は、スピノザ批判としてはたしかに有効であるし、ヘーゲルのスピノザ主義的理解にとっては有効である。スピノザの哲学が、すべてを神的実体=神に帰着させることで終わり、展開をもたなかったのと同じに、この新たな主体は展開が無い。

 フォイエルバッハは、シェリングが自ら語るようにスピノザ主義であることから、「同一哲学」がスピノザ主義であると規定する。そして、ヘーゲルは、その仲間であると考えている。

 たしかにスピノザの理解としては正しい。

 「スピノザは、多くの思考する存在の総体としての思考と、多くの延長ある存在の総体としての物質を、一つの実体、すなわち神の属性とした。神は思考するものであり、神は延長あるものである。 

 同一哲学とスピノザの哲学とのちがいは、同一哲学が、後者の実体という生命のない、鈍重な存在を、観念論の精気で活気づけている点にあるにすぎない。特にヘーゲルは自己活動、自己区別の力、自己意識を実体の属性とした。」

 「スピノザによれば(『エティカ』第一部、定義三および定理十)、実体の属性あるいは述語が実体そのものであるように、ヘーゲルにとってもまた、絶対者、すなわち主語一般の述語は主語そのものである。」

 ヘーゲルは、自己意識を実体の「属性」としたのではない。実体は実体そのものではなく、概念、主体に発展させられている。そして、この概念自体が「自己」なのである。

 このフォイエルバッハの「属性」という考え方自体にも問題がある。

 スピノザは、「属性」を規定して、「エティカ」「第一部定義四 属性とは知性が実体についてその本質を構成しているとちかくするもの、と解する。」この「知性」は「第一部定理三一 現実的知性は、有限なものであろうと無限なものであろうと、意志・欲望・愛などと同様に、能産的自然にではなく所産的自然にかぞえられなければならぬ。」と規定される。これについて、ヘーゲルは、『大論理学』「第二部第三篇第一章の註釈」において、すなわち、悟性が絶対者の本質として理解するところのものと規定され、ところがこの悟性は属性より後に出てくる「様態」に過ぎぬとされている。したがって、「実体に対して外面的に、従って直接的に現れるところの他者である悟性に依存するもの」であると批判される。

 この外面的であるという点は、カントにおいても同様であるとヘーゲルは批判する。

 ヘーゲルに言わせるならば「精神の形而上学、或いはもっと一般的な用語で言えば、心の形而上学は、実体とか、単純性とか、非物質性とかという規定をその中心とした。――即ち、これらの規定を論ずるに当たっては、経験的な意識から取られた精神の表象〔観念〕が主語として根底におかれ、次に如何なる述語がこの知覚と一致するかということが問題にせられたのである。」

 「形而上学は一体に、――否、自分を固定的な悟性概念に制限し、自分を思弁に高めることをせず、また概念と理念との本性に高めることをやらなかった形而上学でさえも、――真理の認識ということをその目的とし、その対象について、それが真実なものであるか否か、実体であるか、それとも現象であるか、ということを研究した。ところが、この形而上学にたいするカントの批判の勝利は、むしろ真理をその目的とするというこの研究、のみならずむしろこの目的そのものを斥ける点にある。即ちカントの批判は、肝心の点である問い、即ち或る規定的な主観が、つまりこの場合には観念〔表象〕としての抽象的な自我が、即且向自的に心理をもつか否かを問題としないのである。」(『大論理学』「第三部第三篇第二章」)

 この外的な悟性的規定としての述語をつけるという方法における主語と述語の関係は、その述語をつける「自己」が吟味されない。即ち恣意的であるとされてもしかたがない。

 ここからつぎのことが問題となる。フォイエルバッハの「主述の転倒」は、ヘーゲル批判として有効であるのか、正しいのかということである。

 ヘーゲルは、概念の分離、他者としての措定の関係の判断として、この二者の関係を判断するものとして、主語と述語の関係を論じていく。

 「現象学」の序文四〔二〕において、「論弁的思惟」の「肯定的な認識」は、「『自己』とは『表象』せられた基体(主語)のことであって、これに内容が属性及び述語として関係してゆくのであり、この基体が基底をなし、この基体に内容が結び付けられ、そしてこの基体のうえであちこちへの運動がおこなわれるのである。しかるに概念を把握する思惟においては事態は異なっている。ここでは概念が対象自身の『自己』であり、そしてこの『自己』にして自分が生成であることを示すのであるから、『自己』と言っても、運動もせずに諸属性を担っているところの、静止せる基体(主語)のことではなくして概念であり、しかも自分で運動し、自分の諸規定を立てこれらを自分のうちに取り戻すところの概念である。この運動においてはかの静止せる基体(主語)自身は没落して根底にいたり、もろもろの区別項と内容とのうちに入り込むから、基体といっても、むしろ限定即ち相互に区別された内容を、また、この内容の運動をも形づくっていて、運動に対立するにとどまるものではない。」

 ここでヘーゲルは、論弁的態度と思弁的態度の違いを明示し、

「思弁的態度においては主語について言われたものが概念の意義をもっているのに、他方これに対して論弁的態度においてはただ主語の述語ないし属性の意義しかもっていないのである。」と論弁的態度を批判する。

 ヘーゲルにあっては、この過程のなかで、概念の自己否定的な分離、区別の契機として個別性=主語、普遍性=述語という両項は、概念自身の分割という意味しか持たない。

 「普通には、判断というと、まず主語と述語という両項の自立性が想いうかべられ、主語は独立の一つの物あるいは一つの規定であり、同じく述語も主語とは違った一つの普遍的規定であって、自分の頭の中のどこかにあるが、――それが私によって主語と結びつけられて、判断がなされるにいたるのだ、というふうに考えられている。しかしながら、『である』

というコプラ(繋辞=Copula)は、主語について述語を言い表すものであるから、かの外的で主観的な包摂作用はふたたび止揚せられ、判断は対象そのものの一つの規定と考えられる。――ドイツ語の判断という語の語源的な意味はもっと深いものであって、概念の統一を第一のものとして表現し、概念の区別を根源的分割として表現している。このことこそ真の判断なのである。」(一六六)

 あきらかにヘーゲルの主語述語関係と、スピノザ、ならびにカントの、または、「論弁的思惟」の主語述語関係は異なる。この区別をはっきり自覚して、「フォイエルバッハ的な主語と述語の転倒」をつかまねばならない。ヘーゲルにあっては、この思弁的過程そのものが、転倒される必要があるのである。現実的実践的積極的人間の社会的結合を新たな主体とすることによって。レーニンの「物質」や、黒田の「自覚せる物質」が新たな主体なのではない。(註 この点は後程詳しく展開する。)

 フォイエルバッハの述語はまさしく、属性として外的に結びつけられたものという性格をもっている。

 フォイエルバッハ的な「主述の転倒」は、スピノザ的汎神論の転覆としては確かに有効である。と同時に、当然にも、静止せる実体の転倒であるが故に、その結果として静止した転倒の結果を生み出したのである。

 マルクスは、フォイエルバッハがヘーゲルをヘーゲルの立場にたって完成し批判を行ったと語ったが、これは、当時のヘーゲル左派の中での相対的な、すなわち、ヘーゲルの一面を強調するようなヘーゲル亜流に対して、ヘーゲル哲学そのものを、「現実的人間」が主体であると宣して否定するという正面からの全体的批判の端緒についたことに対する肯定的評価であると受け止めねばなるまいし、またマルクス自身がこの基礎のうえで、ヘーゲル批判を完成させることが可能であるという肯定的確信をもつことが可能となったという意味で受け止めるべきである。そして、「宗教の批判を完成した」と、その神学批判宗教批判の意義を高く評価するのである。そのうえで、この「現実的人間」が活動しない、歴史的でない、実践的でないこと、この不十分性がすでに、先の実体ではなく主体としてヘーゲル的主体をすでに掴んでいることにおいて、この動的主体の弁証法的全過程自体の転倒こそが問題であると喝破されているのである。

 『聖家族』におけるフォエルバッハの位置は、内容的にはこのようにつかまれる。一部には、フォイエルバッハの「改釈がえ」をおこなったとか、ここまではフォイエルバッハ主義であったとか、勝手に内容的分析抜きに解釈するような理解はなにも生み出さないし、現になにも生み出していない。

 確かに、すでに述べたように、当人の社会的関心がいかなるものであったのか、すなわち対象的現実のなにを解明しようとしているのか、自他共通の実践的課題としてなにを明らかにしなければならないと腐心しているのかということこそが、理論作業の原動力である。それと同時に、哲学の止揚がいかになされるのかということは、真の洞察、正しい認識作業にとって大切なことである。逆に述べるならば、観念論への舞い戻りのまま、科学的認識であると錯覚することになるからである。日本の多くの左翼がこの事に無自覚である。

 又同時に、認識が真理を持つかということは実践的な事柄である、というのは正しい。しかしその前提には、いかなる主体のいかなる実践かという反省があってのことである。したがって、認識が、その主観性を媒介的に否定する過程をもっているかということが問われる。認識活動の社会的性格ということは、この作業自体が社会的な作業であるということを意味する。新たな主体(実践的理論的結合体)の認識活動としての理論作業としての個々人の活動と相互の討論対話による媒介的否定的統一過程が不可欠となる。ここにおいてこそ、主体と対象、及び主体自身の実践的な相互関係のなかに認識が実践的性格に於いて展開される。それは、従って、その主体の成熟の程度に当然にも規定されているのであると同時に、その普遍的な質にその発展性の力が規定される。なぜ、われわれが「戦略」を「洞察された歴史的必然性」と規定してきたのかが、このことから初めて開明的となるであろう。そして、「階級形成論」が、単に「階級意識形成論」ではなく、団結と自立と認識の螺旋的発展の体系そのものとして築き上げてきたことが極めて大切なことであるということが再び判るであろう。

ヘーゲルにあっては、主語と述語は概念の判断において、個別性と普遍性の規定の関係が、特殊性として、主語が述語の規定の中に措定され、述語が主語の規定を維持するという同一性が概念の特殊性として確認される。この判断から統一の過程が推論である。その完成が客観である。

主語と述語は、概念の二つの契機なのであり、むしろ、判断―推論の過程そのものの内容が吟味される必要がある。

 マルクスは、『聖家族』において、ヘーゲルの「現象学」を概括して批判する。その批判自身が、その止揚の方向性を指し示している。

 「ヘーゲルの『現象学』では、人間的自己意識のいろいろの疎外された形態の物質的・感覚的・対象的な基礎は放置され、破壊的な全工作は、もっとも保守的な哲学をその成果としてもつのである。というのは、その工作が対象的世界を、感覚的・現実的な世界を、一つの『思想物』に、自己意識のたんなる規定性にかえ、そして精気のようになった対立者を、いまや『純粋な思想の精気』に解消することができるやいなや、これを克服したつもりでいるのだから。だから『現象学』は首尾一貫して、すべての人間的現実のかわりに、『絶対知』をおくことでおわるのである。」

 「ヘーゲルは、自己意識を、人間の、現実的な、したがってまた現実的・対象的世界にすみ、かつこれに制約されるところの人間の、自己意識としないで、人間をば自己意識の人間とする。彼は頭で〔逆〕立たせ、したがって、また頭のなかですべての制限を解消させることができるのである。」

 現実的人間の疎外の物資的・感覚的・対象的な基礎が問題であり、自己意識は、現実的・対象的世界の制約のなかにある人間の自己意識であること、この視点こそヘーゲルを超えてゆく道である。

 『エンチュクロペディ』の「第三部C理念a生命 二一九」において生物を規定する。この生物=生命的個体から精神(形而上的につかまれた人間、人類)を導き出すのであるが、この生物は、欠陥あるものとして、無機的自然に対抗して自己を展開するとしている。

 「しかし概念の根源的分割〔判断〕は自由なものとして、客観的なものを一つの自立的統体性として自己から解放するというところまで進む。そしてこの生物の自己への否定的な関係が、直接的個別性として、自分に対立する無機的自然という前提をなしているのである。生物を否定するこのものはやはり生物そのものの概念契機であるのだから、この否定的なものは生物という同時に具体的普遍者でもあるものの中にあっては一つの欠陥としてある。自体的に空無なものとしての客観が自己を止揚する弁証法が、自分自身を確信する生物のはたらきであって、生物は無機的自然に対するこの過程において同時に自分自身を維持し、自己を展開し、そして客観化する。」

 この論旨は、「精神」即ち「形而上学的に改作された人間、人類」(マルクス)の項において精神の展開のたどる三段階の最初の二段階においては、「有限な精神」を含んでいるのだという展開につながる。

 「精神学の初めの二つの部分は有限な精神を含む。精神は無限な理念である。そして有限性は、この場合、概念と実在との不一致という意味をもっており、精神の内部での映現であるという規定を伴っている。この仮象(映現)は、自体的には精神が制限として自らに措定するものであるが、そうするのは、精神がこの制限を止揚して自分自身で(対自的に)自由を自らの本質としてわがものとし、また知るためである。つまり精神が端的に明示されるためである。精神が仮象としてこのように働いてゆくいろいろの段階に、有限的な精神の規定は立ち止まったり、それらの段階をめぐったりしなければならないのだが、それらの段階は有限な精神を解放する段階でもある。この解放という絶対的真理のなかでは世界を前提されたものとして見つけること、世界を精神によって措定されたものとして生み出すこと、世界からまた世界の中で解放することとはまったく同じことである。」(『エンチュクロペディ』三八六)

 ここでは、結局「仮象は純化されて真理の知としての真理の形式となる。」ということで結論付けられるのであるが、重要なのは、「制限」を前提としていること、及び、「その制限の止揚」が歩みであると述べられている点である。

マルクスは、ヘーゲルの思弁的弁証法の批判を基に、『聖家族』において次のように新たな歴史過程を展開している。

 「有産階級とプロレタリアートの階級は、同一の人間的自己疎外をあらわしている。だが前者の階級は、この自己疎外のうちに、快適と安息を感じており、この疎外が彼みずからの力であることを知っており、また疎外のうちに人間的生存の外見をもっている。後者はこの疎外のうちに廃棄されたと感じ、そのうちに彼の無力と非人間的生存の現実性を認めている。」

 「いっさいの人間性の捨象が、人間性の外見の捨象さえもが、完成されたプロレタリアートのうちに実践的に完了しているために、プロレタリアートの生活条件のうちに今日の社会のいっさいの生活条件の、もっとも非人間的な頂点が集中されているために、人間がプロレタリアートたることによって自己を喪失しており、しかも同時にこの喪失の理論的意識をかちえているだけでなく、また、もはやしりぞけようのない、もはや言い飾りようのない、絶対に有無をいわせぬ窮乏――必然性の実践的表現――によって、この非人間性にたいする反逆へと直接においこまれているために、そのためにプロレタリアートは自分自身を解放できるし、また解放せざるをえない。」

 「あれまたはこれのプロレタリアートが、あるいは全プロレタリアートそのものが、さしあたり何を目的としておもいうかべているかが問題なのではない。問題は、プロレタリアートがなんであるか、また彼の存在におうじて歴史的に何をするように余儀なくされているのか、ということである。」

マルクスは、歴史の各段階におけるその疎外の止揚という歴史の現実的発展過程を、プロレタリアートを積極的主体として掴みなおすことにより、「法哲学批判序説」の「哲学の止揚」の課題の解決のための新たな地平に再び立ったのである。

 「歴史的になにをするよう余儀なくされているのか」、この洞察が「歴史的必然性」の洞察である。ここでいう歴史は、プロレタリアートをも含む、即ち、主体をも含む概念である。

われわれは、戦略=洞察された歴史的必然性、戦術=戦略の意識的実践と規定してきた。(『滝口弘人著作集』「第一巻一一二頁」参照)

 歴史の外側から、「歴史の改造計画」を振りかざして、現実の階級闘争の外からこれを引き回し、利用し、支配しようとする宗派主義の戦略・戦術とは決定的に異なる。

 プロレタリアート自らを主体とする歴史の洞察こそが現下に求められているものである。

九 歴史の四つの契機――『ドイツイデオロギー』

 マルクスは青年ヘーゲル派批判を総括し、「青年ヘーゲル派は、万事にことさらに宗教的諸表象をおしつけたうえで、また万事を神学的だと断定したうえで批判した。」と断言する。これは、フォイエルバッハを含み、そしてまたフォイエルバッハに特徴的な「神学批判」をすべての事柄にあてはめる形の「ヘーゲル批判」の批判として要約したものである。

 二十二頁の六のところで、フォイエルバッハの「新たなる主体」が、必然的にも「静止せる主体」とならざるをえないことを、そして歴史過程が捨象されることを明らかにしてきたが、『ドイツイデオロギー』において、マルクス独自の理論展開に入る。その核心点は、すでに六でみたように、「現実的、歴史的、経験的な、諸制限、諸条件のもとに生活する人々=現実的・積極的人間の社会的結合」が、新たな主体として掴まえられる必要があるということ、そして現段階においては、それをプロレタリアートとして明示するべきこと、しかもこれを、歴史の必然性として捉えること、これがヘーゲル批判を媒介とした新たな歴史観であるということ、このように整理される。

 『ドイツイデオロギー』において、上記のことを具体的現実的に展開する段階に入るのであるが、したがって抽象的本質的段階の表現は避けられ、歴史的社会的表現において現実的諸関係のなかに論理を展開することとなる。したがって、哲学的概念はできるだけ斥けられる。言語表現の変化を、過程抜きに表面から眺めて、哲学的表現がなくなっているなどと撫で回すたぐいの読み方もあるようだが、このような理解は避けたいものだ。

 「4、唯物論的歴史観の本質、社会的存在と社会的意識」の項にとりあげられる「諸個人」は、次のように規定される。

 「こうした諸個人なるものは、自分や他人の表象のなかに登場するような諸個人ではなく、現実にあるがままの姿、すなわち勤労し物資的に生産する諸個人、したがって一定の物質的な、そしてかれらの思うとおりにはならない諸制限、諸前提、諸条件のもとで活動している姿での諸個人である。」

 つぎに、このことが、神学批判を媒介とした「現実的人間」が主体である、という主張とどのように違うのかということを照らすように繰り返し、

 「このような考察の仕方は、無前提のものではない。それは現実的な諸前提から出発し、ひと時もそれを離れない。その前提とは、人間たち、なにか空想的な閉鎖性と固定性にではなくて、特定の諸条件のもとで、現実的で経験的に観察しうる発展過程にある人間たちである。この活動的な生活過程が開示されるやいなや、歴史は、かれら自身がまだ抽象的な経験論者たちにおけるような、死んだ事実の山とか、観念論者たちにおけるような、想像上でつくられた主体の想像上の活動であることをやめる。」このように、理論的性格を突き出す。

 フォイエルバッハの批判は、マルクスの新たな理論の地平から、つまるところ以下に要約される。 

 「フォイエルバッハが唯物論者であるかぎり、歴史はかれのもとにあらわれないし、かれが歴史に目を向けるかぎり、かれは唯物論者ではない。かれにあっては、すでにもう上述のことからあきらかなように唯物論と歴史とはまったく分離している。」

 新たな歴史観は、「歴史の本源的関係」あるいは「社会的活動の基本的諸側面」は、次の五つの点が基本であるとする。

@生活手段の生産A新しい欲求の産出B人間の生産C交通そしてD意識。

 この前の四つの内容は、「根源的な歴史的関係の四つの契機」として、どの歴史段階にも根底におかれなければならないものとされる。ここで注意するべきは、四番目の交通である。「労働における自己のそれであれ、生殖におけるそれであれ、生活の生産は、かならずただちに二重の関係として――すなわち一面では自然的関係として、他面では社会的関係として――あらわれるものである。」すなわち、自然的関係のみならず、社会的関係が[歴史の本源的関係]として捉えられねばならない。

 これは、『経哲』の「ヘーゲル弁証法と哲学一般の批判」のなかの「対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的な存在であり、……しかし人間は、ただし全存在であるばかりではなく、人間的な自然存在である。すなわち、人間は自分自身に対してある存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、そのような存在としてその存在においてその知識においても、自己を確認し、活動しなければならない。」という個所に重なるものである。

 つぎに、分業が、生産力、社会状態、意識の相互矛盾を生み出すこと、特殊利害と共同利害の矛盾をうみだすこと、このことこそ、「人間の自己本来の行為が、かれにとって疎遠な、対抗的な力となり、彼がその力を支配するかわりに、その力がかれをしめつけることの最初の例証である。」

 人間にとっての、諸制約、制限の根拠が分業をとおして解明されるとする。この制限の疎遠な物神的性格は、外的な力として現れ、歴史の発展段階をつくる主要契機となる。人間と人間の関係つくりだす社会的力が物的な敵対的な力となる。このことの国民経済学への批判をとおして物神性を解明してゆく道が『経済学批判』となってゆくのである。

 たしかに、「この《疎外》――哲学者たちにわかる言い方をつづけるならば――」という表現をしている。これは、上記の事柄を別の表現、すなわち、ヘーゲルのカテゴリーにおいて表現するならば、という意味である。ヘーゲルの疎外、それは、個別性が外化を繰り返しながら、普遍的に発展させられ、当初から予定されていた普遍性に自己成長してようやく到達したかに物語ってみせるところの外化=疎外という概念をいまだヘーゲル左派に留まっている「哲学者達」にわかりやすくするために指し示したということである。一部には、この表現をもって、マルクスは疎外という考えを捨てた、と解釈してみせる人たちもいるようではあるが内容的に理解されたい。

一〇 諸個人の新たな共同

 我々は、「主体的共同性」ということをこれまで繰り返し述べてきた。(『滝口弘人著作集』第一巻一六〇頁参照)この実践と理論活動の全展開としての共産主義が、「共産主義を現実に創造する行為――その現実的定在をうみだす行為――でもあるし、また共産主義を思惟する意識にとっては、共産主義の生成が概念的に把握され意識された運動でもある。」(『経哲』「私有財産と共産主義」)

ここで注意することがある。

 普遍性という概念をいかなるものとして掴むかということである。

 「社会的な人間の感覚は非社会的な人間のそれとは異なる感覚である。」(前掲書)このことから出発するならば、感覚、感受性があらゆる科学の基礎であるということを踏まえて、実践的認識が理論的認識と統一されるとするならば、普遍性の内容はいかなるものとなるのか。

 今日の社会において、普遍的なものは、「富と国家」として外的なものとなって人間に対している。同時に、分業と競争の中に即自的に埋没している個々人にとっての普遍性は、特別なものになっている。自分自身が隔絶された(本質的な意味において)特殊的に規定された定在であることから理解されるところの普遍性は、独特のものとなる。このことに無自覚であると、普遍的なものは、抽象的なものとしてあたりまえとなる。理論的な認識が、インテリゲンチャ、ブルジョア的インテリゲンチャにおいては、社会にたいして外的である。認識主体自体が抽象的な定在であるからである。この主観が認識主観となって普遍性を提示するのであるから、客観は社会にたいして外的とならざるをえない。

 ところで、共産主義的理論認識とは、その前提を、現社会の否定におく。ここまでは、多かれ少なかれ認める部分も多い。しかし、その主体性は次の点に定位される。「もし数百万のプロレタリアが、かれらの生活状態に満足を感じないとしたら、またかれらの《存在》が、かれらの《本質》にこれっぽっちも一致しないとしたら、上記の箇所によれば、(フォイエルバッハの現状の承認の理論を指す――筆者)じっと耐えねばならぬということになる避けがたい不幸である。しかし、これら数百万のプロレタリア、あるいは共産主義者たちは、これとまったくちがった考えをもつ。やがてかれらが、実践的に、革命によって自分の《存在》を、自分の《本質》と一致させるであろうときに、それをしめすだろう。」(『ドイツイデオロギー』)

 すなわち、現社会に属しつつ、それを桎梏として否定する社会性を現実的に定在として持ち、その感受性に発して主体的共同にあり、その認識活動としての理論的認識である。ややもすると、共産主義的理論認識は、ブルジョアインテリゲンチャの専門的活動のように、少なくとも、外観的発生からみればこのように捉えられがちである。ここには、二つの問題がある。

 その一、そもそもブルジョア社会における普遍性とはなにか、ということがまず問われる。

 ブルジョア社会においては、個々人は共同利害と区別された特殊利害をのみ追及するように構造的に固定されている。共同利害は「一般的利害」としてこれまた特殊なものとされる。このような社会を固定的に前提とするならば、または、無批判的に無自覚に無批判的に前提とするならば、当然にも外的認識となり、外的目的が生み出されることになる。

 抽象的な「人間」、「自我」「自己意識」が発想し、学問したとするものの抽象性は、この疎外された資本主義社会の疎外された観念生産者の抽象的定在のもたらすものである。

 カントの批判哲学の認識は、外的な抽象的普遍性であり、抽象的「主観」の悟性認識にすぎず、真理をつかみえないとヘーゲルが結論付けるが、この外的性格こそがブルジョア的観念生産者の基本的性格である。

 したがって、人民救済思想や、考案された改造計画のイデオローグたち(マルクス当時では、空想的社会主義者、ヘーゲル左派、フランス社会主義等々)については、たしかに、ブルジョア的観念生産者の中から、これらの「理論」が生み出され、布教され、啓蒙されてきたのは事実であろう。しかし、共産主義、及び、共産主義的理論は、この社会にたいする否定を前提とする人々の活動と理論なのであり、その主体性は、新たな社会性に定位されているということを前提としている。人民に対する哀れみと救済を考える人々もたしかに共産主義に移行することがあるが、それ以前は単なる人道主義者にすぎず、それを共産主義者とは言わない。この点を多くの人が誤る。ないまぜにして、しかも、外的抽象のまま「共産主義理論」を語ることによって共産主義者になるかのような話をつくるから余計無内容な混同を巻き起こすことになる。

 その二、「「社会的な人間の感覚は非社会的な人間のそれとは異なる感覚である。」(『経哲』)ということを確認したが、このことがでは普遍性ということにどのような違いを生み出すのかということを明らかにする必要がある。

 分業に固着化された特殊性を前提とするところの意識が基礎となったところの主体にとっての「普遍性」は、当然にもおのずと疎外されている。

 ところで、生きた普遍性はどこから生み出されるのか、生み出されつつあるのか。

 現代の工場制度は、あらゆる労働の専門性を奪い取り、平均的労働へと変化させるという性格をもっている。これこそが、工場制度の革命的側面である。労働が専門的性格を失うにつれて、普遍性への欲求が現実的なものとなる。個人の全面的発達の欲求が現実的に芽生えるのである。労働が一定の特殊的な規定性の元にある特殊的なものでしかないとすれば、普遍的なものはこの特殊性の外に外的なもとして思惟の世界にしか想起されず、現象の関連性のみが本質抜きに語られる。このような普遍性はこの特殊性に浸透しない、または、具体的普遍とはなりえない。特殊の隷属から自由になった感受性の社会的結合の中での理性こそが、普遍性を生きた現実的具体的普遍的本質としてつかむことが出来るのである。

 「現今では、普遍的意識は現実的生活からの一つの抽象であり、そのようなものとして現実的生活に敵対している。他方、私の普遍的意識は、実在的な共同体、社会的存在を自分の生きた形姿としているものの理論的な形姿であるにすぎない。だから、私の普遍的意識の活動もまた――そのようなものとして――社会的存在としての私の理論的な現存なのである。」(『経哲』)

 「類的意識としての人間は、彼の実在的な社会生活を確認し、そしてただかれの現実的な現存を思惟の中で反復するにすぎない。ちょうど逆に類的存在は、類的意識において自己を確認し、そしてそれの普遍性のなかで、思惟する存在として対自的となるのである。」(前掲書)

 普遍的な諸個人が経験的にうみだされること、そのようなものとして世界史的な諸個人をうみだすこと、これが、資本主義的生産と交通の本質であると同時に、これこそが共産主義の前提でもあるとされるのであるが、歴史を現実的諸個人の現実的活動という面からとらえることによってはじめて理解できる事柄である。

一一 現実的歴史把握

 「歴史とは、個々の世代の連続的交代にほかならない。それらどの世代も、それ以前の前世代が贈った諸材料、諸資本、生産諸力を利用する。したがって各世代は、一面ではまったく変化した状況で、継承した活動を続行するのであり、他面ではまったく変化した活動によって、これまでのふるい状況の姿を変更するのである。」(『ドイツイデオロギー』)

 「……、歴史の中に、どんな段階にあっても見出されるのは、ある物質的成果、生産諸力のある総和、歴史的につくりあげられた一定の対自然関係および諸個人相互の関係であり、各世代が、先行する世代からつたえられる生産諸力、諸資本、諸環境のある総和である。この総量は、たしかに一面では新しい世代によって様相をかえられるけれども、他面また、この世代にそれ固有の生活条件を指定し、それに一定の発展を、ある特殊な性格を付与する」(前掲書)

 「分業は、われわれにとって、まさに次のことについての最初の例証である。すなわち、人間たちが自然成長的社会に住むかぎり、またしたがって特殊利害と共同利害との分裂が存在するかぎり、活動もそれゆえ自由意志的ではなく自然成長的に分割され始めるやいなや、各人は、ある特定の活動範囲だけにとどまるように強いられ、そこからぬけだすことができなくなる。」(前掲書)

 中世の市民階級に言及しつつ、「他方で、こんどは階級が、諸個人に対しては独立なものとなるので、諸個人の方は彼らの生活条件をあらかじめ決定されたものとしてみいだし、階級からかれらの社会的地位を指定され、したがってかれらの人格的発達をも指定され、階級のもとに服属せしめられることになる。これは、個々の諸個人が分業に服属せしめられることとおなじ現象であり、……」(前掲書)と被制約性をあきらかにする。

 「社会的活動のこの自己膠着、我々自身の産物の、われわれを支配する、ある物的な強制力へのこうした凝固化、すなわち、われわれの統制をはみだし、期待を裏切り、われわれの目算をまったく水泡に帰せしめる強制力への凝固化が、これまでの歴史的発展における主要契機の一つである。社会的な力、つまり分業によって条件付けられるれる種々の個人の協働によって生ずる、幾倍にもなった生産力は、これら諸個人には、その協働そのものが自由意志的ではなくて、自然成長的であるため、かれら自身の結合された力としてはあらわれず、むしろなにか疎遠な、かれらの外に立つ強制力としてあらわれる。」(前掲書)

 「一人一人の個人が、かれらの活動の、世界史的なものへのひろがりにともなって、ますますかれらにとって疎遠な力のもとに屈服させられるようになること(だからまたかれらは、その重圧を、いわゆる世界精神のしかけた策謀だ、などとおもってみたりもするのだが)そして、ますます大規模になってゆき、ついには世界市場としてあらわれるこの力のもとに屈服させられるようになること、これもまたたしかに、これまでの歴史における経験的な事実である。」(前掲書)

 「全面的依存、この諸個人の世界史的協働の自然成長的形態」のもつ、「これら諸力、すなわち,人間たちの相互作用からうみだされたものでありながら、従来まったく疎遠な力としてかれらにのぞみ、かれらを支配してきた力」を制御することが共産主義革命の課題であるとする。

 これをまとめると、第一に、歴史のなかの継続的系列の各世代にとっては、生産諸力と交通と社会は所与の前提としてあらわれるということ、そして、第二に、自然成長的社会においては、現実的依存関係から生まれくるところの共同利害、および、特殊利害と共同利害の対立から生じるところの幻想的共同利害と、特殊利害とが対立しているのであるが、このことによって、個々人が分業に固定化され膠着せいめられる強制力が外的に強制力としてそびえたち、この力は資本の力として資本の側にいるひとびとにとっての力でこそあれ、諸個人にとっては制約的なものとなるということである。したがって、第三に、物的な強制力として生み出される社会的な力は、分業の結果であり、あらたな共同において自然成長的諸前提を結合した諸個人の力に服せしめることが課題である。

 マルクスは、このような現実的歴史把握を提起し、これまでの哲学(ヘーゲル左派)が、抽象的「人間」の「歴史」をかたることを批判したのである。

 「もはや分業のもとへ服従させられない諸個人を、哲学者たちは、《人間》〔der Mensch〕の名のもとに、理想として表象してきた。そしてわれわれが、これまで展開してきた全過程を、《人間》の発展過程としてとらえた。そのため、《人間》が、これまでの各歴史的段階における諸個人のかわりにおかれ、それこそが歴史の推進力だ、としてえがきだされた。それゆえ、全過程が、《人間》の自己疎外の過程としてとらえられていた。」(前掲書)このように、現実的諸個人の活動において歴史をとらえることができないで、「人間」一般、この抽象において、現実的諸条件を捨象した「歴史」がかたられるかぎり、あらゆる歴史変革の理論は空想である。

 「疎外論」は、『ドイツイデオロギー』で終りとした、という見解が広範にあるが、まちがってはいけない。「抽象的人間」なるものが表象されて、その「人間」の自己疎外過程が歴史なのだとするあやまれる哲学者達、ヘーゲル左派に対する批判として展開している箇所を、したがって当然にも、それを超える視点を際立たせるために展開しているのだということを、しっかりと理解できなかったということを自己告白しているだけのことである。

 この「人間」なるもののかわりに「レーニン的物質概念」をもってきたとしても、その規定性を与えるために、「場所的立場」なるものを次にもってこなければならないということになったり、「反映論」としたりするしかなく、その抽象性を際立たせるだけである。

 われわれは、歴史的に規定されている現実的諸個人の活動を基礎に、歴史観を構築するのでなければならない。そこにこそ、具体的普遍性が現実に展望できるのである。ヘーゲルを超えるということは、この歴史観にまで到達すること抜きには、本当は成立しないことなのである。この現実的諸個人の普遍的全面的発展性を弁証法的にあきらかにすることこそがヘーゲル的主体の理論的実践的止揚なのである。

 現実的諸個人が現今、歴史的な被制約性を蒙るところの世界史的規模での物的社会的力を、実践的に認識するということ、すなわち、この現実的規定性を規定し返すものとして対峙する関係の中に認識するということ、ここに、現状分析が成立するのである。ところが、一部の「物象化論」または、これと連動する傾向のある「アソシエーション理論」も、たしかに人間と人間の社会的関係が物と物の関係としてあらわれるということ、そして、その分析を通して、人間の関係を分析するべきことを語る。しかし、「物象化論」そのものは、「錯認識」の問題だとされている。これにたいして、疎外論がないとか、イデオロギー的疎外の視点がないとかなどという見当違いな批判があるが、単純に錯認識ということが実は錯認識なのである。分業を固定的に、かつ肯定的にとらえている主体にとっては、その抽象的、外的な悟性認識の問題として「錯認識だ」で済むだろう。しかし、マルクスと同じように言うなら、労働者、および共産主義者にとっては、錯認識の問題ではない、現実的な制約性を対象化するという問題なのである。自分と多くの人々にとっての主体的共同認識の結合された目にとって、物的強制力とはなにかということなのである。この現実に肉迫するところの認識活動のなかから、社会的隷属と資本の専制支配の永遠化のための政治支配を分析するのである。真理は、上記のような主体と客体の現実的対象関係のなかにあるのであって、〈外的認識に真理は見出せない〉、このようにヘーゲルがカントを批判した意味の転倒の地平はここにある。

一二 個の普遍的開放

 以上のことをふまえつつ、社会の中での人間の個別化の進行ということが踏まえられねばならない。個人が個人として結合する条件こそが普遍的個人が登場するための前提である。ヘーゲルの具体的普遍的をいかにつかむのかといということ、このマルクス主義的転倒の内容にかかわる問題である。ヘーゲル批判の究極的な一点である。

 ここで、普遍的、特殊的、個別的という概念について、整理することがこれまでの論旨をより判りやすいものにすると考える。これまで解放派の内部においてこれらの概念が取り扱われてきたが、しかし、同じような言葉を使いながら、しかし、全く異なる内容のものになっていることに実は当人たちも無自覚である場合が多々ある。それが、似て非なるものをうみだす。

 ヘーゲルは、普遍性について、二つの性格を与える。その一つは、自己同一性である。ヘーゲル的概念の絶対的自己同一性または純粋な自己同一性が概念の普遍性である。そこから導き出されるものとしての普遍性の規定である。そして第二には絶対的否定性であり、規定性である。概念が創造する力であるといことから導き出されるものである。

 以前にも触れたが、再度筋を追って、ヘーゲル的概念の展開を整理する。

 ヘーゲルは、スピノザの実体を越える哲学を切り開いた。そのときの論点は、「因果性と交互作用とを通しての実体の弁証法的運動は、それゆえに概念の直接的な発生の過程であり、これによって概念の生成の叙述がなされる。」(『大論理学』下巻、以下特に記入の無いものは同書である。)というものであった。

 「実体は絶対者であり、即且向自的にある現実的なものである。――それは即自的には、可能性と現実性との単純な同一性として、或いはあらゆる現実性と可能性とを自分の中に含む絶対的本質としてある。しかし向自的には、この同一性が絶対的な力、或いは自分に関係する否定性としてある。――これらの契機によって措定される実体性の運動は次のような過程をとる。」

 「1、受動的実体と能動的実体」 「2、原因と結果」 「3、交互作用」と展開しながら、実体を超えてゆく。

 「この交互作用は従って自分を再び止揚するところの現象である。即ち交互作用は因果性の仮象の啓示である。そこでは原因は仮象が仮象であることの原因としてあるからである。この無限な自分自身への反省こそ、即ち即且向自有もそれが被措定有であることによってはじめて存在するということこそ、実体の完成である。しかし、この完成はもはや実体そのものではなくして、より高次のものであり、概念であり、主体(Subject)である。」

 「……スピノザ哲学の唯一の反駁は、その立場を本質的で必然的なものと認め、それから次にこの立場が自分自身からして高次の立場に高められるようにするという点にのみあり得る。実体性の相関関係は、これを真に即且向自的に見れば、その反対のものに、即ち概念に移ってゆく。……実体の統一は、その必然性の相関関係である。しかし、その点でそれは単に内的必然性であることにととどまる。ところが、この統一が絶対的否定性の契機によって自分を措定することになると、それは顕現された、或いは措定された同一性となり、またそれによって概念の同一性であるところの自由となる。」

 ヘーゲルはここに「自由」という地平を見出す。

 「この交互作用の結果として出てくる全体性の概念こそ、交互作用の二つの実体の統一である。こうして、これらの実体はいまや自由に属することになる。というのは、二つの実体はもはやその同一性を盲目的なもの、即ち内面的なものとしてもつのではなく、むしろ本質的に仮象または反省契機という規定としてもつからである。」

 スピノザ的実体が、延長と思惟とを基本的な内容とし、能動的実体としてしかなかったがゆえに、因果関係は「暗黒」のままであった。ヘーゲルは、この暗闇を越えた。

 「ここに概念の中に自由の国が開かれたのである。概念は自由の国である。というのは、実体の必然性を構成する即且向自的な同一性は、同時に止揚されたものとして、或いは被措定有としてあるとともに、この被措定有は自分自身に関係するものとしてまさにその同一性だからである。因果関係の中にある両実体の暗黒は消え去った。なぜなら、実体の自己存立の根源性は被措定有の中に推移し、それによって自己透明な明瞭性になったからである。根源的事物は、それがただ自分自身の原因であるがゆえに根源的事物なのであって、またこういうものこそ概念にまで解放された実体にほかならない。」

 「概念はこのような自分自身との同等性として普遍性である。しかし、この同一性はまた否定性の規定をもっている。それは自分に関係する否定または規定性であって、その意味で概念は個別である。そしてこの普遍と個別との両者の各々が全体性である。」

 このままでは理解するのが難しいが、ヘーゲルは理解しやすいようにと次のように述べる。

 「私はここで、いまここに展開された概念の把捉に役立ち、それの理解を容易にするような注意をなすにとどめておく。概念がそれ自身として自由であるような実存にまで達するかぎり概念は自我または純粋自意識にほかならない。」

 「自我は普遍性である。」「第二に自我はまた同時に、自分自身に関係する否定性として個別性であり、自分を他者に対立させ、他者を排斥する絶対的な規定性である。すなわち個人的な人格性である。」「このように、普遍性であって同時にそのまま絶対的個別化であるもあるような絶対的普遍性が、或いは即且向自有であって、それがそのまま被措定有であり、またただ被措定有との統一によってのみこのような即且向自有であるような即且向自有が、概念としての自我の本性をなす。」

 「だから、この二つの契機がその抽象においてみられると同時に、また両者の完全な統一において見られない場合には、概念についても、また自我についても、少しも理解できないのである。」

 このことは、きわめて重要なことである。マルクスはヘーゲルの自意識は、形而上化された人間であると喝破したが、そのことを踏まえて、人間の普遍性と個別性をその完全な統一においてつかむということが出来るか否かは、問題の根本を規定する。ヘーゲルを理解したうえでのヘーゲルの転倒として、すなわち、人間の歴史的社会的主体性としてつかむことが出来ない場合、普遍性は外的なものとなり、単に精神的なもの、イデオロギー的なものとしかつかめない。そのことの裏返しは、普遍的なものの単なる担い手として、手段としての自己を見出すのみである。そして、せいぜい「特殊的な普遍性」である、と断っても、この特殊性の意味が、勝手な恣意的な規定性にすぎない、すなわち、普遍性の規定性などではなく、単に主観的なものを、あたかも普遍性の規定されたもののように装い、うちだしたものにすぎないものになる。

 これまでの主体性論は、個人的自意識の主体性を論じたものばかりであった。真の主体性は、歴史的社会的主体性としてはじめて普遍的であり且つ個別的である。われわれの階級形成論、組織論はこのことに基礎を置いている。多くの人々にわかりにくいと言われてきた。しかし、共産主義的労働者には、自己と階級全体の解放を希求する情熱と探究心が必然的にたどり着く地平として、それこそ、「結合された目」を通して、自らを理論的に表現したものとしての理論の武器として、各理論は力となったのである。小ブル的インテリが、自己の正義感や不安を歴史的に意義あるものに取り繕うための主体性論は、このヘーゲルの概念を越えるどころか、このヘーゲル的概念の地平にも到達していないのである。マルクス主義以前の話である。

 これまでの多くの「普遍性」なるものが、外的のもの、単にここの個人に対してという意味ばかりではなく、あまねく現実の生ける個々人にとって外的なものとなるのはなぜか。さらに、「特殊性」が単なる恣意的な規定性となって、普遍性に結びつかないものとなるのはなぜか。「個別性」が具体的普遍として全面的に発達したものとして、それ自体において普遍的なものとしてつかまれないのはなぜか。以上のことを解明する必要がある。

 このことをあきらかにするにあったって、ヘーゲルの普遍性・特殊性・個別性について以下展開する。そして、その批判としての共産主義論における普遍性・特殊性・個別性を論じることにする。

 「普遍は第一に単純な自己関係である。」

 「第二に、この同一性はそれ自身において絶対的な媒介である。」

 「この根源的統一の点で、〔a〕第一に、……普遍はその規定の中で、自分を保持し、積極的に自己同一的である。……普遍は具体的なものに内在するところの魂であって、具体的なものの多様性と差異性との中にあって煩わされることなく、自己同等にある。この普遍性は生成の中に引き裂かれることなく、また汚されずに生成を貫いて自分を維持するのであり、普遍不滅の自己保存の力をもっている。」

 「しかしまた普遍は〔b〕反省規定のように、単にその他者に映現しない。……反省規定はその他者の中で自分を現す。しかも、その他者においてはじめて映現するにすぎず、従って各自のその他者における映現または両者の相互作用的な規定は。各々の自立性にもかかわらず、外面的な作用をもつ。――これに反して普遍は自分の規定の本質として、自分の規定自身の積極的〔肯定的〕本性として措定されている。」

 「普遍は〔c〕それゆえに自由な力である。普遍は普遍自身であるととともに、またその他者に干渉する。とはいえ暴力的なものではなく、むしろ他者の中にあって平静であり、自分自身の許にあるようなものである。だから、慰安この普遍を自由な力と呼んだが、それはまた自由な愛とも、限りなき浄福とも呼ぶことができよう。というのは、普遍は全く自分自身としての区別されたものに対する自分の関係であって、この区別されたもののなかで普遍は自分自身に復帰しているのだからである。」

 次にこの普遍性の規定性が述べられる。

 「……詳しく言えば、特殊性と個別性であるところの規定性を云うことなしには、普遍性について語ることはできない。……。普遍性は否定性一般として、或いは第一の直接的な否定の面で、規定性一般を特殊性としてそれ自身の中に〔即自的または向自的に〕もつ。そして第二のものとして、即ち否定の否定として、普遍は絶対的な規定性であり、云いかえると個別性または具体化である。――こうして普遍は概念の全体性であり、具体的なものである。」

 「生命、自我、精神、絶対的概念は、この高次の類としての普遍であるにとどまらず、むしろ具体的な存在である。……。しかし、この絶対的概念または無限精神の被措定有は無限な、透明な実在性であって、この絶対的概念または無限精神もこの実在性の中でこそ自分の創造を見ることが出来るとともに、またこの創造の中で自分自身をみることができるのである。」

 ヘーゲルにおいては、無限精神の被措定有は、無限な透明な実在性となる。しかし、絶対的な概念そのものが、その自分の創造を具体的なものとして見て取ると同時に、その創造の中で自分自身を見ることが出るのだする。このことは、更に一歩すすめられて、次のようにさえ展開される。「概念は、その区別を自由に解放して、自立的な差異性、外面的必然性、偶然性、恣意、臆見などの形態をとらせるからこそ、絶対的な力なのである。」

 ヘーゲルは、概念の創造作用として、普遍性の規定性を、区別性をみる。

 「特殊は普遍の区別であり、また他者への関係であり、普遍の外へ向っての映現である。けれども、そこには普遍そのものの他には、特殊と区別されるような如何なる他者も存在しない。――普遍が自分を規定するのであって、そのいみで普遍そのものが特殊である。規定性は普遍そのものの区別である。即ち普遍はただ自分と区別されるにすぎない。従って普遍の各々の種は、(a)普遍そのものであり、また(b)特殊である。概念としての普遍は普遍自身であるとともに、またその反対者であるが、この反対者はまた再び普遍の措定された規定性として普遍そのものである。普遍は反対者にまで進出するが、しかし反対者の中にあって自分の許にある。この意味で、普遍はその差異性の全体性であり、原理であって、差異性は全くただ普遍そのものによって規定されている。」

 さらに「個別性の本性」を次のように規定する。

 「個別性はまず、概念のその規定性からの自分自身への反省として出てくる。個別性は概念の自分による媒介である。というのは、概念の他在は自分を再び他者となし、それによって概念は自分自身に同等なものとして回復されるが、しかしそのことも絶対的否定性という規定の中においてなされるものだからである。――普遍がもつ否定的なもののために普遍は特殊となるのであるが、この普遍のもつ否定的なものは、前には二様の映現として規定された。即ち普遍が内への映現であるかぎり、特殊はあくまでも普遍である。しかし、外への映現によって、普遍は規定されたものとなる。従って、この面への普遍への復帰も、また二様である。即ち、或いは規定的な〔特殊〕ものを捨てて、より高い、または最高の類に昇る抽象によるか、それとも普遍が規定性そのものの中で個別性にまで降って行くところのその個別性によるかのいずれかである。――

 抽象が概念の途からはずれ、真理を見捨てることになる迷路がここに現れる。抽象がそれにまで自分を高めるところの、そのより高い、または最高の普遍は、漸次に無内容なものとなって行く皮相なものにすぎない。これに対して抽象によって振り捨てられる個別性こそ却って深いものであって、概念はそこではじめて自分自身を把握し、概念として措定される。」

 ヘーゲルにあっては、概念の創造活動(無限なものから実在的なものへの)の過程の中に個別性が規定されるのであるが、「概念は個別性の中で自分の中にあるが、またまさにこの個別性によって概念は自分の外のものとなり、現実性に歩み出る。」のだとする。すなわち、「個別は向自的に存在するもの〔自立的なもの〕である。」

 そこではじめて、実在する個別を取り扱う過程に入る。

 「個別性として、概念は規定性の中で自分に復帰する。その点で規定的なものが全体性となった。だから、概念の自己復帰は、概念の絶対的、根元的な〔元始的な〕自己分割である。云いかえると、概念は個別性となることによって、判断として措定されたのである。」

 もっとも、ヘーゲルにとっては、「概念の同一性を再び回復すること、或いはむしろ措定することが、判断の運動の目標である。」から、結論ははっきりしている。この過程は、概念の展開という意味しかもっていない。

 しかし、この進行過程の中には重要な論点がある。ヘーゲルの観念論的論理の中に合理的なものを見出す作業のひとつがここにある。

 「判断は一般に、差し当たっては全く自立的なものとしてあるところの全体性をその両項としてもつ。だから概念の統一は、単緒は単に二つの自立的なものの関係にすぎない。それはまだこの実在性から自分に帰った、充実した、具体的な統一ではなく、両者は統一の中に止揚されされていない両項として統一の外に立っている。――ところが、判断の考察は概念の根元的統一から出発することもできるが、また両項の自立性から出発することも出来る。」

 ここが大切である。ヘーゲルは「日常的観念」との付き合いを試みる。それに沿っての展開を行う。この過程を詳しくみてゆくことにする。

 ヘーゲルにしてみれば、判断というものは、以下のようなものである。

 「判断は概念のそれ自身による分裂である。だから、この統一こそ、判断をその真の客観性に従って考察するための根拠である。そのかぎり、判断は根元的一者の根元的分割である。判断という言葉は、判断が即且向自的にもつものに対する関係である。」

 しかし、そうはいっても、ということで、世間的付き合いに入る。

 「けれども、概念の諸契機が判断の中で自立性を獲得したという意味では、概念は判断の中では現象としてあるのであって、――日常的観念は、どちらかと云えば、この外面性の側面に固執するのである。」

 ヘーゲルは繰り返し〈措定作用〉は同時に〈前提作用〉であると述べる。ヘーゲルの実体の規定の中に次のような基底がある。

「実体は……それは即自的には可能性と現実性との単純な同一性として、或いはあらゆる現実性と可能性とを自分の中に含む絶対的本質としてある。しかし即自的にはこの同一性が絶対的な力、或いは自分に関係する否定性としてある。」この規定が示すように、所与の「現実」とそれを否定的に超える「可能性」の統一ということを内に含んでいるものとする。

 「実体はその反対者の中においてのみ自分自身と同一的なのであり、またこのことが二つとして措定された実体の絶対的な同一性を構成する。能動的実体は結果を生ずることによって、いいかえると自分を自分自身の反対者として措定することのよって(このことは同時にそれの前提された他在、すなわち受動的実体の止揚である)、原因であること、或いは根源的実体性であることがあきらかに(顕現)される。逆にまた結果を生ずる作用によって、非措定有は非措定有であること、否定的なものは否定的なものであること、従って受動的実体は自分に関係する否定性であることが明らかにせられる。こうして原因はこの自分自身の他者の中で、そのままただ自分と合致(同行)する。それ故に、この措定の働きによって前提された、或いは即自的にある根源性は向自的になる。しかし、この即向自有はただ、この措定がまた前提されたものの止揚であること、或いは絶対的実体がただその非措定有から、またその非措定有のなかで、自分自身に還帰したのであり、その点で絶対的であるということによってのみ存在する。この交互作用は従って自分を再び止揚するところの現象である。」

 措定する(否定的(=規定的)に自己還帰したものとして生み出すこと)が、前提されたものの止揚であり、且、措定された結果はまた新たな前提となる。このヘーゲル的実体が主体として全展開過程=発展過程をもっているのだということが大切である。

 ヘーゲルの主体は従って媒介を繰り返しながら進んでゆく時間的継起を持つ。すなわち、発展成長する主体があるという点が重要である。この主体は客観であると同時に主観である、すなわち、客観=主観の否定的同一性とされる。このことは、認識論のところで、認識主体自身が実は措定されたものであるということがわかる。ヘーゲルのカントに対する批判のもっとも優れている点はこの点にある。ヘーゲルはカントの認識主体が抽象的自我に過ぎない、単なる恣意的主観に過ぎない、そのかぎり外的認識であり、外的な反省であり、したがって、真理の追究を最終放棄したものであると批判する。ヘーゲルはたしかに神秘的実体の全顕現過程のはてに、神的絶対者を創造するのであるが、(しかし、これはあらかじめ作り上げられたものが最後になって現れたかのように叙述されただけなのであるが)この否定の弁証法が、そのうちに、認識する主体自身を生み出されたものとして、措定されたものとして弁証法のうちに織り込んでいるということがカント批判の地平であると同時に、カントの実践性が道徳や当為のいわゆる「要請」に基づくものであることを超えて、自己を普遍的に発展させる絶対的否定性の過程の推進力そのものを主体の中味としている。

 「エンチュクロペディー」「第一篇 論理学」の二二五において、この点がわかりやすく展開されている。

 「自体的には認識において主観性の一面性と客観性の一面性との対立が一つの活動の中で止揚せられている。しかしこの止揚はさしあたり単に自体的にのみ起こっているのである。だから〔認識という〕この過程そのものが直接的にこの領域の有限性にまつわられており、違ったものとして措定せられている二重にされた衝動の運動に分裂する。――存在する世界を自己へと、つまり主観的な表象作用と思惟との中へと受け入れることを介して、理念の主観性の一面性を止揚しようとする運動、そして真なるものとして妥当するこの客観性を内容とすることによって抽象的な自己確実性を充実させようとする運動、――逆に、今度は反対に単に一つの仮象としてしか、もろもろの偶然性と自体的には空虚な諸形態との一集合としてしか妥当しない客観的な世界というものの一面性を止揚し、今度は主観的なものの方が真に存在する客観的なものとして妥当しているのだから、この主観的なものの内的なものによって客観的世界の一面性を規定し、これにかの内的なるものを宿りこませようとする運動。前者は心理を求める知の衝動であり、認識としての認識、――理念の理論活動であり、――後者は自らを完成しようとする善の衝動、――意欲、すなわち理念の実践的活動である。」

 カントの「合理的心理学の犯す誤謬推理は、思惟の中における自意識の様相が客観に適用されたものとしての悟性概念とせられるところにある。言いかえると、あの『我れ思う』が思惟する存在とせられ、物自体とせられるところにある。即ち、このような仕方で、自我が意識の中で常に主観として現れ、しかも表象のあらゆる多様性にもかかわらず、同一的な、また外面的なものとしてこの多様性から自分を区別する単一な主観として現れるというところから、不当にも自我が一つの実体であり、さらに質的な単純なものであり、また一者であって、空間的な物や時間的な物から独立に実存するものだということが導き出すことになる。(カントはこのように言うのである。)」かくヘーゲルは批判する。

 普遍的なものがそれを生み出す当の個別性に外的なものとして規定され、主観的なのもとして規定されて、その普遍性ものとに外的に個別を包摂するという逆転が、この普遍性の担い手が形成されることによって、神的な、または宗教的な制限としてあらわれる。

 カントを超えるとするヘーゲルの論理自体において、現実的な実態は神秘的主体の顕現したものとされると同時に神秘的主体の目的によって否定されるという論理の転倒性が次に問題である。ヘーゲル弁証法のもつ革命性は、その否定性にある。

 「エンチュクロペディー」「第一篇 論理学二一五」において「理念は本質的に過程である。……理念は(a)過程なのであるから、絶対者を『有限者と無限者との、思惟と有との、等々の統一』という言い方で表現するのは、しばしば指摘しておいたように間違いである。……。しかし理念の否定的統一においては、無限者は有限者に、思惟は有に、主観性は客観性におおいかぶさっているのである。」このように否定性の力をつかむ。

 このヘーゲルの神秘的主体を、たとえば黒田のように、再び抽象的なもの、したがって再び神秘的なる「レーニン的物質」に置き換えて、普遍目的の特殊諸条件のもとでの個別的実践の主体として自己を規定して、この普遍目的の担い手となるなどというみせかけの理論も、即自的プロレタリアートを向自化するという屁理屈のもとに、抽象的な自己意識の作り替えを要求するにすぎないのである。

 マルクスは、新たな革命的主体をヘーゲルの転倒とヘーゲル弁証法の合理的核心の捉え返しのうえに築いた。

 ヘーゲルは方法は円環であるとする。

 「無規定的な始元から遠ざかり行く進行の一歩一歩は、またこの始元への漸次的な遡行でもあり、従って最初は異なるもののように見える始元の後退的な基礎づけと、その前進的な規定の進行とはお互いに合致し、同一のものであることになると言ってよい。それ故に、この方法は一つの円環をなしているが、しかしこの方法も時間的な発展の中にあっては、始元が始元としてすでに演繹されたものだということを予料することはできない。直接性の中にある始元にとっては、この始元が単純な普遍性だということで十分である。」

 マルクスは、歴史把握として、ある段階の歴史は、産業と社会を所与の前提として規定し、かつ、その否定をその歴史段階の中の主体として見出す。理論は理論を生み出す主体の認識活動の所産である。したがって、理論は社会的なものである。このことが大切である。認識の社会的性格と歴史的論理的性格がふまえられねばならない。

 マルクスは、『経済学批判序説』「三 経済学の方法」において、「人口」が端緒足りうるのかと設問する。表象された具体的なものから希薄な一般的なものに進み、遂には単純な諸規定に到達してしまう。今度はここから後方への旅が始まり再び人口に到達する。しかし、それは、先の全体の混沌とした表象ではなく、多くの規定と関連を持った豊富な総体としての人口である。具体的なものは多くの規定の総括であり、多様なものの統一である。思考においては、具体的なものは、総括の過程として、結果としてあらわれ、出発点としては現れない。

 「第一の道では、完全な表象が発散されて抽象的な規定となり、第二の道では、抽象的な諸規定が思考の道をへて具体的なものの再生産にみちびかれる。そこでヘーゲルは、実在的なものを、自分を自分のうちに総括し、自分を自分のうちに深化し、かつ自分自身から動き出す思考の結果であるとする幻想におちいったのであるが、しかし抽象的なものから具体的なものへの上向する方法は、ただ、具体的なものを自分のものにするための、それを精神のうえで具体的なものとして再生産するための、思考にとっての仕方にすぎない。」

 「……理論的方法においてもまた、主体が、社会が、いつも前提として表象にうかべられていなければならない。」

 このように、ヘーゲルの「円環」を否定的に再構成して認識における抽象作用を簡潔に展開している。

 新たな主体は、個別性と普遍性の統一のなかに真の自由を実現するものでなければならない。しかも、現実的主体が同時に認識主体として、個別性と普遍性の統一を実現するものとして、したがって、普遍的結合のなかでの個々人の自立が弁証法的に円環となる全過程そのものが現在直下の現実的課題なのだとするのである。このテーマは、『経哲』『ドイツイデオロギー』更に『資本論』と貫かれて行く。

 ヘーゲルは、「エンチュクロペディー」「第三編 精神哲学 四三六」において「普遍的自己意識」を展開する。マルクスは、ヘーゲルの自己意識は現実的な人間の形而上的に転倒されたものであると規定した。

 「普遍的自己意識は他の自己において自己自身を肯定的に知ることである。これら両者の各々は自由な個別性として絶対的な自立性をもっている。が各々は自己の直接性と欲望を否定することによって、自己を他方から区別するのではない。各自は普遍的な自己であり、客観的である。各自は他者を承認し、自由であることを知っている限りで以上のことを知っている。そういう仕方で各自は相互性としての実在的普遍性をもっている。」

 普遍的人間の粗描がここにある。マルクスは労働を媒介に、従って賃労働と資本の否定を媒介に、従って、社会的分業の否定を媒介にして普遍的人間をつかむのである。

 

第2章 抽象作用と政治

一 政治の概念

 広義の政治概念を「社会構成員(複数)相互間に発生する力関係」というものとして規定することにする。その原理を弁証法的に把握する必要がある。普遍性に関する事柄であるからである。労働者の良質の部分は、ややもすると非政治的であるという印象を与えてきた。それは、みせかけの外的「政治性」、政治的引き回し、宗派的政治的抑圧、操作、デマゴギーを見破り、拒否し、真実の自ら自身の政治性を鍛え上げる以外にないと覚悟して、したがって当然にも、積み上げたものとならざるをえないゆえに常に遅れた印象を与える。前進するようでまた後退する。それはまた、現実的個々人が空間的に並存する、発展過程の違いのある個々人が構成する結合形態の一進一退が変化過程を示しながら展開されるからである。われわれの党建設論はその原理に階級形成論をおいた。すなわち、団結の発展の所産として党を、また党的活動をする人々を位置付けてきた。これは、綱領からの党、哲学からの党でも、単純実践の中からの党でもない。結集する個々人の社会的政治的理論的結合関係の質を問題にしてきたからである。

 われわれが、〈政治〉を問題にする場合、したがって、社会的な階級が政治的階級に発展するということ、ここに含まれる全体性の論理と抽象作用を論理的に解明すること、そこから見えてくる疎外の論理を明らかにすること、この道筋にてこのテーマを扱うことになる。ア・プリオリな「全体」はわれわれにおいては前提されないからである。

 ブルジョアジーの階級支配にかかわる政治も、その発生過程と過程的現在として、すなわち、政治過程論として把握する。小ブル党派に多かれ少なかれみられる傾向であるが、国家権力の神秘化や逆に主体の弱さからくるニヒリズムによって、「謀略論」や「陰謀説」がまことしやかに展開されたりすることがあるが、これは、政治過程論を欠落した、また、同じことの表裏なのだが、階級形成論のない主体形成論の多く陥る欠陥である。この傾向の人々には、いわゆる狭い意味での「政治」は、きわめて主観的な事柄となる。特定の自己意識の多数性への拡大、操作、外的強制、抑圧となり、これが全体性として対外的対内的に絶対化されることによって、この全体性の防衛ということが個々に要求され、対抗するものの抹殺行為へと直進することになる。これは、疎外の中でひとつの必然性をもつ。したがって、この疎外の中にある個々人は何の不思議も無く平然と誤った非人間的なことでもすることになる。教条主義的にお題目化された「愛国心」や「来世」や「革命」の大義の下に、「自己規律」などの形で、みせかけの共同性を個別にかぶせて自分が決めたはずだとして強制することになる。急進的宗教と宗派的小ブル急進主義的党派は同じような内的論理を持つ。この論理は、われわれがレーニン主義批判からさらに、宗派主義批判へと深めた地平にふまえ、さらに、「政治」という概念において原理的に解明されねばならない。

 個々人の個別利害から共同利害へ、さらに政治への高まりの論理について。

 レーニン主義の決定的誤謬の政治への展開。宗派主義としての本質的把握。

 プロレタリア運動における政治的階級への形成の内的論理

 この順序で明らかにする。

 そのために、まず、この根底をなす論理として「抽象作用」を明らかにする。抽象のところにこそ、問題の焦点がある。

二 抽象作用

 ヘーゲルは、先に述べたように『大論理学』において、普遍性と個別性との関係の中に抽象作用を位置づける。抽象が誤れる道にはまり込んで行く危険性は、二重にある。

このことを普遍性の展開としてみるならば、「内への映現」(特殊は普遍である)と「外への映現」(普遍は規定されて特殊となり特殊は規定されて個別となる)の二様においてとらえられる。ここにひとつの問題が発生する。抽象が外的なものとなる危険性をヘーゲルは指摘する。

 「この〔規定的なものの〕面への普遍への復帰も、また二様である。即ち或いは規定的なもの〔特殊〕を捨てて、ヨリ高い、または最高の類に昇る抽象によるか、それとも普遍が規定性そのものの中で個別性にまで降って行くところのその個別性によるかのいずれかである。

 ――抽象が概念の途からはずれ、真理を見捨てることになる迷路がここにある。」

 「抽象は具体的なものを普遍性に高めるが、しかし普遍を規定的な普遍としてのみ把握するのであるから、まさにこの普遍こそ、自分に関係する規定性となったところの個別性に過ぎない。」このことが、誤って、外面的な止揚と捉えられると、抽象が無内容なものとなる。

 「この止揚が外面的な働きであって、その点で規定性の除去であるかぎり、普遍は抽象的普遍である。だから、この否定性はこの抽象的なものの中にありはするが、しかしその否定性はこの抽象的なものの単なる制約として、その外部にある。即ちこの否定性は、その普遍を自分に対立させるところの抽象そのものであり、従ってこの普遍は個別性を自分自身の中にもたず、あくまでも没概念的である。――抽象は生命、精神、神、並びに純粋概念を把握することができない。なぜかといえば、抽象はその諸々の所産から個別性を、即ち個性と人格性との原理を捨て去り、生命も精神もなく、また色も中味もない普遍性に達するにすぎないからである。」

 なぜこのようなことが起こるのか。ヘーゲルは次のように説明する。

 個別が前提として客体として与えられるとき、普遍性は単にそれらの個別の共通者であるにすぎない。さらにこの共通性が多数性と捉えられ、そこからの外的反省としての総体性である。これは、主観的なものに過ぎない。「経験的普遍性」は単に多数の件があるというだけで主観的総体性を客観的総体性と言いくるめるだけのものに過ぎない。

 ところが、「表象が固定する頑迷な個別性と、その反省の外面的なものとを強引に超克して、総体性を全体性に、或いはむしろ定言的な即且向自有におきかえるものこそ、概念なのである。」

 実はここに個別性と普遍性の裂け目があるのだということ、概念はこの裂け目を超えることが出来るのだとしているということ、これが重要である。概念がなぜこの裂け目を超えることが出来るのか?この説明が、「判断」―「推論」―「目的」―「理念」と展開されるのであるが、その根底には主体の絶対的否定性の論理がある。

 ヘーゲルの「反省の判断の運動」は、二つのことを示す。その一つは、個別性があらかじめ即自的に持っていた本質的普遍性が反省によって向自的なものになったということ、すなわち、「措定された普遍性は前提された普遍性と同一になる」ということを結果とするものだということである。しかし、ヘーゲルは次のように、単に、あらかじめ前提されたことを確認するということではだめだとして、

 「本当は前提されたものを前もって考慮すべきではなく、結果を形式規定のなかでそれ自身として考察しなければならない。」とする。かくして、二つ目には、個別性から発して、普遍性にいたる道が展開される。やや長くなるが大切なので以下引用する。

 「個別性が総体性にまで拡大されるとき、個別性は同一的な自己関係である否定性として措定される。従って、この個別性はもはやあの最初の個別性、例えば一個のガイウスの個別性のようなものではなく、むしろ普遍性と同一な規定、或いは普遍性の絶対的規定態である。―単称判断のあの最初の個別性は、肯定判断の場合の直接的な個別性ではなく、むしろ定有の判断の弁証法的運動一般を通じて生じたものであった。それはすでに定有の判断の諸規定の否定的同一性であるという規定をもっていた。このことが反省の判断における真の前提なのである。この反省の判断において行われる措定に対して、この個別性の最初の規定性は個別性の即自性であった。従って個別性が即自的にもつところのものが、いまや反省の判断の運動によって措定された。すなわち個別性が規定的なのものの自分自身にたいする同一的関係として措定されたのである。この点で個別性を総体性にまで拡大するところのあの反省は、個別性にとって外的な反省ではない。むしろ個別性が、すでに即自的にもっているものが、この反省によって向自的になるにすぎないのである。――結果は従って真に客観的な普遍性である。」

 「即且向自有的な普遍性を前提された普遍性として含んでいる主語が、いまやこの普遍性を主語の中において措定された普遍性としてもつことになる。すべての人とは第一には人間という類を表すが、第二にはその個別化の中にある類を表す。しかしその結果、各個別は同時に類の普遍性にまで拡大されるのである。逆にまた普遍性も、個別性とのこのような結合によって個別性と同様に完全に規定されるのである。こうして、この措定された普遍性は前提された普遍性と同一のものとなった。」

 かくして判断は主語と述語が同一の内容となり、かつ、規定性が措定される。このようにして概念の統一が主語と述語を貫通する普遍性として再生される。ここに判断は推論に移行する。「推論は判断の中における概念の回復であって、従って両者〔概念と判断〕の統一であり、真理である。概念そのものは、その諸契機〔普遍、特殊、個別〕を統一の中で止揚されたものとしてもっていた。判断の中では、この統一は内面的なものであり、或いはまた同じことだが、外面的なものであった。それで両契機はお互いに関係しはいるが、しかし自立的な両項として立てられていた。推論においては、概念の諸規定は判断の両項と同様〔自立的〕であるが、同時にそれら〔両項〕の規定的な統一が立てられる。」

 ここで述べられていることは、現実的対象が、悟性的に把握されることを超えて、理性的に捉えられるということはどういうことなのか、ということを、すなわち、有限なものを全体性と統一の中に位置付けて、真理として捉えるのだと、従って、自分自身を高めて行くのだとする。このことは、さらには、目的の実現=目的の活動性によって措定されたところの客観性へと移行する。この客観が再び被措定有であることが明らかにされて、否定されて再び自己の元に取り込まれる。このようにして、順次無制約なもの、無限なものへと高められる。したがって、肝心な点は、これ以降の、悟性から理性への淵を越えた後の論理よりも、(なぜなら、そこには、前進と後退の移行しかないからであるが、)この淵をいかに超えているのかということなのである。繰り返し、ヘーゲルはカントの認識論の外的性格と、理性の彼岸化を批判して、真理の把握を「実体を主体として」つかむことを根底においてきた。そのクロスする焦点がここにあるからである。従って、ここには、単に認識の問題のみならず、現存の諸関係の論理を含む。人間の類的存在であることから必然的に生み出される類的普遍的意識ないしは社会的共同意識と個別存在の分裂(精神労動が分業によって分離固定化されることを背景にした、私有財産と分業の社会として制限されたこれまでの人類史における分裂)の内的論理を解明することでもある。

 「E・B・A〔個・特・普〕は規定的推論の一般的範式である。個別性は特殊性を通じて普遍性と結合する。即ち個別は直接的に普遍的なのではなくて、特殊性を介してそうである。また逆に、普遍も直接的に個別的なのではなくて、特殊性を通じて個別にまで下降するのである。」「この推論の一般的意味は、こうである。即ち、そのものとしては無限な自己関係であり、従って単に内的なものにすぎない個別が、特殊性を通じて普遍性としての定有の中へ歩み出るのであって、そうなるとそこでは個別はもはや単に自分自身にも所属するのではなくて、むしろ外的な連関の中に立つことになるということである。逆にまた個別は自分を分離して特殊性としての規定性にするが、個別はこの分離の中で具体的な個別であり、また規定性の自分自身への関係として普遍的な、自分自身に関係する個別であり、従ってまた真に個別的な個別である。即ち個別は普遍性の項の中で、外面性から自分に帰っている。」「個別は特殊の下に包摂され、特殊はまた普遍性の下に包摂される。従って個別も、また普遍の下に包摂されるのである。これを云いかえると、特殊は個別に内属するが、普遍はまた特殊に内属する。だから普遍はまた個別に内属する。特殊は一面から云えば。即ち普遍に対しては主語であるが、しかし個別に対しては述語である。云いかえると、特殊は普遍に対しては個別であるが、個別に対しては普遍である。二つの規定は特殊の中で合一するから、両項はこの両者の統一によって結合されるのである。」

 この個別―特殊―普遍の関係は、直接的な抽象的な関係から、媒介された措定された関係に、即ち特殊が諸規定の総体に高まることによって、統一された関係になる。この中心が「総体性の推論」である。しかし、へーゲルは「総体性の推論は悟性推論の完全性の形態であるが、しかしそれ以上のものではない。」とする。

 「すべてとは、すべての個別である。即ち個別であることは、そこでも変わらない。だから、この普遍性はあくまでも向自的に存在する個別の総括にほかならない。つまり、この普遍性は比較によってこれらの個別に帰せられるに過ぎないところの共通性である。――普遍性というとき、普通にまず主観的観念に思いうかべられるのは、この共通性である。或る規定が普遍的規定とみなされるとき、その真っ先に挙げられる理由としては、この規定が多数に帰属するという点にある。」

 「総体性の形式は、個別を最初は外面的に普遍性の中へ総括するにとどまり、かえって個別を依然として直接的に独立に存在するものとしたままで普遍性の中にとりこんでいる。……云いかえると総体性は、まだ概念の普遍性ではなくて、反省の外的普遍性である。」

 この反省の推論の性格は次のように要約される。

 「反省の推論の内容を立ち入って見れば、次のことが明らかになる。即ち個別は直接的な、推論によらない述語との関係をもつのだということ、また大前提、即ち一つの特殊が一つの普遍との結合、詳しく云えば一つの形式的な普遍とそれ自身普遍的なものとの結合は、特殊に含まれている個別性――即ち総体性としての個別性――の関係を通じて媒介されているということである。」

 ここで問題になるのは、この個別性の契機の止揚である。個別性が個別性を超えること、すなわち、個別性の内容としての普遍性が措定されることによって個別性が否定され、直接的な個別性はむしろ普遍性の中に否定的に止揚され、普遍性の項となることである。

 個別にとって普遍性が本質的なものである場合、個別は即且向自的にある普遍とつかまねばならない。たとえば、「この人」は「全ての人」を通して「人」となる。「全ての人」とは、個別性にある人を現すとともに、全体=類を表す。このようにして、個別と普遍の媒辞となる。

 ここで問題は、「全ての人」から「人」への移行である。ここには抽象がある。別の言葉で云うならば、個別性の否定がある。そして、この否定が、「総体性」を「全体性」=「類」に高める。この反対の論理は、「人」の具体化されたものが「この人」または「あの人」であり、「全ての人」であり、「人」の外面性であるとされることになる。

 「普遍は、その絶対否定性の中に規定性を即且向自的に〔必然的に〕含んでいるものだからである。それゆえに、普遍を述べるにあたって規定性が語られる場合、その規定性は外部から普遍に付け加えられるものではない。普遍は否定性一般として、あるいは第一の直接的な否定の面で、規定性一般を特殊性としてそれ自身の中に〔即自的または向自的に〕もつ。そして第二のものとして、否定の否定として、普遍は絶対的な規定性であり、言い換えると個別性または具体化である。」

 これが、「内に向っての映現」と「外へ向っての映現」とであり、かつそれが統一されるということがポイントである。ここに統一がなければ、措定された同一性、すなわち根源的分割と根源的統一ではない。即ち誤れる判断、推論であり、真理にいたらない誤謬とされるのである。

 ここで見たように、「概念の創造作用」が、先に述べた「淵」を越えて行く力となっているのであるが、このことを、捉え返すには、このヘーゲルの「概念」が、「主体」として捉えられねばならないとする点から再度入らねばならない。

 マルクスはヘーゲルの「主体」は、スピノザの実体(形而上の自然)とフィヒテの「自己意識」(形而上の精神)のヘーゲル的統一物であると規定した。自然と自然に対象的な人類を統一的に含んだものとしての形而上化されたものとしての「概念」の全展開過程がヘーゲル哲学ということが出来る。すなわち、人間の本質的存在としての類的存在の自然的社会的性格および対象としての自然こそがこの鍵をなす。

「個々人の意志」を総合したとする「全ての人の意志」なるものが自立化し、かえって「個々人の意志」と矛盾することが起きるのはなぜか。またその逆の、個別性から真の普遍性に至るということは如何なることなのか。このことを明らかにするためには、この抽象の正しいつかみ方が問われるのである。正しい抽象とは何か。誤れる抽象とはなにか。または一面的であるがゆえに外的なものとなり、決定的には敵対的なものとなる、誤れる抽象とは何か。このように設問することが出来る。

三 特殊のもつ位置とその否定を通しての普遍化

 先に、個別は、特殊を媒介に普遍と統一されるということをみた。さらに、普遍自身の否定としての特殊、さらにその特殊の否定としての個別をつかんだ。そして、個別は普遍的個別であり、普遍は具体的普遍であるものとして、統一であるとした。ここでは特殊は媒辞となる。このことを論理として立てうるのは、この論理の根底には、人間存在の類的普遍性が横たわっているからである。

 人間の個人は、その意識としては、各歴史段階に規定されたものとしてではあるがその段階の類的意識を持ち得る。そして、同時にそれは、肯定的なものと否定的なものを同時に含む。なぜなら、歴史的社会的規定性に中にある個々人の現実的意識の類的普遍化によって形作られるものであるかである。特定の個人は、各歴史段階に規定された、所与の前提を持つ。その前提の下に生き、思考し、活動する。したがって、現実的被規定性を持つ。

 さらに、人間の社会的存在=協同関係が本質的なものであることから、総体性=特殊が現実的に成立する。(レーニンの「物資概念」なるものを拝む、見せかけの「唯物論」が、スターリニストにしろ反スタスターリニストにしろ、欠落させている肝心な点である。彼らが、なぜ社会的主体を問題にしえないのか、なぜ個人的個人の自己意識の挿げ替えしか考えることが出来ないのかという問題点の鍵はここにある。)

 これまでの国家が「幻想的共同体」であるというのは、この社会との関係ではじめて捉えられる事柄である。個々人にとって、国家が現実的な生きた共同体としてあらわれるとしたら、それは、個人の内容の抽象の結果にすぎない。すなわち国家に包摂され否定され規定された、無内容化された疎外された個人の幻想にすぎない。宗教が媒介になる場合はそれによって神聖化されるにすぎない。

 特定の生産様式と所有形態の上に成り立つ社会が身分制や階級に分裂し、特定の利害にもとづく社会的集団が、その共通利害の下に他の利害と衝突する場合、その共通利害=特殊利害の衝突となる。それだけでは政治は発生しない。政治が発生するのは、この特殊利害の対立をより普遍的に超えるということ、それは、他を包摂して支配するという内容をもたんとする、または、もった瞬間から発生するのである。自らの特殊利害を普遍的な利害として打ち出し、相手の特殊利害をこの普遍性の下に包摂せんとすることをもって、初めて政治の領域に入るのである。

 ところが、政治は、特殊利害の分裂の程度と、その真実のところの特殊性の偏狭さの程度において、その相手に対する規定性が、普遍性の幻想性または見え見えの虚偽性に逆比例するものであるから、歴史的にも「暴政」から「善政」まで多様である。

 政治のもつ本質的抑圧性は、ここに由来する。 

 したがって、「観念的普遍性+エゴイズム」という構造が止揚されていない人々の集団が普遍性を扱うとなると不可避的に醜い内部政治が発生する。なぜなら、普遍性の生み出され方が、外的なものであり、特定の自己意識の多数性への拡大という実態をもつ以外になくなるからである。

ここには先に述べた、生き生きとした特殊がないということ、特殊から普遍に飛躍する生きた抽象がないということこそが問題を解く鍵である。確かに普遍性は個別性の否定である。その否定において個別性が生かされるのである。これを内容的にいうならば、どこまでも発展的な個別性があって始めて現実的に普遍性が広がると同時にこの普遍性が個別の発展の条件となる。排他的な個別がどれほど総体性を持とうとも、それは、多数性となった個別にすぎない。したがって、特殊はどこまでいっても特殊以上ではない。すなわち、この特殊からは本当は普遍性が出てこないのである。そこで、この抽象は外的に作り物の普遍性を作り出すことになる。内実は特殊であり、しかし見せかけの普遍であるような普遍である。

発展的な個別性そのものが普遍性となり、普遍性が個別性として実現されるような関係の中にあるような真実の普遍性の形成こそが問題なのだ。したがって、特殊から普遍への生きた抽象ということは、個別そのもの普遍的発展を内側に含んでの飛躍なのである。

このことを直視しないで、すなわち真実の生きた普遍性を立てること抜きに、むしろ、普遍性の定立そのものを回避するかたちで、疎外された普遍性の醜い敵対性を逃れることができると考えるような人々は、いざとなると、同じような疎外された普遍しか知らないで、必要悪のように自他ともに欺きながら再び転落するか、だらしなく、のしかかる疎外された普遍の下に包摂支配されるかしかない。最近流行の「アソシエーション論」の肯定的側面と、その決定的に駄目な否定的側面はこのことを巡っている。良心的個別と理想的(空想的)普遍の直接的合体が目されているからである。現実的個別存在とその特殊的共同利害と、その抽象と否定によって生み出される普遍的利害が、時間的空間的に従って、歴史的現在的に生み出される全過程も、過程そのものを普段に普遍的に発展させる対象的内的論理も持ちえていない。「アソシエーション論」で出来るのは「良心的サークル」のようなものである。これとして肯定的に理解できるものである。しかしこれ以上のもの、これがレーニン主義、スターリン主義の批判であると主張されるならば違うと云わざるを得ない。

四 レーニンのあやまれるヘーゲル理解

 レーニンは、労働者は外的に社会主義理論と結びつかねばならないとした。これは単に当時、労働者が教育、教養、理論から遠かったという現象問題として展開しているのではない。本質論として、社会主義理論は労働者の存在からは別のところから生み出されたとしているのである。労働者は、党員となるということは、理論家として革命家になるということにされる。ここでは労働者という性格は否定されて、別のものにされている。革命的共産主義的労働者ではない。そういうものとして、労働者の外から前衛的指導をするのだとする。

 ここで問題になる特殊、即ち労働者の結合についてみるならば、レーニンは労働者の組織性については、資本の下への隷属下にある工場制度の組織された奴隷労働の外面的現象的組織性しかつかまない。賃労働と資本の社会的隷属関係、この敵対的性格から生み出される労働の側の共同利害を社会的結合として結び合わせること、この総体的結合は、特殊的結合である。個々の個別利害の総合であるような特殊利害である。結合するブルジョアジーの階級的自己意識との対立、政治支配と社会的隷属状態の永遠化のための抑圧に抗する闘争を通して、且つ、この特殊利害が同時に社会の人間的普遍的解放を含んでいること、さらに、そのようなものとして広がりをもつのだということ、社会の解決の真実の内容があるのだという自覚的展開を通して、発展的政治性の地平に立つのだということ、このことがつかまれねばならない。特殊の中に普遍が内包されていないのであるならば、実は幾ら普遍を掲げてもそれは外的なものに過ぎないのである。われわれが語ってきた「階級形成の中からの党」ということは、技術論なのではない。

 レーニンは、たしかに一八九五年にマルクス・エンゲルスの『聖家族』を読み、「聖家族の摘要」というノートを残し、その中に、既に先に引用重視した「ヘーゲルの三要素」の箇所を書き留めている。(レーニン全集第三八巻『哲学ノート』)

 しかし、一九一四年の「ヘーゲルの著作《論理学》の摘要」においては、この視点は欠落している。そして、無残にもカント主義に転落してしまっている。ヘーゲルの転倒に失敗している。レーニンの『何をなすべきか』における誤り「社会主義理論は労働者の外の理論」は、現象論なのではないということを先に述べたが、方法論的に誤っている上に展開されていること、さらに、スターリンが『レーニン主義の基礎』において、「レーニンの方法は、マルクスの批判的にして革命的な方法、彼の唯物弁証法の復興たるばかりでなく、それを具体化し、さらに一段と発展させたものである。」として誤りをさらに広げて、全世界の「レーニン主義者」を誤らせた。

 たしかに、マルクスは『資本論』の「第一巻第二版後記」において、

 「私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく、それと正反対なものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にあっては、これとは反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され、翻訳されたものにほかならないのである。」と述べている。これは、ヘーゲルの「主体」=創造者に対する批判である。

 しかし、多くの場合、これと、レーニンの反映論を重ねて同一のこと述べていると勘違いしている。

 マルクスは『聖家族』のなかで、ヘーゲルの「絶対精神」は、「スピノザの実体と、フィテの自己意識との必然的は矛盾に満ちたヘーゲルの統一」物であるとした。そして、「人間から分離されて形而上学的に改作された自然」と自然から分離されて形而上学的に改作された精神」の「両者の形而上学的に改作された統一であり、現実の人間と現実の人類」であると規定した。「絶対精神」の規定としてはこうなる。しかし、この「絶対精神」は、ヘーゲルの論理過程の中では、ヘーゲルの主体の全展開過程の帰結であると同時に、そもそもの出発点でもある。すなわち、「形而上学的な怪物」(『聖家族』)としての、ヘーゲルの主体=概念の全創造作用に対する全面的批判が要求される。「形而上学的統一物」として批判しなければならない。絶対的主体=絶対的人格の創造作用こそが、ヘーゲル哲学の本質的なものなのである。したがって、フォイエルバッハが「自然という基礎の上にたつ現実的人間」に「絶対精神」を解消することによって、ヘーゲルをはじめて根本的に克服できたとマルクスが評したのである。

 レーニンは、「「ヘーゲルの著作《論理学》の摘要」において、ヘーゲルの「概念」を誤って理解していることを示している。

 「ひっくりかえすこと……概念は物質の最高の産物である脳髄の最高の所産である。」(『哲学ノート』国民文庫版p137)

 ヘーゲルの概念は、抽象された絶対的主体であり、その展開過程は、規定性であり、さらにそれは規定された自己意識であり、いろいろさまざまの人間的現実性が自己意識の規定された形式となったものであり、ヘーゲルは人間のかわりに自己意識をおくのであるが、この自己意識を思弁の中で無制約なものとして作り出し、絶対的自己同一としての「絶対知」に高められて終わる。

 「ヘーゲルは、自己意識を、人間の、現実的な、従ってまた現実的・対象的世界に住み、かつこれに制約されるところの人間の自己意識としないで、人間をば自己意識の人間とする。」(『聖家族』)

 したがて、「ひっくりかえす」のであれば、「現実的・対象的世界に住み且つこれに制約されるところの現実的人間」とされねばならないはずである。このレーニンに規定は、機能的な脳の規定、「脳は物質である」というただそのことを述べただけのことである。しかも、ヘーゲルの「概念」なるものが、無制約化され、絶対化された自己意識であるということの否定がない。すなわち、ひっくりかえすどころか、唯物論的な規定のような装いを与えられて、再び自己意識そのものになっているのである。

 このことは、最終章の「絶対的理念」の「B 善の理念」の箇所におけるメモにおいて、「認識は……自分の前に、主観的な意見(Setzen)とは独立に現存する現実性としての真に有るものを見いだす。(これは純粋の唯物論だ!)人間の意志、人間の実践は、それが自分を認識から切りはなし、外的現実性を真にあるもの(客観的な真理)とみとめないことによって、その目標への到達をみずから妨げている……必要なことは認識との結合である。」

 このように記述している。主観と客観の対象的現実的関係の、従って、相互前提的で規定的な関係のなかにある認識と実践こそが問題なのであるが、「抽象的人間」となってしまっている。無規定な「人間の意志」とは、抽象的な「自己意識」のことである。カント主義を批判するといいながら、実はカント主義に転落してしまっている。

 「〈行動の推理〉……ヘーゲルにとっては行動、実践は一つの論理的〈推理〉、論理学の一つの格である。そしてこれは正しい!もちろん、この論理学の格が人間の実践を自己の他有としてもっている(=絶対的観念論)という意味において正しいというのではなく、逆に、人間の実践が何十億回とくりかえされて、それが人間の意識の中に論理学のもろもろの格として固定されるという意味においてである。これらの格は、まさに(そしてただ)この何十億回というくりかえしによって、先入観の堅固さと公理の性格をもつのである。

第一前提 善なる目的(主観的目的)対現実性(〈外的現実性〉)

第二前提 外的手段(道具)、(客観的なもの)

第三前提 即ち結論……主観的なものと客観的なものとの一致、主観的理念の検証、客観的真理の基準」

 このように主観的目的と外的現実性を対立させる場合の目的はどこからくるのか、誰のものなのか。この抽象性こそが問題なのだ。このことは、絶対的理念の現実化についての理解を曇らせる。

 「客観的な世界像をつくりあげた人間の活動は、外的現実性を変化し、その規定性を無くし(そのあれこれの側面、質を変え)、このようにしてこの現実性から仮象、外面性および空無性という特質を取り去り、この現実性を即自且つ対自的に有るもの(客観的に真なるもの)にする。」

 これは形而上学である。「客観的な世界像」は誰が作り上げた「主観」なのか。

 たしかに、レーニンは「目的論」に付随して、「実際には、人間の目的は、客観的な世界によって生みだされたものであり、その世界を前提し――それをあたえられたもの、現存するものとして見いだす。しかし人間には、彼の目的は世界より以外のところから取ってこられたものであり、世界から独立したもの(自由)であるように見える。」と記述し、あたかも現実的人間の対象的現実性を前提しているかのように述べている。しかし、「認識は自然の人間による自然の反映である。」として「実際にここには客観的に三つの項がある。1自然 2人間の認識=人間の脳髄(同じ自然の最高の所産としての)および3人間の認識における自然の反映の形式である、この形式がもろもろの概念、法則、カテゴリーなどである。」という「反映論」なのであるから、現実的人間の主体的目的なのではない。

五 階級形成論の原理論の深化を

 資本の下への労働の隷属の永遠化のための政治支配秩序としての性格こそ、現代のブルジョア国家の本質である。資本のもつ社会的権力のもとでの専制支配を特殊的にもつものとしてのブルジョアジーの、または、小ブルジョアジーのまたはその連合による政治支配に対立するものとしての、「賃労働と資本の両極を両極ながら廃棄することを不可避的必然とするところの労働者の人間的解放の道」を過程的に主体形成する論理が階級形成論である。

 組織形態論は、情勢分析のなかから構築されねばならない。しかし、次のことは原理的に踏まえられる必要がある。

 資本の専制支配に抗する経済的社会的部分的団結の地域的・全国的結合(総体性としての特殊)の、ブルジョア連合との抗争を媒介に、ブルジョア政府との政治的闘争において全人民の全体的利害を中心に推進するものとしての階級的政治性を開示するものとして、政治的社会的結合の全組織的並存として大衆的統一戦線に結実してゆく全過程が階級形成論である。したがって、現実的矛盾と闘争の渦中に成立しているものである。

 繰り返すが、階級形成論というと「階級意識」の形成の論理として、個人的個人が、階級矛盾を理論的に認識して、世界観を変え階級的立場に立つという認識の変換のための論理なのではないかとするものである。たしかに、現実の階級矛盾を的確に認識することは大切である。しかし、そのことは前提であるにすぎない。問題は、個々の個人の自意識なのではない。自己と、横に並ぶ他人との、対象に対する社会的結合の量と質である。団結の質が真に根底的であるのかどうかということ、そのことが実はどれほど普遍的に発展しうるのかということを規定しているからである。

 次に大切なことは、この実践的主体において主体的目的が立つのだということである。そして、資本主義の矛盾の全面的深化が更に進行している現代における根本的な解決としての労働者革命の内容は、「資本と賃労働の両極の廃棄」を貫徹しぬく上に築かれる新たな人間的協同社会と不可避的にならざるを得ない。

 したがって、認識とは、自分と、共に手を携える他人との協同の認識活動、討論、決定、反省を繰り返しながら深められるところの「結合された目」、認識の社会的性格、同時に自分自身を知るものとしての認識活動の、対象的かつ自己対象化的性格としての「階級的自覚」そのものであるということである。これが、現実的対象的自覚的主体的認識なのだ。

 この階級形成論の内容として、本質的暴力性をあげねばならない。多くの小ブル社会主義は、暴力革命の否定を前提にしようとしている。それが、連合赤軍や党派闘争の否定的顛末に対する解決であるように考えて、現象的反省の下に心情的に結論付ける傾向がある。

 われわれは、資本の下への隷属は、人格的関係なのであり、専制的支配なのであり、活動そのものが社会的権力の下に包摂されている関係なのである以上、労働者の社会的解放は、結合された人間の活動体と、資本の側との感性的衝突・人格的衝突を不可避とするものだからである。それが、どれほど平和的なのものになるか、合法的なものとなるのか、どれほど軍事的なものになるのかは、広い意味での力関係に規定される。しかし、本質的に暴力的なのもにならざるをえない。資本と私的所有の永遠化のための保守的反動的力が、力ずくで秩序を維持せんとする固執と執念を簡単に放棄させるだけの普遍的説得性が問われているということはいうまでもないことであるが、対立の性格が不可避的に課題として突き出していることなのである。これをあらかじめ放棄するという前提に立つという制限をつけて、労働者の人間的普遍的解放を語るのはパラドックスである。また裏返して、労働者の主体に付属する本質的暴力性を自立化させ、「革命そのもの」という目的主義的自己意識の集団を作り、その軍事部門を「革命軍」と自称して、軍事的に敵を攻撃しているとするような小ブル急進主義の「軍事」は階級闘争の外の自己満足的茶番劇以上でも以下でもない。

 戦略段階として、いわゆる「安定期」の戦略の環が階級形成にあるとするならば、「再編期=革命期」の当初の戦略的環は革命的階級形成にある。多くの場合、戦術的高度化が戦略的前進と錯覚されるがこれは戦略の空洞化を外見的に過激化させることで乗り切ろうとするものにすぎない。日本の小ブル党派の多くがこの傾向に陥っていった。それは、われわれ内部にも一部作用した。現社会の根本的革命の質、これが全展開され開示されたものが戦略(歴史的必然性の洞察にもとづくその意識的実践の指針)でなければならない。戦略としての革命的階級形成の内容を深化することが戦略問題の総括のポイントである。われわれは一九六九年(SDR発動以降)以降を「革命期」と規定した。結果からみるならば、浅い革命期で終焉してしまった。それは主体的にも客観的にもそうであった。

 真実の労働者党は、労働組合運動、生産協同組合運動、地域の協同行動を結合し、これを統一し、超えてゆく国際的普遍的政治的地平に成立する。したがって、当然にも階級形成の中からの党の形成発展と、その断固たる推進力としての共産主義的前衛の発展は、相互に規定的であり、相互に前提的なのである。

 ソ連邦の崩壊と「グローバル資本主義」の時代の到来のもと、世界資本主義が現実的に出現してきた。資本主義の矛盾の本当の淵が純化して顕在化する時代が来つつあると実感する時代の入り口にある。

今日、再度、マルクス主義の根本的再生のために、ヘーゲルの革命的転倒としてのマルクス方法論の主体的把握こそが、人間解放の理論の基底として掘り起こされねばならない。レーニン主義批判の徹底という課題は、われわれに再び突きつけられた課題であった。われわれは、たしかに多くの失敗を重ねてきた。この深刻な反省のなかから、本質的に再生される解放派の革命的核心を、新たな段階を画した歴史局面において、永続革命=世界革命論として再構築してゆく必要がある。われわれは「革命的マルクス主義の旗を奪還せよ!」というスローガンのもとに出発し、国内的にも国際的にも優れた理論的地平を築いた。しかし、途中で大きく失敗した。再度、今日の混迷する日本マルクス主義の只中に、真実の普遍的人間解放の理論を力強く普及してゆかねばならない。ここでは原理的方法的問題に限定して展開した。さらに戦略論、組織論に昇ってゆかねばならないが、この原則中の原則を再度共有することは極めて大切なことであると考える。

 真に普遍的なもの以外はもう力になりえないことを十分に知り尽くしてきたわれわれであるのだから、同志の鍛えられた眼にて判読されたい。

2002年1月


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