解放の通信
「解放の通信」創刊号(2002.3)
 レーニン主義批判の深化のために  
「解放派におけるマルクス主義の深化の道は何か」(別冊パンフレット) よりの抜粋

斎藤 明   

<抜粋にあたって>
 われわれは、既に40年前からレーニン主義を批判してきた。それは主要には「何をなすべきか」における「外部注入論」批判として展開してきた。しかし、今日ふりかえってみて、いわゆる「マルクス主義のレーニン的段階」と称される事柄、端的にはレーニンの「哲学ノート」の誤りを全面的に明らかにすることが、多かれ少なかれレーニン主義者である日本の新旧の左翼に対する根底的批判として必要となっていると考える。これは同時に、我が潮流内部より「レーニン回帰派」が発生したということの痛苦な反省の上にたつ問題意識である。
 レーニンの「哲学ノート」の「論理学」の項の誤りを明らかにするということは、とりもなおさずヘーゲル批判としてのマルクス主義を明らかにすることと一つの作業である。日本におけるヘーゲル哲学の不理解が、そのままマルクス主義の歪みとなり、レーニンの誤りに直結してしまっている。このことに無自覚な人々は、いかに「レ―ニン批判」を口にしても、レーニンの別の一面をもってくるだけのことしか出来ていないでいる。「マルクス主義のレーニン的段階」なるものを俎上にあげて批判することが今日ますます大切であると痛感する。
 以下抜粋する文章は、マルクス主義の骨格の再生のための文章の一部であり、その限りでのレーニン主義批判となっている。今後この視点の下に独自に「哲学ノート」批判を深化する予定である。

2002年3月   斎藤 明      

                

(以下「解放派におけるマルクス主義の深化の道は何か」よりの抜粋)

四 レーニンのあやまれるヘーゲル理解
 レーニンは、労働者は外的に社会主義理論と結びつかねばならないとした。これは単に当時、労働者が教育、教養、理論から遠かったという現象問題として展開しているのではない。本質論として、社会主義理論は労働者の存在からは別のところから生み出されたとしているのである。労働者は、党員となるということは、理論家として革命家になるということにされる。ここでは労働者という性格は否定されて、別のものにされている。革命的共産主義的労働者ではない。そういうものとして、労働者の外から前衛的指導をするのだとする。
 ここで問題になる特殊、即ち労働者の結合についてみるならば、レーニンは労働者の組織性については、資本の下への隷属下にある工場制度の組織された奴隷労働の外面的現象的組織性しかつかまない。賃労働と資本の社会的隷属関係、この敵対的性格から生み出される労働の側の共同利害を社会的結合として結び合わせること、この総体的結合は、特殊的結合である。個々の個別利害の総合であるような特殊利害である。結合するブルジョアジーの階級的自己意識との対立、政治支配と社会的隷属状態の永遠化のための抑圧に抗する闘争を通して、且つ、この特殊利害が同時に社会の人間的普遍的解放を含んでいること、さらに、そのようなものとして広がりをもつのだということ、社会の解決の真実の内容があるのだという自覚的展開を通して、発展的政治性の地平に立つのだということ、このことがつかまれねばならない。特殊の中に普遍が内包されていないのであるならば、実は幾ら普遍を掲げてもそれは外的なものに過ぎないのである。われわれが語ってきた「階級形成の中からの党」ということは、技術論なのではない。
 レーニンは、たしかに一八九五年にマルクス・エンゲルスの「聖家族」を読み、「聖家族の摘要」というノートを残し、その中に、既に先に引用重視した「ヘーゲルの三要素」の箇所を書き留めている。(レーニン全集第三八巻「哲学ノート」)
 しかし、一九一四年の「ヘーゲルの著作《論理学》の摘要」においては、この視点は欠落している。そして、無残にもカント主義に転落してしまっている。ヘーゲルの転倒に失敗している。レーニンの「何をなすべきか」における誤り「社会主義理論は労働者の外の理論」は、現象論なのではないということを先に述べたが、方法論的に誤っている上に展開されていること、さらに、スターリンが「レーニン主義の基礎」において、「レーニンの方法は、マルクスの批判的にして革命的な方法、彼の唯物弁証法の復興たるばかりでなく、それを具体化し、さらに一段と発展させたものである。」として誤りをさらに広げて、全世界の「レーニン主義者」を誤らせた。
 たしかに、マルクスは「資本論」の「第一巻第二版後記」において、
 「私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく、それと正反対なものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にあっては、これとは反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され、翻訳されたものにほかならないのである。」と述べている。これは、ヘーゲルの「主体」=創造者に対する批判である。
 しかし、多くの場合、これと、レーニンの反映論を重ねて同一のこと述べていると勘違いしている。
 マルクスは「聖家族」のなかで、ヘーゲルの「絶対精神」は、「スピノザの実体と、フィテの自己意識との必然的は矛盾に満ちたヘーゲルの統一」物であるとした。そして、「人間から分離されて形而上学的に改作された自然」と自然から分離されて形而上学的に改作された精神」の「両者の形而上学的に改作された統一であり、現実の人間と現実の人類」であると規定した。「絶対精神」の規定としてはこうなる。しかし、この「絶対精神」は、ヘーゲルの論理過程の中では、ヘーゲルの主体の全展開過程の帰結であると同時に、そもそもの出発点でもある。すなわち、「形而上学的な怪物」(「聖家族」)としての、ヘーゲルの主体=概念の全創造作用に対する全面的批判が要求される。「形而上学的統一物」として批判しなければならない。絶対的主体=絶対的人格の創造作用こそが、ヘーゲル哲学の本質的なものなのである。したがって、フォイエルバッハが「自然という基礎の上にたつ現実的人間」に「絶対精神」を解消することによって、ヘーゲルをはじめて根本的に克服できたとマルクスが評したのである。
> レーニンは、「「ヘーゲルの著作《論理学》の摘要」において、ヘーゲルの「概念」を誤って理解していることを示している。
 「ひっくりかえすこと:概念は物質の最高の産物である脳髄の最高の所産である。」(「哲学ノート」国民文庫版p137)
 ヘーゲルの概念は、抽象された絶対的主体であり、その展開過程は、規定性であり、さらにそれは規定された自己意識であり、いろいろさまざまの人間的現実性が自己意識の規定された形式となったものであり、ヘーゲルは人間のかわりに自己意識をおくのであるが、この自己意識を思弁の中で無制約なものとして作り出し、絶対的自己同一としての「絶対知」に高められて終わる。
 「ヘーゲルは、自己意識を、人間の、現実的な、従ってまた現実的・対象的世界に住み、かつこれに制約されるところの人間の自己意識としないで、人間をば自己意識の人間とする。」(「聖家族」)
 したがて、「ひっくりかえす」のであれば、「現実的・対象的世界に住み且つこれに制約されるところの現実的人間」とされねばならないはずである。このレーニンに規定は、機能的な脳の規定、「脳は物質である」というただそのことを述べただけのことである。しかも、ヘーゲルの「概念」なるものが、無制約化され、絶対化された自己意識であるということの否定がない。すなわち、ひっくりかえすどころか、唯物論的な規定のような装いを与えられて、再び自己意識そのものになっているのである。
 このことは、最終章の「絶対的理念」の「B 善の理念」の箇所におけるメモにおいて、「認識は……自分の前に、主観的な意見(Setzen)とは独立に現存する現実性としての真に有るものを見いだす。(これは純粋の唯物論だ!)人間の意志、人間の実践は、それが自分を認識から切りはなし、外的現実性を真にあるもの(客観的な真理)とみとめないことによって、その目標への到達をみずから妨げている……必要なことは認識との結合である。」
 このように記述している。主観と客観の対象的現実的関係の、従って、相互前提的で規定的な関係のなかにある認識と実践こそが問題なのであるが、「抽象的人間」となってしまっている。無規定な「人間の意志」とは、抽象的な「自己意識」のことである。カント主義を批判するといいながら、実はカント主義に転落してしまっている。
 「〈行動の推理〉……ヘーゲルにとっては行動、実践は一つの論理的〈推理〉、論理学の一つの格である。そしてこれは正しい!もちろん、この論理学の格が人間の実践を自己の他有としてもっている(=絶対的観念論)という意味において正しいというのではなく、逆に、人間の実践が何十億回とくりかえされて、それが人間の意識の中に論理学のもろもろの格として固定されるという意味においてである。これらの格は、まさに(そしてただ)この何十億回というくりかえしによって、先入観の堅固さと公理の性格をもつのである。
第一前提 善なる目的(主観的目的)対現実性(〈外的現実性〉)
第二前提 外的手段(道具)、(客観的なもの)
第三前提 即ち結論:主観的なものと客観的なものとの一致、主観的理念の検証、客観的真理の基準」
 このように主観的目的と外的現実性を対立させる場合の目的はどこからくるのか、誰のものなのか。この抽象性こそが問題なのだ。このことは、絶対的理念の現実化についての理解を曇らせる。
 「客観的な世界像をつくりあげた人間の活動は、外的現実性を変化し、その規定性を無くし(そのあれこれの側面、質を変え)、このようにしてこの現実性から仮象、外面性および空無性という特質を取り去り、この現実性を即自且つ対自的に有るもの(客観的に真なるもの)にする。」
 これは形而上学である。「客観的な世界像」は誰が作り上げた「主観」なのか。
 たしかに、レーニンは「目的論」に付随して、「実際には、人間の目的は、客観的な世界によって生みだされたものであり、その世界を前提し――それをあたえられたもの、現存するものとして見いだす。しかし人間には、彼の目的は世界より以外のところから取ってこられたものであり、世界から独立したもの(自由)であるように見える。」と記述し、あたかも現実的人間の対象的現実性を前提しているかのように述べている。しかし、「認識は自然の人間による自然の反映である。」として「実際にここには客観的に三つの項がある:1.自然;2.人間の認識=人間の脳髄(同じ自然の最高の所産としての)および3.人間の認識における自然の反映の形式である、この形式がもろもろの概念、法則、カテゴリーなどである。」という「反映論」なのであるから、現実的人間の主体的目的なのではない。