『威風と頽唐』に思う

                                       生形 久志


 『威風と頽唐――中国文化大革命の政治言語』(吉越弘泰著 太田出版)は、文革期の政治言語を取り上げる中で、実にさまざまな問題を提起している。それらは、われわれの共感を呼ぶとともに、問題整理の指針となりうるものである。(その意味では、これはわれわれにとって「癒し」の書とも言える。)
 私にとって、この『威風と頽唐』から最も強く想起されたものは、「内糾」であった。
 「内糾」は、七八年から八〇年にかけて、組織内で行われた内部糾弾闘争のことであるが、三里塚での部隊襲撃(80・9・15)を含む内部の対立を生み出し、ついに解放派が公然と組織分裂するに至った、組織内問題である。
 この「内糾」を推進する機関として、「内糾本部」が作られた。社青同中央の決定によるものだが、革労協の中央決定はなかった。当時革労協中央は対立が常態化しており、決めきれない、決めさせないという攻防を繰り返していた。「内糾」においては、革労協中央では、部落解放運動の路線をふまえ、「内糾」について問題が指摘され、ほとんど何も決定はしてなかった。
 「内糾本部」は、「差別事件の摘発」を行い、「拉致」、「監禁」、「暴行」、「査問」、「自主申告」という組織内つげ口、資金の強要などを中心的に担ったが、それは中国文革の文革小組を思い起こさせると言う意見があった。
 文革については、中国革命の中で、毛沢東路線に包摂されない、紅衛兵や造反派の姿をとった、新たな革命勢力が登場したが、しかし毛沢東によって制圧されたという見方をしていた。
 「資本主義の道を歩むとする「走資派」を見出してはこれを打倒せんという「文化革命」が始まったが、その担い手とされた学生の紅衛兵の後から奪権闘争をかかげて労働者が現れ、六七年に入るとともに上海の労働者たちは「パリ・コミューンのように」と労働者ソヴィエト権力を樹立せんとするや」「それは「中華人民共和国を人民公社連合に解消するもの」「毛主席から権力を奪うもの」「アナーキズム」だとして「解放軍」の力に依拠して鎮圧され、この鎮圧の上に、「上海一月革命」の名をもって、「三結合」の「革命委員会」なるものによる「奪権」ということにすりかえられる。この「解放軍」を核心とした「革命幹部」「革命大衆」の三結合とされた革命委員会は、だから地区ソヴィエトであるどころか、これを地下に沈めての本質的に軍事的官僚的統治機構として、寄生的統治機構が破壊されることなく維持されているのであり、これに結びつけられた工場の「幹部」「技術者」「労働者」の三結合の実質も、工場ソヴィエトなどではありえず、本質的にこの「幹部」が経営の責任者であり、労働者はただ経営に「参加」するにすぎず」「労働者は現れはしてもただ仮象として、というべきプロレタリアなき「プロレタリア文化大革命」、プロレタリアなき「プロレタリア独裁」の動揺」(『滝口弘人著作集』第三巻一一〇、一四六頁)。
 文革小組は、六六年五月の中央政治局拡大会議で設置が決定された。
 「それは「政治局常務委員会の管轄下に置く」という規定だったが、実際にはその設置自体の中に、のちの中央文革の機能、すなわちあらゆる党組織を支配する要素が含まれていた。党内対立が深刻化したとき、ある一派が何らかの緊急事態、あるいは普遍的、道義的な課題の出現を名目に、正規の党機関の規制を離れた特殊な対策機関を設けることによって党内の動きに介入することはよく使われる手である。その場合その機関は党の統括者と対策機関構成メンバー以外のすべての機関、メンバーを何らかの緊急性、道義性の名のもとに制約する権限をもつことになるからである。劉少奇らは文革に反対と言い切らないかぎり、その是非を問うことはできない状態に追い込まれている。それが党規約に照らして問題があると主張すれば、それでは文革に反対なのかということになるからである。つまり中央文革は文革の指導機関ということにとどまらず、党内闘争を有利に進めるための巧妙な措置でもあった」(『威風と頽唐』一〇六頁)。
 こうした文革小組も、拡大会議という手法の問題はあるとして、党中央の決定に基づいて設置された。ところが「内糾本部」は、社青同のみの決定であり、革労協は決定していない。その後「革労協・社青同を貫く合同機関」として、「革労協・社青同協議会並びに革労協・社青同中央」の下にとして、内糾敵対、逃亡、スパイ問題に取り組むことを任務とする機関の設置が提案された。しかしこれも、革労協中央が決定・執行を行うということが貫徹されなくなる恐れがあるとして、革労協中央では決定されなかった。だがこうしたことも組織内に開かれた論議がなされないまま、組織内の全員を対象とする「内糾本部」の活動が推し進められた。「内糾本部」への批判は「内糾」への敵対として「内糾」の対象となるという、組織内批判を敵対と規定するということが行われた。
 「そこでは、自己の主張に対する批判や異論に直面したとき、それらは根本的に等価なのであり、争われ、選択されるべきものもまた絶対的真理ではありえず、相対的な優位性なのだという認識を欠くとき、それらが与える不快感、緊張に耐え切れず、「敵」性のものとみなす誘惑にこと欠かない。この誘惑に屈したとき、政治言語の堕落が始まるのであり、「ことばの汚染」「流氓言語」の流入はそれが呼び込むのである。
 そして革命言語はそこに堕落が起こったとき、それがマルクス主義政治言語の卓絶したイデオロギー批判を引き継いでいるゆえにこそ、「流氓言語」の比ではない邪悪な破壊力を発揮する」(『威風と頽唐』一八頁)。
 「内糾」の契機となったのは、「造花の判決」目黒地区上映実行委員会が七八年一〇月に出した、狭山闘争に立ち上がれと呼びかけるビラであった。そこには「司法、警察権力に百歩譲って石川「黒説」を認めたとしても、一四年も拘留したあげく、仮釈放も認めないなどという暴挙があるであろうか」「思い切ってわき道にそれると、そこには全然知らなかった世界、すっかり忘れていた世界があることに驚かされることがあります」「本工、臨時工、農民、「障害者」、在日アジア人、部落民相互のいがみ合い」「社会にうごめくすべての人民」といったことが書かれていた。
 このビラに対し、解放同盟東京都連品川支部から問題が指摘され、回収の要求があった。この事態に、政治組織は真摯な組織的対応をしていくことが出来ず、部落解放戦線を担っていた部分から批判、糾弾の声が上がった。そうした中で「組織内の市民主義者、社民主義者が引き起こした差別事件」だということが主張され、こうして「内糾」の政治利用への道が開かれたのである。
 「国家権力、ファシスト、革マルなどによるものとしか考えられない」「黒説煽動――部落民虐殺宣言」であるとして、主要に、対権力、対革マル闘争での「戦術的」エスカレートに消極的な部分を、「内糾」の対象にするという、差別問題の政治利用が推し進められた。革労協都委員会、労対、社青同東京地本、学生戦線などが集中的に打撃対象となった。
 永続革命第二段階の前期から後期への過渡期という戦略的把握は、さしあたり一国的に成立したプロレタリアロシア革命から開始された第二段階で、後進国革命から先進国革命へと波及していくという、革命の主体であるプロレタリアの階級形成を含んだものとして画期的なものであり、ブルジョア生活諸関係の「顕著な改編期」として、日本における戦後第二の革命期がこうした中でつかまれた。しかし革命期イコール武装蜂起だとなるわけではなく、「この法則は、他のあらゆる法則と同じように、その実現においては多様な事情によって修正されるのであるが」(『資本論』第一巻)とされるような、主体の直感や気分も含んだ、革命期の推展についての分析を抜きにすると、単なる武装闘争主義となってしまう。革マルとの党派闘争にしても、プロレタリアの運動と組織の前進とともに宗派との対立は「法則」のようなものだとしても、これと殲滅戦へと戦術をエスカレートしていくこととはイコールではない。
 こうしたことを路線的背景とした、「戦術的」エスカレート、戦果主義への消極論に対し、「革命的部落民の立場に立つことを通した革命的プロレタリアートの立場」なる規定をもって、「内糾」への屈服そして「路線」的屈服という、差別問題を政治利用しての政治的対立部分への制圧が図られたのである。
 われわれは部落解放闘争について、七一年以来全組織的に取り組んできたが、それは「身分闘争を階級闘争一般に解消してはならない」ということではなく、身分闘争のプロレタリア的貫徹ということこそが大切であるとして、核心は部落内外を貫くプロレタリア的団結をということであった。プロレタリア運動は、工場制度においてもっとも端的に抑圧性を感受し、人間らしく生きんとして新たな社会的結合を生み出す。抑圧性は「工場制度の反作用」として工場制度の内外を貫き、強制された勤勉強制された失業としてプロレタリアを分断する。ここに歴史的、社会的、生理的差異を利用した差別が再生産される根拠がある。だからプロレタリア運動は、自らの発展の条件である社会的結合を獲得するために、自らの問題として差別をめぐる闘いに取り組まなければならない。部落解放運動のプロレタリア的推進が問われてきたのである。こうしたことから見ると、この「革命的部落民の立場」とは、部落第一主義でないとしたら一体なになのか。
 「党内の差別主義者を析出したことが内糾闘争の成果であり、それにより党内闘争に勝利した」(八〇年一二月)と「内糾」を推し進めた部分は総括するのだが、その手法は監禁と自主申告であった。拉致、監禁、暴行、査問と自主申告は一連のものであるが、個人を組織的社会性から切り離すことで団結への確信を動揺させ、告げ口も含めて洗いざらい申告させることで誇りを奪い屈服させる。
 「この未決状態もただ安穏な停職を意味せず、「靠辺站」となった者たちは自己批判を要求され、審査や「批闘」を受けることになるのであり、それは事実上「隔離審査、査問」に近いものとなる。そして一たびこの「靠辺站」に置かれるや、自分を救う唯一の途は批判者の納得する自己批判を行うことによって過関することだけであり、弁明は一切許されず、その措置に対して抗議し組織的に抵抗するなどということは思いも寄らないことであった」(『威風と頽唐』二九六頁)。
 「だが言うは易きであり、それは「大批判」言語の社会性に対する被批判者たちの対抗的共同性をもってのみ可能なことである。言語の力とはそれが「事実」や「真実」にもとづくことのみを源泉としているのではなく、あるいは「事実」、「真実」が意味を持ち、現実的な力となるのはそれが担う社会的関係においてだからである。人が裸の個人としてこの「大批判」に耐えることはほぼ不可能である。だからこそ「大批判」はその前提として被批判者をあらゆる公私の関係から切り離すべく「隔離審査」し、その「自己批判」には自己だけでなく、他者について洗いざらい申告することが不可欠とされたのである」(『同』三二三〜三二四頁)。
 ということであり、
 「だからそのような「整風運動」には、ある危険な、邪悪な要素が入り込むことになる。すなわちそこにおける権力関係が形成されることである。さらにその党内に路線的な意見の違いや対立があったとき、そこで追及される「人間変革」「思想改造」とは他者を「人間解体」「思想解体」して、「整風」主体のもとに一体化して融合することを意味することになる。事実、「整風」では政治路線の「誤り」だけが問題となるのではなく、その「誤り」の「根拠」を明らかにせよということで、個々人の「経歴」や作風、その人的諸関係(他人についての申告は大きな比重を占めていた)、さらには人格的な「欠陥」までもがすべて洗いざらい問われるのであり、「延安整風」でそれを免れ、終始批判者の立場にあったのは毛沢東と劉少奇の二人だけだったという」(『同』一九六〜一九七頁)。
 「だから「誤った」者の「自己批判」「思想改造」とは「誤り」の放棄のみならず、その「思想的根源」を抉り出し、「正しい」立場の者への自己解体的な一体化、政治的・思想的奴隷化を要求されることなのであり、そのためには自らの政治関係、人間関係を洗いざらい申告しなければならない。こうして人は内的に解体される」(『同』二九〇頁)。
 「内糾」の中で、多くの悲劇が起きた。文革とはケタの違う話ではあるが、同じ「左翼」の社会性の中で起きたことであり、悲劇は悲劇である。自殺者も出た。その中にある若い男女と彼らの子供という一家のことがある。男は学生戦線の「不満分子」であったが、「内糾」の対象とされ、女と会う予定の場所から連行された。彼はのちの三里塚での部隊襲撃では先頭にたっていた。年月が経ち、男はある地方都市で孤独死したと聞く。女は数年前、路上で殺害された。それに先立ち子供は、学生戦線で活動中、自殺と思える状態で発見された。一家が消滅したのである。一方、「内糾本部」を中心的に担った者たちのうち、のちに、一人は病死、一人は医者、一人は寺の坊主になったと聞く。
 「内糾」は、思想性の荒廃をもたらしたというべきであろう。
 「われわれのこの一年六ヶ月にわたる内部糾弾を結論からいえば、差別の現実、それに対する闘いの現実に明らかになるべく促したことは、一歩前進といわなければならない。しかしそれが、各人の発展の根本条件をなす党的共同社会性(紐帯)の裂断に棹した方法に陥ったことは、二歩後退といわなければならない」(『滝口弘人著作集』第三巻一九〇頁)。
 そうだとは思うが、しかし「内糾」は現実には多くの課題を積み残したままだ。
 『威風と頽唐』の本文の終わりは、「すなわち毛沢東政治が決して許容することのなかった政治的他者間の対立と協同、それによってはじめて可能となる真の「生き生きした政治局面」の実現、これが最後の言葉であり、課題としてのユートピアとなる。」
 そしてすべての結びは「元気になるべき時である」。
 まったく、同感である。