人権と権力分立とコミューン(増補)
滝口弘人/増補構成・角行成

【掲載に当たって】
 二〇〇九・八・三〇選挙は民主党の歴史的勝利、自公の大敗北となった。
 この結果を、人々の自公政権への怒りの表現としてのみ捉え、広汎に存在する民主党への「期待」に目を瞑る傾向が、左翼を自称する勢力には少なからず存在する。
 しかし、その「期待」が幻想であるとしても、なぜ、そうした幻想が広汎に存在するのか、その根拠をはっきりと掴み、「期待」を裏切らせないように行動する政治とは何か、が問われているのである。「中間的政権」の失敗を「期待」して評論するような「いつも間違うことのない少数派」の行末は、歴史的に経験済みである。

 われわれは、かつて首都東京都知事選挙において、社・共推薦の「美濃部候補」に「美濃部への批判的支持」という態度を打ち出した。その時、われわれは、革命的プロレタリアートが、いまだ独立した階級運動と党を確立しえていない時点で、階級形成を促進していく問題として捉えた。社会的な意味での「幻想」とは、つねに、その現実的基盤をもっている。中間層への「支持」や「期待」は労働者人民の階級形成の立ち遅れということに根拠がある。
 四〇年前とは異なって、今日の階級形成の遅れとは、われわれ自身の挫折を含んでおり、主体的に反省されなければならない事態でもある。
 そして今日、民主党への「期待」とは、民主党の要求が、現実の労働者人民の当面する諸要求を部分的に担っていることによるのである。この部分的要求そしてそれを表現する部分的団結は、階級闘争にとって不可欠の領域であり、われわれが普遍的団結を目指す場合に、これ以外の出発点はない。
 民主党のマニフェストや基本政策の全体が「帝国主義の一般的承認を前提としてその諸結果を部分的に否認するという構図」であることは多くの中間的党派と異なることはない。その上で、部分的に含まれている切実な要求を全面的に発展させるために、その要求をいわば「極端化」して、「過渡的要求」として系統化しつつ、それを組織的に推進していく「団結形態」を見出していかなければならない。

 明治維新、戦後改革に続く第三の改革が叫ばれて久しいが、本格的な政権交代でようやくその改革が開始されようとしている。「八・三〇友愛革命」と名づける人、或いは鳩山自身は「平成維新」と呼んだ民主連立政権が出発した。
 民主党が目指す「この国のかたち」が見えないという批判もある。しかし、言葉にはなっているのである。即ち「地域主権国家」である。この「地域主権」を地方分権をちょっと格好つけて言っただけと思う人たちが、そう言っているに過ぎない。
 民主党のマニフェストの一部を取り出して、「バラ撒き」の大きな政府とみなす見解がある。そして「大きな政府ではなくて、小さな政府を」(河野太郎)、と。だが、『日本改造計画』(小沢一郎)や『日本再編計画』(斎藤精一郎/PHP)の系譜も引くこの「地域主権国家」は「安上がりの国家(チープ・ガバメント」の方向にはあるのだが、対立軸は大きな政府か小さな政府かではなくて、官僚統治型中央集権国家か否かにあるのである。
 二〇世紀社会主義(スターリン主義)や二〇世紀社会民主主義の持つ中央集権国家・官僚主義的傾向を克服していく可能性を「地域主権国家」論の中に見ることも可能だ。その極端化の果てに。
 この「地域主権国家」を「極端化」するとはどういうことか?

 この滝口論文は、すでに細川の日本新党が「地方分権」ではなくて「地方主権」と提起した時点で「主権」とは何かを掴み出そうという格闘を示している。
 それ自体は未完の論考であるが、以後いくつかの論文の中に、連続した問題意識の文章が含まれているので、その部分を抜き出して補足とした。

人権と権力分立とコミューン
――〈賃金労働制度の廃止〉=〈自由で協同した労働〉に向って)

       {一}

 いま、カンボジアの“制憲議会選挙”が、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)という統治権力の下で、フランスや日本、中国、ガーナやフィリッピンやの諸国が出兵した軍隊の武力、「文民警察」、「選挙監視要員」、それに非政府組織(NGO)のボランティアたちによって、執行されている真最中である。
 この選挙は、各州ごとの比例代表制(日本でいま論争中の選挙制度案では、あまり関心がひかれていない民社党の都道府県ごとの比例制に似ている)により、二〇政党の中から一二〇人の制憲議会議員を選ぶ。この制憲議会は、憲法制定後には立法議会に移行することになっているようだ。終わらぬ内戦の中から、このカンボジア――一九世紀のフランスを二〇年にわたって統治したルイ・ボナパルトの征服戦争によって開始され、パリ・コミューンを血の海に沈めたフランス・第三共和国によって完成された“仏領インドシナ連邦”、そのベトナム(サイゴンを中心としたコーチシナとハノイを中心としたアンナン)とラオスと、このカンボジア、この植民地の「連邦」に、後に清朝からの広州湾租借も編入した――に、旧「宗主国」の大統領制フランス、太平洋戦争突入の契機となった「仏印進駐」の議院内閣制日本、アジア的スターリン主義の共産党独裁中国、ミャンマー(旧ビルマ)のような軍部ボナパルティズムの絶えざる突出をかかえる諸国などの、「国連」の名による“国際親睦”の強制的介入を通じて、いかなる〈統治機構〉でいかなる〈人権[human rights]〉を保障する〈憲法〉が現われ出るのか?

 旧ソ連圏では、またロシア連邦内諸「共和国」でも、色々な大統領制(日本でも「首相公選制」という色あいで)が、旧来の〈外観的ソビエト〉(「同時に執行府であり立法府である行動的機関」ということが〈前衛党独裁〉のただの欺瞞的な見せかけとされてきたこと、このつかみ直しを後で詳述する)にとって代る当然の政治形態として流行してきたが、ロシアでは、三月二〇日のエリツィン大統領(行政府)の超法規的な「特別統治体制」導入の声明によって、議会(立法府)とのあいだの公然たる激闘に突入した。この「議会」とは、ゴルバチョフ時代の一九九〇年三月、それまでのソ連邦構成各共和国の外観的ソビエト(議会)に代る「最高権力機関」として設立された時、ロシア共和国連邦にも設立されたもので、原則として年二回開会、定数一〇六八人の「ロシア人民代議員大会」、および、人民代議員の互選による、定数二五二人の、常設の「ロシア最高会議」からなる(ソ連人民代表大会がその先駈けとして設立されたのは一九八九年五月のこと。一般地域選挙区、民族地域選挙区、社会団体から選ばれた各七五〇人、計二二五〇人で構成)。このロシアの「大統領」とは、ソ連の消滅、「独立国家共同体(CIS)」の始まりを結果する一九九一年の“八月クーデター”の直前の六月一二日に、ロシア共和国連邦大統領選挙が行われ、エリツィンが就任(七月一〇日)したロシア大統領のことである。そこで、このソビエトなきソ連の欺瞞的見せかけから生まれた二つの機関、二つの形態に分立したロシア議会とロシア大統領との間の公然となった権力闘争には、生みの人民大衆の大デモンストレーションの二つの流れが幾度も登場し、一方のいわゆる「改革派」は議会との非妥協(――議会解散)を主張し、他方の「民族派」ともなったいわゆる「保守派」のデモには、「すべての権力をソビエト(議会)へ」というスローガンが見られた。このソビエトの外観の再主張は、何であるのか。
 この大統領(行政府)と議会(立法府)との三月二〇日以来の「特別統治体制」をめぐる激闘は、四月二五日の、四項目(@大統領を信任するかA大統領の経済改革政策を支持するかB大統領の繰り上げ選挙を実施すべきかC人民代議員の繰り上げ選挙を実施すべきか。前二者は有権者の過半数、後二者は投票者の過半数が賛成に必要だという)の「国民投票」となった。この結果は、ただ政治的に読まれこまれて、次なる闘争、すなわち〈新憲法制定〉の闘争に入りつつある。大統領の側も議会の側もそれぞれ新憲法の草案づくりに入っており、その案の対立の焦点は、大統領に議会の解散権を認めるか否か、これによる行政府の優位か、立法府の優位かという権力分立のあり方での闘争にあり、この政治闘争の形態――憲法闘争の形態と相互作用して、ロシア社会が、何から何へいかに向うか、ということがどのように示されようとしているのか?

 近代国家の市民憲法は、一六八八年の名誉革命でのロックの『市民政府論』の表明以後、アメリカの独立、フランス大革命を通じて、人権[human rights]の宣言とともに権力分立を規定している。フランスの一七八九年人権宣言である「人および市民の権利の宣言」は、その第一六条で「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されていない社会は、すべて、憲法をもたない」と宣言していた。二〇世紀の近代的国家で、この“憲法なき憲法”をもつ世界史的経験は、その二つの形態、すなわちナチズム(ファシズム)とスターリニズム(これが近代的国家権力の一形態にすぎなかったことを次第にみる)とである。この二つの政治形態との闘争を通じて〈近代市民国家〉、その自由主義、民主主義は、何になろうとしているのか?
 これをつかむために、近代国家の一九世紀から二〇世紀への推展(いわゆる「自由国家」の「自由権」から、いわゆる「社会国家」の「社会権」――「生存権」――への、人権の保障が課題だとする国家の推展)、その世界史的画期としてつかむべき一八七一年の〈パリ・コミューン〉について、第一インターナショナルの宣言である『フランスの内乱』は「コミューンは、市の各区での普通選挙[universal suffrage]によって選出された市会議員[the municipal councillors]で構成されていた。彼らは[選挙人に対して]責任を負い、即座に解任することができた[responsible and revocable at short terms]。コミューン議員[its members]の大多数は、当然に、労働者か、労働者階級[the working class]の公認の代表者かであった。コミューンは、議会ふうの機関ではなくて、同時に執行し立法する行動的機関でなければならなかった[The Commune was to be a workinng, not a parliamentary, body, executive and legislative at the same time.]。(『全集』村田陽一訳。[ ]内は引用者、英語版第三版による。以下同じ)。「司法職員[the judicial functionaries]は、あのにせの独立性[that sham independence]を剥奪されるはずであった。その独立性は歴代のすべての政府にたいする彼らの卑屈な屈従をおおいかくす仮面の役をしてきたにすぎず、彼らはこれらの政府に順ぐりに忠誠の誓いをたてては、それを破ってきたのであった。他の公僕[public servant]と同じように、治安判事や裁判官[magistrates and judges]も選挙され、責任を負い、解任できるものとならなければならなかった[were to be elective, responsible, and revocable]。」
 このように権力の分立を否定している『内乱』の草稿で、マルクスは、〈政府(行政府)と議会(立法府)との闘争〉について、つぎのようにつかんでいる。
 「コミューンは、国家権力のあれこれの形態、正統王朝派的、立憲的、共和制的、または帝政的形態にたいする革命ではなかった。それは、国家そのものにたいする、社会のこの超自然的な奇形児[abortion の訳語としても不適当であろう。発展抑圧体とでも訳すべき]にたいする革命であり、人民自身の社会生活を人民の手で人民のために回復したものであった。それは、国家権力を支配階級のひとつの分派から別の分派の手に移すための革命ではなく、階級支配のこの恐るべき機構そのものを打ち砕くための革命であった。それは、階級支配の執行府形態と議会形態[the executive and the parliamentary forms]とのあいだのあのちっぽけな闘争のひとつではなく、あい補って一体をなしているこれら二つの形態――そのうちでは、議会形態は執行府の欺瞞的な添え物にすぎなかった――の双方にたいする反逆であった。」(第一草稿より)
 「近代のブルジョア国家は、二つの大きな機関、議会と政府と[parliament and the government]に具現されている。一八四八年から一八五一年にいたる秩序党共和制の時期に、議会の全能はそれ自身の否定物――第二帝政――を生みだした。そして、たんなる見せかけの議会をもつ帝政主義[imperialism]は、現在、大陸の大部分の大軍事国家で栄えている制度である。」(第二草稿より)

 ロシアでは、この三権分立否定の外見的ソビエトから、この「階級支配の執行府形態と議会形態とのあいだのあのちっぽけな闘争のひとつ」に移行した。この闘争は何であり、労働者のコミューンは、なぜこれを否定せざるを得なかったのか? これを、これから問題にする。

       {二}

 近代市民国家は、人間各人の生けるこの個体、この生身の個人の「自由権」(市民的自由)、もっぱらこれを保障するのだとするいわゆる「自由国家」から、この自由権とともに「社会権」(生存権)をも保障しなければならぬとするいわゆる「社会国家」への推展を、一九一七年のロシア革命の世界史的な精力によって、もはや不可避なものとして突き進められた。だがこれは、一方にナチズム(ファシズム)を、他方にスターリニズムを生み出すことによって、国家権力の抑圧的性格を激烈に露呈した。
 だから、{一}に提示した各問題の根本には、国家権力、その抑圧的性格と、生身の諸個人、生ける各個体の自由と生存の問題があり、この根本的問題に照らされてそれをつかまなければならぬ。
 そこから問題にする。いま「主権」という言葉が流行している。
 あのソ連は「独立国家共同体(CIS)[Commonwealth of Independent States]」となって消滅し、そのロシア共和国連邦の各共和国はそれぞれ「主権国家」を主張して、いま行なわれている連邦憲法草案づくりを悩ませている。
 国連暫定統治機構の下で「主権国家」を新たに再編しているカンボジアでは、六月一四日の制憲議会で、殿下シアヌークが国家元首であることが再確認され、全権委任をうけて政府要員の指名に入り、七月一日の制憲議会が、フンシンペック党党首殿下ノロドム・ラナリットと人民党副議長フン・センを「共同首相」とするカンボジア(カンプチア)暫定国民政府を承認した(新憲法が完成する九月ごろ、この政府はそのままカンボジアの新政府に移行し、UNTACも約一年半の任務を終えて全面撤退を開始するのだという)。殿下シアヌークはこの二人の共同首相を、国軍および警察部隊の共同総司令官に任命すると声明した(七月二日)。「政党として国家統一党をもっている」という旧共産党のポル・ポト派は、軍代表がUNTACのサンダーソン軍事部門司令官と会談して、「UNTACが主導する軍統合の作業に参加したい」と通告したという。UNTACの下で新国軍を編成する「主権国家」カンボジア。
 太平洋戦争で敗北して、「日本国政府は、日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべし。言論・宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし」という条項が含まれる、いわゆるポツダム宣言を受諾した、日本戦後国家の米軍占領下で制定された憲法は、「その前文において、『……主権が国民に存すること……』、および、『……自国の主権を維持し……』と述べて『主権』という語を二度にわたり用いている。前者が『国民主権』といわれるばあいの主権であり、後者が『主権国家』といわれるばあいの主権であり、両者はその意味内容を異にするといわれる。しかし、国民主権であれ、主権国家であれ、その意味が一義的に確定しているわけではない」といわれる(高橋和之「 権力―近代法から現代法へ 一、主権」『岩波講座 基本法学六――権力』所収、一九八三年、岩波書店、五三頁)。
 日本新党は、いまの総選挙で、自分たちは地方分権ではなくて「地方主権」を主張するのだ、という。
 しかし、「主権」とはなにか? この「主権」と人権との抗争とは、何か?
 ここではとくに、一〇年前に発表されたが、いまなおますます学び検討すべき示唆に富む、政治学の福田歓一の研究と提言の論文「権力の諸形態と権力理論」(前掲『岩波講座 基本法学六――権力』所収、以下この書からの引用はページ数のみ表記)を参照し、その権力理論を、とくにマルクス『フランスの内乱』と対照する。このことを通じて、レーニンが、「マルクスの真の国家学説を復興する」ためにはといって、「マルクスおよびエンゲルスの著作から、国家の問題にかんするすべての個所を、もしくはすくなくとももっとも決定的な個所のすべてを、できるだけ完全な姿で、どうしても引用しなければならない」としたその『国家と革命』、一〇月革命に向うさなかに書かれ、これをもってレーニンが革命に突進したこの国家論の著書で、そのレーニンが、『内乱』の、コミューンとは何かを示す「もっとも決定的な個所」の三個所を、意識的かつ徹底的に削除したこと、その意味を突き出すことになる。

{1} 絶対主義権力の概念である「主権」

 福田歓一は、「主権」という概念は〈絶対主義権力〉を表わす概念として成立したこと(「主権の観念によって表わされる絶対主義権力」)を次のように言う。――

 1論争的概念である「主権」
 「ほかならぬこの主権こそ、絶対主義権力statoによる普遍性と多元性[ゲルマン世界の中世での、教皇が担うローマ以来の普遍的権威の伝統と、王は領主の間での第一人者にすぎず、すべての領主が上位権力の領土領民への介入を拒否する不入権をもつ秩序の多元性]の打破を遂行し、さらにこの強権の制度化を指示する、むしろそれを志向してそのために作り出された論争的概念であった。」(二一頁)

 2国家の標識である「主権」
 「周知のように、この概念をうち立てたのはフランスの統一を求めたボダンであり」、そのボダンは「単なる権力機構としての国家に満足せず、被治者を含む政治社会としての国家を論理化しようとした」のであり、「主権という新しい概念」が現われたのも「国家の定義において」であって、「自分が構図を描こうとする地域国家が古代都市国家[公的なものとしてのポリスは「自由民の共同体」であり、ポリスにおける権力は「自由民間の権力である前に自由民に対する共同体の権力、まさに公権力」であり、元来「共同体権力」であった]とまったく異なっていることを自覚して、国家と都市とを峻別し、区別の標識を主権の存否に見出した。」(二一頁)

 3「主権」の至高性と絶対性、恒久性
 「こうして主権の名のもとに地域国家の権力は、単に普遍的世界の上位の権力[教皇の「宗教的権力」]の拘束から解放されて、至高性を主張するばかりでなく、領域内の聖俗領主と都市とのあらゆる権力に優越する絶対性と権力の制度化を保障する恒久性とを要求することとなった。」(二一頁)
 [高橋和之前掲論文「主権」(前掲書)によって理解をおぎなう。「ボダンにとって、主権とは『国家の絶対的かつ永久的な権力』である。それは、国家の必須の要素であり、それなくして国家は存続しえない。国家は、主権によってはじめて存在するに至るのである。」(五八頁)
 ここでの永久(恒久)性を「制度化」の保障だと福田が言っていることは注意されるべきである。つまり、主権は組織化され、統治機構化されることを含んでいるから。]

{2}「主権」の第一の属性である立法権

 すぐつづいて、福田は、この主権概念で主権の第一の属性とされているのが〈立法権〉であったことについて、次のように述べている。――

 4「主権」の一方的命令となった法
 「こうしてはじめて、法は権力に先立って権力を拘束する規範ではなく、まさに主権の一方的命令となった。主権の属性としてまず掲げられたのは立法権であり、それは、『他人の同意を得ることなく、すべての人々、または個人に法を与える権利』と定義された。いうまでもなく、これは慣習を含む一切の法規範の一方的改廃を許す意味で、中世の法観念の徹底的破壊であった。」(二一頁)
   [高橋。「国家の必須の構成要素とされたこの主権は、ボダンにおいては、単にその権力の消極的(ネガティフ)な性格(なにものにも服さないという意味での)を意味するのみならず、むしろ、その積極的(ポジティフ)な内容を指す観念へと重点を移している。ボダンにとって、『主権の真の標識』(vraies marquesde la souverainete)は、まず第一に、立法権、第二に、宣戦布告権あるいは和平締結権、第三に、官吏任命権、第四に最終審裁判権、第五に恩赦権、最後に、造幣権、課税権等の諸権利である。しかし、なかでも最も重要なのは、立法権である。『法律を制定し廃止するこの権力の下に、主権の他の一切の権利と標識が含まれている。したがって、正確には、主権にはこの標識のみが存在するにすぎないと言えよう。』」(五八〜五九頁)。

 このように、ボダンの主権概念は〈立法権〉を中核としている。だが、注意すべきは、この立法権には他のすべての権利(権力)が含まれているということである。したがって主権は立法府と権力の執行者としての政府というようには分立されえない。このことは、ボダンの主権概念がホッブスからロックを経てルソーの人民主権論にいたる、これからみてゆく過程を理解するために非常に重要である。そこで、ボダンにおいて、主権が「不可分」であることを示す、次の高橋の見解は注目される。

 「この主権は、ボダンにおいては、『絶対的かつ永久的』であり、ゆえに、『不可分』であるとされる。かれにとってモナルコマキの主張した主権分有論、混合政体論は、権力の統一性・不可分性を破壊し、アナキーを生み出す理論であった。主権不可分論は、政治的には、かかる理論を否定し、強力な権力による秩序の確立をめざすところから提出されている。しかし、主権が不可分であると観念された理論上の根拠は、次の二つの事情に由来するであろう。第一は、主権のネガティフな側面に着目するならば、誰にも服することなく、最高かつ独立であるという観念は、たしかに、分割という観念とはなじまない。もっとも、そのポジティフな側面に着目するならば、主権は上述のような諸権限の集合から成っているのであるから、それら諸権限への分割という発想は十分に考えられよう。実際、後に、ロックやモンテスキューは、そのような分割を認めるところから権力分立論を導き出すことになる。にもかかわらず、ボダンが不可分論を主張したのは、第二の事情、つまり、かれが主権の中核を立法権に見ていたことに由来すると思われる。法律が主権者の意志・命令であるとすれば、これまた、分割の概念とはなじみがたい。この点は、後に、ルソーにより、意志は自己のものであるか、ないかのいずれかでしかありえず、したがって、不可譲・不可分であるという論理としてもちいられている。ルソーの場合は、主権を一般意志の定立=立法権へと[純化]し、他の諸権力をすべて主権の外に投げ出してしまうが、ボダンにおいては、他の諸権力も主権の構成要素としてその中に含められている。しかし、立法権をその中核に据えることにより、主権の不可分・統一性を確保したのである。」(五九〜六〇頁)]

{3} 征服の事実からとられた「主権」概念――「異質なものに対する支配」
 そこで、福田は、このボダンの主権概念は、この絶対主義権力の事実上の起源である征服、その事実からとられた概念(「征服の事実からとられたボダンの主権概念」)であり、この近代国家初発の権力は〈「異質なものに対する支配」〉であり、ここに「政治理論における権力と自由という課題」が根ざしているのだと、次のように述べる。――

 5異質の被治者に対する征服権力である「主権」

 「ボダンにおける国家成立の説明」のなかに、このボダンの主権概念がどのような事実からとられたかが示されていると思われる――「アリストテレスのポリスが多くのオイコス[家]から成り立っていたように、ボダンの国家も、多くの家族menageから成り立っていた。しかし、都市国家と異なって主権国家[このように、絶対主義権力によって成立した「地域国家」をいまでは「主権国家」といいならわしている]はまさに戦争と征服とによって成立した。すなわち、家族間の武力闘争において勝者が主権者となり、敗者が奴隷となり、勝者とともに戦った従者が『自由な臣民』になった、というのである。こうして、主権はいわば異質の被治者に対する征服権力であり、さきにみたように[八に提示する]ゴール人に対する『ローマ人の支配』と映るのも、理由のないことではない。」(二一〜二二頁)

 6地域国家にまで拡大された領主権力である「主権」、家産国家
 「教皇や皇帝の普遍的権威に対抗するほど尊厳な超越的権力としての主権souveraineteという言葉自体、中世においてはsovereign[君主]がしばしばseignior[領主]と互換的であったように、もともと封建社会における領主権力に由来する」が、「絶対主義権力の実体は、要するに地域国家にまで拡大された領主権力であり、その国家は結局、国土と国民とを王朝の私的所有物と考える家産国家にすぎなかった。」(二二頁)

 7スタトstato――国家についてのヨーロッパ近代語
 こうして福田は、すでに[「ヨーロッパ権力論の前提条件」という前章で]「近代国家の出現」として述べていたことを裏づけている。そこでは、こう提示していた。――「ヨーロッパ近代語の国家state, Staat, Etatははっきりと古典語のpolis, civitas,
republicaさらには中世のregnum,realmとさえ切れており、まったく別の意味をもったstatusに由来する。これを近代的意味に転換したのは、ひとも知る通り、ルネッサンス期におけるイタリア語のstato[スタト]の用法であった。もとより、この言葉の断絶は単に言葉だけの問題ではない。実は、言葉の指示する概念内容が切れているどころか、鮮やかな対照を示していたのである。すなわち、古典語の国家が何よりも自由民の共同体を示し、中世における王国が、治者と被治者が構成する地域的秩序を意味していたのに対して、当時のイタリア語statoは何よりも権勢、支配権力を、ついでこの権力の主体を、そしてたかだかこの権力者の幕僚機構、支配機構を示すのみで、治者と被治者とをともに含む政治社会ではなかったのである。」
 (「中世普遍世界の中で最も早く封建的秩序が解体した地域」である当時のイタリアは、「あくなき野心家たちが、一切の道徳的拘束を無視して、赤裸々な手段で権力を追求する」、「マキャヴェッリが生き生きと描き出し、暴力と詐術という権力の手段を抽出した世界」である。)

 8政治理論における権力と自由という課題
 「それならば、やがて人民主権を実現した近代国家[この「人民主権」についてしだいにみてゆくことになる]が、何故になおこのおぞましいstatoの名で呼ばれるのであろうか。この謎を解く鍵は近代国家がまず絶対主義国家として成立したという事情による。すなわち中世普遍世界からその一地方を切り取って、そこに地域国家を作り上げたのは絶対主義権力であり、近代国家はこの地域国家を単位として生み出され、アルプスの北における地域国家の確立は、文字通り絶対主義の権力statoによって遂行されたからである。こうして、近代国家はその初発においてむき出しの権力であり、異質なものに対する支配であった。政治理論における権力と自由という課題は、まさにここに根ざしており、絶対主義の権力が被治者の目に異質のものと映るとき、征服権力の想起を訴える『ノルマンの軛』や『ローマ人の支配』という神話が持ち出されたのであった。」

{4} 「主権」の観念で表わされる権力による地域国家確立を「支えたもの」

 福田は、そこで、〈絶対主義権力による地域国家の確立を支えたもの〉について、「絶対主義権力の構成様式」についての最初の叙述において、次のようにつかむ。――
 9ブルジョワジーの統一要求と「主権」

 @「言うまでもなく、主権の観念によって表わされる絶対主義の権力が、自らこのような私的性格を暴露したわけではない。それどころか、ボダンがあえてRepubliqueの名を選んだように[「その(ボダンの)書物は『国家についての六篇』であった。この表題の国家は実はstato:Etatではなくて、古典的なRepubliqueである」といったことを、指す]、この権力は公共の福祉salus publicaや人民の安寧salus populiを標語として掲げ、その名のもとに、地域国家という政治生活の単位を確立した。」
 A「そのような地域的統一を支えたのは、単一の国民経済を作り出そうとする社会の動向、市場形成のためのブルジョワジーの統一要求であった。」
 B「ボダンが主権の属性として貨幣鋳造や度量衡制定の権限を数えていることは、この消息を物語るものである。」[このつかみ方は、すぐ後でみるマルクスの『内乱』第三章の「生まれかけていた中間階級〔ブルジョア〕社会」と「国家権力」との関係についてのつかみ方に照らし合わされる。]

{5} 巨大な権力機構の編成、「主権」の現実化

 福田は、この「絶対主義権力の構造様式」をつづけて、〈一元的な権力構造の確立〉をもたらしたもの、〈「主権を現実化したもの」〉について、次のように述べている。――

 10封建的諸権力の「主権」への依存へ
 「しかし、元来拡大された領主権力であった主権が、もちろん封建的な諸権力を清算するはずもなかった。」

 C「それは兵農分離以来武装の特権をもっていた世俗領主の公私未分化のままの権力を容認し、ただそれを主権に依存するものに変えた。」
 D「また都市における中世ギルドの統制を容認し、そのあるものを助成して、自由な企業活動をきびしく取り締まった。」
 11〈「主権を現実化したもの」〉――軍隊・租税・官僚制
「しかし、それにしても領域内の多元的構成を打ち破って、一元的な権力構造を確立することが、公共の名を掲げるだけで出来よう筈もなかった。はてしない宗教戦争の形をさえとった激しい抵抗をうち砕いて、国家の統一をもたらしたものは、もちろん巨大な権力機構の編成、わけても物理的強制手段の確保であった。」
 E「まず、主権を現実化したものは常備軍の出現であった。軍事技術の進歩を背景に、国王の傭兵からなる職業的軍隊は、封建契約にもとづく世俗領主の軍事的奉仕を無用にしたばかりではなく、そもそも分散し、かつすっかり時代おくれになった封建的軍事力の意味を奪ってしまった。」
 F「つぎに、「戦争の神経」として、この常備軍を賄う貨幣は、権力の財政的基礎の租税への転換によって調達された。かつての直領地の貢租や高利貸からの借入に代るこの財源は、今や農奴身分から解放されて、臣民として把握された民衆から徴収されることになった。」
 G「そして、これを推進する機構として強力な官僚制が成立し、必ずしも身分にとらわれずに登用されたエリートが仮借なく辣腕を揮った。」
 H「この権力集中の完成を背景に、太陽王[ルイ一四世]は l'Etat c'est moi [朕は国家なり]とうそぶくことができた。それにもかかわらず、すでに述べた権力の私的性格のゆえに、この権力機構はあくまでも王朝の家産として国家を管理する家産官僚制にすぎず、常備軍はついに国王の私兵にすぎなかったのである。」

 以上に、福田歓一の「絶対主義権力とその理論」(第五章)の「主権概念の成立」(第一節)と「絶対主義権力の構成様式」(第二節)とを、主権概念(権力の性格を表わす「主権」)およびこの観念で表わされる権力そのもの(その性格をもつ権力そのものを指す「主権」)を、構図的に、まとめて示した。それは、この〈主権〉を、マルクスがパリ・コミューンの把握で示した〈国家権力〉に対照するために、である。
 これを、ただちに始める。

 「常備軍[standing army]、警察[police]、官僚[bureaucracy]、聖職者[clergy]、裁判官[judicature]、という、いたるところにゆきわたった諸機関[ubiquitous organs]体系的[「系統的」と訳すほうがよかろう]で階層制的な分業[a systematic and hierarchic division of labour]の方式[the plan]にしたがってつくりあげられた諸機関をもつ中央集権的な国家権力[the centralized State power]は絶対君主制の時代[the days of absolute monarchy]に始まるものであって[originates from]、生まれかけていた中間階級〔ブルジョア〕社会[nascent middle-class society]にとって、封建制度とたたかうための強力な武器[a mighty weapon]として役だった。」 (『フランスの内乱』第三章。『全集』村田陽一訳。[ ]内は 英語版第三版による、傍点(下線)ともに引用者。)

 傍点(下線)部は、マルクスの〈国家権力 State power〉についての規定である。〈 〉内(強調部)は、レーニンが、その『国家と革命』ですっぽりと削除している(第三章第二節)。
 マルクスのこの〈国家権力〉規定を、立法権を第一の属性(標識)とするボダンの〈主権〉概念と対照。

 これは、どういうこと(事柄)なのか。

(未完 一九九三年七月)
(『著作集第三巻』四四九頁〜四五八頁)

【補注】
 ボダンとマルクスを対照させるための準備作業として、互いの主張を挙げたところで、この文章は中断している。
 この作業がいかに引き継がれていったのかは、この後に挙げる、結論的ないくつかの叙述の中に示されている。
 その前に、「レーニンが、『内乱』の、コミューンとは何かを示す「もっとも決定的な個所」の三個所を、意識的かつ徹底的に削除した」としつつ、その指摘はまだ一箇所にとどまっているので、『国家と革命』批判の重要な視点を補っておこう。
 滝口は、『パリ・コミューンの教訓――「協同組合工場」』という草稿ノート(『著作集』未収録)の中で、レーニンの『国家と革命』が、この『フランスの内乱』の第三章の引用の中で、コミューンの核心としての「協同組合的生産」についてふれた「箇所全部が、何の関心も示されないままに完全に無視されているのである」としている。すなわち〈コミューンを桿杆とした新しい生産の組織化〉としての〈協同組合生産様式〉の問題である。さらにマルクスが、様々に解釈されてきたコミューンの核心として提起している「生産者の政治的支配は、その社会的隷属状態の存続と同時に存在することはできない」もまた何故かレーニンは看過するのである。
 さて、ボダンとの対照のために、議会権力と執行権力との関係についてのマルクスの見解を、『フランスの内乱』の引用でいくつかを補っておこう。

「十八世紀のフランスの革命の巨大なホウキは、過ぎ去った諸時代のすべてこれらの遺物を掃き清め、そうすることによって同時に、それじしん近代的なフランスにたいする半封建的な旧ヨーロッパの連合戦争の結果として生まれた第一帝国のもとに建設された近代的国家の上部構造にたいする、最後の障害物の社会的土壌を一掃したのである。これにつづくいろいろの支配形態をつうじて、政府は議会の統制のもとに――すなわち有産階級の直接の統制のもとに――おかれ、ただにボウ大な国債と過重な租税とを促進する温床となったばかりでなく、また地位と分捕り品と引き立てとの抵抗のできないその誘惑によって、政府は支配階級内の対立した分派のあいだ、冒険者のあいだの抗争の種子となったばかりではなく、政府の政治上の性質は、社会の経済上の変化とともに、同時に変化した。近代的産業の進歩が発展した同じ歩調をもって、資本と労働とのあいだの階級対立は拡大され、激化され、国家はいよいよますます、労働にたいする資本の全国的な権力、社会的隷属のために組織された公な力、階級専制の一機関たる性質をおびた。」
「……ブルジョア共和主義者は前線から、「秩序党」――生産階級にたいするいまや公然と宣言された彼らの対立のゆえに、所有階級のなかのすべて競争分派とホウ党とによって形成された連合――の後陣に落ちなければならなかった。彼らの株式政府のほんらいあるべき形態は、ルイ・ナポレオンをその大統領とする議会的共和政治であった。」
「じゅうらいの制度のもとでは、彼らの分裂がまだ国家権力を制チュウしていたが、この抑制力は、彼らの団結によって除かれていた。そして、プロレタリアートの立ち上がりによって脅かされ、彼らはいまや国家権力を、労働にたいする資本の国民的戦争の機関として、ようしゃなく、そして公然と使用した。けれども彼らは、生産大衆にたいするたえまのない十字軍のために、たえず増大する抑圧の力を行政部〔執行府〕に与えざるをえなかったばかりでなく、同時に、彼らじしんの議会的根城――国民議会――から、行政部にたいするいっさいの自分の防衛手段を、一つずつハク奪せざるをえなかった。ルイ・ボナパルトその人に具現されている行政部は、彼らを締め出した。「秩序党」共和政治の当然の子孫は、第二帝国であった。」
 しかし、これだけなら、マルクスはボナパルト支配自身を分析対象とした『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』を著わしている。それなのに何故『フランスの内乱』なのか? それはコミューンの教訓を引き継ごうとしているからに他ならない。
「コミューンは、議院的の集団ではなくて、執行部にして同時に立法部たる行動的の集団であった。」と。
 さらに、「発意権〔発議権〕」について、
「ただに、市の行政ばかりでなく、これまで国家によって行使せられていたいっさいの発意権〔発議権〕は、コミューンの掌中におかれていた。」と、提起されている。
 また「コミューンがこれを発展させる時間をもたなかったところの全国的組織の略図」に関しては、次のように述べる。
「各地方の農村コミューンは、中心都市における代表者の会議によって彼らの共同事務を処理し、そしてこれらの地方会議はまた、パリにおける全国代表機関に代議員会をおくり、各代議員は、なん時たりとも解任することができ、その選挙民の正式の訓令によって拘束されているものであった。」
「国民の統一は破壊されるのではなくて、反対に、コミューン憲法〔制度〕によって組織されるべきものであり、国民じたいからは独立し優越した――そのじつ、国民の寄生的なゼイ肉にすぎなかったところの――かの統一の具現であると主張する国家権力の破壊によって実現さるべきものであった。旧政府権力のたんなる抑圧的な器官は切り去らるべきものだったが、その正当な機能は、社会にたいして優越の地位を横領している強権からこれを奪いとり、社会の責任ある機関の手にかえさるべきものだった。」
(引用は新潮社版『選集』山川均訳、〔 〕内の別訳は国民文庫・村田陽一訳)

 さらに、『国家と革命』のなかでのレーニンの中央集権制度の理解について注意を促しておこう。ベルンシュタインが『社会主義の前提と社会民主党の任務』で、マルクスのコミューン論をプルードンと同じ連邦主義だと批判したのに反論した箇所である。周知のようにベルンシュタインは、マルクスの弟子であったが、国家論についてはマルクスよりもラサールが正しいとして、国家社会主義者ラサールの使徒に転じていた。そうしたベルンシュタインがマルクスのコミューン論を批判するのはある意味当然のことであるが、「改良主義者」ベルンシュタインの批判者として登場するレーニンのその批判は、コミューンの「連合」の意味を掴み損ない、ベルンシュタイン同様の中央集権主義となってしまっている。レーニンの言う「自発的な中央集権制度、コミューンの国家への自発的な統合、ブルジョア支配とブルジョア国家機構の破壊をめざすプロレタリア的コミューンの自発的融合」とは、「自律の外観をとった他律」から自律の外観さえもうばれていくものとして、その末路を我々はすでに歴史的経験として持っている。

 さて、もう一つ、滝口の草稿を紹介しよう。『ヨハン・モスト原著『資本と労働――カール・マルクス著『資本論』のやさしいダイジェスト』のマルクス校閲「改訂第二版」より』としたノートにおいて、「この……「むすび」には……注目すべき箇所が三つある」として「人民の自治」に注意を促す。すなわち、第一に「自由な労働者たちの連合体」というモストの表現をマルクスが容認していること、第二に「資本主義的生産様式」の生みだす「否定」をモストは「社会的生産様式」と書いていたが、マルクスはそれを「協同組合的生産様式」と書き変えたことを挙げた後に、「人民の自治」について述べる。

    ***

第三。モストが当然にも「けれども確実なことは、人民は、その社会的な新生を実行に移す以前に、必ず政治権力を完全に掌握していなければならないということである。」と言い、それにすぐ続けているこの「権力掌握」の性格についてのモストの文章のうち、マルクスは次のごとく、「人民による直接の立法」を「人民の自治」に改訂し、その自治に傍点をも付していること。
 「それはまたこの権力掌握は、万人が自由な投票権・選挙権をもつ、ということにあるだけでよいわけがない。というのは、「一般選挙権にもとづく自由な国家」の「自由」なるものは、ボナパルティストの手先やプロシャ政府の手先が、だまされやすいお人好しをつかまえるために撤き散らすおとりの餌にすぎないからである。むしろ、人民による直接の立法が打ち勝たなければならない。」(文中に挿入された滝口による注記は略した。)
 この最後の一文のマルクスによる改訂は、次のとおりである。
 「人民が支配されている状態に代わって、人民の自治が現われるのでなければならない。」
 このマルクスの校閲の『改訂第二版』は、一九八四年一二月に、西ドイツで発見された、マルクスの誤植訂正の自筆の書き入れがある自用本の翻刻版である。これに「コメンタール〔解題〕」を書いたヴィンフリート・シュヴァルツ(一九四八年生まれ。一九六七年フランクフルトのゲーテ大学に入学し、学生運動のなかでマルクスに遭遇した、という〔「訳者解説」〕。一九六八年の「フランスの五月」――学生デモから労働者のゼネストへの「五月危機」――が拡大するなかで西ドイツの学生であった世代であり、その主著の邦訳に『資本論体系成立史』〔法政大学出版局〕がある)は、モストの「むすび」について次のように言う。――「ここではマルクスは、モストの政治的な叙述に、ひとつだけ手を入れることにした。すなわち彼は、「直接の立法」のかわりに、人民の一般的な「自治」と書いているのである。マルクスはこれによって、読者がすでにご存じの、モストがのちに信奉した無政府主義のための論拠を述べているのではけっしてない。そうではなくて、おそらくマルクスは、このように書き換えることによって、政治権力の行使の一定の形態――そして法律形態は政治権力のより立ち入った一規定である――のどのような先取りをも避けようとしたのであろう。モストはまずは正当に、社会主義への移行のあり方については具体化することを控えていたのである。」、と。
 これは、全くの見当ちがいといわなければならない。この自治に傍点の付された「人民の自治」こそは、「人民が支配されている状態に代わって、人民の自治が現われるのでなければならない」というマルクスの改訂文を、モストの原文「人民による直接の立法が打ち勝たなければならない」と対比すれば非常によくわかるのだが、マルクスの意味内容を本気で問題にすれば、真剣につかもうとすれば、明らかなことだが、単に「立法」だけではなく〈行政〉権をも獲得=「掌握」しなければならないこと、すなわち『ゴータ綱領批判』がいう「国家を社会の上位にある機関〔これは明らかに「政府機関」である意味の「国家」を言っているのだ〕から社会に完全に従属する機関に変える」――「のでなければならない」こと、つまり『フランスの内乱』に示された「位階制的任命」をなくすまでに貫徹する「即座に解任できる」までの普通選挙権で議員も官吏も選ばれる、立法権のみならず行政権をも掌握した「同時に執行し立法する行動的機関」であり「生産者の自治」である〈コミューン〉が、「現われなければならぬこと、言い換えれば、政府形態を述べないどころか、モストがなお「議会的共和制」の「政府形態」の最良のものに止まっているのに対して、マルクスは、それでは「社会的な新生を実行に移す」ことはできないのだとして、まさに「コミューン制」の「政治形態」を適確にかつ平易に示しているのである。だからシュヴァルツは、マルクスがモストの「社会的生産様式」を「協同組合的生産様式」に改訂していることに、このパリ・コミューンの最も深い所から発した「社会的な新生の実行」に着手する動きの示すものに、何の関心も示さずに、「ひとつだけ」ではなくこれにも「手を入れること」をしているのも忘れるほどに、この「むすび」を理解できなかった、理解しようとしなかった『資本論』の研究者に止まっている――これは残念なことである。

(『著作集』未収録)

【補注】
 この考察の延長上に、絶対主権として成立した主権国家が国民国家へと推展する中での、権力の分立、立法権と執行権に関する総括的結論が導かれ、その一部が、「近代国家と現代宗教」の中に表現されている。

    ***

 近代国家の中央集権的な国家権力は、絶対君主制の時代に始まる。西ヨーロッパの中世の、歴史的諸共同体、すなわち村落共同体や都市は、それぞれ独自の地方的法制をもった、多くの独立的な諸権力の下に、すなわち、封建的諸侯や都市や聖職者の個別諸領主権の下に統治されている。そこには、商品交換がしだいに力を強めて広がりつつある。その外部から上部から、一つの王権が、それらの個別諸権力の独立性を奪ってその上にたつ、絶対的主権となることをめざして、降り立って、絶対君主制となる(いわゆる主権国家の成立)。
 ここに成立する権力が、絶対的で永続的(恒久的)な、最高独立性をもつ、国家の権力として、「主権」と名づけられた。相争う中世的諸権力を征服的に武力制圧して統一するものとして、その外から上から降りてくるこの権力は一人の生ける個人(君主)が統一意志を代表し、その意志を立法権が法律に表現し、その中央集権化された軍隊(常備軍)と官僚制という組織された力がその統一の具現として、社会の外部に独立化されている目にみえる姿で現われる。こうして、中央集権的国家権力が始まった。
 国民国家をうちたてて国民的統一を成しとげる革命は、この「主権」を、この社会の外部に独立していて、その上部から分裂している社会を統一しているのだとしていた、この主権をどうしたのか。君主の権力として統合されていたこの「主権」は根本的には、次のように分解された。君主主権を打倒し国民主権を樹立するということは、最高独立性をもつ君主の意志、君主のこの主権たる意志を否定して、その意志を法律に表現する立法権を廃止し、同時に、国民の意志、その一般的意志を、主権たる意志だとして、その国民の選挙権の発現する一般的意志(普通選挙権への歩みは長年月を要したが、はじめの制限選挙権も国民の意志の発現とみなされる)を法律に表現する議会(国民議会)を設立しそれを立法の最高機関とすること。こうして、主権とは、まずもって国民の一般的意志とされた(国民の一般的意志としての主権―選挙権―議会)。だがしかしである。国家の権力としての、すなわち組織された力としての、主権は、軍隊と官僚制の中央集権的国家権力は依然として絶えず発達させられるものとなった(近代的国家権力としての主権――だからこれは、正確にすべきことに、立法権力と区別される執行権力すなわち、行政権力および、司法権力である)。このことは、近代国家が、次のような構造をもつものとして成立していることを示す。主権である国民の一般的意志は普通選挙権の発動して表現され議会がそれを法律にたかめる。
 だが、国民の統一は、その国民自身の外部に独立化されている組織されている力(軍事的官僚的司法的な厳格に中央集権化された統治機構、すなわち軍隊と官僚制)に具現化されていて、それが国民の外部の権威として、外部からの権力の命令として、統一を強制しているのだ、ということである。かくしてその統一は、国民の国民自身による統一である、自治市・町・村の自由な総連合が国民的に統一する全国的自治とは異なってそれと正反対の、天上から政治的に組織された力が地上に降りてきの、地上の支配となっている(国民の自律の外観をもった国民への他律である近代国家)。

(『著作集第三巻』四六五頁〜四六六頁)

【補注】
 中央集権的国家権力――官僚・司法・軍隊による国民統合――と、自治市・町・村の自由な総連合による国民的統一とは対立するのである。
 それは、「賃労働廃止労働連盟(アソシエーション)綱領案」の注10において「近代国家は、君主の絶対的主権として生みだされる近代的国家権力によって、上から、外から、伝統的諸共同体を征服的に統合することに始まる。したがって、この近代国家そのものの革命とは、これらの諸共同体が自立的自治共同体として立ち上がり、それら自身による自由な連合としての新たな国民的統一をなしとげること、にほかならない。」と宣言されている。以下、この「綱領案」の該当箇所を示す。

    ***

 近代国家はあい補って一体をなしている二つの形態、すなわち執行府形態と議会形態をもっている。その双方に対する革命的改造として、その執行府からは国民抑圧の機能はきっぱりと消し去りつつ、その国民共同の機能は議会そのものが引き継ぎ、この議会は、国民代表を選び、かつ現実に罷免できる権利となった普通選挙権の発現する、真実の国民代表機関に鍛えあげ、かくして、現実に主権である国民の総意(注7)の明確に表現された行為となった、生産者の自治、われわれはこの自治を推し進めなければならない(注8)。そしてこの自治の主要な推進力、それは、働く階級、すなわち、賃金労働という奴隷化した労働によってやっと生活することを許されている階級の団結によって初めて発現する意志の力、力となった意志にほかならない。
 軍隊そのものが、かの国民抑圧と、国民共同の強権支配を許さずそれに抵抗するもの―抵抗権の表現―として、二つの機能、二つの側面をもち、その治安出動のような側面は国民自身が自分たちで行なうということとして、国民自身が、上からの抑圧、外には侵略=征服という強権に抵抗して自分たちを守るために総武装するということである。生産者の自治は、この軍隊の廃止と共に進む。
 工場や土地が軍隊を廃止して自分たち自身で自分たちを防衛して自治する、共同体とその自由な(注9)総連合(注10)で結びついたすべての人々の共同所有(協同社会的所有)に移っていくや、その工場や土地は、そこで働く人々の協同組合の共同的占有(注11)となって、そこでは、自由で協同した労働が展開されることになる。この協同組合は連合を進めて、やがて社会の総生産をこの連合がとりしきるようになる。
 生産がこのように協同組合的になるとともに、住居も、すべての者が占有および用益の権利をもつようになる。こうして初めて、自由権は、労働そのものにおいても、自由な(注12)労働の復活として現れ、生存権は、この自由な自己の労働による生存権として、「働く権利」が初めて真実なものとなり、居住の自由においては、住居保証のある居住権として確立される。
 本来、自由権はそのまま生存権であって、各人が自由であれば、自分の生命の力を自由に発揮する自分の労働の成果は当然自分のもの(所有)となり(注13)、この自分の労働によって自分の生存を自分で保証している(注14)。つまり、各人は自由であれば生存できる。
 だが、賃労働が前提となれば、各人の自由において、一方に富裕な少数者(所有者)の労働しない生存確保、他方に困窮した多数者(労働者)の労働が強制されての生存不安となる(注15)。こうして自由権と生存権の幸せな一致は分裂する。これが近代社会であり、それが今日では賃金奴隷の支配も賃金奴隷がおこなう(注16)までになり、他方、自由な所有者は遊びを専門にするまでになる。
 そこで、賃金労働の廃止とは、各人が自分の自由な意志で結び付いた結社、その結社による、他人の意志の権力の下に立たない、自分たちの自由な共同意志にもとづく、自由な協同労働の成果は、当然自分たちのもの(所有)となる――すなわち、その共同体の維持に必要なものはその共同体に確保され、その各人の生活に必要なものは、その個人に確保される(注17)ということにほかならない。自分たちの労働によって自分たちの生存を自分たちで保証しているのである。かくして、再び、各人が自由であれば生存できる、ということになる。自由権と生存権の統一の復活! 各人の強制された結びつきである旧い共同体(注18)に代わる各人の自由な結びつきである新たな共同体(注19)、そこでの自由な協同労働によって。
 だから、この新社会(アソシエーション)の出現とともに、科学・技術の性格があたかも自然史的過程であるかのように変化して、自然と人間の豊饒性の破壊による荒廃からのその再生と発展のための、この人間的社会または社会的人類(注20)のための、新たな科学・技術となり、かくして、近代文明の野蛮性は廃絶されてゆくのである。

 7国民の一般的意志。
 8国家から国民=人民への主権の奪還。
 9自由:外からの強権によらない、自分たちの自由意志による。
 10近代国家は、君主の絶対的主権として生みだされる近代的国家権力によって、上から、外から、伝統的諸共同体を征服的に統合することに始まる。したがって、この近代国家そのものの革命とは、これらの諸共同体が自立的自治共同体として立ち上がり、それら自身による自由な連合としての新たな国民的統一をなしとげること、にほかならない。
 11それを自分たちで事実として支配する。
 12自由:他人の意志の権力の下に支配されない。
 13土地と労働用具が自分の占有であるという条件だけで。
 14「自分の労働に立脚する私的所有」といわれること。ジョン・ロックの「生命、自由、財産を総称して、私は所有と名付ける」とは、これである。
 15「労働と所有の分離」といわれること。
 16経営者や官僚として。
 17「個体的=個人的所有の再建」とされること。
 18「イエ(家)―マチ(町)―ムラ(村)」すなわち近代的国家権力の基盤にされている――その不自由な――地方自治体から企業体すなわち株式会社までの旧社会。
 19各人の自由な連合と自由な協同労働の成立ゆえにの性や人種やのあらゆる差別ない新社会。
 20社会的人類:社会そのものが人間的となり、人間そのものが人類的規模で社会的となる

 ここでの「生産者」とは、労働者(注25)、および農民、商工業者、それに独立して精神的生産をおこなう者などであり、それらの家族である。階級として言えば、他人の労働によって生活していないすべての社会諸階級である。
 ここでの「統治能力」とは、他人を統治する能力ではなくて自分自身を統治する能力であり、したがって、自治能力である。だからこの能力は単なる専門的な統治技術などでは全くない。特殊な専門家はなお必要であるが、自分たちの活動に必要なそういう人たちを自分たちの直接、間接の選挙によって配置しようとするのが自治の動向である。位階制的任命制をもつ中央集権制は特殊な専門家たちの分業の体系であり、これは他人を統治する権力であることを証明する本質的な特徴であって、他人の統治はこれを必要とし、かつ不可避にもする。
 これと矛盾して、自分たち自身の統治、すなわち自治は自分たちの活動を自分たちの選んだ指揮者の指揮のみにしたがって展開しようとする。自分たちの直接、間接の選挙によって、いわゆる人材の適材適所な配置。これと位階制的任命制の中央集権的官僚制とは、まっこうから矛盾する。こうして生産者の自治と中央集権的国家権力とは、この矛盾を展開していかざるをえないのであり、自治能力は、この矛盾に鍛えぬかれて、はじめて育つ。
 近代的国家権力は、民主主義国家であろうとむきだしのファシズム国家であろうと、この中央集権を絶えず発達させている。この中央集権国家権力が人権を制圧するファシズムとスターリン主義を許さず、人権の飛躍的発展を実現させてゆくためには、この中央集権を廃絶する自分たちの能力を鍛えあげなければならないというわけにそもそもなっている(注26)。
 そして、しっかりと注目し、把握しなければならないことは、他人に対する統治であるこの中央集権的国家権力の敵対的性格が、すでに党の内部で生みだされており、相互に原因となり結果となって、この党内で生産され再生産されて絶えず発達し、その究極的形態、むきだしの形態を我々はスターリン主義党とナチス党に見るということである。二〇世紀の労働者運動の世界史的挫折の主な原因は、その党内に自治を育てず、反対に他人に対する統治の性格の中央集権を育てあげて、遂にはそれを究極的形態で現した、ということにある。

(『著作集第三巻』四七一頁〜四七四頁)

【終わりに】
 主権をフランス革命さらには絶対王政にまでさかのぼって「概念的に把握する」ということは主権としての国権の〈生成―発展―没落(消滅)〉の道すじを見通すことであった。

 八・三〇によって、「改革」は間違いなく新しいステージに入った。これは二大政党制時代の政権交代の第一幕にすぎないのか? もし、明治維新以後一四〇年の三回目の「大改革」ならば、単に民主・自民の二大政党対立時代の開始であるわけがない。
 明治維新はブルジョアたちの政治的未成熟の故に下級武士による代行的革命にならざるを得なかったが、一八六八年の「王政復古の大号令」から幾つもの政変を経ながら、一八九〇年(明治二三年)の帝国憲法施行・第一回帝国議会開会にたどり着くまで二二年の過程を必要とした。
 戦後改革もまた一九四五年のポツダム宣言受諾から四七年の新憲法施行、五〇年の朝鮮戦争を横目に見ながらの警察予備隊(自衛隊へ)の発足、五二年のサンフランシスコ条約の発効による日本の独立として、戦後国家の制度的輪郭が定まるのに七年を費やし、自・社対立という政党再編成が一つの均衡点に達し、生産性本部が発足する五五年まででいえば一〇年である。
 家政の彼方に組織された国家予算の内幕が家政の現場たる茶の間に中継される、劇場型の情報公開――可視化。そしてすでに始まっている「裁判員制度」を突破口にした検察・警察の可視化。続けての課題は法案作成過程の官僚組織からの開放として議院法制局への「民間参加」――議員立法からさらに市民立法へ。
〈ペレストロイカはグラスノスチで始まった。〉そしてペレストロイカは単なる「改革(ペレストロイカ)」で終わることはなかった。連邦の終焉にまで帰結したのだ。
 「地域主権」が多義的なのも「コミューン」と同様である。そして、「まったく新しい歴史的創造物」が、それにいくらか似ているように思われる「過去の諸形態」に比喩されるのも歴史の常である。地方分権としての道州制論者も今のところはこの「地域主権推進」の同伴者である。しかし上からの分権としての道州制と下からの連合としての「道州」(広域自治体連合)は、同床異夢であろう。さまざまな利害集団が自分の都合のいいように解釈し、都合のいいように推進するだろう。それは一個の闘争である。
 民主党の「地域主権」に言う「地域」とは、おおむね生活圏とされる基礎自治体であり、「生活第一」のスローガンに示されるように生産者視点ではなくて生活者視点のものである。ましてやコミューンの核心としての「協同組合的生産」については、われわれの独自領域として残されている。
 「生産者視点」への多くの人びとの反発の根拠は、第一には。、労働組合が大企業の企業内労働組合の利害の擁護者としての限界を破ることが出来ず、その社会的権威を喪失していること、また農民・漁民も組織された流通協同組合が金融化しつつ既得権益団体と化していることにあるであろう。さらに第二には、日本全体が先進国として、「金融経済化」して「寄生性」を強めていることもある。
だからこそ「利子生活」ではない、生産者の協同が国際的連帯(排外主義反対)を大切にして模索されなければならない。
 課題は提起され解答もすでに明らかだ。しかしそれは、表明されるだけでは終わらない解答である。
(2009年11月)