解放派の組織建設史
  ――共産主義者通信委員会(KTC)から革労協結成まで
    KTC50年を記念して  霧山 衛


まえがき

 解放派はプロレタリア革命の主体としての革命党を前衛党(共産主義者の党)ではなくて、労働者が階級として行動する党、革命的労働者党として性格付けてきた。それは、「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業」という基底的原則の必然的帰結である。その上で、共産主義者の前衛的役割を、労働者階級の階級形成の媒介者としたが、それは、労働者階級に代わる主体なのではない。
 マルクスは言っている。
「所有階級の集合的勢力との闘争において、プロレタリアートは、その勢力を独立の政党に組織し、所有階級によってつくられたあらゆる旧政党と対抗することにより、はじめて、一階級として行動することができる政党というようなプロレタリアートの組織は、社会革命の勝利を達成するために、とりわけ、その究極目標たる階級の廃止をなしとげるために、なくてはならぬものである。産業の戦野ですでに達成された労働者階級の諸勢力の団結は、搾取者の政治的権力との闘争の際に、労働者階級の手中にある梃子として役立たなければならない。土地と資本の貴族は、彼らの経済的独占を永続化し、擁護するためにまた、労働を奴隷化するためにいつも、彼らの政治的特権を利用する。それゆえ、政治権力の獲得が、プロレタリアの主要義務となるのである。」(第一インターナショナルの規約第七条にとり入れられたハーグ大会の決議)
「共産主義者はそのほかのプロレタリア党と次の点で全く同じである。すなわち、プロレタリアートの階級への形成、ブルジョアジーの支配の打倒、プロレタリアートによる政治権力の獲得」(『共産党宣言』)
 このレーニン外部注入論批判の上に立った組織論は、当時、「組織論」といえばレーニンしか知らない者たちからは、「解放派には組織論がない」というレッテルとともに、ほとんど無理解で迎えられた。それは「帝国主義論」についても同様である。かつてはそれほどにレーニンの呪縛は強かったのである。
 『解放6号』では、「可能で唯一の正しい党建設の道」として、「それは日本社会党の内部に、共産主義=革命的マルクス主義の徹底的な純化をめざす公然たる組織的な分派の形成から始めるべきであるということだ」とされていた。解放派の組織建設過程とは、ある意味ではこの実践過程である。
 しかし、原理と現実は一つではない。「現実のなかではきわめて凹凸のある過程を辿る」ものである。しかし、この文章では、組織建設の大きな道筋を述べることを役割として、細部にわたる議論は今後の課題としたい。
〔註 解放派の組織建設過程を示す諸論稿は、大半が、滝口弘人の手によっており、その限りでは『滝口著作集』にレジュメ類を除いて全て公表されているが、背景説明がない、テーマ別ではなくて時代順に配置・編集されていることから、その流れを読み取るのは必ずしも容易とはいえない。
 ここでは、組織建設の流れに重点を置いて要約し、「通信」類も必要に応じて「資料」として掲げたいと思う。
 戦後階級闘争史を振り返りつつ、我々の歩みを振り返った論文として、滝口弘人「われわれの問題追求史――階級闘争の開示した問題との関係で」(初出一九七八年機関紙『解放』二〇六号(一月一日・十五日合併号)上、二一〇号(三月十五日)中、二一一号(四月一日・十五日合併号)下、まとめて機関誌『解放』bXに収録、改題して『滝口著作集B』所収)がある。今日の時点からしてそれに代るものを書いたとしても、屋上屋を重ねるようなものである。この文章では、当時の文書を基に、組織建設の具体的過程を述べていくが、その時代背景を描くにあたって、この論文を用いている。《 》で、表示。〕

(一) 六十年安保闘争前後

 政治潮流としてのいわゆる「解放派」の始点が、『解放6号』(通称、ナンバー・シックス)であることは、いうまでもない。ただその時代背景には、一九五八年頃の時代の転換がある。それは何よりも「新左翼」の登場に示されている。前掲論文は、一九五八年という時点から六〇年安保までの時代と出発点的問題意識をこう述べている。
《こうしたなかで、一九五八年は戦後日本の〈政治的独立〉に続いて成立した日本における〈秩序党〉=自民党の独裁に対する階級闘争の公然たる衝突の開始の年となった。このようなものとして同時に六〇年安保改定阻止闘争の始まりとなった。すでに五七年の春闘の中で、三・二五闘争のうちに胚胎していたものの継続としての国鉄新潟闘争(七月)は「藤村斡旋案」によって収束され、同年秋には日共が「党章草案」を発表して、「新綱領」以降労働者の階級闘争の波打際にたたきあげられている状態に何とか手直しをはかろうとしはじめていたが、総評主流(太田・岩井派)の春闘を中心とした産業別賃金闘争にその反主流(高野派)の地域闘争路線が相互作用して、激烈な勤評闘争から、〈国民会議〉という組織形態を生みだした警職法闘争(一〇月七日警職法改正案緊急提出、一一・五闘争、一一月二〇日岸・鈴木会談による審議未了の合意)へ、そして、九月に始った日米安保改定交渉、中国の陳毅声明とソ連のグロムイコ声明(「中立」の呼びかけ)、安保国民会議の結成へ。
 授業料値上げ反対闘争で緒につき、教育三法、ゲリマンダー反対闘争で再建された全学連は、憲法擁護か原水禁かの若干の議論があったが、原水禁に集中して(第一回原水禁世界大会)、砂川闘争に押し上げたが、その五六年末「反米帝」を強調する主流派に対する「反独占」を主張したトリアッチ主義的な反主流派が芽生える。国鉄運賃値上げ反対、学生定期割引き率引下げ反対に若干とりくんだのち、「平和擁護闘争の第一義的任務」を強調して、ふたたび原水爆禁止をかかげ、五七年には英クリスマス島核実験反対に集中し、ソ連大陸間弾道弾、さらに人工衛星スプートニク打ち上げを高く評価し、これを背景に米帝を国際的に追いつめるとする――「平和擁護闘争」の極左化とはかかるものである――。この日本の支配階級の支配階級としての問題をふっとばした反米帝闘争主義(他方にトリアッチ主義的反独占主義)の“大衆的学生運動”は、その敵を国内に見出すや、突如として、全学連中央が車の前に身を投げ出す上野道徳講習会阻止闘争(「平和擁護闘争の第一義的任務」の裏側)から、突撃的に勤評闘争へ、そして警職法闘争へ。この中で、六・一事件と日共第七回大会による行動綱領決定を経て学生運動を労働運動の「同盟軍」とするいわゆる同盟軍規定をもっての学生運動の「転換」。反主流に革共同(関西派)の急速な台頭と全学連中央の一時的ヘゲモニー、主流派のブントへの形成とその間の抗争。この一九五八年の学生運動の「転換」は、ブントの学生=小ブルと見なされた学生運動の労働運動に対する「警鐘乱打」的「先駆性」論を特徴とする政治主義と四トロの学生=産業予備軍とみなされた就職闘争を特徴とする経済主義という二つの類型が現われたが、これらに対するわれわれの批判としての、学生を労働力の再生産過程にますます組み込まれつつあるものとして分析し把握して、これに基いて労働者階級の闘争の一環として学生運動の質的転換を推進。
 このようにして一九五八年に、アメリカ帝国主義は際だった優位に立った。しかし第二次世界大戦後の資本主義工業諸国の相互対立がすでにはじまっているなかでのヨーロッパにおけるNATOの成立、朝鮮戦争の中での五二年四月二八日の講和、安保両条約の発効をもってする戦後日本のブルジョア的〈政治的独立〉、労働者階級人民の増大する反抗を抑圧するための五五年二月の日本の支配階級のあらゆる政治上の諸分派の連合した議会制階級独裁たる〈秩序党〉の独裁の成立(保守合同、自民党の成立)の下で、帝国主義ブルジョアジーとして発達する戦後日本ブルジョアジーが勤評、警職法から安保制定への過程に突入し、ここにおいて対抗するべきまさに日本における階級闘争が問題になっていたのである。
 われわれは、第一に、綱領の本質的性格はとりわけその国際性に示されるが、日共の「新綱領」「党章草案」へとあらわれた講座派の綱領的性格の集中的表現をその〈「平和勢力」〉論において、左社の「向坂綱領」としてあらわれた労農派の綱領的性格の集中的表現をその〈「第三勢力」〉論においてつかみ、その「平和勢力」論と「第三勢力」論の古い二つの典型の批判的突破を、現代世界の基本矛盾を世界的な階級矛盾において、両体制の対立をこの世界的な階級矛盾の転化形態においてつかみ、この現実の衝突を意識して闘いぬくべきこと、ここにおいてこれは同時に「新左翼」としてあらわれた「労働者国家無条件擁護」、「反帝・反スタ」の新しい二つの典型の批判的揚棄として推進されるべきで、第二に、学生を現実に進行する階級矛盾において今日的にとらえなおし、「小ブル」論や「産業予備軍」説などの非現実的な見解に反対して、学生を現代資本主義における労働者の生産・再生産過程にますますくみ込まれつつあるものとして、その根底に反省しつつ学生戦線においても階級闘争を組織して闘わねばならぬこと、そして第三に、日米安保の改定を単なる従属論や自立論やその組み合わせでしかみることのできない「反共軍事同盟」論や「帝国主義同盟」的見解に反対して、これを国際反革命階級同盟の再編強化としてつかみ、まさに階級闘争としての対抗が課題となっているのだということ――このことを押しだし、社青同の創成期に突入した。
 勤評闘争の中で、日本学生運動の転換点に立って、「新綱領」をひきずりながら第七回党大会に向っている日共とそれに対する左社綱領をぼかしながらの統一社会党左派を見つめて自己の実践の原理を反省しつつ、党派的綱領的指導原理(指針)をつかみとり、うちたてること、綱領的基礎に根ざしている欠陥が当時の全学連に一般化している情勢分析における客観主義と方針における主観主義としてあらわれ、その突破のためには、情勢分析は自己の実践の根底(原理)を現在的に明らかにすべきものであり、学生運動は学生自身の本質的な把握をふまえて原則的に実践しなければならぬこと、そしてこの党派的綱領的根底は、日本労働者運動の明らさまとなった原則綱領的対立のなかで、日共綱領の本質的特徴を示す「平和勢力」輪への批判において同時に左社綱領の本質的特徴を示す「第三勢力」論を止揚するものこそプロレタリアートの世界的結合であるということ、これは一方では日米同盟を階級同盟として把握する情勢分析において、他方、生けるプロレタリア運動に対立するあらゆる党派主義の死滅の基礎づけとして、また学生運動の転換はそれに基礎づけられなければならぬものとして、示唆され押しだされた。こうして三池闘争が決戦に向かい東京地評は二十余の争議団をかかえ安保闘争に突入した五九年には、夏の全学連大会において、秋の東京青学共闘結成において、日米階級同盟の再編強化に抗する階級の闘争の組織化の路線を突きだしながら、労学両戦線での社青同の結成をその最先端を切り拓き推進しつつ、韓国における李承晩打倒の闘いと相互作用した六・一五を貫徹する安保闘争のプロレタリア的最左翼として自らを形成していった。》

 そして、さらに安保の総括としての『解放6号』から、我々の組織的端緒までの叙述を続ける。
《一九六〇年の六月闘争とその敗北は、日本の支配階級である日本ブルジョアジーの帝国主義的独裁が、台頭せんとする日本とアジアのプロレタリアートに対抗するためには、アメリカによる日本防衛の義務を確認した国際反革命階級同盟を自ら求めこれを手に入れたということ、そしてこの台頭せんとするプロレタリアートを真の敵としてこそ、支配階級は国家独占資本主義的諸方策を展開するのだし今日のあらゆる政治的反動が進行せしめられるのだということ、労働者階級が政治的統治能力の獲得に遅れをとった階級対立は浅沼刺殺の白色テロの向うにファシズムが不可避となること。有産階級の政治の政治的尻尾にいかに深く身をおとしているか、それから決裂し自立する労働者自身の団結がいかに大切になっているか、この問題を労働者自身に突きつけた。この問題との徹底的な格闘を、多かれ少なかれ社会民主主義的な、社会党青年部活動家、総評民同影響下の青年部活動家、新たな戦闘的労働者が主な構成員となって六〇年一〇月に正式結成された全国社青同において、われわれは貫き通してゆくのである。スターリン主義と社会民主主義等種々の小ブルジョア社会主義からの労働者の革命的自立、労働者階級の独立した党のための最も断固たる推進力を結集しつつ。
 安保闘争の根底的総括をプロレタリア解放の展望としてつかみとるための『解放bU』―『共産主義=革命的マルクス主義を奪還するための闘争宣言(草案)』は、三つの条件によって成立した。病院闘争、研究会「プロレタリア解放闘争の歴史的教訓」、社青同班、の三つである。青年労働者が主力となっている社青同の支部の班が、安保闘争が作用して急速に拡大しつつ日共がなお指導権をもっている病院闘争にとりくみ、また別に「プロレタリア解放闘争の歴史的教訓」を主題とした世界の革命闘争史の研究会をおこない、その行動と討論を通じて自分たちを組織的に形成しつつ、全国社青同について発言する。このようにして『解放bU』は社会主義青年同盟の班―支部が生産したものである。看護婦労働者の職場(病院という工場)での闘いの中からの共産主義の〈理論〉にとって前提的な人間的主体としての出発、目前にするその発展を了解しその十分な原因の認識をもって、科学となってそれに結びつく理論(独立の主体である現実的諸主体たる労働者――単なる労働の担い手、ブルジョア経済学の「労働する家畜」ではない、経済学批判の「人間としての労働者」――の述語である意識としてその理論的階級意識となる)、労働者の組織での行動と討論を通じてのいっそう高い洞察への到達――これがレーニン主義への根底的批判へとわれわれを導いた。
 六〇年秋、安保闘争の中からの階級対立に憤慨した白色テロが浅沼稲次郎を暗殺(刺殺)したとき、これが労働者階級に向けられた刃であるにもかかわらず日本社会党は政治的ゼネストの組織化に何らとりくむことなく構改(「構造的改良」=「構造改革」)論争にのめり込んだが、「所得倍増」をかかげて階級対立を隠蔽せんとした池田の自民党政府は、その白色テロを六一年には三度にわたる政暴法のもちだしに結びつけた。韓国での朴クーデターは日本の支配階級のこの動きを強め、憲法改悪の野望をまたもや惹起するように作用した。台頭する西ドイツとEECの強化、日本の再興、国際反革命階級同盟の再編、そのなかでのソ連の五〇メガトン核実験は、プロレタリアートの国際的な団結というまさに追求すべき焦点から階級をそらす反動的なものとして炸烈した。こうしたなかで、まさに階級闘争である政治闘争の推進がますます課題となっており、われわれが社青同の組織的変革を通じてこれを追求しているときに、安保全学連を宮廷革命的に乗取り、学生運動を宗派的に分断したマル同は、「米ソ核実験反対」の名において、「革命闘争」でも「あらゆる階級闘争は政治闘争である」ような政治闘争でもない「政治闘争」なるものを追求して、そこに階級運動に対する宗派運動の対立という秘密をかかえていたのである。
 憲法公聴会阻止闘争が、社青同を最初の、そして推進的な組織者として、六二年の春―仙台、夏―名古屋、秋―中央(東京)の公聴会阻止闘争として展開されるなかで、社青同全国学生班協議会と全国の強力な地本との結合が飛躍的に強化され、この中から、この年末―年初には共産主義的前衛として自らを形成する〈共産主義者通信委員会〉が生まれでた。アメリカのキューバ侵攻と中ソ論争の公然化に注目しつつ生まれでたこの組織が、プロレタリア革命の世界性、永続性、暴力性、現在性をプロレタリアートの階級形成において掘りさげつつ、労働者階級の外部に存在して外部から働きかける組織ではなく、この階級の内部に存在してその最も断乎たる推進力たり洞察力たる部分として自らを鍛えてゆく部分として、社青同と社会党の分派組織とその闘争の組織者となってゆく。》

(二) 六二年一二月共産主義者通信委員会結成

 われわれが、はじめて組織的端緒についたものとして、「共産主義者通信委員会」(略称:KTC、通称:「学校」)を結成したのは、一九六二年一二月であったが、その出発に当たっては、議論があり、試行錯誤もあった。
 前衛党建設であれば、正しい綱領とそれを信奉する少数者で、党建設の緒につくことは出来る。しかし、その道を批判した労働者党建設路線とは、「団結―闘争ー意識の変化(団結の変化)―再団結」の過程を組織建設の基礎にすえつけるということである。
 近年、滝口の「前衛―党―大衆」論についての一知半解から、「党と区別して前衛組織を立てるのはおかしい」とか、「(エリート集団としての前衛組織ではなく、)大衆的前衛党建設であるべきだ」という議論が繰り返し噴出した。これは理論的な無知であるばかりではなく、実践的な過程にも目を瞑るものである。「レーニン外部注入論批判」として知られた『解放6号』に思想的に共鳴し、その方向性を軸にしながら結集を始めた青年・学生、しかしそこで展開されていた「労働者が階級として行動する組織」への端緒をいまだ把むまでにはいたっていない段階で、自らををいかに組織づけて出発するのか、その過渡期をいかに位置づけるかが最初にぶつかった実践的試練であった。
 二つの道があった(と、「通信2号」は言っている)。
「3……
 ここで簡単に社青同学協をみておこう。
 一九六一年五月『解放』六号がでたが、それ以後党建設をいつも見つめていた。学生から党建設を出発させることは誤りであり、その中から発生しながらも直接プロレタリア解放闘争に生涯を結びつける人達を意識的につくり出し、そうした淘汰に生き残った部分と直接の労働者とが結合することができるまで、抑えて進んだ。一九六二年には、しかしその具体的な手がかりをつかむべき必要を階級闘争が課した。……
 学生のこの機運に与えるべき方向は二つしかない。原則からいってこの二つのいずれかを選ばなければならず、その中間はない。いずれにしても、前述した一九六二年の情勢は、ただこの機運を抑えるべきではなく、方向を提起すべき時期であることには間違いない。この二つの方向とは、こうである。一つの道は、労働者運動に直接関与している所から出発し、そこを主体として、それに学生のこの機運を従属させるべき道、これは、党建設への道を直接踏み出すことを意味し、その母体、労働者運動内部の一定の結集が可能であることを前提とする道。他の道は、その道と異なった道ではないが、その道(根本的な道)に至るまで、迂回すること。この迂回の原則は、こうでなければならない。即ち、理論家集団、思想家集団と割り切ること。そしてこうしたイデオロギー集団は党建設の萌芽ではなく、また、あり得ないことを明確にし、ただ思想宣伝という媒介物だと位置づけ思想をバラまくこと。したがってそれは党への真直ぐな出発点に立つのではなく(党への出発となるためには、その理論家集団が一度解体され、さきほどの第一の道を通っている部分に思想も変革されつつ吸収される)、迂回することを意味する(これが党への出発だとする従来の考えの否定であることに注意!)。
 原則からいって正しい方向は、この二つあり、この二つしかないこと、として把えた。いっそうはっきりいえば、この二つの方向は、かたちからみれば両極端のようであるが、実は、一つの方向の二つの形態(一つは直接的な、他の一つは間接的、媒介的な)であることはすでにみられたように明らかであろう。
 それにしても、最初ためらいがあった。それは、労働者運動の内部の母体を形成するにはまだ時期が十分熟していないのではないか、ここのところに問題を感じ、ためらいがある以上、第二の道をまずとるべく決心する外にないと滝口は考えた。しかし、この考えは、あまりに「レーニン的」に見え、自分の原則を捨てているかに見え、そこで討論が全く噛み合わなくて、討論を終った。
 そこで、もう一度、第一の道、直接に手をかける道を本格的に調べ、ぶつかって行くより外にない。
4 共産主義者の組織(以下前衛組織と呼ぶ)は、革命の徹底した理論的展望をもったプロレタリア的実践の断乎たる部分である。革命性の徹底した政治的理論の一致と、組織的実践の一致を築けばそれは前衛組織である。それがほんとうの大衆的力をもつかもたないかは階級闘争の歴史が決定する。どれだけの量いれば前衛組織であるかということは問題にならないはずである。前衛組織であるかどうかは量の問題ではなく質の問題である。このことは非常に大切である。どれだけの量で前衛組織に転化するのかと問えば、誰も答えられないはずである。これはいつかは前衛組織に転化するであろう、それまでは別のことをするという例の客観主義者の「量の質への転化」の悪しき理解となろう。
 さて、こうした前衛組織には、まだ確かに達していない。その意味では、まだ過渡期である。
 そういう過渡期は、この実現された前衛組織と同質の、しかし程度の異なるものでなければならない。この実現された前衛組織と異質なことをしていていつかは転化するであろうと考えることはできない。そういう過渡期に我々は一月初旬の会議をもって突入した。まだ実現された前衛組織ではないが、それと同質の過程へ入るという意味でこの日から我々の前衛組織がはじまり、原則的で戦術的な展望を明確にし、それとともにプロレタリア的実践の組織を整備すれば、それが、運動にどの程度強力であるか、どの程度、実際に全国的であるかにかかわりなく一応実現された前衛組織が生産され再生産される。
 そこで、この意味での過渡期の出発はどういうものであったか、またはあるべきであったか。まず理論的には、『解放』六号を直接に踏み絵として出発することも、ただちに「原則的綱領」をふりかざして出発することもできない。なぜならそれは、さきほどのべた厳密な意味での過渡期が不要だということになるから。
 およそ過渡期がなくて、突然あらわれるようなものは現実には存在しない。また、すでにのべたように、過渡期と実現されたものとは異質であるならば、それは他のものへの過渡期ではなくて、過渡にならなくて、それで終って目的に到達しない。したがって、最初の原則も革命の根本的性格と、それを実践する組織的な原則を太い線で最初から一致させており、それをいっそう明確にすればいいような原則でなければならない。こうして、「五つの原則」は、共産主義者がとらえるべき革命の四つの根本的性格、すなわち、革命の@永続的性格、A世界的性格、B暴力的性格、C現在的性格と、それを実践する組織戦術、党建設の道、すなわち、D既成政党の分派闘争を推し進めて革命的に解体する過程が同時に革命党の建設過程であるという原則的な党組織戦術を規定したのである。」

(一九六三年八月「通信」二号、『滝口著作集』@所収)

「W 通信委員会は、出発点においてすでに、単なる社会主義的理論家集団としてではなく、プロレタリア的実践者の組織であるという性格を確保すべきこと。従って、学生等については、組織の最初の体質が大切であるから――共産主義者としては平等であるとしても――、現在の体質に見合った範囲に制限し、現在では正式メンバーに殆ど入れないこと。直接プロレタリア運動にタッチしている部分が常に多数として主軸になっている必要があるということ。
X プロレタリア的実践者としての共産主義者の組織であるから、『解放六号』のようないわば原理を、最初から直接に踏み絵とすることはできない。
 それでは最初の現在における共産主義者の太い原則、それは形式的には、いろいろの各人の原理によって位置づけられようが、その結論においては、結局あれこれのエセ共産主義者ときっばりとした区別を含み、本当の共産主義者の指標となるような原則でまず結集しなければならない。しかし、それはあくまでも、その最初の原則がいかに太い線で任務を際立たせていても、共産主義者の組織としての組織であるためには、その思想性の高さを示す見解が明確でなければならない。
……
Z 組織の公然化は、将来のいつかある日からのこととしてではなく、組織が陰謀組織でなく、巨大な大衆のエネルギーを受けて前進するためには、最初から、できるところから公然化の体制を取るようはかること。
[ 通信委員会が、単なる交流会や学習会でなくはじめから実践的性格をもち、ますますその性格を強化すればするほど、周囲に直接的な衝撃を与え――特に党建設の、太いがそれなりにはっきりした道をもった以上――、内部が秘密であることは、その性格の本性から生じる。
 プロレタリア的実践の革命的任務をはっきり背負おうとする組織は必要な防衛措置をとらなければならぬこと。したがってX、Y、Zは、革命と革命党建設にたえる人間、行動、組織の防衛措置ということが根本的であって、従って位階制ではない。だから、組織内メンバーであるY、Zは能力においても、平等の立場に立ち、ただ事実で証明する一定期間にあるものがYであること(創生期をのぞき全員Yから始める)。――もちろん、組織内メンバーは相互に確認できる一定水準の能力をもたなければ、その考えを認めたというだけで入れることはできない。Xは、組織の体質の確保上、現在あまり多くを明確にできない学生であるとか、能力とか、その他の事情(家庭・職場等)で組織内メンバーとはなし得ないが、しかも、組織名を知り必要な諸通信を交換し、かつ明確に支持を表明する人達であること。」
「X、Y、Zは、スターリン主義的な位階性としてではなく、組織が実践的力をもてばもつほどますます必要となる防衛方法である。」

(同上、『滝口著作集』@所収)

 出発の段階では、東京以外では、▽▽地方が正式の組織であり、それ以外に学生グループや△△地方のブント出身の学生と三池出身の労働者で作られた△△社研が、「通信一号」に現状報告を寄せている。通信委員会の唯一の学生メンバーであった江利生の報告は、今となっては、当時の学生班協の状況を知るのに貴重な資料であろう。(資料1:「全国の同志へ 学生班協議会に於ける活動の報告」)
 この「通信1号」の取り扱いについて、
 @「学協」及び「△△社研」の報告は、Y・Zへ配布。Xへは配布しない。
 A「労働運動の情勢と総評大会」は、X・Y・Z及び学協解放派グループへ配布。
 となっていることに、文中にあるX・Y・Zや未だ分派ではないという「学協解放派グループ」の扱いの実例を見ることができる。

 こうして出発したKTCはここにあるように「秘密組織」であった。この「秘密組織」という組織性格については、マルクスの見解に踏まえた確認がある。

「X 陰謀組織と秘密組織との区別
 プロレタリア解放闘争はプロレタリア大衆の自覚した運動であり、共産主義は、歴史の運動がただ自然必然性として神のように超越的に独立自行する自然発生性のベールをはぎとり、はじめて、歴史を人間の意識的な、それだから自由な行為にかえる運動である。
 プロレタリア大衆は、自分自身の活動を自分自身の意志として、展開することによってのみ、歴史の主人公として解放の自立した主体となることができるのであるから(すなわち、他の人間や諸条件によって知らぬまにあやつられるのでは、プロレタリア革命と共産主義の実現は不可能となるのであるから)、共産主義者とその組織に前提される資格要件として「あらゆる陰謀」=「自分の見解や意図をかくす」(=プロレタリア大衆を背後で操作する=プロレタリア大衆の奴隷状態の存続)を払拭しなければならぬ。
 個々の活動や組織の具体的な実態については多かれ少なかれ秘密が必要である。だがその見解や意図をかくすことは陰謀である。
 「共産主義者は、自分の見解や意図をかくすことを恥とする」(『共産党宣言』)
 「共産主義者は、あらゆる陰謀は無益なばかりか、むしろ有害でさえあることを知りすぎるほど知っている」(『共産主義の原理』)」

(一九六四年三月「一九六三年の運動の総括によせて」、『滝口著作集』@所収)

(三) 社青同内での前進

■六三年二月第四回東京地本大会(反構改の指導部)、六四年二月第四回全国大会(執行部原案を修正して「改憲阻止・反合理化」を採択)

《一九六三年、憲法公聴会を大管法のところでダメ押しした自民党政府は日韓会談を再開し、原潜寄港を承認し、日韓条約の締結を政治的焦点として改定安保がその内容を証明せんとする過程に入る。六〇年安保からの憲法闘争期を経ていよいよ日韓闘争期に突入した。この年一月の社青同第二回大会で、「憲法完全実施か憲法改悪阻止か」の路線論争をもって構改的中央と衝突した反主流派は、二月には東京地本に反構改の指導部をうちたてた。この秋には、三反、すなわち〈反戦、反ファシズム、反合理化〉に基礎づけられて社青同東京地本は「改憲阻止、反合理化」をうちだし、また、行動委員会運動がはじまった。路面電車撤去を中心とする東交合理化に反対する闘争のなかで、この東交合理化の分析を通して、第二インターと第三インターの合理化に対する態度を批判しつつ、〈資本家の下への労働者の絶望的隷属〉の深化拡大として合理化に絶対反対する労働者階級の態度を鮮明にしつつ闘いを構築してゆく。朝鮮戦争後の「神武景気」、「岩戸景気」を通じて膨大化した生産は、いまやこの資本制生産の一般的条件をなす交通・運輸・通信部門を隘路とし、近代国家が資本制生産の外的一般的条件を個々のブルジョア及びプロレタリアートの侵害から擁護するために、とりわけここで「公共性」をがなりたてて介入してきているなかで、この国家に対抗して反合闘争を発展せしめつつ日韓闘争を闘いぬくこと、――これを押しだし貫き通してゆく。六四年には、この東交反合は検針例日闘争を大きな突破口とする東水反合闘争と増幅しあい、全逓労働者の班長制、深夜伝送便反対闘争を急激に発展させ、この年の六・一五は、はじめてこの産別労働者の大結集をもっての日韓・反合闘争を闘いぬく決意表明によって記念された。これは、日共四・八声明によるゼネストの裏切りを弾劾し、民同を奴隷商人ときめつけつつ、構改派にかわって社青同中央を押えた社会主義協会を批判し東京地本を解放派の拠点として突出させつつ、かちとられた。この秋には(一〇月の三大事件――中国核実験、フルシチョフ失脚、イギリス労働党内閣成立)、原潜―日韓闘争のなかで、労働者党建設と行動委員会の拡大をめざして第一インター百周年記念集会を開き、また、「階級支配の政治的頂点とともにその経済的基礎を攻撃してその存在をおびやかす」というような日韓・反合闘争の発展のために、反安保労研の先駆をなす青年労働者研究交流集会を組織した。》

■社青同東京地本五回大会(六四年)に向けて

 六四年一月「東京に集中する」という方針、東京の任務について
「T 東京地本の労働者運動上に占める位置(「東京に集中する」ということについて)
 我々は一月、「東京に集中する」という方針を決めた。
 現在ではこの内容を誤解のないように一層はっきりさせなければならないところに来ている。」
「D 東京の組織的な任務
 階級闘争の段階を画するような長足の一歩飛躍と革命的な再編は、労働者党の革命的な再編として結実させなければ空である。(現代における共産主義的前衛の形成と革命的労働者党の建設の基本構造は別に。)そのための、党組織戦術としての“のろし”を上げる実力を東京は育てなければならぬ。例えば、地方の一府県の社青同、社会党の「内乱」は、それだけでは党の飛躍的な再編の直接的開始としての“のろし”とはなり得ない。しかしその強力な突破口になり得ることは忘れてはならぬが。その“のろし”を上げるべき東京の党組織活動は特別に意識的に展開されなければならぬ。
 労働者党を革命的につくりかえる解体的再編の分派闘争は、東京の“のろし”を合図に一斉のとことんまで蜂起すること。そのために東京は、社青同を基盤に社会党内に意識的に戦術を展開し、この“のろし”は東京社青同と東京社会党の同時の(または急速に引き続く)叛乱として開始すべきこと。地方の活動は、それまでじっと耐え、強烈に爆発することができる実力を着実に養っておくこと。」

(一九六四年四月「社青同東京地本の役割と大会の任務」、『滝口著作集』@所収)

(四) 六四年プロレタリア分派の形成への着手

 KTCが本格的に「革労」の組織化に着手すると指示するのは六四年五月のことである。五月三日付けの学校(KTC)発指示で、「プロレタリア分派の形成への着手」を指示している。(資料2)
「各教室とメンバーは、いまこそ差し迫ってかねて準備中の○○○の組織化に着手せねばならない事態にあることを理解せよ。
一、○○○の位置づけを再度確認すれば、これこそわれわれが「組織的分派闘争による既成組織の破壊」と呼んだその分派であり、その過程を通じて「新たな党建設を推し進める」と言ったその党の萌芽である。従って位置づけからすれば、それは単なる社青同内分派ではなく、社青同、社会党に対する統一的、一元的分派であり、実態的にもそうならなければならない。」
 としている。このことの背景には、社青同東京地本において、協会派が次第に野党的態度を強めるようになって来たことがあげられる。

■六四年一二月KTC全総

 さらに、六四年一二月の通信委員会全総では二年間の歩みを振り返った上で、「革労協」の建設に集中すること、宣伝用に定期的パンフレットとして『解放の通信』を編集委員会発行という形式で発行することを決めている。『解放の通信』一、二号は、試行期として、メンバーとメンバーへのオルグ対象に配布先が限定されていたが、三号以降は配布先を拡大して、見解の公然化を図っていった。
 『解放の通信』は社青同解放派(東京)が政治機関誌『解放』を発行を開始するまで、四号が発行された。
 その六四年一二月議案レジュメの総括および方針の一部を引用する。
「〔総括〕
1、出発点への反省
@われわれは二年前、安保闘争の総括過程と新たな闘いの予感を受けて、中ソ論争と憲法闘争の開始の中から、既成党の組織的分派闘争を通じての党建設、その組織者としての前衛形成をふくむ五原則と戦略と戦術においてみた憲法闘争の方向についての簡単な討論をもって、前衛形成の、組織立った過渡期への出発をふみ始めた。個々のメンバーのそれまでの過程はさまざまである。われわれは多かれ少なかれ異なった道を通って同じ出発点に立った。そして前衛組織形成の過渡期を共同して踏みだして以後、われわれは、比較的短い期間に、重い任務が急速に累積してくるのを経験した。
 われわれは四つの時期を経過した。
 第一期は、一九六三年夏まで。この間個々のメンバーの戦線配置、東京・▽▽・△△で地本権力にすべりこむこと、小さい派が思い違いしないための共産主義者としての共産主義者の大道の把握、若干の政治カンパニア、すべて殆ど全員で討議し、全員で当って行った。
 第二の時期は、一九六三年夏から一九六四年二月ごろまで。単位組織に分化し、中ソ論争批判と戦略問題の提起、「合理化」の把握、行動委員会と分派の芽の手がかりを求める。職場闘争への本格的取組みを少しずつ進め、社会主義協会と共同して、構改派の社青同中央権力を打倒する。
 第三の時期は、一九六四年夏まで。「東京に集中する」。東交を中心に職場反合闘争への取組みの徐々の進展。「派」の具体的な手掛り、夏、ついに協会との対立は決定的となる。
 第四の時期は現在。
Aわれわれは、われわれの出発点へと反省しつつ、この前衛形成の現在までの過渡期をどうとらえるか? 共産主義的前衛の形成としてどうか? その革命的労働者党建設の道としてどうか? その遂行してきた運動としてどうか?

〔方針〕
3、革命的労働者党の出発としての分派組織の建設
@当面「革労協」に集中し、「革労団」「革労委」は手掛りをもつに止め、状勢の成熟を待つ。
A前衛組織は媒介者であり、分派組織は自主的主体として貫かれなければならず、前衛組織は分派組織を単なる外部組織化せず、内容自体の力にうったえる。
B社会党、社青同を貫く一つの分派組織を!」

(六四年一二月、「全総議案」)

〔註 「革労協」は社会党内分派、「革労団」は共産党内分派、「革労委」は既成党外の結集。〕
 この時にはまた学生戦線の組織建設が議題に上っていて議案書には、
「@民々の「全学連」再建
 A反帝学生評議会運動と反帝派全学連の再建――学生運動論
 B関西ブントの「大ブント」構想
 C前衛と党の問題と学生K・F」

(同上)

と項目が列挙されている。

 六四年三月には、社青同、社学同、中核派の三派系自治会が全国学生自治会代表者会議を開き、六月には「都自代」が開かれ、都学連再建、全学連の再建の機運が高まっていった。

(五) 日韓闘争の渦中で

《こうして、椎名訪韓阻止闘争、調印阻止闘争を通じて、一九六五年夏共産主義者通信委員会を推進力として内部にふくみつつ、しかしスターリン主義と社会民主主義から決裂し自立する。その他の階級的戦闘的労働者との党派的結集――労働者階級の独立した党の現在的萌芽としての分派形態――として、〈共産主義者とその他のプロレタリア党との関係(区別と同一性)の原則〉を厳格にふまえた党建設として、内容的には全国的でかつ社青同、社会党を貫いて、しかし不完全なゆえに発展すべく自分をも他人をも欺かないために、形式的には社青同東京というプロレタリア的党派としての現在的到達点を見つめて、〈社青同解放派(東京)〉が結成された。それは、共産主義をプロレタリアの団結による交通形態そのものの生産として永続革命としてつかみ、戦略論と組識論の統一を階級形成のうちに見出してプロレタリア永続革命の歩みをつかみ、一方では工場制度の足下に成立する大衆組織とプロレタリア党との関係、他方では共産主義者とその他のプロレタリア党との関係を原則的に厳格にふまえてつねに最も断乎たる推進力たらんとする部分をもって自らを革命的プロレタリア党へと発展させるべく、〈資本家(当局)、小市民、労働官僚からの自立を!〉―〈工場の中に革命の根拠地を! すべての地域、学園に前進基地を!〉をスローガンに日韓―反合闘争の日韓条約批准阻止段階に突入した。〈政治運動と社会運動との関係〉、その相互作用をふまえての闘い。プロレタリア統一戦線の開拓。――日韓―反合闘争はこの問題を突き出した。
 アメリカ帝国主義の軍隊のベトナム北爆開始・ダナン上陸、インドネシア九・三〇、中国文化革命の始動、日本帝国主義のベトナム人民抑圧戦争への協力のなかでの佐藤訪中、そして日韓条約の成立。この六五年の過程の中に〈アジア太平洋圏安保〉への道が始ったのであり、日韓闘争期は敗北をもって区切られて安保闘争期へと闘いは永続しなければならない。》

■学生解放派の先行的結成

 原潜・反合闘争をくぐり、各地で、自称、他称の「解放派」グループが形成され、日韓闘争に向けて「解放派」結成の機運は満ちていた。学生戦線の状況に規定されて、まず、学生解放派の結成が先行する。
 六五年一月KTCは、東京総会で、学生KF結成について討議し、確認する。
「二月二日の学校から
一、一・三一東総について
@中心的議題
(イ)当面の東京LSY対策
(ロ)当面の東京SPJ対策
(ハ)専従問題
(ニ)学生KFについて
……
E学生KFについて
 三月学生KFの全面(国)的組織化と、学生戦線の現状に対応するために、十六日までに学生KFの総括を含めて、Org対象確定等、学生指導体制の確立を急ぐ。」

(六五年二月「通信」)

 学生解放派は、この決定をうけて、先行的に六五年三月三〇日に結成する。東京解放派全体の旗揚げも、東京地本での分派闘争の緊迫状況に規定されて、急速に準備された。社会党内のグループ形成についても「専従社研」や「青年社研」やの構想が模索されていく。
 「学生解放派」の声明を政治機関紙「コンミューン」四月五日付の創刊号(以後不定期刊)で明らかにした。
「働く階級の解放ために闘うわれわれは、帝国主義の打倒をめざす日本の学生戦線の内部に、最も断乎たる推進力をなす解放派として、ここに存在し活動していることを公然と声明する。
 わが学生解放派は、日本社会主義青年同盟の内部に存在して、ブルジョアないし小ブルジョア、労働官僚からの労働者階級の革命的自立を実現する事業に自分の運命を据えつけている学生の自主的な結集体である。それは学生の組織であり学生戦線の領域で活動している。しかしわれわれは、自分自身の頭脳がプロレタリアートの心臓と分ちがたく結びつけられていることを、疑うことはできない。」(一九六五年四月、『滝口著作集』@所収)
 その機関紙には学生解放派の理論機関誌『解放』創刊号の四月一〇日発行が告知され、ほぼ同時の発行となった。
 さらに、前年からの、統一行動、準備会の積み重ねの上で、都学連がいわゆる「三派」の主導で再建され、山本都学連委員長が選任された(七月八日 都学連再建第一四回大会)。

■地本大会を承けて、社青同解放派(東京)の結成

 一方、八月の社青同東京地本第六回大会は、協会派と対峙しつつ、「改憲阻止・反合理化」を批判し、「反戦・反ファッショ・反合理化」の基調を確認し、樋口委員長・神谷書記長体制を確立することができた。その大会の準備過程で「今や解放派の結成が大衆的に必要とされるに至った。すでに自称他称解放派は顕在化しつつあり、運動の防衛という点からいっても、個人の段階では不可能となりつつある。これまでの我々の欠陥が、その非組織性、分散性にあったとすれば、今までの総括の上に、真に運動を担う党派が今こそ必要である。」とされ、急速に九月結成を目指しての準備が始まった。
(資料3「65817 B〔ビューロー〕発通信」参照)
 こうして、社青同解放派(東京)が結成された(結成宣言・規約・テーゼは『滝口著作集』@所収)。この社青同解放派(東京)は、内容的には社会党・社青同を貫く一つの全国分派であるが、自分をも他人をも欺かないためにということで、形式的には社青同解放派(東京)という名称とされたのである。
 これは、単に自然生的におきた事ではなくて、「東京に集中する」「当面、革労協に集中する」として来たことの結果でもあったのであるが、また「革同問題」の一つの根拠になってしまったことは否めない。

(六) 日韓闘争の敗北

《日韓闘争とその敗北の諸結果は、次のことをわれわれに示した。第一に、資本主義的生産過程を直接的生産過程と流通過程との統一においてつかみ、その「生産性の向上」、生産の膨大化は、熱病のような技術革新としての固定資本の更新――産業の技術的基礎のドラスティックな革新――を通じていまや分業体制(交換によって媒介される「産業秩序」、交換によって媒介されない「職場秩序」)の再編成がその重点となりつつあり(機械の導入のみならず分業の再編もまた資本家による生産の発達の方法である)、そこに新たな問題が惹起されつつあること、この分業体制の再編強化は、一方では、世界市場を前提とし都市と農村の分離を基礎とした大規模な交換によって媒介される分業、それを前提としそれを拡大するように反作用する工場制度――社会的分業を基礎としている資本制商品生産――の発達は、独占的大株式会社の形態での〈巨大な工場制度による強制労働〉、「産業構造の高度化」―「寡占体制」なる〈産業再編成〉(工業とともに農業の再編成)、新たな〈都市問題〉(「過密」都市、「過疎」農村の荒廃の問題へ)の発生として戦後社会の激変がはじまっており、国家独占資本主義の形態でこの社会の内部における分業の発達が国家機構の内部の分業(統治の分業体制)の発達を促進しつつあること(帝国主義的段階における「資本主義の不均等発展」の問題は、根本的に、独占の段階の資本主義体制における技術的基礎の革新とともにこのような政治的、社会的なあらゆる領域における分業体制の急激な発達、この技術と分業の労働者階級、人民への敵対的性格においてつかまれなければならない)、他方では、「開放経済体制」として、貿易のみならず民間と政府による資本輸出の急速な増大をもって先進工業諸国間相互の、また先進工業諸国と後進諸国の間の国際分業(いわゆる「水平分業」、「垂直分業」)の発達、いわゆる社会主義諸国をもいっそう深く広く世界市場網に組み込んでゆく資本主義体制の国際的性格の発達が、「南北問題」を惹起し「東西関係」の再編をうながし日米同盟関係の見通しをせまってゆくように、激烈なかたちで進行しはじめたこと。国家によって支援された労働過程の大規模な科学的過程への転化であるかの技術革新を通じてあらゆる組織で新たに再編強化されんとする分業体制、それに日韓、反合闘争が一般的にいって無防備なままに敗北せしめられたのであり、これへの抵抗のマヒ、屈服を集中的に示すものこそIMF・JC(国際金属労連・日本協議会)の成立である。
 第二に、労働者階級を強制された怠惰の部分予備役労働者軍と強制された勤勉の部分現役労働者軍の統一においてとらえ、都市と農村の社会的激変、すでに始っている農民の急激な解体による大量の労働力の過剰労働人口としての産出、ある労働から他の労働へのおびただしい急激な転変と流動、この上に帝国主義の経済的基礎においてもさらにその上部構造においても再編強化する分業体制が打ち込まれてゆくのであるから、これへの有効な抵抗力をもって闘争は、組織された労働者が先頭に立っての現役と予備役の労働者軍を統一したまさに階級闘争をうちたて、このようなものとして〈プロレタリア統一戦線〉(虐げられた全人民の前衛として行動する労働者運動)の組織されてゆかなければならぬこと。だが既成の労働組合の大勢はエゴイズムにとりつかれて動揺し、既成の反政府野党は、それらを階級として結びつけるどころかもっぱら国民主義的、人民主義的擬装で分裂を糊塗せんとしていたのである。
 第三に、社・共の歴史的前提をなす第二インターと第三インターの敗北の根底にある産業合理化への屈服の関係態度をつかみだし、これを突破してゆく階級闘争としての政治闘争が鍛えあげられなければならぬこと。……
 だから、日韓闘争とその敗北の諸結果がわれわれに教えたことは、集積する資本の社会性の支配へ屈服を突き付けられて新たな官僚制的再編にうごめく労働組合の中に、この支配への抵抗に出発点をもつ行動委員会運動を推進しつつ革命的プロレタリア党を産出すること、そしてこの革命的プロレタリア党は、とりわけあの屈服に重大な政治的責任をもつ日本社会党の内部に、それを小ブルジョア的桎梏として打破して「労働者階級の独立した党」として生れ出ようとするプロレタリア的分派として組織すること、このすでに開始している行動委員会運動と分派闘争を、あらためてはっきりとつかみ直し、確固として推進することである。このプロレタリア党建設の過程は、工場制度の下からはじまる労働者の自立的な大衆運動を結びつけ統一し、あらゆる分業の間に連帯をつくりだし、プロレタリア解放に向って国家権力に対抗して階級形成を推し進める闘いにおいて(大衆運動とプロレタリア党との関係)、共産主義的前衛を最も断固たる推進力とした労働者が自分自身に与える組織形態としての(一方では、共産主義的前衛は労働者階級の「外部」ではなく「内部」に存在するその部分であることが、他方では、この共産主義者と「その他のプロレタリア党」との区別と同一性がこの分派形成において原則的に厳格に確認され、ふまえられなければならない)、「社会党、社青同を貫く一つの全国的分派」の組織化の道として〈革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)〉へと推し進められてゆくのである。
 日韓闘争の敗北の諸結果は、すでに日韓両財界の「共同提言」が「軽工業、農業は韓国に移譲し日本は産業構造の高度化に専心すべきである」といっていたが、支配階級とその政府によるすさまじい「産業再編成」=産業合理化、資本輸出を急増しつつの六六年のASPAC、東南アジア開発閣僚会議、東南アジア農業開発閣僚会議、アジア開銀という国際的諸機構の設立であり、最後にこの年末は「三木構想」(アジア大平洋圏構想)の出発である。
 そして社長も労働者もその持分において生かされるという分業体制の美化、父権を中心とした家族の理想化と「国父」を中心とした「王仏冥合」の「仏法民主主義」、「地球民族主義」の創価学会の政治的進出。
 経済の領域での分業の増大はその他の領域での分業の増大をうながすが、財政制度、租税制度、地方制度、公営企業制度、教育制度、等々、警察、軍隊などの戦後的諸制度の抜本的改編の衝動が動きだして、この「産業再編成」と結びついた「産学協同」――専門奴隷への教育改編の大洪水の開始、これを学園闘争からあばきだす教育闘争に突入した。早大闘争と都電撤去反対闘争。
 このような闘争を引き継いで、六七年春の砂川闘争のなかから七〇年安保闘争がはじまった。――いわゆる三派全学連と地区反戦の結成をもって、そして日韓闘争を闘いぬき、その職場闘争の中から生れでて政治闘争の中で結合を強めた力を職場・学園に反作用させつつ拡大再生産させていた社青同東京地本は、六六年九月、スターリン主義的社民として純化しつつある社会主義協会の陰険な組織破壊攻撃を受けた。社書同・社会党を貫く全国的な分派の形成を急がなければならない。》

 日韓闘争の渦中で、社青同全国学協解放派、社青同解放派(東京)として出発した組織は、日韓闘争の敗北の後には次のステップが問われることになる。六六年五月には、社会党領域への関わりの強化―入党問題、さらに「解放派の全国化」についてが議題となる。
 『総務委員会通信』の「日本社会党に対する態度について」、「解放派全国化について」は、その問題を正面から取り上げているものである(いずれも、『滝口著作集』@所収)
 以下は、その抜粋である。

■「日本社会党に対する態度について」の要点

「現在、“分派闘争”の問題が、日本社会党に対するわれわれの態度の問題として、特に「入党」問題という形をとって、地区でも産別でも、実際の問題になりつつある。
……
 五月二三日の総務委では、社会党に対する態度を、入党問題に焦点をあてながら、それも二、三の問題点に限定して取扱った。以下その要約。
一、〈社会党と社青同を貫く一つの「分派」を〉という目的はあくまでも正しく、堅持すべきこと。
@ 社会党を単に利用するために入党するのであってはならないこと。われわれは、社会党を利用して○○○をやろうとするという根本的には寄生虫的な態度を厳格に拒否し続けなければならぬ。なるほどわれわれは社会党の個々のポスト、機関、動きを利用するしまたは活用することがある。しかしそれは、社会党を利用して、個人的なあるいは組織的な別の目的を追求するのではなくて、社会党そのものを解体的に再編成するし(=分派闘争)ために、である。社会党の種々の利用主義的な寄生虫は、結局のところ、社会党なしには生きてゆけぬか、陰謀の泥沼にはまるかということになる。社会党は利用されるべきものではなくて、解体的に再編成されるべきものである。――利用主義反対。
A 社会党が「良い」からという理由で入党するのであってはならないこと。われわれの入党は、社会党が色々の意味の「良い」または「ましだ」という幻想(社会党は代々木に比べて「ましだ」とか、いろんな可能性があって「良い」とか等々無数)の一切から訣別していなければならず、逆に、社会党の反革命的性格を腹の底からつかみ切り、解体的再編の必要なことに徹していなければならぬ。――「よりましだ」主義反対。
B 単なる戦闘性の程度や考え方の対立以上のものでなければならず、まして種々の「派閥」対立という平面的なものではなく、党官僚からの、官僚としての自分自身に反逆してゆく人たちは無論別として、労働者階級の訣別と自立という立体的なものの追求でなければならぬこと。
〔要点〕――社会民主主義(特に日本の)の反革命的性格は、われわれが、最も切実にかつ的確に(種々の別党コース的批判者どころではなく)把握してゆかねばならぬ。だからこそ、大衆の(特に労働者大衆の)社会党不信の底にある正当なものを把むとともに、われわれは、大衆の「不信」、「反感」という無力な形態の次元にとどまらず、積極的に既成政党の革命的な解体=再編成として実現してゆかなければならぬ。大衆の、社会党は「良い」とか「よりましだ」とか、または「不信」や「反感」にそのままのっかるのではなく、われわれは、大衆の、しかし先進的な部分として、われわれにとって明らかなことが、現在、圧倒的大衆にとって明らかとなっていないことを凝視し、実践的暴露の分派闘争(既成党の解体過程を同時に革命的労働者党の建設過程として推し進める道)を通じて、巨大な大衆の社会民主主義(同時にスターリン主義)からの訣別を促進しなければならないこと。だから党建設の課題は社青同の領域だけでは完結せず、社会党の領域を問題にしなければならぬこと。
二、〈実現の過程〉が大切であること。
 闘い(分派闘争)の生きた全体は、ただ目的や結果だけで汲み尽くされるのではなく、実現の生きた過程で汲み尽くされる。ただちに、既成党批判イコール別党コースという道をとらないのも過程こそが大切だからだと同じように、社会党の分派闘争にとっても実現の過程が大切である。「目的」主義や「結果」主義を越えるということは、「押しつけ」を越えるということでもある。
@ 社青同の「相対的独自性」を固め、強め、汲みつくしつつ闘うべきこと。社会党と社青同は一体だということを機械論的に捉えてはならず、社青同の「相対的独自性」を一歩も譲り渡さず、社民批判のテコとしてゆくこと。社会党も社青同もどこまで変化しても結局は社民の限界内だとか、社会党や社青同はどうにでもかわり限界など無いとかの「限界」の見方を越えて、我々は社会党や社青同を意識的にしろ無意識的にしろ「限界」づけようとする部分に頑強に抗して、その完全な反対物に転化する過程を闘い抜く(これが分派闘争だ)のであり、そのためには社青同の社会党からの「相対的独自性」を確保し汲み尽くしつつ社会党の変質の大きなテコにしてゆくべきこと。社会党に対しては「指導」の待望ではなく「支持」の獲得を目標とすべきこと。
A 社会党そのものについてはまず分派闘争の意義を明確につかんだ思想性とそれを遂行する活動の条件をそなえた少数の準備的な党内闘争(分派闘争の全体は、単に「党内」闘争なのではなく、特に行動委員会運動との相互作用が大切だが)から始め、解放派全国化と呼応して公然化(結集体名と見解及び意図)するとともに、大量的結集をはかる。われわれと無関係に推進される党員拡大運動は直接に阻止されるのではなく(それは不可能)、党内の社民反対派への結集を公然たる独自のセンターから呼びかけ、推進すべきであること。」

(一九六六年五月『総務委員会通信』、『滝口著作集』@所収)

■「解放派全国化について」の要点

一、全国化の必要性の問題
 現在解放派全国化を問題にすることは、あるいは空々しいことにみえるかも知れない。日韓条約の強行成立を押し切った支配階級の重圧は、それぞれの職場にのしかかり、いまはこのゲリラ戦に没頭すべきかのように見え、それにこの東京という限られた活動領域でも、われわれの為すべくして為し得ないでいることが、あまりに多いからである。
 確かに、われわれが日韓闘争の最終局面(条約の強行批准としての)を目前にして、多くの不充分さと欠陥を残しながらも敢て東京解放派の創立に突進したと同じような調子で、解放派の全国化を問題にすることはできない。闘いの上向線を可能な限りを尽くして直接にヨリ高くヨリ強く押し上げることが、今直ちに全体の中心課題になっているのではなくて、むしろ、日韓闘争とその諸結果を受けて、新たな来たるべき決戦に向けて、支配階級の現在の追撃のもとでのわれわれの闘いを、根底から再構築してゆくことがいまの中心問題なのだから。
 しかし、現在、解放派に兄弟的連帯を感じる地方の同志やその結集体が、解放派全国化をある程度の必要感をもって問題にし始め、また特に一定の集中攻撃を受けている社青同東京地本が、全国的連帯の必要性を問題にすることは、決して偶然ではないし、行き当りばったりに取扱ってはならない。
……
 全国化の必要性を以上のような基本的視角から問題にする場合、注意すべき大切な第一の点は、東京と地方の実際上の必要性の大きなアンバランスを解決するに誤ってはならぬということ。東京解放派への一定の集中攻撃と孤立化攻撃の下で(社青同全国大会にも写し出された)それをハネ返すためにも全国的連帯を切実に求めることは極めて正当であり、充分に配慮されるべきである。しかしこのことは、地方での全国化の必要性が、東京と同じ程度で、または同じような面から引き出されてはいないし、むしろ東京での必要性を強引に押しつけた形にでもなれば、地方での闘いを長期にわたって後退させる結果にもなり、東京が地方を物理力にしてしまうことにもなりかねない。ここへの充分な注意が必要だ(このことを国際的にみれば、勝利した一国の革命のインターナショナルへの関連の問題でもある)。東京が独力でも耐えてゆく内実をうち固めつつ地方の実際上の必要性を深くくぐり、しかも東京の置かれている現状が正当に配慮された全国化の道を見出さねばならない。
 注意すべき大切な第二の点は、それぞれの活動分野の差異がもっている特殊な必要、不必要にふりまわされないよう注意すべきこと。われわれの活動分野または領域は次第に多岐にわたり、一般組合員、組合幹部、組合書記、党専従、社青同専従、地域の活動家、学生等あるところで特殊に切実な必要なことも、他のところでは疎遠で不必要なこと、むしろ危険なことにもなるという事情を伴っている。このことは、運動が現実的で具体的なものになりつつあることをも意味するとともに、これが特殊なものとして固定(極端には特殊利害として)しないよう厳格に注意し合うべき時点に来ていることを意味する(社民とスターリン主義を超えるものにとってこのことは極めて大切)。全国化の道は、共同の、または共通のしかし切実な、必要性を徹底的に踏まえてゆく全国化の道を開かなければならない。
 こうしたことと関連して、最後に、しかし最も強調されるべき第三の点は、あらゆる戦線の拠点を革命の前進基地として実現してゆくための、〈労働組合の中に革命の根拠地(党)を〉ということを貫徹する全国化の道でなければならぬこと。

二、全国化の方法と形態
@ 地区→産別→地区。
 われわれにとって課題であるのは、階級的な革命党の建設である。その萌芽形態としての“分派”組織は、やはり労働者階級の階級的独立(孤立ではない!)を内にふくんでいなければならぬ。それは単なる地区党でもなければ単なる産別党でもない。議会主義的な選挙区党や地域闘争主義的な地域党ではないし、産業別労働組合の多かれ少なかれ組合主義的な独立フラクションやその束などでも無論ない(国鉄革同の運命を繰り返すことはできぬ!)
 まず、階級として共同の運命のために活動する地区的組織――産別的に闘いを実現してゆく芽を同時にもった――から始め、産別ごとの組織的実現を徹底的に前に押しだし、それを深くくぐり、それを通して――しかし、地区組織が無用ないし棚上げとなってよいのではなく、産別の独立化を克服してゆくための階級的結合の現実的な必要性が成熟し、突きつけられてゆく――、ふたたび地区組織の再確立に帰る。だがそれは、出発点の地区的組織への単純な後退ではもちろんなく、産別的組織の実現によって豊富化された、産別と地区との区別とともに階級的統一のあらわになった地区組織として、目的としても、全過程を貫く性格としても、結果として実現されたものも、地区と産別とを統一した階級的組織こそが、われわれの問題だからである。
A “連合”から産別の全国単一化を通って“結合”へ。
 実際には次のような道をたどるべきである。まず同志的立場にある地区別組織(東京解放派とか関西左派とか等)の“連合”として、解放派の全国的(現実)形態の最初のものを生み出す。この“連合”は全国的な組織名をもち中央指導機関をもつ。しかしそれは、中央からの組織的強制力をもたず、ただその指導の内容上の権威だけを依りどころにし、その限りで各地区別組織はまだほとんど完全な独立性を保持しているが、全国的な連絡と報告の義務をもつ。
 次に、この中央機関のもとで、産別の全国単一化を推進する。各産別組織ごとに全国単一の産別委員会(この中央は指導とともに組織的強制力をもつ)の組織化を進める。この進行とともに現われてくる各地区組織と全国単一産別組織の意志(決定)との矛盾は、全国単一産別組織の意志を優先させる。産別の全国単一性を保持しようとする限りそうならざるを得ない。この状態の進行と成熟の程度に応じて、次第に各地区組織の独立性が崩壊を始め、他方では、地区を全体の一部分として実現した完全な解放派全国単一組織化としての“結合”への現実的な必要性が増大し、成熟する。こうして遂に、地区と産別の矛盾の解決に駆られて、全国単一の階級的な分派組織の実現形態としての“結合”へ。
 この全過程は、種々の要因によって促進されたり遅れさせられたりする。地区と産別との対立(その正しさからいえばどちら側が常に正しいというふうには固定していうことはできない)の度合のほかに、全体としての階級闘争の(突発的な事態を含めた)具体的な展開状況によって深刻な影響をうけるし、また前衛的部分(それがどういう姿をとるにせよ)の動きかけによっても大いに影響される。
 なるほどこの組織路線については、えたり賢しと「段階論だ!」という非難をつぶやくものがいるかも知れない。全国的政治新聞の発行から始めよ、というレーニンの教えがあるのを知らないのかと。確かに前衛組織は全国的中心たるべき一点からの拡大というかたちをとる。しかし解放派の直接の課題は、思想宣伝団体や、真実のものであるにしても前衛組織をつくることではなくて、究極的目的=一般的なものをそのものとして体現した組織が直接の問題なのではなくて、労働者階級の自立の生きた実現過程にある、真実の、革命的な、労働者党=革命の根拠地を、しかも労働組合の中にうちたててゆくことである。そのためには、先述の過程を可能な限りをつくして深くくぐり、汲みつくして、労働者大衆の苦悩と苦闘の力によって徹底的に育てられ鍛えられる必要があるのだ。
……
B まず予備的センターを。
 しかし、“連合”という解放派全国化の形態も、まだ実践的な相互信頼を確保していない現状では困難である。まず全国解放派のための予備的センターをつくり、これを通じて、各地方の兄弟的な相互理解を深め、全国化の道についての見解をにつめ、かつ相互に直接の必要に迫られている問題についてのフラクション的機能をつみ上げることが必要である。予備的センターは、東京が今おかれている状況を配慮して、社青同東京地本大会以前に出発するよう働きかける。「七〇年代の闘い」への現在的準備としては(「突発」的な情勢の激成――このことは大いに留意しなければならぬ――をさしあたり別として)、“連合”を六七年中に、“結合”を六八年(遅くとも六九年)中に実現することを目途とする。
 来たるべき決戦に向けて強大にして革命的な、労働者階級の自立組織=全国解放派を必ず実現しよう!」

(一九六六年五月『総務委員会通信』、『滝口著作集』@所収)

 ここで、示されている解放派の全国化は、全国的中心たるべき一点からの拡大というかたちをとる前衛組織の建設の道とは異なって、兄弟的諸組織(「解放派に兄弟的連帯を感じる地方の同志やその結集体」「同志的立場にある地区別組織」)の「連合」として、解放派の全国的(現実)形態の最初のものを生み出す。この「連合」は全国的な組織名をもち中央指導機関をもつ。しかしそれは、中央からの組織的強制力をもたず、ただその指導の内容上の権威だけを依りどころにし、全国的な連絡と報告の義務をもつ。
 そして、この「連合」から産別の全国単一化を通って「結合」へ進んでいくという、「連合から結合へ」の「労働者階級の自立の生きた実現過程」を追求しようとしたものである。
 なお、一つ付言すれば、ここで「決定の執行に当たっては内容的権威による」という意味は、「組織決定」という形式的権威による執行に対立する意味あいであり、「民主集中制」を越えていくものを含んでいる。

(七) 六六年の反動と社会党革命同志会結成

 反動は、日韓闘争敗北直後の六六年一月第六回社青同全国大会での東京地本への破壊攻撃として現われた。東京地本に対する統制処分、中心メンバーに対する処分問題である。これに耐えて短い息つぎの期間を手に入れて後、六六年九月三日の東京地本第七回大会は、事前の代議員獲得で、自らの不利を自覚した協会派が挑発を準備した。代議員登録問題を口実にして壇上占拠し、それへの大衆的弾劾行動で協会派は自主退出を余儀なくされたが、その退出過程での暴力行為を口実にして、大会は流会した。一〇月四日に社会党中執の決定、この決定によって設置された再建委員会(党中央青少年局、都本部、社青同中央)が十月十一日に決定した再登録案が、十三日に社青同東京地本に示されたが、地本執行部は拒否した。解放派も「“解散賛成、再登録”ではなく、“解散不当、統一のための再登録”」として、統一の方針を掲げるが、結果としては、第一地本の旗を掲げて、社会党都本部段階での公認・共闘の道を歩むこととなる。

 六六年九月東京地本分裂を受けての東京(第一)地本の防衛、六七年四月美濃部都政下での反合闘争の推進という新しく厳しい課題に対処するために、社会党内活動は新段階を迫られていた。それまで議論されていた「青年社研」方針に変わって、日本社会党革命同志会が提起され、結成される。
 社会党革命同志会(略称:革同)は、結成に当たっての問題意識を「結成趣意書」で、次のように述べている。
「 日本資本主義がその深く醜悪な傷口を露呈している時期に行われたときの総選挙が、ほかならぬ社会党の後退をもって終った、とりわけ工業地帯においてそうであったという苦い事実、近くは、全労働者が期待をもって闘いとった美濃部革新都政下において、反労働者的な都交通局再建案が、社会党の手によって大衆運動を圧殺する形で推進されようとしている事実は、全ての社会党員、全ての社会主義労働者に次のような問をつきつけないであろうか。「結局のところ社会党は日本資本主義に死の宣告を下す労働者の党になりうるだろうか」と。社会党を左翼的に支えてきた左派共同戦線としての社研はこの間に応えてきたであろうか。
 単に世界を解釈したり評論したりすることで満足しない我われは、この深刻な問に対して、自らの実践によって応えてゆこうとするものである。
 日夜、社会党をマルクス・レーニン主義の党に変革するために献身的な活動を続けている同志たちに訴える。社研、その中でも特に東京社研は東京の党の建設と左派の権力維持に大きな役割を果してきたでのあるが、最近社会主義協会のセクト主義によって若干の混乱を示し、さらに美濃部都政下の新しい階級闘争に対して統一した正しい対応を貫きえない危機的な状態におかれている。これは社研が左派の共同戦線として思想的・理論的あいまいさを性格としてもたざるをえたいからである。
 我われはこの社研の中にあって分散した状態におかれていては、社研そのものも強化することができない。従って、社研を強化するという基本的立場に立ちつつも、その共同戦線としての性格上機能しえない側面をカバーする独自な組織の必要を、我われは痛感してきた。
 社青同東京地本が、社会主義協会の私物化の陰謀によって分裂という重大な困難に直面し、あるいは、東交の活動家が当局と組合から“二重の合理化攻撃”を受け、今また美濃部都政下における党の誤れる方針転換により闘う部分の地歩が奪われつつあるとき、我われは今こそ旗色を鮮明にしなければたらないと決意するに至った。
 我われはとりあえず次にかかげる諸命題から出発する。もちろん、これはまだ討義も不充分であり、今後より完全なものにしてゆくために討論を深めなければならないものである。」

 この社会党内左派グループである革同の性格付けを巡って、東京解放派の内部で意見が岐れ、その違いを抱えたまま、社会党内の分派闘争は進行する。
 それは、革同は「分派組織」であるのか「共闘組織」であるのかというものである。それは同時に社会党内グループからすれば、社青同解放派を社会党社青同を貫く分派と認めるのか、社青同内のみの分派とみなすという問題に絡まっている。
 革同が「分派組織」であれば、社会党の分派組織である革同が社青同の分派組織である「社青同解放派」を指導する。革同が「共闘組織」であれば、社会党社青同を貫く一つの分派である社青同解放派の中に社会党委員会を構成し、共闘組織である革同を推進するということになる。
 社青同解放派(東京)の総務委員会見解は、こうであった。
「{一} 出発点(結成)での問題
 ――「社青同解放派(東京)」ということと“社会党・社青同を貫く一つの分派”ということについて
 社会党での組織的な“党内分派闘争”の問題をめぐって、解放派の出発点での組織性格が問題にされている。〈社青同解放派として結成したことがそもそもの誤りで、はじめから“社会党・社青同を貫く一つの分派”をはっきりさせた社会党・社青同解放派として出発すべきであった〉とか〈解放派ははじめから社青同の解放派だから、別に社会党の分派組織=解放派をつくるのだ〉とかの意見がある。
 解放派の結成に当って党派の組織性格をどう定めるかについては、第一に、“社会党・社青同を貫く一つの分派”という組織原則の上に立つこと、第二に、「あくまでも労働者の実践から出発した組織であり、将来の革命的労働者党の現在直下に存在する萌芽としての分派」(一五人草案委員会報告)として、分派組織の結成が直接にも実践的に必要なものとして突きつけられた社青同、それも東京社青同を中心に始め、全国社青同と社会党については、その実践的必要性の成熟をもう一段くぐるべきこと、第三に、従って、組織名称については、自分をも他人をも欺かないためにも、実態に即して「社青同解放派(東京)」とするが、社青同の活動領域での東京以外の同志や、主として社会党を活動領域としている同志をも含むものとし、“社会党・社青同を貫く一つの分派”という原則の上に立ちそれを実現する萌芽をはらむものとすること、として出発した。……
 そこで、@解放派は「社青同解放派(東京)」という実態に即した名称を以て結成するが、社青同(東京)に固定的に限界づけるものとして出発したのではなく、逆に、内容の構成としても規定としても“一つの分派”へと開かれたものとして出発したのであって、解放派の出発点からの組織性格から社会党内でのもう一つの別の分派の結成を正当化することはできないということ、だが、A確かに、討論は不十分であり、一挙に結成に向かう一カ月足らずの期間にテーゼ草案は各地の討議を受けて、大小6回にわたる書き変えなどを行ったが、結成する組織の性格について全員が十分な認識をもって出発したとは決していえないこと、しかし、B真の労働者党への萌芽は労働者の闘いの実践的必要が原動力となって生み出されるものであり(思想はそれを闘い抜くためのもの)、各人が、特に“党内分派闘争”について、自分自身の問題として、明確な問題意識を持っていなかったにしても、そのことをもって、解放派が社青同の限界内に固定されたことにはならず“党内分派闘争”の必要性を、実践による人間の変化を抜きにして、頭から確認を迫ることであらかじめ片づけておく(実践によってのみ可能な人間の変化を貫徹するためには思想が必要なのであり、又、意識によって、誤りを経験によって教えられる前に、あらかじめ排除してゆくことが、ますます大切であるから、意識の強調に対して泣き言を云ってはならぬが)、という出発の仕方をしなかったことは、むしろ、正しいのであり、労働者党に向かう組織的な闘いは、常にこのことが特に大切だということ、である。」

(「六七年五月『革命同志会』に関する問題について」、『滝口著作集』@所収)

 社会党革命同志会には、東京解放派の方針に忠実なグループと、元来はKTCメンバーではあったが、社民内分派闘争の主戦場は社青同ではなくて社会党として、党内活動を重視し自立傾向を強めていくグループと非解放派系(主要には中国派的傾向)の大きく三つの傾向があったと言っていい。そして、革同はむしろ、解放派の外から促進されたという側面もあり、社青同解放派(東京)全体としては社会党への関わりは弱く、「社会党に直接関わる分派闘争としては、『革同』を通じて展開する」となっていたために、分派組織か共闘組織かの対立は実践上は有名無実であり、通常時は社会党内活動においては革同として一体として推進されていた。

(八) 七〇年安保へ

《戦後日本の首相としてはじめての訪韓・訪台をもってはじまり東南アジア諸国訪問をへてアメリカに渡る六七年の佐藤歴訪外交は、ベトナム人民抑圧戦争に協力しつつ、日本とアメリカとを二つの中心とする楕円型の中に日本帝国主義の独自の経済圏を準備する、新たな「南北問題」の反革命的提起にそった国際反革命階級同盟の性格を帯びた従属圏の形成において沖縄返還をねらうものとして、アジア太平洋圏を現実に推進するものとなった。国家が介入する独占的株式会社の形態での労働手段の共同的労働手段への急速な、大規模な転化、いわゆる社会主義諸国の世界市場網へのいっそうの組み込みと南北問題の新たな惹起、後進諸国における政府の役割の増大と帝国主義諸国による開発援助政策と帝国主義諸国相互の投資と資源共同開発、――それは七〇年安保を準備するものである。そして、日本における都市問題の深刻化、独占的株式会社の発展は、都市と農村の分離を基礎とした大規模な交換によって媒介される分業を前提としこれを拡大するように反作用する。こうして日本の社会は激動しつつ、二つの羽田闘争からエンプラ闘争へ、そして三里塚、王子闘争へ。この政治的実力闘争の行きつくところから、官公労から民間にわたる反合闘争と全共闘を生みだしての全国的な、大学から高校へと拡大する、教育学園闘争の怒涛の進撃へ。そして自民党政府は、六八年には、日本ブルジョアジーの政治的な二潮流、すなわち現存の国際的同盟を条件にしてのナショナルな利益の追求と、ナショナルな利益のために現存の国際的同盟のあり方の変更も想定するという政治的二潮流の安保の「長期固定」か「自動延長」かの論争を「長期堅持」として結着をつけ、六九年には、沖縄の「部分返還」か「全面返還か」の論争を、アジア太平洋圏安保への実質を発展させた「安保の沖縄への適用」として結着をつけ、そのための岸・ニクソン会談と福田の後進国開発援助政策の躍進ののろしとをもって、佐藤訪米による七〇年安保のアジア太平洋圏安保としての確認とその沖縄への適用をもっての沖縄返還によっての、沖縄を踏み台にしたアジア太平洋圏安保の展開――こうした七〇年安保へと遂に突進した。
 このような七〇年安保への過程において、われわれは解放派を革命的労働者協会(社青同・社会党解放派)として、社青同、社会党を貫く一つの全国的分派として革命的プロレタリア党として労働者階級の独立した党への過程を推し進めながら、七〇年安保を〈工場からの叛乱〉として闘いぬき、ソヴィエトの樹立を所産として生みだす階級闘争の問題を今日的に提起してきたのである。》
《一九六九年の四月闘争をもって、岸・ニクソン会談が、安保をアジア太平洋圏安保としこれを沖縄に適用するという根まわしをし福田が後進国開発援助政策の飛躍ののろしをあげる下から、日本の戦闘的労働者、学生は七〇年安保粉砕の決戦段階に突入した。
 われわれは、六七年がおわり六八年がはじまる二つの羽田闘争とエンプラ闘争の断乎たる推進者、組織者として、日本のプロレタリア的実力闘争の大衆的展開の新たな地平を、正面突破的に、まさに棍棒をもって打開し、確固として棍棒をもって立ちつつ決してこれの奴隷とならぬことを決意した原則的戦術を展開して(この棍棒を中核はすでに王子で共同闘争の内部へ向けたのであり、革マルはこれをはじめて持ちだしたのは権力闘争においてではなくその「党派闘争」においてであった。――このことに彼らのゲバルトの本質が示されている)。三里塚にはじめてガス弾のぶち込まれた大衆的実力闘争の労学の最先頭に立ち、この闘いのプロレタリア的地平の開拓において、これを王子闘争に貫いた。
 そして、この政治的実力闘争の、反合―反産学協同の職場、学園の闘いへの反作用を意識的に推進して、怒涛の全国教育闘争のプロレタリア的最先端を切り拓きつつ、この反合―反産協の社会運動に強大に基礎づけられた政治運動としてアジア太平洋圏安保粉砕の闘いの決戦段階を準備する戦線整備をすすめ、これを一〇・二一へ、東大安田講堂攻防の決戦(六九年一月)へと突きだすことによって、学園占拠をもってする全国教育闘争のめざましい拡大進化が突き進められ、同時に職場行動委員会(その地区共同)と相互媒介的に推進されるプロレタリア反戦、――こうしてベトナム人民抑圧戦争反対、アジア太平洋圏安保粉砕を高く掲げたプロレタリア政治運動=社会運動の台頭が、四月闘争をもって、その結集された推進力の独自闘争として、そして総評青年労働者の共同闘争の推進として、押し開かれた。こうした闘いの過程は、日本社会党を桎梏として打開しつつスターリン主義と闘うプロレタリア的党派としての極の形成、その推進する闘争が、対中核―対ブント―対革マルの一連の激烈な党派闘争、その最後のものでは武装対立の段階に突入した党派闘争を貫き通して、自分たちの組織的基礎の労働者性をさらに反省し、深め、鍛えるということと、同時に進行しなければならなかったのである。革マルの宗派的卑劣性は、六八年秋の拝島闘争をはじめとする反戦、反合の青年労働者学生統一行動で、革マルがわれわれの横に来ていたのであるが、この状況を利用して、「平和共存の外観で近づき」してやったりと(革マル「全学連」大会提出。彼らの「自己切開」の自己欺瞞ぶりを見よ)、早大学生の誇るべき大衆組織早大文連の白色テロによる乗取りの陰謀(暴かれた早大革マル陰謀文書の組織戦術に得々とした醜悪さを見よ)に動いたことに、端的に示されている(安保全学連の反動的棍棒による乗取りをはじめとしその腐敗を腐敗として全く意識できぬ組織論に「理論化」されて釘づけされた、革マルの汚れた歴史の一表現。かかる革マルによって生みだされたものとしての、ブルジョア社会の荒廃一般にすりかえることの許されぬ独特の荒廃が、川口君テロ虐殺の原因なのである)。このような、宗派組織の本性をなす陰謀をもっての「働きかけ」を働いている革マルは、だから当然にも、東大闘争、全国教育闘争において、初めから(早くは日韓闘争直後の第一次早大闘争から)終りまで(さらには現在の教育闘争にまで)自分自身を本質的にも現実的にも反動的宗派として押し出すほか何事もなしえず、その四月闘争は宗派固めに集中するほかはないものとなった。》
《こうして六九年の盛夏、全国反安保労研運動が、六三年秋に出現して以来丹誠をこめられてきた労働者行動委員会運動の全国結集としてはじまり、ほぼ時を同じくして革命的労働者協会(社青同・社会党解放派)が、一〇年の分派闘争を通じて、そして六五年夏出発した分派組織――形式的には「社青同解放派(東京)」だが内容は「社青同・社会党を貫く一つの全国的分派」を胎む――の発展として、結成された。日本の深部からの変革を開拓する革命的労働者たちは、この二つを自分自身の組織的根拠として、現代の生産組織を帝国主義的工場制度としてつかみ、そのあらゆる領域にわたる破壊作用に直面している闘う大衆、その結合をすすめて「自分たちの共同による自分たちの労働の支配」をめざして国家との闘いをすすめんとする党派、このようなものとしていたるところの全共闘が全国全共闘として連合し、全国反戦の労働者的再編成が進み、反戦青年委員会問題で労働組合が動揺し、同じくこれに社・共があらためて身がまえるなかで、アジア太平洋圏安保の成立、粉砕の、勝敗を決する闘いに突入した。――労動者行動委員会は既成労働組合の中で独立性を強め、分派組織は、全国社青同が九月の大会を最後の統一大会として反戦青年委員会問題から中央機能停止、全国組織としての活動マヒの状態に入り社会党は反戦青年委員会排除に入るなかで、既成党に媒介されかつそれを媒介しつつ、断乎たる大衆の組織的闘いに直接身を現わしながら。六六年九月の社青同東京地本組織処分攻撃いらいかくして、工場からの叛乱の組織者として、ストライキ実行委員会を組織し、労働組合青年部、争議団の共闘を組織し、諸大衆組織の地区共同を組織し、大衆的政治ストライキの闘いが展開する実力街頭闘争の最も断乎たる推進者として、プロレタリア統一戦線を推進する勢力の独自的な闘争と共同闘争に全力を傾注し、一〇・二一から一一月佐藤訪米阻止闘争を、全国的中央集権の官僚的統治機構に衝突する力をつちかいながらこの力を現地実力闘争に押し通して、ガス弾の直撃をはね返しつつ、膨大な逮捕者をだしながら、独自の闘争を闘い抜き、また同時に総評の統一行動を闘い抜いた。毎回の全国大会に抗議と呼びかけを積み上げてきた闘いを、その最後の統一大会への実力入場による弾劾と共に闘わんとする呼びかけをもって突き出しながら。》

(九) 全国解放派結成の具体化

 全国解放派の要求は、六八年三月、反戦闘争の全国的昂揚のもとで、起きてきた。種々の新左翼集団と拮抗しながらの反戦=反合派としての前進、そして全国社青同内部での協会派の抑圧に抗して生み出されてきた反戦派としての結集――
「以上のような背景のもとで三月一二日全国反戦代表者会議が行なわれたが、この会議に先だち、今まで東京KFと交流のあった部分との全国反戦対策のフラクを持った。このフラクは、全国反戦のLSY部分がLSY反戦派を作る動きがある。それに対し「反協会派のこの共闘組織の結成については〈単なるLSY権力の乗っ取り〉のためではなく運動をつきつけることによって協会派の官僚的セクト性と闘う共闘フラク」というものにする方向で確認し、同時にこのような観点で闘う政治闘争をやるための党的結集をはかることが必要であること、そのためにKF全国化を目指して活動をはじめることを確認した。そのためにまず予備的センターを作ることになった。
 そして、四月一三、一四の両日にわたって開かれた第二回の連絡センターでは、「各地における反戦闘争の前進と政治方針の確立のための協同作業」として各地の運動をどのように結合させるかという観点から「単に東京の位置から立てるのではなく、参加者全体の必要性として結集する」ものでなければならないことを確認した。第二回はこのような観点から、まず各地の問題意識をつき合せ運動の交流をはかることからはじめた。
……以下六府県からの報告・省略
 以上の報告のあと連絡センターの事務局を東京に置き月一回のペースで会議を持ち活動の交流や討論を積み上げることにした。
 このようにして運動の交流をはかりながら第三回センターでは運動論上の問題意識のつき合せを行なった。……
 六月参院選で開催の遅れた第四回センター会議は第三回の申し合せによって情勢討論に入った。当日は全学連大会で上京中の学生の代表者も出席して行なわれたが、中身の討論に入れないままに終り、再度討論を積み上げることを確認して終わった。」
(「全国センター経過報告(一九六八・九・一)」)

 こうした全国解放派の要求の高まりを受けて、社青同解放派(東京)は六八年八月の総会で、〈全国解放派の年内結成を期して安保総決起・全国解放派結成一二月臨時総会の開催!〉を決定し、全国の兄弟的諸組織に向けて全国解放派結成のアピールを出す。

「全国解放派結成に関するアッピール
 七〇年安保をひかえ、巨大なプロレタリア階級闘争の発展のために日夜苦闘している全国の同志諸君!
 社青同解放派(東京)は、諸君の連日の闘いに対し心からの連帯を表明する。
 われわれは、この一年間における闘いの総括として、言葉の真の意味における〈政治的引き回し〉を断乎として拒否し、「産業合理化反対闘争の発展としての政治闘争」を頑強に追求し、したがって、反合闘争の「協力」を「行動委員会」運動を通じて闘いとって行くことこそが、真の労働者革命党の建設の道であることを確認した。
 昭和四〇年代は、ベトナム戦争の激化、ドル危機、フランスの五月ゼネスト、チェコに対するソ連の武力介入など激動する世界情勢によって特徴づけられる。
 同時に、日本帝国主義は、四〇年不況の回復過程で、膨大な設備投資、合理化投資を行い、スクラップ・アンド・ビルドの産業再編成を強力に推し進めている。日本帝国主義は、国際的な競争に打ちかつために、産業再編成を急ピッチに推進しているが、それは同時に職場における「資本に対する絶望的な従属」をつくり出しているばかりでなく、国家権力の一層の反動的強化と対外政策の反革命化をもたらしている。
 労働組合運動においては、総評大会の翌日、労働問題研究会なる反共戦線統一派の連合が公然と活動し出し、「総評の危機」が叫ばれている。
 他方、社会党は、参院選の敗北の総括を技術的に乗りきろうとし、人事問題で右往左往している。すでに、社会党や総評などに現在の事態を解決する能力が失われていることはますます明らかになりつつある。
 今こそ「反合闘争」の全面的な協力とその階級的政治的成熟の組織としての「革命的労働者党」の建設が現実的な課題となった。
 社会党・社青同を貫く分派闘争を通じた革命的労働者党建設の道を進まんとする全国各地の「解放派」ないし同志は、今こそ全国的に団結して七〇年安保を闘い抜き、日本革命、世界革命を闘い抜く組織を造り上げなければならない。
 日米反革命階級同盟の飛躍的強化を目指す七〇年安保に対する闘いは、すでに開始されている! 全国各地において、反戦闘争が闘われ、反合闘争の発展としての反戦闘争への追求が執拗に行われている。
 社青同解放派(東京)は、全国の同志に呼びかけて、今年三月以降、数回にわたって全国各地の運動の交流、突き合わせから、情勢把握の相互討論などをつみかさねてきた。
 各地方の置かれた条件の違いを乗り越えて団結するには、多くの予備的討論と準備が必要であろう。しかし、情勢はわれわれに充分な時間を与えてはくれない。われわれは、今年中に万難を排して全国解放派の結成に向わなければならないと確信する。
 あらゆる障害を乗り越えて一二月までに、社会党・社青同を貫く分派としての全国解放派を結成しよう!
 来たる九月二一日からの社青同全国大会、九月二二日の米タン闘争を断乎として闘い抜き一二月全国解放派結成大会に結集しよう!
 全国の同志諸君! すでに闘いは始まっている。われわれ社青同解放派(東京)は断乎としてこの道を推進することを決議し、ここに決意を表明する。
 万国のプロレタリア団結せよ!
 一九六八年九月一日
 社青同解放派(東京)第五回定期総会」

(一九六八年九月、『滝口著作集』@所収)

 このアピールを受けて、第五回連絡センターで具体的に全国化の準備に手をかけることを決め、第六回連絡センターでは大まかな手順と結成にむけての体制を決定した。
 全国化準備の最高機関として「予備センター全国代表者会議」、必要な諸文書を起草する「テーゼ起草委員会」、中央事務局の性格を持つ「組織準備小委員会」が形成され、一一・六センター全国会議、一一・一七起草委員会と六八年一二月結成に向けて準備を進める。
 しかし、六八年一一月東大闘争全学封鎖、一二月早稲田文連乗っ取りに端を発した革マル派との全面対決への集中によって、一二月全国化は四月へ延期を余儀なくされた。
 二月以降再開された、全国化に向けた作業は、四月二一日大会(四・二〇全国反戦の集会)に向かって、全国代表者会議を三月一六日、三月三一日と急速に進められた。
 この四月結成に向けたギリギリの時期に、「今のままでは結成に反対である。しかし、いま少し総括討論を煮つめれば、東京解放派が全国解放派に発展的に解消するとともに『革同』もこの全国解放派に発展的に解消することができる――その確実な保証はないが、しかしその可能性が大いにあるがいま結成すれば殆ど不可能になる。こういうことが『革同』の指導的解放派メンバーから提起され」、東京の総務委員会はさらに一ヶ月の延期を要請する。

「 全国の同志に了解を求める――東京解放派総務委員会
 全国解放派結成に手をつけ推進する作業は、すでに一年余に及び、この間、全国代表者会議を数多く積み上げ、毎回、運動の全国的な相互理解、基本的一致の掘下げ、総括と問題の切開、それに、社青同(全国)や反戦闘争の全国的連絡、意思統一、共同の推進に努め、それを集約的にテーゼの基本、実践的必然性、骨子草案としてまとめ組織討論とオルグが現に進行しているなかでありながら、それを結成大会の一週間足らず前に、東京解放派総務委員会が全都のみならず全国の同志に、一カ月の結成延期を求めることは、とりわけ目の色を変え全力をふりしぼり、かつ具体的に四・二一大会を準備してきた全国の同志に全くすまないことであり、そっちょくにおわびするほかはない。
 それは、昨年の夏の東京解放派第五回総会が全国の同志に全国解放派へのアッピールを発し、それにも拘らず、昨年末の結成の全都的全国的意志一致を一二月一〇日の最終集約の段階で、反革マル闘争への突進という事情の中でとはいえ一たん延期し、その上で確認してきた四・二一であったことからして、なおさらのことである。
 以上のことを重々ふまえることの上に立って、一つのことを全都・全国の同志に言わねばならない。かくもながい期間をおきながら、問題が煮つまれば煮つまるほど、もう少し時間があったら、という思いにいたる点であり、多くの点で不充分さを現に残していることは否定することはできない。むしろやっとこの問題と真剣に格闘することを開始したとさえいえる面や所もないわけではない。それにも拘らず、これは延期の理由にはならないし、みんなそんな態度はとっていないであろうし、いまやそれは許されない。それは、どんなに不充分な面があろうと、最も核心的に重要な点、つまり、現在における全国解放派結成の実践的必然性=必要性の根本に焦点をあてて徹底的にここから問題を引き出す基本に据え付けられて、すでに開始され突破されんとしている以上、“延期”は「完全主義」的要求となり、かえって、最も真剣に突進している人たちを傷つける勝手な怠慢ともなり、真剣な運動を去勢させる方向に作用することは言うまでもないことであるから。この問題で、各人が運動を傷つけることになってはならぬという態度をとっていることを、われわれはいたる所で読みとることができる。
 それにも拘らず、そうした種類の“延期”とまぎらわしいが、区別されるべき一つのことを、われわれは言わねばならない。それは社会党に関わる分派闘争についてである。全国解放派結成に向けて、これについて、われわれの為したことと、為していないことの要点はこうである。為したこと(それ自身がまだまだ大いに不充分であるが、それにも拘らず単に形式的に強調して決めつけるのではなくいま一歩実践の根本から全国的必要を引き出すものとして)といえば〈行動委員会運動の中からの党〉という実践的必然の原則とそれの〈社青同・社会党を貫く全国的に組織された分派闘争〉という実現方法の基本、及び、少なくとも全国解放派がこの組織的闘争の中心的推進力として全国に組織的拠点をつくってゆくことが全国的に共通な課題としていま一歩共通認識に近づいたこと――これは無論、単に東京の成果などではなく全国の闘いによる一つの成果である! われわれのまだ為し得ずに結成に向かっていることは、この問題に限っていえば、特に社会党内分派闘争を掲げるもう一つの組織、解放派メンバーのほかにその他の人たちをも含めて組織され、現に一定の具体的活動を展開している組織、すなわち「革命同志会」(略称・革同)を具体的組織的にどうするということを明確にしていないということである。むしろ、全国解放派結成について反対がない以上、少なくともふまえておくべき点(互いに単に消し合うようなことにならないように)を配慮して全国解放派を先ず結成し、その上で、闘いの過程で「革同」のあり方を抜本的に問題にしてゆくほかはないし、事実「革同」の組織的再編成というようなことは、いま実際に問題とすることはできないものとして前提してきたといえよう。
 そしてこの不充分さは、そのために結成しない、ないし延期するという理由にするのではなく(いま直接どうこうするというように問題がたたぬ限り)、残されている課題として確認して進むほかはない。だから、この不充分さがあるから今結成しないという態度をとることができず、東京でも、討論を煮つめていく過程での産別代、総務委でもそう確認してきた。だが最後に問題はこういうふうにしぼられてきた。つまり、今のままでは結成に反対である。しかし、いま少し総括討論を煮つめれば、東京解放派が全国解放派に発展的に解消するとともに「革同」もこの全国解放派に発展的に解消することができる――その確実な保証はないが、しかしその可能性が大いにあるがいま結成すれば殆ど不可能になる。こういうことが「革同」の指導的解放派メンバーから提起されるに及び、一カ月結成を延期してその可能性を汲みつくせば、その期間にたとえ万一この問題が最終的に結着を見出し得ないにしても、結成に異議がない以上、ただ準備不充分だからではなく、この可能性を最大限に汲みつくすためにこそ、結成を一カ月延期(具体的には五月二五日はどうか)し、この努力を致したいことを全国に求めるよう、東京解放派総務委の責任で要請することとなったものである。いまさらのようであるが、ぜひ全都・全国の同志に以上の延期を求める主旨を誤解なく了解されるよう要請する。
 この作業の基本方針についてわれわれ自身を反省しつつ次のようにはかりたい。
1、「革同」と「東京解放派」は組織の性格や位置づけが同じではなく形式からしてもスジとしても「合同」ではない。東京解放派が全国解放派へ吸収されるばかりでなく、この〈社青同・社会党を貫く一つの分派〉に基本的に一致が確認される限り、「革同」は〈発展的に解消〉され、同時に、一層広範な〈大衆的共闘フラク〉として「左翼党員連合」(仮称)というべきものを新たに追求する。
2、これは、いうまでもなく「野合」であってはならず、運動=組織路線ないし見解と意図の基本的一致を獲得するべく、各地区各産別から頂点までの「革同」内外からのオルグ、相互討論の作業をつみ上げ、意見の相違をあいまいにせずに一致を追求する。
 @テーゼに焦点をあてながら、見解と意図、運動=組織路線の原則的一致を追求する。
 A東京解放派結成以来の、社会党に関する分派闘争をその時点でどのように問題にしてきたかを過程としてふり返り、現在での総括点をしぼる。
 B社会党に関わる分派闘争の方針として

  イ 七〇年安保闘争を闘いぬける全国的な党内拠点の構築
  ロ 〈行動委運動の中からの党〉に基づく党内闘争の基本方針
  ハ 党内分派闘争の全国指導部の確立

 について実現の方針の全国的一致を追求する。
3、その他、全般的に不充分だと思われる諸点を、この間最大限に埋め、五月中旬に全国代表者会議をもって最終的に点検し、それでも不充分な点は課題として確認して何が何でも五月二五日に結成する。
 ▽もはや四・二〇を目前にし、二〇日夜に全国代表者会議にはかるほかないとも考えたが、やはり、全国自身が決定できる問題であるからして、敢て、緊急電話で了解を求めるとともに一八日夜九時集まってもらうよう要請した。」

(一九六九年四月、『滝口著作集』@所収)

 革同の意向は、結成時期にはこだわらず、社会党における分派闘争を重視した態度を表明する。
「5月15日、革同運営委からこの問題についての次のような態度を正式に提起された。
“社青同と社会党を貫く一つの全国的分派結成への呼びかけについての革同の態度”としては、次のように要約される。(この表現についてはN革同代表に確かめてそのまま記す)
1、入党を前提にした党内分派闘争路線
2、社青同を指導すること
3、統一方針、統一実践、統一総括を行う
4、一定の実践の後に総括、テーゼを作って統一を達成する
1〜4を今日から追求するために、革同・東京KF、地方を代表する人達で準備会的全国協議会を発足させること
以上である。討議の中で明らかにされたことは、革同としては、組織結成の目標時期を今から設定しないこと、この組織構成メンバーは全員入党すること、組織名称については今から同意できず作業の過程であらためて考えたいこと社青同だけの分派組織ならば別に問題にしないこと、などである。」

(五月一八日「全国予備的センターへの報告レヂメ」)

 五月一八日の全国予備センター会議の議論と革同との折衝の上で、全国分派結成のための中央常任準備会が成立する。その経過は、以下の通り。
「中央常任準備会活動報告    69710
(A)成立の経過
 中央常任準備会の成立は、去る五月十八日の全国予備センター会議に於て、中央活動に関する東京・京都からの提案の審議・決定を受けて、革同との折衝の上、成立したものである。
 従って、@全国予備的センターは解消せず、A革同を除く、中央メンバーは、全国予備的センターの中央準備委員も兼ねることとなり(1)目的、(2)任務、(3)権限、については、全国予備的センターと相異ないが、(4)組織構成について、解釈の違いをきたしたことである。
……
(4)組織構成
 5/18の全国センターに於いては、東京KF2、京都KF1(西日本)、学生中央組織1、神奈川KF1(東日本)、革同1の6人の構成となったが、革同との折衝の結果「それぞれの組織代表と言う構成であれば、東京KFは1とし、他の1は全国社青同を担当するものとして位置づけるべきだ』との賛否の意見が出たが、東京KF滝口氏より「もう一名については東京KF代表とはしないが、中央常任準備会メンバーとして了解して欲しい」との提案があり、各メンバーとも「当該組織の提案である」としてこれを了承した。
従って、他の一名(矢吹氏)については、招請状には名を連ねることになったが、所属組織を代表するものではないとして、所属組織(東京KF)を記入しなかった。

(B)成立とその活動
 中央準備会は、正式メンバー、特に、京都、神奈川代表の出席を得て、六月三日に発足した。しかし、その準備過程として、五月二六・二九日に、東京メンバーで会議をもった。六月三日以降は六月十日、六月十九日、六月二七日、七月四日の五回にわたって討議を重ねた。要約的にその内容を報告すれば次のとおり。
……以下、参加者と討議項目、要旨等、省略」

(七月一〇日「全国予備的センターの報告」)

 中央常任準備会の五回にわたる準備討議を経て、革同系も含めての全国都道府県代表者会議が開催されることになった。
「全国都道府県代表者会議への招請状
全国の兄弟的諸組織及び同志諸君!
中央常任準備会は左記の要領で、全国都道府県代表者会議を招集する。言うまでもなくこの会議は、過去の公式・非公式の交流・相互討論の上に立って更に一段と高い結束を図るためのものであり、「統一方針・統一実践・統一総括」の貫徹の上に、それぞれの組織の発展解消を行なった全国統一組織を結成する途上のためのものである。……
 ……我々は、この流れ(プロレタリア統一戦線の現実的形成の)をただひたすら、守り、育て、強化し、しかも全国的に結合せしめ、かつ自らを、その断乎たる推進者として、鮮明な輪郭をもった結合体へと形成せねばならない。しかして、その力をもって、当面する総評大会(反戦解体に向けて、太田・岩井ラインと日共の野合の締め上げ)をはじめとする一連のヤマを乗り切ってゆかねばならないと同時に、十一月佐藤訪米阻止に至るまでの我々の独自的な勢力を一段また一段と強化し、プロレタリア的反安保闘争の推進に精魂を傾けつくさねばならない。
 全国の兄弟的諸組織及び同志諸君にあっては、闘争の手を緩めることなく、しかも我々自身の独自的作業である党的結集へ向けての作業に協同して当たられんことを心から要請するものである。

〈要領〉
一、日時 七月二八日(pm六時)〜二九日(pm五時)
一、場所 (略)
一、議題
 (一)労働者大衆の状況(日本に於ける労働者階級の状態)の可能な限りの鮮明化と七〇年安保の総路線。各政党政派の位置と構造、批判。我々の位置。
 (二)四月〜六月闘争の総括を受けての秋の闘争方針
 (三)社青同(全国社青同奪権をみつめての)問題
 (四)準備体制の確認と財政問題
  六九・六・二七
     中央常任準備会
     滝口弘人(社青同解放派―東京)
     川越敏夫(日本社会党革命同志会)
     坂下昭二(神奈川反帝労評)
     坂井元彦(革労協―京都)
     吉野  (社青同全国学協解放派)
     矢吹竜之介」
〔註 一部の本名表記は組織名に変えた〕

(七月一〇日の報告と同封)

 その後の経過を伝えるものとして、社青同解放派(東京)の八月の第六回大会議案の「〈社青同・社会党を貫く一つの分派〉の全国的組織化のために」を以下に示しておく。
「一 昨年九月の第五回総会で、われわれの闘いと組織の現在的問題、その過去または過程の総括、将来への展開の核心、そしてそれらの突破口などを、闘いと組織の基礎づけの問題として集約的に検討し、全国解放派の年内結成を全国に呼びかけた。すでに同年二月以来月一回平均で積み上げてきた予備的センター全国代表者会議の闘いの交流と相互信頼、当面の問題についての共同の対処、全国的組織化に関する共通の問題の集中討議を少しずつながら進め、一二月結成に向かったが、大規模な直接の反革マル闘争への突入の中で、一二月結成を延期せざるを得なかった。
 今年に入り、この中断を受けて、あらためて全国的組織化の必要性を根本から相互に問題にし直し、その実践的必然性=必要性に即して組織のあり方とテーゼの骨子を立てる二回の全国代表者会議をもって、四月二一日結成を確認した。この時点まで、実現されるべき全国解放派は〈社青同・社会党を貫く一つの分派〉としながらも、『革同』(日本社会党革命同志会)については組織性格のことなるものとして(われわれの大衆的共闘フラクションとして位置づけてきた)、全国解放派結成を先行させることを前提にして進んできた。しかし、四月上旬、革同内解放派の指導的メンバーより、テーゼ草案(骨子)、組織性格等を検討し、革同との原則的一致と革同の「発展的解消」の可能性が提起され、総務委員会の機関討議によって、実現の保障は決してないが、この可能性をいま一歩汲みつくすために全都・全国の同志に再度延期を要請し、「了解」を求めた。予備的センター全国代表者会議で一応了解され、五月二五日を動かないものとして結成するということで一カ月ほどの延期ではあるが、『革同』との討論ができるためにも最大限努力する態度を表明した。五月十八日の全国代表者会議に『革同』としての態度が公式に伝えられ、すでに報告しているように、結成時期(期限をいまから立てぬ)と参加資格(全員入党)について意見の相違があることが明らかになったが、原則的に「発展的解消」=原則的統一の意向が表明された以上、『革同』をふくめた「中央常任準備会」を(全国予備的センターとは別個に)組織して討議を煮つめてゆくことになり、三度目の結成延期をすることになった。
 その後の経過は別に報告しているが、七月二八日―二九日「全国中央常任準備会」の指導する全国代表者会議をもち、その会議において、東京解放派として今や九月一日結成をぜひとも実現しなければならないという意向を表明した(ほとんど毎回の中央常任準備会の討議で結成時期を明確にして作業に入ることを主張し、総務委員会の機関決定をもって全国代表者会議の中央常任準備会の提案とするよう求めたが意見が一致せず、七月二七日の予備的センター全国代表者会議にはかりつつ、この意向表明を行ったものである)。だが、二八―二九日の中央常任準備会が主催する全国代表者会議(事実上、全国予備的センター参加の代表と革同代表の出席する会議となった)の場所で採決、決定を求めることはしなかった(『革同』としては今月十六日の『革同』総会で検討したいということになっている)。全国予備的センターとして、『革同』の不参加ないし反対があっても、九月一日結成すべきだという集約をし、いまその個別的な確認の作業に入っている。
二 六月末から七月初めにかけて、全国解放派結成を、具体的に推進するための提案をもって全国代表者会議にのぞむべく意志統一の作業に入り、この問題に集中した総務委員会を二回もち、討議した。しかし総務委員会としての機関決定は、『革同』の指導的メンバーでもある総務委員(二名)の出席が無いので、さしひかえることとし、その出席可能な十八日、社青同地本大会の最後的点検とこの問題を中心にして討議決定した。昨年の総会で全国化方針を決定しているとはいえ、『革同』との関係に重大な影響を及ぼすように実際の結成を進めざるを得ないので臨時総会をもって組織としての態度を最後的に確定することにした。この総会の基本方針を受けて、『革同』総会を前後して社会党委員会をもふくめてさらに具体的に対処して行きたい。七月十八日決定した全国解放派結成のための総務委員会の態度の集約点はこうである。
@ 全国解放派を九月一日に組織結成大会をもって組織として出発せしめるべきであり、その時点で、『革同』の不参加ないし反対があってもそうすべきである。
A 『革同』との原則的統一(原則的一致を獲得しての統一)は依然として追求する。その形態は全国解放派結成後は当然ことなる。『中央常任準備会』はなくなり、別の組織的な方法、形態を全国的に決める)。
B このまま組織的結合を遅らせれば、今秋からの反安保闘争の激烈な突進のなかで、反戦と反合、または政治闘争とゲリラ戦の闘いの中で、全国的に闘う一人一人の磨滅を見すごすことになり、社青同・社会党の分派闘争を現実に全国的に組織し、それを特に産別の全国的結合によって基礎づけていく必要が、まさに闘う主体的条件からして、もはや遅れることができないものとして突き出されていること。
C この作業を全国労研運動に取り組むことを通じて直ちに着手し、それを同時に、全国解放派結成の組織的準備とすること。
D 九月一日結成にたとえ『革同』の参加がなくても社青同だけの解放派ではなく社青同・社会党解放派の全国的組織化として、もてる力をもって社会党に直接関わる分派闘争を展開することを、われわれ自身の反省をもって組織的任務とすること。
E この全国解放派の結成にとって、東京の任務は重大であり、人をふくめた最大限の責任負担体制をただちにとること(東京地本人事をも考慮しつつ)。
 この態度をもって、すでに社青同東京地本大会、中央常任準備会、全国予備的センター、反安保労研の組織化に臨みつつある。この課題の遂行は、いうまでもなく重大な決意と貫徹力を必要とする。われわれは、総会をもって、全組織的に意志統一をし、産別、地区の各機関、学生委員会、社会党委員会をもって、職場を焦点とした産別、地区行動委員会とそれに基礎づけられた現実的分派党争の戦線整備を組織的に推進することに突進しなければならぬ。
三 われわれは、昨秋の大会で〈「引き回し」として現れる現象〉から問題にし、その現実的根拠を問いつめてゆくことから路線上の反省をし、七〇年安保闘争の路線を確立しようとしてきた。
 七月二八―二九日の全国代表者会議で『革同』代表から、解放派が社青同東京地本を引き回し、地本は大衆を引き回しており、そのことが原則的統一について時間がかかることの理由の一つとしていわれた。機関上の「引き回し」(そこであげられた「事実」自身がその通りであるかがすでに重大な問題であるが、そのことは一応別にして)はそれだけでは解決できず、その根拠をどのように問題にしているかが大切である。解放派としては、社青同をわれわれとの徹底的な一致へと進めることが問題であり、その欠陥はわれわれ自身の問題であり、その意味をどんな引き離しをもたらさない方向で問題にしてゆくことは当然でなければならない。その現実的根拠をわれわれはどのように問題にしたか? 反戦・反合を一つのものとして推進することを課題としつつ、しかしそれが引き裂かれんとする傾向を全般的に克服し得ていないものとして。すなわち、反合又は反産協のゲリラ戦への突進がそれへの没入となり、他方反戦の政治闘争への執拗な関わりが一面的に政治主義的になるならば、どんな闘いの提起も、引き回しとして現れる傾向、闘う各人の磨滅の傾向がさけがたいことになると。そして、われわれ自身の現在、過去、将来をこの問題に集中的に格闘することによって問題とした。そこから、全ての問題をとらえかえそうとした。この路線的一致を深め、再構築することが課題であるとした。社会党に関わる分派党争と『革同』についてなしたこと、なしていないことを事実的にふりかえりながら『革同』についての組織的評価として、次のように要約した。闘争路線については、反合闘争の発展としての政治闘争、組織路線としては行動委員会運動を結びつけ発展せしめるための分派闘争路線として基礎づけられておらず少なくともそういうものとしての明確な意識が引き出されるための格闘となっていない、というように。この問題は、実際解放派自身の問題である。特に『革同』の指導的メンバーが解放派のメンバーでもあるということからして、すでに昨年初め、『革同』の出発から一年足らずして、すでに分派闘争路線についてのギャップが実際問題として突き出されつつあるのではないかということが、直接には社青同の階級的統一の問題としてあらわれ(「何でも呑み込み腐蝕して生きる社会党」という評価などに関連して)『革同』の指導的メンバーを含む拡大総務委員会をもって討議し、それを「若干の組織問題と革命的労働者党建設(日本社会党の組織性格と分派闘争)」として、全組織的討論に提供したが、そこでの問題の中心は、社会党から「切れる」のかどうか、ということで分派闘争か別党コースかが原則的に区別される(「原則のふみはずし」として)ようなことを突破して、労働者の現実の問題との格闘の発展が社会党の「限界」突破を不可避とする(公然たる分裂として現れて当然)分派闘争路線ということである。このことは社青同東京地本の分裂において鋭くあらわれた問題である(「社青同・総評ブロック」から切れるのかどうかということで、解放派が分派闘争路線をあいまいにしたり、放棄したり、方針が遅れたりなどしたどころか、この路線的な掘り下げを率先して提起し、接近し、そのことによって今日の解放派を再構築してきたのだといえる)。それを、昨秋の総会では、社会党に関わる分派闘争の闘争と組織の路線としてさきにみたように要約した。
 最近『革同』は、「組織総括」として、社民体制内化の危機を突破するために、単に社会党「窓」からながめわたして対処するのではなく、現実の大衆闘争に取り組むべく格闘しなければならないという組織の方向提起をしている。これは、いうまでもなく一歩前進であり、われわれはこれをその帰結まで推し進めなければならない。その帰結まで、というのは、この大衆の現実の要求、課題との格闘によって分派闘争路線そのものを、まさに組織路線として確立すること。社会党と「切れる」のかどうかではなくて、その桎梏を桎梏として突破する闘争組織路線、すなわち行動委員会運動に基礎づけられ、それと格闘する分派闘争路線として。もしそうでなければ、大衆闘争への取り組みはそれを物理的エネルギーとして利用したいということを路線として突破してゆくことはできないし、分散主義の克服は中央集権主義(単に一方のみならず両面をもっているのが社民組織の性格)へのぶりもどしにもなりかねなくなってしまう。そして最も重要なことは、産業合理化を鋭い現実核心とする現実の労働者諸個人が、〈結びつき発展する〉という意味からして組織の根本的必要を引き出し推進するという組織問題の立て方が明確にならない! こうした路線上の強力な一致の獲得なしに、「大衆共闘フラク」であれ、どんなフラクであれ、われわれのフラクションとして組織展開することにはならない。こうして、解放派の推進する『革同』の拠点のいくつかはこうしたフラクション的性格をもちながらも、解放派が組織として、一つの組織体としての『革同』を具体的にフラクションとして機能せしめるには至っていない。われわれは、社会党に直接関わる分派闘争としては、『革同』を通じて展開することにし、基調的な方針提起と社会党委員会の討論を若干行い(事実経過をふくめて、第五回総会議案参照)全体についての中央機関である総務委員会に『革同』内解放派の指導的メンバーが入り解放派全般の闘争についての組織的保障の一つとすることがなされてはいるが、まだ路線的一致が確固とするに至っていない。われわれの路線を掘り下げつつ、この原則的一致のための闘争は依然として現在にも引きつがれ全国解放派の結成によって終るのではあり得ない。さらに加えて特に社青同東京地本の公然たる分裂以後、原則的な階級的統一のための闘争を繰りかえし、分派闘争路線の放棄どころかその路線的深化をめざしてきたとはいえ、分派闘争は、社青同の領域をふくめて、解放派組織として、現実的取り組みを稀薄にしていることは否定できない事実である。こうして、解放派が一つの解放派組織として、統一的に社会党内分派闘争を具体的に展開するということにはほとんど全くなっていない。解放派自身のこの反省を、もはや「社青同解放派(東京)」に止まらない「社青同・社会党解放派」にしてゆく中で、実際に証明してゆかなければならぬ。
 以上のことを、解放派自身の自己批判として、強調すべき点を突き出すように要約し、われわれ自身の前進に資することにしよう。それは第一に『革同』と解放派の間の問題は解放派自身の問題であり、分派闘争路線についての解放派自身の原則的一致の問題であり、総務委員会及び社会党委員会をはじめとして、この路線的一致を強力に、組織的に推進するに至っていない。それはすでに見た要点をあいまいにすることなく、しかし、すでに到達した点に満足することなく、具体的にも原則的にも一層掘り下げてゆくことなしに、成し遂げられない。そして、第二に総務委員会及び社会党委員会をはじめとして、解放派組織として、社会党に直接関わる分派闘争を具体的に組織展開として推進することを、ほとんど全くなし得ていない。それは「社会党内分派闘争」に止まらず、「社青同内分派闘争」、すなわち、「社会党内分派闘争」の前進にとって欠くことのできないこの領域の分派闘争にとっても、「何故社青同に入って闘うのか」ということが、新たな闘いによってあらためて問いつめさせられている現状において、つまり、社青同における分派闘争自体も、新たに疑いなおされるということとの格闘なしに、すなわちこの領域での分派闘争の具体的な組織的展開の再強化をなしとげることと不可分に問題にすることなしには決してなしとげられない。社会党という既成党の桎梏を桎梏として突破してゆくことをプロレタリア解放闘争の不可避的な課題として、分派闘争を通じての革命的労働者党建設を不断に、現実的に展開するために、以上の二点をわれわれ自身の問題として徹底的に留意して進もうではないか。
 九月一日結成に向けて直ちに着手すべきこと
一 反安保労研集会を組織するなかで、各産別の全国的行動委員会(連合)及び解放派の全国産別委員会の組織化のために、実態、闘いの問題提起、方針提起、産別毎の全国討議と連絡、オルグ、体制づくりに入り、この組織的輪郭をもって九月一日に結集すること。
二 この総会の討議を受けて、社会党委員会をもち、社会党に関わる分派闘争の具体的組織的展開の構築再構築に入ること(八月十五日の全国代、及び八月十六日の『革同』総会のためにも)。
三 各地区は、自らの闘いとその問題点を全国への報告としてまとめ、それをもって九月一日に結集すること。」

(一九六九年八月、『滝口著作集』A所収)

 全国予備的センターは、『革同』の不参加ないし反対があっても全国解放派を九月一日に結成大会をもって組織として出発せしめるべきとして、見切り発車する。革同は結局、革労協結成には参加しなかった。
 しかし、対立は決して決定的なものではなく、七〇年安保闘争終了時での再協議を約束していた。その後、革同自身も全国化を目指すが必ずしも成功したとは言えず、70年以降の反戦パージ(革労協、日中正統、婦人会議、救援会との絶縁)の波にもまれていくことになる。


《付録》

【資料1】

全国の同志へ
    学生班協議会に於ける活動の報告     江利生

 ことわり
 我々は、その他の分野におけると同様、明らかに予め討論によって打ち出された方針によって学協における活動を遂行しているわけではない。我々は、我々の活動が未だそこまで至らないことの事実を率直に認めなければならないとともに、それに向けての[活動を]早急に進めなければならないことを痛感するものである。だが我々には現在できることとできないことがある。我々の各分野、各地における活動の報告と交換は、我々に現在出来て、かつ有効な組織的活動の一つである。そればかりでなく、この活動は我々にとって不可欠でさえあるのだ。各自の活動の情報の適切な交換は、全ての活動を我々に組織の目を通じて知らせ、我々の問題意識を共通にし、我々の共同の作業を進めること[を]大いに助けるからである。ともあれ、各々の活動を定期的に報告し合うことは、我々が今何よりも必要としていることではなかろうか? 学協活動の報告を全国の同志に明らかにせんとするゆえんである。

 我々の位置
 学生班協議会の活動といえば、今年の三月および五月の第二回学協総会に興味が集中されているのであるが、ここで総会の事実経過について詳しく触れるつもりはない。その点については、学協書記局発行の「書記局通信」50〜52を参照して頂くことにする。
 最も主要な点は、「書記局通信」に表われた改良主義者や官僚に対する大言壮語や強がりにあるのではなく、学協の活動において、初めて公然たる妥協(我々が罵詈雑言を投げつけた当の相手と!)が行われた、行わざるをえなかったという点である。このことは、我々が学協活動を進めていく上で認識していなければならない二つのことがらを示している。
 第一は、学協を主体として展開する中執(及び改良主義者)との闘争には明確に限界が現れたということである。
 第二は、このことから、擬似的な(こういう表現が許されるとして)分派闘争ではなくて、公然たる分派闘争が一刻も早く要請されているということである。だが分派の問題に入る前に第二の事実に若干立ち入ってみるならば、事情はこうである。学生(班)が分派闘争を中心的に担うことができないにしても、現在次の事情を評価する必要がある。社会党的体質を濃厚にもち、公然の理論闘争を一切忌避し、裏交渉によって原則を取りひきする風潮が社青同には抜き難く存在する。これを打破することなしには、理論闘争も分派闘争も全く陰性かつ閉鎖的なものとなり、理論と組織の発展はありえない。学協のこれまでの理論上の非妥協性はこの状態に対する挑戦であった。こうして、我々は学協と中央との間の公然たる論争を創り出したのである。なるほど学生(班)は分派闘争の[/を]中心的に担うことは困難であろう。だが現在では学協の活動のみが社青同を論争の中に立たせることができるのであり、現実にそうなのである。ところが、この事情は次のことの故に一層重要である。すなわち、学協と中央との闘いが同盟内の加入戦術派、すなわち第四インターと桜木派〔註:福岡地本〕をおびきだし、彼らをして当面公然の最左派として現れた学協と中央の闘いの間隙をぬって自己の分派活動を強化せしめ、陰[/隠]然たる勢力を全体として拡大せしめ始め、かつ学協に対しても僅かづ[/ず]つ攻撃を開始せしめたという事実である。しかるに、彼らこそ我々と並んで同盟内に本格的な分派を確立しようとする唯一の部分なのである。次のことは明きらかである。学協対中央という形式では我々の現在の論争を発展させることは最早できないし、桜木派、第四インターとの競争においても敗北せざるをえないということ(今は理論闘争の形式を言っているのであって理論そのものについて言っているのではない――学協という組織と福岡地本・三多摩分室等の基本組織)、或いは、中央および加入戦術派に勝利するためには益々学協解放派自身の分派としての出発が不可欠であるということである。
 だが学協解放派は、未だ分派ではないし今直ちにそういうものとして出発させるわけにはゆかない。我々、とりわけ労働者部隊の分派への準備並に形成が著しくおくれているという単純な理由からである。学協の現在の困難を打開するものは、この分派の確立であり、我々の活動はそのための歴史的任務に充分応えねばならない。
 かかる分派の存在しない現在、学協に結集した多くの同志にはそれに代りうるものを与えなければならない。この点については、具体的な対策を考えている段階である。

(一九六三年七月二〇日「通信1号」)
〔註 [  ]内は引用者による補足・補正及び注記である。〕

【資料2】

学校発指示  六四〇一五〇三
○○○組織化について

 各教室とメンバーは、いまこそ差し迫ってかねて準備中の○○○の組織化に着手せねばならない事態にあることを理解せよ。
一、○○○の位置づけを再度確認すれば、これこそわれわれが「組織的分派闘争による既成組織の破壊」と呼んだその分派であり、その過程を通じて「新たな党建設を推し進める」と言ったその党の萌芽である。従って位置づけからすれば、それは単なる社青同分派ではなく、社青同、社会党に対する統一的、一元的分派であり、実態的にもそうならなければならない。
二、○○○は次の五つの原則を綱領的スローガンとしてもつ。
 @革命の世界性 A革命の永続性 B革命の暴力性 C革命の現在性 D党組織戦術
 学校は五原則の簡単な要約を、オルグに適する形式で早急に文章化して各教室に下す。これをもって各教室は既に確認済みのオルグ対象に対する個別オルグの武器とせよ。オルグは勿論曖昧な人間関係に頼っていてはならない。各○○○の理論上の全都的な一致を保障するためには(これは絶対に保障しなければならない)全教室がこの五原則の承認を持ってオルグの内容とすることが不可欠である。
三、第五回社青同東京地本大会に向けてもたれたフラクションは事実上○○○に組みかえねばならない。これは五原則による各教室からのオルグによってのみ可能である。このフラクでの大会総括に於て各自は我々の党組織戦術の必要性を説くべきである(勿論一般論として)。学校としても大会総括を出すが、これは五原則とともにフラクションを○○○に切りかえる武器である。このフラクションをそれとして自立させること(このままでは単なる同盟内左派)はしない。
四、性急に五原則を押しつける態度は慎しむこと。既に一定の形を持って形成されてきたものをつくりかえるのだという点に特に留意せよ。○○○づくりは、フラクションを通して生きた現実に対して生きた方針を提起し貫徹することのなかで行わなれなければならないのである。
五、社会党都連にある革命派に対して○○○は指導の立場に立つ(一の項参照)。一般に今後社青同、社会党につくられる派閥組織やフラクションに対して、○○○は新たな党の萌芽として、指導の関係に立つ。分派紙・誌、及び名称については今は定めない。
 同志諸君、今我々が最も注意せねばならぬことは、大胆に○○○を作りながらも、理論上、政治方針上アンバランスであるような○○○を都内各地に現出させてはならないということである。六つの○○○は背後で糸を引く通信委員会によってではなく、通信委の理論的諸原則で結合されるのでなければならぬ。

 社青同東京地本執行部指導に対して各支部に於て教室がとるべき態度について
 社青同東京地本執行委員会の事実上の多数派であることが明らか(自他ともに)である今日、都内各地で何が起きているか。各支部で協会派が東京地本執行部に対する不信を徹底的に植えつけることを始めた。地本のいうことは学協と同じである、地本執行部は学生執行部である、等。又彼らは各支部で地本の方針をサボタージュし始めた。今や協会派は執行部に対して野党の立場に立とうとしている。このような新し
い局面であって、我々の指導下にあるような支部をしてこれまでのように地本執行部に対立せしめたり、地本執行部から出される我々の方針を率先して実行しないようなことは絶対に許し難い。それは地本執行部の信頼と権威を陥[/貶]め窮地に立たせるばかりでなく、我々の各地の闘いを部分的・特殊的なものとし結局東京都の運動として一つの潮流にまで形成せしめないことによって我々の運動を破壊することになり、ともあれ一つの潮流である協会派に負けることになる。今日までこうしたことが放置されていたことを反省し、各教室は、支部に対して、地本の方針の事実上の担い手として率先して凡ゆる地本活動の先頭に立つべく指導せよ(勿論方針が明らかに協会、社党その他との妥協の産物の場合はその点についての批判を差し控えるべきではない)。地本の方針に異論のある場合は、直接社青同次元、大衆的に問題にする前に、学校や地本執行委フラクと調整せよ。
 具体的に、『のろし』に地本の最重点活動の一つをおく。情報等全ての活動の先頭に立つこと。行動委組織化で先頭にたて。地本のカンパニア、地本主催の会議において動員、発言のイニシアを握ること。同盟員拡大、同盟員費完納。             以上
 ※ 各教室は早急にメンバーの名簿(既にカードを渡してある)を、学校(△△△)まで提出せよ。
   郵送の場合は、「……………」宛

(一九六四年五月三日)

【資料3】

65817 B〔ビューロー〕発通信

 すでに伝えたとおり、東京地本大会は、協会派の暴力的かまえも辞さない強硬な態度にもかかわらず、勝利をかちとることができた。しかしながら地本大会は、現下の日韓ベトナムをめぐる緊迫した空気と合理化攻撃の激化の中で行われたにもかかわらず、それに応えるだけの闘いの綿密な方針をうちたてるに弱かったといわねばならない。一方、協会派の存在は、民同の行動隊としてある以上,その基盤は決して弱くはないのである。今地本大会では一応一歩ひきさがったとしても、来年こそは!の決意を持っている。この一年は、内外の厳しい状勢からいっても、又、党派的にも、“我々の運動”を作ることに、東京地本、我々の運命がかかっているのである。特にこの秋の日韓闘争は、安保以後五年の総括という意味で、又、この闘争の過程で、日本革命の拠点作りを行うという意味で、我々の全組織をあげて闘わねばならぬ。
 地本大会をめぐる数度のフラクの中で、今や解放派の結成が大衆的に必要とされるに至った。すでに自称他称解放派は顕在化しつつあり、運動の防衛という点からいっても、個人の段階では不可能となりつつある。これまでの我々の欠陥が、その非組織性、分散性にあったとすれば、今までの総括の上に、真に運動を担う党派が今こそ必要である。
 八月六日、地本大会総括の大衆フラクにおいて、遅くとも九月初旬結成が確認され、下部討議を組織するための草案委員一五名選出した(一五名のメンバーのうち、内部以外のものは、T、I、Ka、Ki(学生))。
 その中で起草委員を選び、討議して、最終的には八月二二日の一五人委員会で、テーゼ、規約を決定、オルグを開始する。尚、八月17日、学校〔通信委〕を開き、日程を決定、九月五日結成を、一五人委員会(二二日)に提案することとした。
 又、八月一八日、六時より、中野の尾張屋で解放派結成についての都総〔通信委東京都総会〕をもつ。全員必ず出席されたし。
    議題 日韓闘争の方針 解放派結成について(テーゼ・規約の検討を含む)
    (第一回一五人委員会の報告については別紙のとおり)
 本来ならば、結成の問題は、全国総会を開くべき問題であるが、日程の都合上、及び、京都以外は、直接学校のメンバーが会って話がついているから、近い将来、必ず総会をもつこととして、東京段階ですすめていく。地方の結成は、東京の解放派の呼びかけに呼応して(地方出先としてではなく)結成さるべきものであるから、九月五日結成大会には、一五人委員会の中で検討して招請状を送るようにしたい。
    九月五日am10:00 西部労政会館

(六五年八月一七日)
〔註 文中の四名のメンバーの名はイニシャルに代えた。〕 [注 九の項目に一部変更あります。2013年7月16日変更。]