解放の通信

革命期の社会的過程について


斉藤 明            

  (1)はじめに

 @これまで、「戦後第二の革命期」が比較的浅い革命期として、一九七五年をメルクマールとして実質的に後退局面に入っていたと述べてきた。この<浅い>という意味をさらに掘り下げる必要がある。これからの新たな革命期の到来にあたって、如何なる戦略を構築することが出来るかという課題を質のあるものにするために、情勢判断と戦略の関係を今一度総括することが必要があるのだが、そのポイントは社会的隷属に対する闘いにあると考える。  それは、さらに遡って「戦後第一の革命期」の総括に繋がる問題である。これをいかなるるものとして教訓化するのかということは、「戦後第二の革命期」以前に十分に作業としておこなわれるべきであったといまさら考える。なぜ「生産管理」闘争が評議会的な大衆自身の自己権力(下からの二重権力)へと成長せずに、上からの官僚的統治党としてしか人民の前に現れないところの社会党、共産党の「民主政府のもとでの国有化」路線に政治的に簒奪され、「民主主義革命」の物理力として引き回されて、その革命的が空転させられていった過程を総括する必要がある。  このことの重大性は、二重にある。労働者の闘争がどれほど革命的であるかは、その闘争がどれほど根本的な変革を企てているのかということとして検証されねばならない。階級支配の経済的基礎とその政治的頂点を両者ながら攻撃し、社会的隷属と政治的支配を転覆し、あらたな政治的社会的共同体があらたな生産秩序として産み出されるための労働者自身の自己権力が闘争の直下に二重権力として生み出されてゆかねばならない。この基準において検証されねばならないのである。その上で、革命戦略、および闘争論の領域において、工場からの反乱が権力体として自らを結合の中で拡大しつつせり上がる全過程を、権力問題を含んだところの革命期の統一戦線論としても解明する事が必要である。

 A革命期初期に階級闘争の質的転換が必要であることを以前にも述べた。われわれは革命期の規定を次のような情勢の循環において捉えてきた。これが今後どのように以前にもましての国際的な性格をもった循環として把握できるかという課題をもつのであるが、基本的にはこの循環において今後とも捉えることが出来ると考えている。
 階級闘争の規定としての、「安定期」―「動揺期」―「革命期」の循環は、情勢としては「新たな政治社会的秩序の登場」―「その秩序の動揺」―「政治社会的秩序の全面的再編期」となる。厳密に言うならば、「政治社会的秩序の全面的再編期」イコール「革命期」ではなく、前者の中に後者が含まれる。「革命期」の規定はきわめて主体的なものであるからだ。
階級闘争の質的転換とは、大きく分けて階級闘争には二つの段階があるということを前提とする。「安定期」―「動揺期」においては、ブルジョアジーの階級支配のもとでのそれを前提とせざるを得ない状況のもとでの階級闘争と階級支配の転覆を現実的に目的とする階級闘争の二段階に分けられる。さらに、後者において、革命的階級形成を急速に実現して行くべき過程と、形成された革命的団結(二重権力的団結)による階級決戦への過程とにわけられる。これが短期か長期に渡るかは情勢が決めることである。
このように整理してこれまでの「戦後第一の革命期」、「戦後第ニの革命期」を総括するならば、問題点が浮かび上がってくる。

 B昨今、新左翼の、特に「戦後第ニの革命期」における党派闘争、内部粛清のもたらした荒廃を荒廃としてのみ捉え、暴力革命、または軍事路線を排撃するという心情的総括をあたかもまじめな総括であるかのように提起する傾向が散見される。これは、次の点で誤りであると考える。第一に、階級闘争に対する宗派的敵対者との闘争は不可避であり、必要であること。第二に、階級闘争から遊離した小ブル急進主義=ブランキズムが「共産主義化」、「ボルシェヴィキ化」を唱えて外に対しては「殲滅」、内に対しては「粛清」に走る必然的論理を内容的に対象化する必要のあること。第三に、共産主義的前衛組織の建設の不十分性を根底に置きながら、われわれにおいても組織建設、中央部建設の失敗を招来し、政治主義、出世主義、宗派主義をうみだしたこととの関係で対象化するべきことであること。
 したがって、現象的、心情的反省から「暴力」の排除を願うことにおいては、何も解決はしないばかりか、総括を誤ってしまう。たしかに、「暴力」は荒廃を生み出すと言えなくは無い。可能な限り「暴力」は避けなければならない。しかし、階級闘争が肉体的衝突にいたることは今日の階級支配の質として不可避的なものであることを覆い隠してはならない。人間的に団結した労働者人民が道義性をもった力を行使する場合、おのずと物質主義、拝金主義、利己主義に染まった敵の暴力や、エゴイスト達の自他共に観念的目的の手段としてしまう者たちの暴力などは質の異なる力の行使になるであろうことはわれわれがすでに経験的に確信を持って主張できることである。この確信の欠落した総括や、自己と小ブル急進主義=ブランキズムの腐敗を区別できないような混乱した思想性のもとに、なにもかもいっしょくたにして、ポンと「暴力」だけを抽出して何かを掴んだかのように錯覚する人の意見も散見されるが再考を促したい。
 われわれは、革命期の総括にあたって、小ブル急進主義の政治主義的戦術主義的過激化(それは同時に、誤りが自分自信を追い詰め、焦燥のなかで、他に対する殲滅と内部に向けての粛清を随伴することによってのみ維持されるとした)と区別された階級的反省を深めることからあらためて真の次なる展望を切り開いて行かねばならないのである。このなかから実は新左翼の「自壊」の総括が可能となるのである。
 また、統一戦線の形成が、全共闘・反戦の高揚期以降、党派の相互の暴力的対立によって形成できないと言う局面があり、このことが大衆運動の発展を阻害した。統一戦線についての考え方が、上からの官僚的統治党を考える党派にとっては、権力問題と重なると、党派間共闘としてしか思い浮かばないという傾向がある。これを複数政党制か一党独裁かなどと論じてみても、これは所詮官僚的統治党を多くするか排他的なものとするかの違いにすぎない。われわれは、権力問題を含んで問題にした統一戦線として、下からの大衆自身の二重権力的団結のせり上がりを問題にしてきた。したがって、労働組合をも含む政治勢力の全推進勢力の統一戦線を呼びかけてきた。統一戦線とは、このようなものでなければ、闘争過程が同時に労働者自身の自己権力の成長過程でなければならないという課題に答えられないのである。したがって、労働者大衆自ら形成する自己権力へむかう二重権力的団結は、われわれ以外の多くの党派をその運動・組織の中に含んでいるのであって、ともに闘い、且つ論争を通して大衆的に相互にその主張の真贋を問わねばならないのである。大衆組織を自分たちの党派的な縄張りとしたり、私物化したりするような考えの人々には理解できないことであるかもしれない。少なくともわれわれが中心になって推進した全共闘・反戦青年委員会・労働組合において、大衆組織の私物化や排他的行動をとらなかったと言える。いわゆる「内ゲバ」の総括は、二重権力的団結を基礎とする統一戦線という基準に返してのみ現実的解決の道が開けるのである。

 C先進国革命の困難性を繰りかえし問題にしてきた。ロシア革命の成立の背後にはドイツ革命の敗北過程があったのであるが、われわれは永続革命論において、危機における後進資本主義国(世界資本主義の四肢)の革命の勝利の可能性と先進資本主義国(世界資本主義の心臓部)における危機の均衡を問題にしてきた。資本の持つ力、階級支配の政治的社会的重さが危機を革命の爆発にまで到らずに均衡してしまうこと、先進国革命は、この重圧を撥ね退けてのみ成功するのだということ、したがって、同時革命として可能であることを明らかにしてきた。単に政治支配のみならず、社会的従属の力として階級支配力があるのだということ、この階級支配を覆す力は、経済的(社会的)政治的力としてのみ成長できるのだということを提起してきた。
 その問題は、帝国主義の本質を独占に見るというレーニンの帝国主義論の肯定的意義を引継ぎなら、独占が同時に巨大な賃金奴隷制の牢獄であることとしてさらに深めながらこの独占を階級的に対象化すること、すなわち、二重権力的に新たな秩序をこの独占に対置する階級闘争としてはじめて革命的階級闘争として成長できるのだということ、こういう問題として総括して行かねばならない。たしかに、この観点からみるならば、われわれを含めて「戦後第二の革命期」に何が出来たのかと自問して寒いものがある。さらに、戦後第一の革命期の問題点が十分に教訓化し切れていないという痛苦な反省もある。その内容をいまさらながら深める必要があると考える。

 D沖縄の帝国主義的統合を突破口として強行せんとする戦後世界体制の国内外にわたる反プロレタリア的再編成との階級闘争を戦後第二の革命期と規定した。政府問題は、自民党反主流派への政権のたらいまわしか、「革新中道政権構想」(社・公・民)か、と迷走しつつも自民党単独政権の危機を露呈していった。
 国際的には、ニクソンの中国、ソ連との緊張緩和策を背景に北ベトナム全面封鎖がおこなわれ、ベトナムにおいては「南ベトナム全土の解放」を掲げる七二年総攻勢の戦闘が展開されていた。
 ブランキズム的偏向と、革マルの反動的宗派的敵対に対抗しつつ、沖縄闘争を中心に大衆運動を階級的革命的に推進する過程の背後において、日本独占のそれまでに築かれた頑強な社会的力、帝国主義的工場制度の完成が同時に社会的隷属を極限的に強めてきたという壁の前に労働者階級は動きを封じられてしまっていた。
 確かに、政治的社会的再編成の時期にあり、その前の構造的不況を背景に政治的社会的動揺が深くなり、現実的に政治過程は保守傍流の三木政権へ、更には連立政権へと変化していった。春闘は、七四年の賃上げは33%と、インフレの影響のあったのであるが空前の成果をあげ、表面的には大衆的な運動の高揚がみられた。しかし、この政治過程の背後に、社会的隷属の揺るぎがどの程度深く進みえたのかということが実は大切な視点となる。反プロレタリア的再編成は、直接的には、七〇年安保闘争の反動の嵐となって、社会党、総評民同をも巻き込んで、更には、革マルがそれに便乗して、労働者の職場秩序の統制を強化していった。企業、当局による処分に、組合の二重処分が追い討ちをかけ、これまでの組合の枠をはみ出してゆく政治的社会的大衆運動は困難に直面していった。
 七三年十月第一次石油ショックを境に、これまでの資本の拡大のおこぼれをいただくという「パイの拡大」路線が有効性を持ちえず、低成長下の労使協調路線が始まる。
 七五年春闘が15%のガイドラインを割って13%に押し込められて、それから続く春闘三連続敗北は、雇用確保という名目のもとに組合側は資本の力に押し切られてゆく。過剰設備と従って過剰労働力を「雇用合理化」によって処理しつつ、「企業存続-雇用保障-生活確保」の論理ものと組合を企業に内在化させていった。
 一方、七五年十二月スト権ストの敗北は、国鉄マル生闘争を苦しい孤立した戦いに押し込め、国鉄をはじめとする公労協の力関係を劣勢にする結果となった。
一九七六年の日本資本主義の労働生産性は、七〇年を基準として133と先進資本主義国の中では、群を抜いて高く、(アメリカ107、イタリア108、イギリス112、西ドイツ116、フランス125)日本の独占の力が短期に強引に労働者を隷属させていっている「成果」を誇示したのであった。
 このように見るならば、少なくとも経済過程においては、一九七五年を境に、労働者と資本の対抗は、明らかに労働の側の劣勢となってくる。<人減らし合理化>の嵐が吹き荒れているにもかかわらず、否、この「人減らし合理化」の重圧こそが、帝国主義的工場制度の再編成を加速していったのである。
 確かに階級闘争は、政治過程の劇的事件、国際関係の影響をもって大きく変化するのであるが、そのブルジョアジーの階級支配の基礎となる社会的隷属の強さと弱さが把握されねばならない。その意味で、「戦後第二の革命期」は浅かったと言わざるを得ないのである。
 そして、闘争についてみるならば、この独占の足下に二重権力的団結を形成するという力は、すでに社民官僚、民同の七〇年反動、激化した宗派革マルの攻撃に対する闘争に集中することによって微力なものとされていった。われわれの闘争路線として打ち出したプロレタリア都市ゲリラ戦は、工場からの反乱としての労働者のゼネスト、地区ソビエト運動との統一において意味のあるものであったが、それとして浮いてしまった結果となった。したがって、われわれはこの時期、結果的には政治主義的に浮いてしまっていたのである。それは同時に、現場における労働者メンバーが今ひとつ力が充実しない結果となっていった。
 先ほど「戦後第一の革命期」の総括が「戦後第二の革命期」に十分教訓化されていなかった、と述べたが、資本の足元から立ち上がる労働者評議会としての自己権力を二重権力的に成長させることの重要性と困難性を深く反省しなければ、総括にならない。当時において、何が出来のか、何が不可能であったのかという現実問題があるだが、この視点を欠落するならば、総括にならないのだ。

(2)「戦後第一の革命期」における資本に対する労働者の闘争の質

 @「戦後第一の革命期」は、次のような特徴を持っていた。
 第一に、占領軍による、「上からの民主化」過程であったこと。
 第二に、「ブルジョア民主主義革命」と唱える共産党、「民主政府による社会民主主義政策の展開」を唱える社会党が中心的勢力であって、労働者革命を推進する勢力の不在。
 第三に、にもかかわらず、労働者農民の根本的解放のエネルギーが世界史的にも稀なほど爆発的に進展したこと。
 戦後第一の革命期は、第二次世界大戦の日本の敗北から朝鮮戦争までの戦後体制の編成・形成期を示す。その初期の自然発生的な運動の質を改めてここに捉えてみる必要がある。
 すでに一九四五年八月下旬から九月にかけて、炭鉱において強制連行されてきていた朝鮮人労働者が職場占拠を開始し、日本人炭鉱労働者がストライキに立ち上がっていた。
 これに引き続いて、各地で労働組合が次々と結成された。それは同時に生産管理、業務管理、経営管理への突入であった。
 1945・10・25 読売新聞従業員組合結成、業務管理方式で争議突入。  1945・12・10 京成電鉄争議、経営管理を実施。
 1946・ 1・10 日本鋼管鶴見製鉄所、生産管理に入る。
 1946・ 1・25 石井鉄工所蒲工場、工場経営委員会設置を含む労働協約を締結。
            加藤製作所、生産協議会を設置。
  1946・ 2・ 8 三菱美唄炭鉱、生産管理に入る。
  1946・ 3・13 東洋合成新潟工場、生産管理に入る。
  1946・ 3・23 東宝争議、撮影所・劇場の生産・業務管理に入る。
  1946・ 3・28 東芝車輌、生産管理に入る。
  1946・ 4・ 6 高萩炭鉱、生産管理に入る。
  1946・ 5・ 4 東北配電、経営管理に入る。
  1946・ 5・13 北炭争議で交渉開始、これを前後して各鉱生産管理に入る。
  1946・ 5・20 西羊毛工場、生産管理に入る。
  1946・ 6・21 都労連、業務管理に入る
  1946・ 6・26 GHQ発表の1月から6月までの生管件数は120件。
  1946・11・25 東洋時計上尾工場、生産管理に入る。
  <資料 戦後二十年史 4 労働 日本評論社 より引用>
 特に、日本鋼管鶴見工場の生産管理に対して、幣原内閣の内務・司法・商工・厚生の四相声明(1946・2・1)が出され、「近時労働争議等に際しては、暴行、脅迫または所有権侵害等の事実も発生を見つつあることは、まことに遺憾に堪えない」と所有権の侵害を声高に叫び始める。
 これに対する、関東金属産業労組準備会の抗議決議(1946・2・2)は、当時の闘争内容の実感を突き出している。
 「4大臣の声明は労働者の争議を弾圧せんとする意図が明瞭でありこれに対して我々は断固抗議する物である。労働組合の闘争手段としての経営管理は現在の資本家の生産サボタージュに対抗しして生産を遂行し、飢餓とインフレの危機を打開し、人民を窮乏から救う唯一の方法であり、これを必然たらしめた資本家側の貧欲なる怠業に対して何等ふれることなく、逆に所有権侵害呼ばわりすることによってこれを阻止せんとすることは、彼等の一方的弾圧の意図を露骨に示すものにほかならない。暴行云々についても労働者の生きんがための要求に対する資本家の不誠実が自ら招いたものであり、かかる事実を無視して警察的干渉を復活せんとする陰謀に対し我々は絶対に反対し、我々はこの暴政を更に一層悪化せんとする非民主主義政府の即時総辞職を要求するものである、右決議する。」
 当時のブルジョアジーは、ヤミ市場、パージと財閥解体、経済力集中排除法によって混乱し、虚脱状態にあった。さらに当初は、GHQも労働組合の育成という観点から、干渉をしないという方針であった。
 連合軍総司令部スポークスマン:日本の労働組合法についての見解」(1945・12・29)は労働組合が成立することが民主主義の一つの指標であると言う観点から、労働組合法を薦めているということ、そして最近の争議について以下のように述べている。
 「先頃の京成電鉄や読売新聞の争議は、罷業の形式をとらず新手の争議戦術に出たが、司令部としては争議がいかなる形式であれ、連合軍の占領目的に脅威を与えぬ限り干渉せぬ方針である。」
 この生産管理闘争が進むことと期を一にして、食糧危機にたいする大衆的闘争が湧き上がる。これには、土地闘争にたちあがる農民、官庁の下級吏員による組合結成の動きと、現場労働者の生産管理闘争が連携しながらついに革命的なスローガンが打ち出されてゆく。真っ先に、農林省、運輸省、逓信院の職員組合を中心とする「官庁民主化、食料危機打開共同闘争委員会準備会」は檄を発し(1946・1・7)「われわれがこの迫りくる食量危機を切り抜けるためには、どうしても官庁を徹底的に民主化するとともに、他方官庁及び官僚的食糧営団から、食糧の管理配給を人民の手に移し、労働組合、農民組織、市民の代表による食糧の人民管理機関を確立しなければならない。」と訴えた。
 さらに「関東食糧民主化協議会」の「運動目標」(1946・2・11)には、この人民管理の内容がより具体化される。
 「運動目標」は二十項目にわたるが、そのなかの6から15までは人民管理の内容が示されている。
「……6.供出促進の根本案として、農民の自主的組織による民主的割り当て供出と供米管理、……8.労働組合の経営管理による肥料、農機具その他農村必需物質の増産、農民への供給方策の確立を遂行……10.主食の人民管理実現のための運動……15.労働組合の経営管理、農民の組織の供出米管理、供出促進運動、市民食料委員会の配給管理運動の総合的計画的結合……」
 五月一九日の「飯米獲得人民大会」の「決議」はこの人民管理の要求に続けて政府スローガンを高々と掲げることになる。
一六項目からなる「決議」は、
「11.肥料、農具、農村必需品製造工場に於ける経営の労働者による管理と経営協議会の確立」
「13.一切の食料を人民管理に」
これにひきつづいて
「14.一切の反動政府絶対反対
 15.民主人民戦線の即自結成
 16.社会党、共産党を中心とし労働組合、農民組織、民主文化団体を基礎とする民主政府の樹立」
 このように、人民管理と、民主政府樹立とがつなげられることになる。そのことは、結論からいうならば、党の政権到達という一点にすべてが利用され、簒奪される。この点は後ほど再度詳しく点検する事にする。
 これに対して、社会党ではすでに二一年一月三一日常任執行委員会を開催し、
「 一、供出もすでに半ばを過ぎた現在、人民管理その他の新方式を即時断行することなく、あくまで現在の機構を通し、これを改善することによつて供出、配給を行う。
  一、超階級的、超党派的協力による解決を目標とする。」
という方針を決定していた。
 このように大衆的な人民管理の要求とエネルギーは、社会党にあっては否定的に、共産党にあっては政治利用と政治的簒奪の対象としてあつかわれたのである。
 これまでに全国的な広がりと深さをもった大衆闘争は、翌日に発せられたマッカーサーの「大衆デモにたいする警告声明」(196・5・20)によって急変する。占領軍当局がこの大衆運動の爆発とその政治性の内容に恐れをなし急遽抑圧に乗り出した。
 さらに決定的には一九四七年の全官公庁、教員、国鉄、全逓を中心として、全闘へと押し上げた2・1ゼネストがマッカーサー元帥の中止命令によって挫折させられる。
 この直後、二月六日に経済復興会議結成大会が開かれる。労働の側は、総同盟、日労会議、産別会議、炭協、国鉄総連合、全造船、海員、全官公労であり、経営側は日産協、関経協、関西経協、経済同友会、日本鉄鋼協会、日本石炭鉱業連盟、化学工業連盟、日本繊維協会である。
 当日発表された「趣意書」は「われわれは現段階を基本的には、民主主義革命の徹底的実現の段階であると確認する。……<略>……われわれは経済民主化の線の上に、健全な生産を目途として企業における経営権と労働権との構成を明確にし、両者の創意を生かす様な経営者と労働者の自主的な協力の基礎を作りだすことが、産業復興の最も重要な前提条件の一つであると信ずる。」としている。
 確かに経営側がいわば「修正資本主義」のようなスタンスにて経済復興を課題とし、これを民主的経営者として規定して協調するという構図である。
 四月の衆議院選で社会党が一四三議席を獲得して第一党となり、社会・民主・国協の三党の連立で片山内閣が発足する。片山内閣はこの経済復興会議を中心的政策として推進した。共産党と産別会議は、労使協調路線に反対し、内部から公然と論争をいどむことによって抵抗するが、経済復興会議は一年二ヶ月で経営側と産別会議と対立を深めた総同盟によって解体される。
 片山内閣が直接的には社会党左派の力によって倒れ、その後の芦田内閣も社会党左派の加藤勘十が労働大臣に就任するも労働側はこの政府に期待はもたなかった。全逓を中心とする三月闘争は、共産党の地域人民闘争のスタートともなった。GHQによるストライキ禁止令を繰り返しつきつけられながら地域別ストライキを打ち抜くが戦線の乱れにより四月一六日妥結する。産別会議の最後の闘争であった。労働争議の共産党指導の最後の闘争は東宝争議であった。一九四八年四月に始まった争議は八月十九日、米軍の第一騎兵師団五十名と四台の戦車を出動させ、武装警官二千人によって包囲し、百三十日余の篭城を解かれた。「争議解決に関する覚書」(1948・10・19)には、「組合は会社の経営形態、規模、生産計画、所要人員の決定に関する一切の権限は経営者に属することを認める。但し、会社は組合員の労働権を尊重し、生活権に対して十分な理解を与えることを約束する。」と記された。
 ブルジョアジーの側の結合は、すでに一九四七年3月に「経営者団体連合会」が作られ、これを母体に「日本経営者団体連盟」(経団連)が一九四八年四月十二日発足した。
 「経営者よ正しく強かれ」と激を飛ばした創立宣言につづいて、当時の東宝争議にあたって「経営権確保に関する意見書」(1948・5・10)を発表し、経営権の確保に関する並々ならぬ決意表明を行った。  「思うに日本経済の再建は一方に既に憲法に拠りて保障されたる労働権と之に相対応する経営権とを支柱としてこの権能の正常なる運営によって始めて可能なのであるが、近時労働権の運用にに付いて一部の組合は兎角法の意図する所を逸脱し本来的に経営権に属すべき人事権、経理権等を不当に侵害し、日本の再建を妨げて居ることは各所の罷業或いは生産管理等に見らるる所である。斯かる現状に於いて今日此の侭放任すれば各企業は殆ど倒壊するの最後の関頭に立ち至り、茲に経営者は断乎として経営者が本来保有する経営権を行使し速やかに自立体制の確立を計る以外に自衛の道なしと深く決意するに至ったのである。」
 さらに、「新労務管理に関する見解:日経連労務管理委員会委員長・山本浅吾」(1950.5.9)においては「経営者は企業を管理運営する責任と権限をもち資本の所有者によってこれをしんたくされていることにその本質がある。したがって企業における具体的な労働の管理は経営者の権利であり義務である。……他方企業における労働の地位の過大評価から労務管理は経営者と労働組合との共同管理なりとする見方があるが、これは根底において所謂資本と経営の分離論にたち経営協同体の思想に繋がるものであって、到底われわれの立場と相容れないものである。」と経営権の内容を規定するに至る。
 芦田内閣に対するマッカーサー元帥書簡(一九四八年七月二十二日)をもって、占領政策は大きく転換する。政府は政令201号により、公務員を縛り上げてゆく。
 第二次吉田内閣、第三次吉田内閣への流れは、既に階級闘争がブルジョアジーのヘゲモニーのもとに押し込められていく過程であった。
 以上、資本と賃労働の現実的抗争関係を中心に追ってきたが、自然発生的に高揚した階級的要求である<自らの労働を共同労働として自ら支配する!>という戦いは、民主人民戦線、民主人民政府のスローガンのもとに放棄されてしまったこと、他方ブルジョアジーは階級的結束を強めて労働者を資本のくびきのもとに縛り上げ、労働者を抑圧していったこと、このことこそ戦後第一の革命期の敗北の核心的総括点でなければならない。

 A当時の指導部の持つ問題を次に見てゆくことにする。
 戦後結成された日本社会党は、イギリスの労働党を指標としていた。
 議会を通して政権をとり、社会主義的政策を(といっても「国有化」路線でしかないのだが)徐々に施行するというものである。当然にも生産管理闘争については否定的であった。上からの国有化と労働権の確立を並行的に掲げながら、経営協議会路線をとっていた。しかもこの経営協議会に対する姿勢は、政府、資本よりのものであった。そして、片山内閣の炭鉱国有化の失敗において、現実的に路線破産する。
 この国民主義的議会主義路線は、労働者大衆の要求が部分的に反映されてはいるのではあるが、しかし労働者大衆に対する小ブルジョアの政治路線でしかなかった。
 日本共産党は、一九四五年十一月八日に代々木の党本部で全国の党代議員三百名を招集して全国協議会を開催し行動綱領とともに人民戦線綱領を決定する。
「 二、人民戦線綱領
 (一)一切の民主主義勢力の集結による共同戦線の組織と拡大、天皇制の打倒、人民共和政府の樹立
 (二)ポツダム宣言の厳正実施、民主主義国の平和政策の支持
 (三)一切の反民主主義団体の解散、戦争犯罪人、虐政犯罪人の厳重処罰
 (四)一切の人民抑圧法令の撤廃、言論、集会、出版、信仰、結社、街頭示威の完全な自由
 (五)天下り憲法の廃止と人民に依る民主憲法の設定
 (六)労働時間の徹底的短縮、義務的最低賃銀制の実施、賃銀の値上、その他労働者状態の根本的改善
 (七)重要企業、銀行に対する労働者管理と人民共和政府による統制の実施」
 この(七)に注目したい。
 「重要企業、銀行に対する労働者管理」と「人民政府による統制の実施」が「と」でむすびあわされている。そもそも革命の性格を「ブルジョア民主主義革命」と規定しての戦略なのであるから、資本主義の転覆を目標としたものではない、それに向って突き進むものではないところの労働者管理とはいったい何なのか。
 共産党は、一九四七年八月八日「危機突破宣言決議案」を発表し、そのなかの「重要産業国営人民管理法案」を議会に提出した。
 そのなかで、人民管理について次のように展開する。
  「三、官僚統制か人民管理か
 すでに私的経営方式が破算して実質上国営化の客観的条件が成熟している今日、問題はこの条件を官僚的国家独占資本主義、ひいてはファシズムに道転させるか、それとも人民管理の実行によって社会主義の前提条件たらしめるかにある。社会党のいわゆる国管案は明瞭に独占金融資本の救済のために全労働者階級と中小企業とに極度の犠性を強要し(賃金ストップ、企業整備と新なる首切り、労働戦線に対する分裂政策等々)同時に経済安定本部機構の強化を通じて、官僚統制の強化に拍車をかけるものである。
 これに反してわが党の人民管理はどこまでも労働階級を主体とし、独占金融資本の負担において全勤労人民大衆の生活の安定と向上を内容とする生産力の発展を約束するものである。かゝる人民管理とは労働組合、農民組織、市民組織、中小企業者団体、これらと協力する科学者技術者が、国会に対して責任を負いつゝ経済政策全般に関する決定権をにぎることなのである。中小企業者に対しても、これを独占金融資本の拘束圧迫から解放し、これに営業の自由をあたえ、進んで優秀技術を伴う協同経営化の方向に発展せしむるものである。国営人民管理の以上の方式が如何に経済復興に寄与するものであるかは、現に東欧諸国の経験がこれを実証している。わが党の提案する国営人民管理は広はんな勤労大衆をして、真に日本再建と生産復興のために積極的に参加させる唯一の方策である。国営人民管理の成功は全人民大衆の圧倒的支持によってのみ保証される。」
 「人民管理」はイコール「国営人民管理」なのであって、したがって、「人民政府による統制」のもとに、すなわち共産党の統制の下にのみ成立するものであるとされる。
 このことを闘争としてみるならば、共産党の「産業復興闘争方針」に端的に示される。
 大衆運動が最も昂揚しつゝあるなかで政策をまとめるために共産党は一九四七年一月第二回の全国協議会を開催し、産業復興闘争の方針があきらかにされている。
「経済復興の発展過程
 第一段階、当面の経済復興はゼネスト、農民闘争を中心として一切の失業者の闘争、一般市民の食糧その他日常必需物資ならびに住宅闘争、中小商工業者、一部産業資本家、資材資金闘争を結びつけ、更にこれを選挙ならびに反政府闘争に発展させることにある。かくして支配階級をして一般人民の要求をいれさせることによつて生産を復興させる方向に向わせる。
 第二段階、反動勢力がその統制力を失い、政治的にも経済的にも一大困難が発生したときは、労働者農民を中心勢力とする人民の結束力は人民協議会の統制によつて生産と流通とを管理し、人民の生活と安定の方向にみちびかなければならない。
 第三段階、かゝる過程を通過して民主人民政府がたてられ、その統制の下で全面的経済復興がなされる。経済復興はどうしても敵をたおし、われわれの力によつてのみなされる。だから革命の遂行こそが産業復興の道である。(徳田共産党書記長の報告より)」(日本労働年鑑 戦後特集(第二十二集)より)
 大衆の要求を支配階級に突きつけ、人民協議会による生産と流通の管理、民主人民政府の樹立、その統制の下で全面的経済復興という道筋である。この人民協議会は闘争組織であって、それ自体が権力体ではないものとされているのであり、政府の統制下に上から統制されるものとして再編成されねばならないものとなっているのである。
 この第二回全協においては、同時に基本方針が出されている。この中では、「四.労働者農民大衆の組合主義的傾向を打破して、政治的闘争への革命的結集を急速に完成すること。これを中心としてその周りにあらゆる反政府的階層を連結せしめ、広範な人民を握ること。」さらに「八.大衆闘争を選挙を通じて、より高い政治闘争の水準に高揚せしめ、その成果を中央、地方の議会において発揮せしめること。」としている。
 この意味は、生産管理闘争は経済主義的組合主義的な限界にあるものとされ、政治的カンパニア、または、ゼネストへと「政治性を付与」されて「発展」させられねばならないとされていることである。闘争方針としてはゼネストによる政府打倒にすべてが絞られているのであるが、新政府=(共産党の独裁か社共連立かは別として)が権力体であって、労働者自身の自己権力は否定されている。当時の共産党は、議会主義的路線と暴力革命路線のブレをもって東欧型人民革命路線に近い路線選択をしていたといえるだろう。一九四六年二月の第五回大会に打ち出された路線は「日本共産党は現在進行しつつあるわが国のブルジョア民主主義革命を平和的に、且つ民主主義的方法によって完成することを当面の基本目標とする。」(「大会宣言」)
 労働者大衆が展開した生産管理闘争は、共産党にとっては、組合的大衆闘争戦術にすぎないものとして限定され、このなかから二重権力的団結を労働者評議会として発展させるという道筋はあきらかに否定されていたのである。
 したがって、あれほど激烈に闘われた生産管理闘争は、共産党のブルジョア民主主義路線に政治的に簒奪されるのみであって、その結合、自己権力へと成長する道は閉ざされていった。
 終戦直後の読売争議を当初牽引したアナーキズム勢力も戦略展望をそもそも持ちえず、指導勢力として登場することはなかった。
 共産党の「中西意見書」も、共産党のブルジョア民主主義革命戦略を変える力は無かった。党中央の反論は当時の路線を鮮やかに浮き彫りにしているので紹介するが、日和見主義を地で行くものである。
 「もし社会主義革命の戦略をとるならば、結局、敵は封建的勢力と独占資本ばかりでなく、あらゆる種類の資本主義勢力を一つに団結させ敵は大きなものになってしまう。
 われわれの味方はというと、労働者と貧農だけということになる。われわれの味方となり得る(富農をふくめた)農民全体が分裂して、富農や中農までがわれわれの陣営から出ていくかあるいは中立となる。また中小企業家の一部、産業資本家もわれわれの陣営から出て、敵にまわることになる。かようにわれわれが社会主義革命の戦略をとればわれわれの陣営は分裂し弱くなり、反対に、敵の陣営を強大にする結果になる。
 われわれの戦略目標は明らかである。民主革命を完成すること同時に社会主義的過渡的任務を遂行することである。このことは今日の日本と世界全体の新しい状勢からしても、また独占資本の勢力からしても、そうでなければならぬ。もし、同志中西らの戦略をとれば、われわれの革命は失敗することになる。」
 社会党の国有化路線は、経済の民主化ということがベースなので、実際には力を持ち得ないものであった。「経済上における民主々義の重要なる問題はすでに公認された労働組合の代表をして、労働管理をなさしめるとともに、進んで経営管理に参加せしめることが必要である。」という参加路線でしかない。

 B以上みてきたのであるが、決定的には、生産管理闘争、経営協議会闘争において、一方では資本の側が急速に階級形成を進めつつ、経営権をがっちりと確保しようと必死で戦っているときに、労働の側は民主主義の旗のもとに、労働権において民主化しようとしているということに尽きる。次々と戦略高地を明渡しながら、民主主義に酔っ払っていたのである。素面だったのはブルジョアジーの側であった。
 たしかに当時において、米軍を中心とする占領軍に対抗してのプロレタリア革命の戦略がどの程度現実的な勝利の可能性をもちえたのか、その国際的波及と国際連帯の展望(それ抜きには全般的敗北となることは明らかである)について考察が必要ではある。しかし、大衆闘争の自然発生的質としてプロレタリア革命へと向う質が濃厚に孕まれていたこともまた真実である。
 さらにこの資本の経営権の確立のための攻勢と、労働の側の反撃は炭鉱を中心として激化し三井三池闘争を頂点として炸裂する。その敗北、敵の勝利は、日本帝国主義の自立を対外的に宣告する一九六〇年安保改定を、日本の独占が兵営的に確立されたことを宣言するものとして裏打ちしたのである。
 われわれは帝国主義の突撃的な産業合理化は、同時に階級支配力の強化なのだということを繰り返し訴えてきた。
 われわれは、安保と三池のなかから解放派を形成してきたと自らを性格付けてきた。この場合の<三池闘争>の階級的衝撃の質とは何か。このことをあらためて鮮烈にすることが必要である。もう一度このような観点から、三井三池闘争の本質的意義を掴む必要があると考える。それは、これまで述べてきた戦後第一の革命期と戦後第二の革命期の内容を照らし出す媒介的な視点があると考えるからである。
 「総評型労働運動の上り坂と下り坂を分ける分水嶺」(清水慎三「三池争議小論」)という位置にあったこの争議の本質をつかまねばならない。これを媒介的視点としながら再度戦後第二の革命期の社会的過程の総括へと戻ることにしたい。
 (この稿はこれで終わります。内容上の続きとなる三井三池闘争の総括を引き続き別稿として起こします。)
                    2002・12・9