社会的主体について (下) 歴史的社会的主体性の覚醒と理論

                             

 斉藤 明

はじめに

(上)において、歴史把握の根底に社会的主体をおき、歴史観、世界観を形成するにおいて認識の主体と運動の主体の統一が大切であること、これから外れることが、外的な認識と理論、さらにはその構造そのものが外的な前衛主義さえを生み出すことを示してきた。

ここではさらに、戦後主体性論争のベースとなった労働疎外論、および物象化論を扱う。なぜならば、ここでもやはり、観念的本質とその外化、あるべきものとその疎外という脈絡に於いて展開されている理論構造が問題となる。そこから出て来る結論はやはり理想主義、目的主義に堕するからである。

過去の幸せであった時代に幸福の典型を見出してそれを理想とするような種類の本質論に対して否定がないとして現われた疎外論は、やはり、理想の本質を前提とする思考された疎外論であって、現実的ではない。

 マルクスは、本質を現実的本質としてとらえた。社会主体において現実的本質をつかんだのである。ところが、多くの「理論家」達は、哲学的本質―――単に固定的な、実体の中に隠れた本質でしかないもの、またはイデアとしての本質―――しか知らない。そして、本質は現実化されねばならないとする。ヘーゲルの偉大なところは、本質そのものが弁証法的過程において、成長発展するものとされているところにある。ヘーゲルの本質は主体に含まれる本質なのであり、普遍化と個別化を繰り返しながら、その外化と、さらに前提そのものへの反省をとおして、その措定されたものの未熟性を否定し、再措定する。この過程は、単に固定された本質とその現象ということではなく、本質と現象は統一したものとしてあり、ある段階で措定された本質は、前提への反省によって否定されて新たな前提とされ、より豊かに、すなわちより普遍的に、かつより個別的に再措定されることをとおして、保持され発展するのである。ヘーゲルにおいては、この主体は精神であり精神の働きの現実化と自己認識とされている。このヘーゲルの主体をマルクスは人類の観念化されたものとして喝破したのであった。したがって、マルクスは、ヘーゲルを歴史というものをはじめて把握した哲学者であるとしたのである。

 イデア主義的本質主義でないにしても、せいぜいスピノザ的実体に「思惟」を付加し、実体を物質に置き換えて唯物論的な装いを凝らし、レーニンの「哲学ノート」の誤れる箇所を利用して、権威を拝借しながら「思惟する物質」の最高峰として人間の脳を描き出し、歴史変革の最先端としての己としての自覚などと謳い上げ、宗教的自己意識を駆り立てる観念論なども、人間の本質を社会的存在としてはつかんでいない。すなわち現実的本質をつかむことができない。自己意識が主体であって、現実的したがって肉体的精神的社会的存在者としての社会的主体は、特定の自己意識のもとに支配され同化されるべき他者としてしか現れないのである。そこからうまれるのが観念のプロレタリアートと現実のプロレタリアートの転倒である。

 日本のマルクス主義の哲学的基礎の弱さ、すなわちヘーゲル哲学の否定ということの内容の欠落が、マルクス主義をカント主義的なもの、スピノザ主義的なものへと歪曲する諸傾向を生み出してきた。

 したがって、スターリン主義の批判から芽生えた新左翼諸潮流においても、マルクス主義を真に再生させる理論はなかなか生まれなかったのである。

ヘーゲルの弁証法哲学の批判的継承としてのマルクス主義を理解するにあたって、ヘーゲルの主体をつかみ損ねると、実体をよりましにした程度か、本質主義に堕するのである。わが潮流においてはじめて、レーニン主義批判を媒介として、すなわち、現実の生けるプロレタリアートを主語にすることによって、主述の転倒を暴き出すことにより、マルクス主義の復活の端緒についたのである。わが解放派の理論の優れている点は、この点にある。これは、わが潮流内部においても十分に自覚されていない。各自が、自分の常識的尺度で理論を解釈するからであり、また、これまで、この理論内容が十分わかりやすく展開されてこなかったがゆえに、難解な、密教のごとき理論と思われてきたからである。これは、前衛的組織の不十分性であり、反省の重要な環でもある。解放派の理論の悟性的理解や、日本のインテリゲンチャの新カント派的の知性主義的本質主義風土によって解釈された俗流化によって、真の内容が覆い隠されてしまうことのないようにしなければならないと考える。その意味で、これまでの革命的マルクス主義の復活のための努力を再度深化し、そのエッセンスを明らかにしてゆく作業が不可欠と考えている。本論分はこのことを意識した内容となっている。

わが潮流においてはじめてレーニン主義批判を媒介として、マルクス主義の復活の作行われてきたのである。しかしながら、上記の理由において残念にもわが潮流の内部においてもマルクス主義をその本質において把握する人は少なかったといわざるをえない。実践に追われて学習不足となる傾向は否めず、十分に学習研究できていないで、自分自身の党派の理論について不理解のままでいる場合がおおい。その意味で、この理論作業を再度深化し、わが潮流が切り開いてきた理論のエッセンスを明らかにしてゆく作業が不可欠と考えている。

 

②歴史は疎外の中で、疎外を通して発展してきた。歴史はある一定の社会を前提としてそのもとで生産が発展すること、その生産の発展が社会を変化させて新たな社会こと、この所与の前提のもとでの人間の活動が、新たな生産力と社会関係を生み出し、前提そのものが否定され変化を必然とする全過程が歴史なのだということ、これは疎外から新たな疎外への過程として進んできたということ、このなかで社会における人間の個別化と普遍的発展が進んできたのだということ、この骨格をしっかりと踏まえねばならない。そして、歴史的発展のこれまでの全過程を前提とし、すなわち、社会と生産の相互前的相互規定的な統一のもとにある現段階におけるわれわれの社会的活動が、これまでの私有財産社会の疎外から疎外への歴史を、ようやく普遍的に突破する人類史のエポックをなす変革の時代に差し掛かっているのだという事、この歴史観が大切である。資本主義的生産システムが根本的壁にぶつかっているのが現在の先進資本主義が直面している低迷の内容なのであり、資本主義手生産様式の没落の段階なのである。(この点については別原稿に述べる。)

交換価値が貨幣となり、貨幣を媒介して依存関係を生み出す社会が、一方では土地、生産手段のから切り離された個人を、他方では社会的生産の普遍性を資本として外的なものとして再生産する。商品の交換が始まって以来、共通なものから普遍的なものが外化され、疎遠なものとなって社会の外に外的に独立すること、これが社会的力として個々人に対立すること、人間が社会的協同本質を持っていることから発生するこの現実的な外化と疎外のなかに、肯定的側面と否定的側面を同時に捉えねばならないのである。疎外は普遍性との関連において把握されるとき、普遍的なものの発展が疎外の中で進むと同時に、それは普遍的なものが外化して、本来の主体に属さず主体に敵対的に顕われ、転倒するのである。この転倒を転倒としてつかむか感受性こそ、社会的主体の生ける存在と力なのである。

本来の労働のあり方とか、人間にとっての労働とは何かという観点から労働の疎外を考えるという方法は、マルクスの初期に見られる傾向ではある。しかし、価値、労働力の分析を通して、外化が対立したもの、その下に支配され、依存させられる結果として現れること、この現実的転倒の解明が、経済学批判を通して明らかになっている。ところが、先に述べたようにこの継続性と科学的深化の過程は、疎外を感受する社会的主体抜きにはこの発展の意味をつかむことができないのである。たとえば、「労働力の商品化」に焦点を合わせて資本主義の矛盾を考える場合においても、現実の生きて活動する人間の外から事態をつかもうとする。したがって、「労働力の商品化」という問題においても、「労働力商品の無理」ということから、「相対的過剰人口」による資本の側の処理という資本主義の循環の論理をたてて(宇野弘蔵)、そのうえで、この商品の特殊性、すなわち労働主体から切り離せないという点を強調し、弱点としての指摘(宇野弘蔵)、または移行の論理(梅本克巳)とする。そこには、人間なるものと資本主義的に疎外された労働の対比が客観主義的に展開されるという構造があらわれている。そこには単に人間主義、本質主義があるだけで、実存主義的義憤以上のものとはならない。

 

③われわれは、これらの、あるべき姿=本質とするような考え方、または上記の客観主義を超えて、次のように問題を立てねばならない。

賃労働と資本の矛盾は、賃労働生活者にとって、精神的肉体的な現実的な矛盾であること、しかも現在直下の対立であること、力関係の中に現実の日々があること、ここから出発する。その意味で、認識の主体が、実践の主体なのである。

 マルクスは資本論の中で、賃労働と資本の関係を次のように述べている。

「生産過程の内部において、資本は労働にたいする、すなわち、活動しつつある労働力、あるいは労働者そのものに対する指揮権にまで発展した。人格化された資本、資本家は、労働者がその仕事を秩序正しく、また適当な強度をもって行うように、監視する。資本はさらに、労働者階級にたいして、彼ら自身の生活欲望の狭い範囲が命ずるよりも、より以上の労働をなすことを強いる、一つの強制的関係にまで発展した。」(「資本論 第一巻」)

「資本家は労働日をできるかぎり延長し、そしてできれば、一労働日を二労働日にしようとするばあいには、彼の買い手としての権利を主張する。他面では、売られた商品の特殊な性質が、買い手によるそれの消費にたいする一つの制限をふくみ、そして労働者は、かれが労働日を一定の標準的な大きさに制限しようとする場合には、売り手としての彼の権利を主張する。したがって、ここには一つの二律背反が、ともに等しく商品交換の法則によって、確認された権利と権利との対立が生ずる。同等な権利と権利とのあいだでは、力がことを決する。かくして、資本主義的生産の歴史においては、労働日の標準化は、労働日の諸制限をめぐる闘争として現われる―――全資本家、すなわち資本家の階級と全労働者、すなわち労働者階級とのあいだの一闘争として。」(「資本論 第一巻」)

賃労働と資本の関係は、力関係であり、対立である。資本の側には、支配力、強制力が再生産され、賃労働の側には隷属が再生産される。

さらに、資本主義の決定的限界は、次のようなところにある。

「賃金労働者の数が相対的には減少するにもかかわらず絶対的には増加するということは、ただ資本主義的生産様式の要求であるにすぎない。この生産様式にとっては、労働力を一日に十二時間から十五時間も働かせるということがもはや必要でなくなれば、早くも労働力は過剰になる。労働者の絶対数を減らすような、すなわち、国民全体にとってその総生産をよりわずかな時間部分で行うことを実際可能にするような、生産力の発展は、革命をひき起こすであろう。なぜなれば、それは人口の多数を無用にしてしまうであろうからである。・・・・・・・

資本主義的生産の限界は労働者の過剰時間である。社会のものになる絶対的な過剰時間は資本主義的生産はなんの関係もない。資本主義的生産にとって生産力の発展が重要なのは、ただ、それが労働者階級の剰余労働時間をふやすかぎりのことであって、それが物質的生産のための労働時間一般を減らすからではないのである。このようにして資本主義的生産は対立のなかで運動するのである。」(「資本論 第三部第三篇」)

このように資本主義生産の限界というとき、単に循環的に矛盾を深め顕在化し、矛盾を暴力的に解決し再出発するという種類の部分的限界のみならず、「生産力の絶対的発展への傾向」を持つ資本義的生産の「真の制限は、資本そのものである」という根本的限界をも示している。なぜなら、この傾向は、単に循環的に既存資本の減価が行われ、経済活動が回復するということではなく、制限そのものがより絡み合った、より大きな規模となって再生産されるということ、したがって、資本主義的生産の限界が、膨大な生産力と世界市場の発達に比例して、より大規模に露呈する。この拡大する相関関係を見失うならば、単なる循環、資本主義的生産の永遠化の論理の中の単なる部分的な矛盾の指摘となるであろう。

単に、資本主義の矛盾とか、弱点とかを指摘する客観主義や、単に理想としての社会主義を対置する主観主義を超えて、現実的対立のなかからその打破、根本的解決、歴史的変革を志向する認識を、社会的主体において展開する理論性が確立されねばならないのである。対立、隷属、制限が再生産されるなかで、より広く、より深く、より複雑に、そしてより明視化されて事態が明らかになる。世界市場の同時性、瞬時性が進んできている今日こそ、国際的規模での労働者の連帯の基盤が可能となる時代である。

 

④歴史的社会的主体性の覚醒と理論というサブタイトルをつけたが、これまでの客観主義的認識論をこえて、社会的主体における自己認識としての諸理論の形成、社会的主体にとっての目的の明確化、社会的主体にとっての戦略の再構築、このことを目指すための基礎を培うために以下展開する。

 

Ⅳ労働者階級の本源的主体性について

(1)社会と生産の相互規定的相互前提的関係

①マルクスの「経済学批判要綱 序説」の冒頭に

aここでの対象はまず物質的生産。

社会のうちで生産している諸個人が―――それゆえ諸個人の社会的に規定された生産が、もちろん出発点である。」という文章がある。

この文章は経済学批判要綱の次の文章と繋がっている。

「ブルジョア経済の体制がようやく徐々にわれわれを発展させているように、この体制は、ブルジョア経済の最後の成果であるそれ自身の否定をも、徐々に発展させている。われわれは、いまはまだ、直接的生産過程を問題にしている。われわれがブルジョア社会を全体として観察するときには、社会的生産過程の最後の結果として、つねに、社会そのものが、すなわち、社会的諸関連のなかにある人間そのものが現れる。たとえば生産物等々のような、固定的形態をもついっさいのものが、ただこの運動の契機、瞬過的な契機として現れるだけである。直接的生産過程そのものがここでは契機として現れるにすぎない。過程の諸条件と諸対象化は、それ自体一様にこの過程の諸契機なのであって、この過程の主体として現れるのはただ諸個人だけであるが、ただしそれは、自分たちが再生産し、また、新生産する相互的な連関のうちにある諸個人なのである。彼ら自身の不断の運動過程のなかで、彼らは、自己を更新するとともに、また彼らがつくりだす、富の世界を更新する。」(経済学批判要綱「Ⅲ資本に関する章」「固定資本と社会の生産諸力の発展」(s590)

ここで社会という語は、念のために次のように規定されることを再確認する必要がある。

「社会は、諸個人からなりたっているのではなくて、これらの個人がたがいにかかわりあっているもろもろの関連や、関係の総和を表現している。」(同「Ⅲ資本に関する章」 「第1篇ー資本の生産過程」s188)ここでマルクスは、プルードンを批判して、「まるで、社会の見地からすれば、奴隷や市民は実在しない。つまり両方とも人間だ、と言おうとする人がいるかのようである。そうではなく、彼らが人間であるのは社会の外で、なのである。奴隷であり市民であるのは、AおよびBという人間の社会的規定、社会的関連なのである。人間Aは、人間そのもとしては奴隷ではない。彼が、奴隷であるのは、社会の中で、また社会をつうじてである。」(同上)と述べている。

 

②労働者が、革命的になるというとき、多くの左翼は、階級意識が革命的になる、または、共産主義的になるのだと理解している。そして、それは、もっぱら意識性であるとしている。たとえば黒田の「革命的自覚」なるものは、「理性的自覚」にまで至らなければならないとする。これだけなら一見正しいように見える。しかし、この「理性的自覚」なるものが、まったくのまがい物であるから、労働者が、革命的労働者になるのではなく、考案された「創造的物質」なるものの尖兵にしたてられて、「新しい人間――共産主義的人間――――の最先端」(「プロレタリア的人間の論理」)などとおだてられて、舞い上がるのである。このとき、現実の労働者から、社会の外での人間へと連れ出されるのである。「プロレタリア的人間は、その歴史的地位からして、自己の世界史的使命を自覚するのであったが、この世界史的使命は宇宙的必然性の自覚の直接的=人間的表現にすぎないのである。・・・・・・逆に、物質の普遍的本質が、物資的世界に自己矛盾的に潜在する内容が、プロレタリアートの革命的実践を媒介として、特殊としての意味をもつ社会において個別的物質過程としてあらわれる、という物質の宇宙的必然性における社会的自己運動を、階級闘争はその主体的可能根拠とし、後者は前者の主体的表現である。」(「同上」)

 黒田の「物質」は、「動的な自然的実体」と規定される。これは、レーニンの物質概念を汎神論的なスピノザの実体に写しかえて少し動くものに変え、かつヘーゲルの目的論を取り付けて自覚する、思考するものに作り上げ、人間の脳がこの考える「創造的物質」の役割を担っているのだとする。「理性的自覚」なるものは、この神秘的実体との一体化を感じとる法悦であり、魂を抜き去られ、傀儡にされる瞬間である。本人の人格的主体性は捻じ曲げられ、抜き去られ、別の「新しい人間」の主体性が放り込まれるという過程をとおして、段々と目が空ろになり、暗い目をした革マル的人間が出来上がる。これが、「普遍的目的」をひっさげて、地上に舞い降りる。「場所的立場」という考えかたが必要なのはそのせいである。このような社会の外で作り出された「前衛党」が、現実の労働階級の運動にたいして敵対的になることは構造的に明らかであるし、イデオロギー的組織的支配にこだわり、それが暴力的になってゆくのもこれまた必然である。自己は普遍的絶対的であり、大衆(他党派を含む)は無自覚であるとして関わるのであるから、構造的に無理がありすぎる。

 贋物の主体性論が多くあるが特に黒田のそれはでたらめなのであるが、これを、いまだに信奉する第四インター系、中核系の人々がいるのは驚きであり嘆かわしいことである。そこでもう少し触れることにする。黒田は、宇野経済学を適当に利用して、自分の「理論」の飾りにしたのであるが、字面は、プロレタリア的主体性における認識方法論と称している。しかし、大きく2つの点について間違っている。

その一つは、宇野の「労働力の商品化」についての把握を、労働者の商品化と間違っていること、およそ労働者についての現実的無知と経済学的無知の2重の誤りとなっている。現実の労働者階級からかけ離れた小ブルの見せ掛けの理論であることをのっけから暴露する展開である。この入り口そのものが間違っているのであるからそれ以降の全過程は言うべき言葉がない。労働力が商品化されているのであって、労働者が商品として売買されているのではない。この労働力が生身の労働者の活動として発現されるといことからくる問題、また、この賃労働においてしか生活ができない社会になっていることが注目するべき焦点なのであって、労働者が商品とされて苦しんでいるということではない。このような現実も、経済学的分析も無縁に、労働者に、例の「創造的物質」の「最先端」というお題目を注入する枕詞として利用しようとしただけである。そして、決定的には、労働者が帝国主義的工場制度の下で資本の社会的権力のもとに隷属させられているという資本主義的生産の根本問題を見落としているのである。

そして、誤りのその二は、この誤りのその一にも規定されるのであるが、労働者の階級的自覚などと称して、「プロレタリアの実践的直観をバネとした対象認識の論理的深化によってはじめて、」「対象認識とプロレタリア的価値判断との統一においてこそ真理認識」が可能であるとする。すなわち、直観はバネにすぎない。それで用済みである。そこからは、黒田が適当に剽窃とつぎはぎで作りだしたところの「プロレタリア的価値判断」なるものを「理性的自覚」なのだと注ぎ込むだけである。このときには、すでに抽象的自己意識の世界、「実践をつうじて自己意識を高め自覚する」(「場所の哲学のために 下」)とする。すなわち、社会の外に、抽象的個人的自己意識として飛び出しているのである。

 

③認識論を問題にするとき、多くが個人の意識、自己意識から始める。しかし、個々に個別化された個人という考え方が現実的となるのは、これも歴史的な個別化作用の結果なのであって、この事抜きに、個別的自己意識の認識と自覚を高めるなど言う方法は、近代の個人が登場してからの、個人が個人として対象を認識できると考えた、自我を中心に論じるエゴイズイム(自我主義)の延長にすぎないということを認めるべきである。認識は、本質的には、外見的現象的個別性をもつとしても、本質的には社会的主体としての、新たな人間的結合として生み出される、運動する社会的結合関係のなかの個人としての歴史的前提とその規定性のもとにある社会的認識として展開されるのである。「結合された目」とは、現実的に共同作業であると同時に、本質的意味をもっているのである。自己意識を社会の外に放り出すことは、思考の上では可能である。抽象的人間なるのもの自己意識として主体をたてて、論理展開することはいくらでもできる。そこに落とし穴がある。このことに気がつかねばならない。われわれが新たな歴史的社会的主体において現在直下から未来へむけて二重権力的視野において、すなわち、市民社会に属しつつ市民社会に属さないものとしての労働者階級という視点において洞察するという場合、認識論的には、この社会的主体において基礎付けられたものとして諸理論を展開するということである。

 「われわれが歴史を遠くさかのぼればさかのぼるほど、ますます個人は、それゆえまた生産する個人は、自立していないものとして、一つのいっそう大きい全体に属するものとして現れるー初めはまだまったく自然的な仕方で家族の中に、そして種族にまで拡大された家族のなかに、後には諸種族の対立と融合から生じるさまざまな形態の共同体のなかに現れる。」「人間はもっとも文字どおりの意味でポリス的動物である。たんに社会的な動物であるばかりでなく、社会のなかでだけ自己を個別化することのできる動物である。社会の外での個別化された個個人の生産ということは・・・・・・いっしょに生活し、いっしょに話をしあう諸個人なしでの言語の発展というのとまったく同様な不合理である。」(「要綱 序説」)

 個人は歴史的に生成したものである。言語も社会的に発達してきたものである。認識論は、これを前提にしなければならない。

 そこで、われわれは、「社会的生産過程の最後の結果としてつねに社会それ自身、すなわちその社会的諸関連における人間それ自身が現れる。」という結論と、「出発点」として述べられている「社会で生産をおこなっているもろもろの個人、したがってもろもろの個人の社会的に規定されている生産」という関係、社会的個人とそれを前提とした生産の関係を、再度歴史的論理的に掴みなおす必要がある。この出発から、結果までの全過程の内容こそが歴史の弁証法的把握の重要な基礎をなすと同時に階級性という場合の内容をあきらかにすることになる。そのことによって、われわれが述べるところの階級形成論の原理論をなす社会的主体の史的唯物論的内容を深めることができると考える。

すなわち、生産についての本源的把握から、その再生産と展開、資本主義的生産とその社会の特徴(前提そのものの再生産)、その否定としての新たな社会的諸個人の登場へと展開される生産と社会の相互前提的相互規定的関係の歴史的叙述において、新たな社会的主体の階級形成論における原理論的位置を明らかにできる。

 

④このことをふまえて、ここでの方法は次の点に留意することにする。

マルクスは、方法について述べて、今日の生産様式の分析にとって、その歴史的前提となった先行する歴史的な生産様式の分析が、同時に将来の社会状態についての示唆を、「生成してゆく運動」を指し示すことになると述べている。

 「われわれの方法は、歴史的考察がはいってこなければならない諸地点を、言い換えれば、生産過程のたんに歴史的な姿態にすぎないブルジョア経済が自己を越えてそれ以前の歴史的な生産諸様式を指し示すにいたる諸地点を、示している。・・・・・・・・この生産諸関係を、それ自体歴史的に生成した諸関係として正しく観察し演繹するならば、それはつねに、この体制の背後にある過去を指し示すような、最初の諸方程式――――例えてみれば、自然科学における経験的諸数値のようなものーに到達するのである。とすれば、これらの示唆は、現在あるものを正しく理解することとあいまって、過去の理解―――これは独立した仕事であって、これにもいずれは取り組みたいものだがーへの鍵をも提供してくれる。同様にしてこの正しい考察は、他方で、生産諸関係の現在の姿態の止揚―――それゆえ未来の予示、生成してゆく運動―――が示唆されるにいたる諸地点に到達する。一方では前ブルジョア的諸段階が、単に歴史的な、すなわちすでに止揚された諸段階として現れ、他方では今日の生産諸条件が、自己自身を止揚する諸条件として、それゆえまた、新たな社会状態のための歴史的な諸前提を措定する諸条件として現れるのである。」(「要綱 資本の再生産と蓄積」)

 歴史的前提とそれに規定されたもの、それがさらにあらたな前提を措定すること、この歴史的発展において、まず本源的出発点は、家族、種族の形をとった社会であった。この社会を前提として生産がはじまる。歴史的な生産の拡大と社会の発展は、新たな相互規定的相互前提的な関係にはいる。

 

(2)生産の本源的諸条件

①「前ブルジョア的歴史とその各局面もまた、自己の経済と運動の経済的基礎をもっているということは、けっきょく人間の生活がそもそもの昔から生産に、なんらなかの方法で、社会的生産―――われわれはこの生産関係をこそ経済関係とよんでいる―――に立脚していたということの、たんなる同義反復にすぎないのである。」(同「Ⅲ資本に関する章」 「第2篇――資本の流通過程」 s388)

 「生産の本源的諸条件は、自然的前提として、生産者の自然的生存諸条件として現れる。・・・・・・・。彼自身の(肉体的)定在は、彼が生み出したのではないひとつの自然的前提である。生産者は彼自身のものである非有機的肉体としてこの自然的生存諸条件と関係するが、この条件は、それ自身二重のものである。すなわち、1」主体的自然と2)客体的自然。彼は家族、種族、部族等―――これらはやがて他のものと混希し、また対立しあう事によって,歴史的に種々異なった姿態をとる―――の成員としてたちあらわれる。またこのような成員として、彼は彼自身の非有機的定在であり、自分の生産と再生産の条件である一定の自然(たとえばここではまだ大地、土地)と交渉しあう。彼は、共同団体の生まれながらの成員として、共同体的所有に参加し、またその特定部分を占有する。・・・・・・・・。彼の所有、すなわち彼に属するものとしての、ほかならぬ彼のものとしての彼の生産の自然的諸前提にたいする関係は、彼自身が一共同体の生まれながらの成員であるという事に媒介されている。」(s390)

 

②この共同団体について、その本源的把握は次のようになる。

「・・・・・・さしあたり自然生的共同団体が最初の前提として現れる。すなわち家族、および種族のかたちに拡大した家族、ないしは家族間の結婚により≪種族のかたちに拡大した家族≫、または諸種族の結合。

遊牧生活、一般に移動というものは、種族がある一定の場所に定住しないで、見つけしだいの場所で牧草を食わせるといった生存様式の最初の形態であると想定できる―――人間は生まれながらにして定着するものではない(ただとくに自然環境にめぐまれているときだけは、猿のように一本の樹のうえに棲んでいたであろうが、通常彼らは野獣と同じように放浪していたにちがいない)―――ので、種族共同社会、自然的共同団体は、土地の共同的領有(一時的な)と利用との結果としてではなく、その前提として現れる。

人間が結局定住するようになると、この本源的共同社会がどの程度まで変形されるかは、さまざまな外的、気候的、地理的、物理的等の条件とともに、人間の特殊的自然的素質等―――彼ら種族の性格―――の如何に依存するであろう。」(s375)

これが「本源的共同社会」の規定である。

「自然生的共同種族社会、または群居団体といったものが、人間の生活と、自己を再生産し対象化するその活動(牧人、狩猟者、農耕者等としての活動)との、客観的諸条件を領有する最初の前提(血統、言語、習慣等の共通性)である。」(s375)

生産活動の最初の前提は「自然生的共同種族社会」である。ここから出発することになる。「人間は、共同団体、しかも生きた労働のかたちで自己を生産し、また再生産するところの共同団

体の財産である大地と素朴に関係する。個々人はいずれも所有者または占有者としてこの共同団体の手足として、その成員としてふるまうにすぎない。」(s375)

 「生きた個人にとっての一つの自然的生産条件は、彼がなんらかの自然生的社会に、つまり部族等々に所属していることである。」(「要綱 資本主義的生産に先行する諸形態」)

 

(3)所有の本源的規定

①「彼の所有、すなわち彼に属するものとしての、ほかならぬ彼のものとしての彼の生産の自然的前提にたいする関係は、彼自身が一共同体の生まれながらの成員であるということによって媒介されている。」(s390)

「したがって所有とは本源的には、自分に属するものとしての、自分のものとしての、人間固有の定在とともに前提されたものとしての自然的諸条件にたいする人間の関係行為のことにほかならない。

すなわち自己の肉体の条件にたいする関係行為である。彼は本来は、自己の生産条件と関係しているわけではなくて、主観的には彼自身として、同じく客観的には彼の生存のこの自然的無機的諸条件のなかに、二重に存在しているのである。これら自然的生産諸条件の形態は二重である。すなわち、①一共同体の成員としてのその定在。したがってこの共同団体の定在。この共同団体は、本源的形態においては、種族団体、多かれ少なかれ変形された種族団体である。②共同団体を媒介とする、彼自身のものとしての土地にたいする関係行為。共同的な土地所有であり、同時に個々人の個別的占有。あるいは、果実だけは分配されるが、しかし土地それ自体と耕作とは共同のままであるということ。生きている個人にとって、自然的生産条件の一つは、彼が一個の自然生的な社会、種族等に所属していることである。」(S392)

「したがって所有とは、或る種族(共同団体)へ帰属すること(そのなかで主観的・客観的存在をもつこと)であり、そしてこの共同団体の、土地、それへの非有機的肉体である大地に対する関係行為を媒介にしての、個人の土地にたいする関係行為、彼の個性に属する前提的条件、個性の定在様式としての生産の外的な原初条件―――大地は原料、用具、果実となっているから―――に対する関係行為のことである。」(S392)

「所有ということが、自分のものとしての生産諸条件にたいする意識された関係行為――――そしてこれは個々人にかんしては、共同団体によって定められ、また掟として公布され、保証されるもの―――にすぎないかぎり、したがって生産者という定在が、生産者に属する客観的諸条件における一定在として現れるかぎり、所有は生産者自身によってはじめて実現される。」(S393)

「共同(種族)団体の特殊な一形態と、それと関連する自然にたいする所有のーないしは、自然的定在であり、共同体によって媒介された個々人の客観的定在である生産の客観的条件にたいする関係行為のー特殊な一形態とのあいだの本源的統一――― 一方では特殊な所有形態として現れるこの統一―――は、一定の生産の様式事態のうちにその生きた現実性をもっている。(S395)

「労働する主体の生産力のある一定の発展段階―――主体相互間の、そして主体の自然にたいする、特定の関係がこれに照応する―――に、究極において、彼らの共同団体とそれを基礎とする所有は帰着する。ある一定の点までは再生産、それからのちは分解に転回する。」(S395)

所有の本源的形態は、諸個人が共同体に所属しているということを媒介している。将来の社会と生産と所有の問題を扱ううえで、このことから離れては空論となる。人間は社会の中で個別化されてきたのであり、かつ普遍性を外化してきたのである。資本主義的生産の下で、科学技術と社会的協動の発展によって発達した社会的生産力を、現実的に結合した社会的主体として我が物とすること、私的所有の反対が国有化となるということを主張する者は今頃いないと思うが、更に踏み込んで、共同所有・個体所有についての論議は、社会を前提とする生産、それを前提とする所有という基本的構造を踏まえねばならない。(このことについては、別に扱う。)

 

(4)生きた労働能力と対象化された労働の分離

①労働者の本源的主体性とは、賃労働という規定、概念が生み出されるところの歴史的前提にかかわるものである。なぜなら、それまでの労働のあり方の歴史的否定のなかにその本質が隠れているからである。

 賃労働について、厳密に規定することが必要である。賃労働の廃棄、賃労働と資本の両極の廃棄という場合の内容を明らかにすることに繋がるからである。

 「賃労働というのは、ここでは、つまりわれわれがもっぱらその意味で使う―――のちにはこれを、日傭、等々のためになされる他の労働形態から区別しなければならないであろう―――厳密な経済学的意味では、資本を措定する労働、資本を生産する労働のことであり、言い換えれば、自己を活動として実現するための対象的諸条件、ならびに、労働能力としての自己の定在のための客体的諸契機を、自己自身にたいする疎遠な諸威力として、それ自体として存在する、自己から独立した諸価値として生産する、生きた労働のことである。」(「要綱 資本の再生産と蓄積」)

 賃労働と資本の関係が成立する以前に歴史的に成立していなければならない諸条件とは何かーそのことのなかに、本質が含まれる。

「本質的諸条件は、本源的なものとして現れる関係そのもののなかに措定されている。―――(一)一方の側には、生きた労働能力が、自己の客体的現実性の諸契機から分離されて、ただ主体的でしかない存在として現存していること。それゆえそれは、生きた労働の諸条件から分離されているのと同じ程度に、生きた労働の能力の生産手段、生活手段、自己維持手段からも分離されている。つまり一方の側には、こうしたまったく抽象のうちにある(すなわち現実化のための具体性を欠いた)労働の生きた可能性。(二)他方の側にある価値あるいは対象化された労働は、たんに生きた労働能力を再生産または維持するためだけでなく、剰余労働を吸収するためにも必要なー剰余労働のための客体的原材料を提供するためにも必要なー諸生産物ないし諸価値の生産のための対象的諸条件を提供するのに十分な大きさの諸使用価値の蓄積でなければならない。」(同上)

「剰余労働が資本の剰余価値として措定される、ということは、労働者が自分自身の労働の生産物を取得しないということ、つまり彼にとってこの生産物が他人の所有物として現れ、逆に他人の労働が資本の所有物として現れる、ということを意味する。・・・・・・・事実、資本の生産過程では、・・・・・・・・労働は一つの総体―――諸労働の結合―――ではあるが、それの個々の構成部分はお互いに疎遠であるので、総体としての総労働は個々の労働者の業(わざ)ではなく、またそれは、彼が自覚的に結合する者としてお互いにたいして関わるのでもなく、結合させられているというかぎりでのみ、さまざまの労働者たちの共同のよる業(わざ)なのである。諸労働の結合としては、この労働は、他人の意志と他人の知能に仕え、それによって導かれるもの―――つまり自己の精神的統一を自己の外に持つもの―――として現れるとともに、自己の物質的統一においても、機械装置、固定資本の対象的統一性に従属しているものとして現れる。固定資本は、魂を与えられた怪物として科学的思考を客体化しており、事実上統合者なのであって、用具として個々の労働者にたいして関わることはけっしてない。かえって労働者の方が、魂を与えられた個々の点的存在、固定資本の生きた孤立的付属物として存在するのである。結合させられた労働はこのように、二重の側面から見て、即自的に結合なのであって協働する諸個人がお互いになしあう連関としての結合でもなければ、彼らの特殊的なまたは個別化された機能なり労働の用具なりにたいする彼らの統括としての結合でもない。」(「要綱 資本主義に先行する諸形態」)

協働を回復するということは、この総過程の否定的止揚が問題となる。ちなみに、これまでの科学技術論の根本的欠陥は、この疎外された労働、賃労働のありかたそのものの廃止と繋がる地平での、技術の生きた労働への奪還の必要性が明示されずにいることにある。

 

(5)物象的依存関係の発生と人格的独立

①交換価値の発生は、それまでの「固定的な人身的(歴史的)依存関係」による生産を解消してゆく。そのことによって、この最初の社会形態の否定は、「物象的依存関係」のもとへの諸個人の服属へと転回することになる。このことは、社会的生産が狭小で、人格的依存関係に規定されている段階からの疎外の中での疎外をとおしての歴史的発展である。よき時代をもとめて、過去にさかのぼる志向(たとえば、資本の本源的蓄積から、原始共同体へとノスタルジックにさかのぼることが本来の人間の発見であるような錯覚)と反対に、この疎外された発展のさらなる否定の内容こそが問題となる。労働者の本源的主体性を追及する作業は、この理論方向の中にある。

「相互にたいして無関心な諸個人の相互的で全面的な依存性が、彼らの社会的連関を形成する。この社会的連関は交換価値というかたちで表現されているが、各個人にとっては、彼自身の活動または彼の生産物はその交換価値というかたちで初めて各個人のための活動または生産物となるのである。」(「要綱 貨幣の成立と本質」)「活動の社会的性格は、生産物の社会的形態と同じように、生産への個人の参加分と同じように、ここでは諸個人に対立して疎遠なもの物象的なものとして現れる。それは、諸個人の相互的な関係行為としてではなく、諸個人に依存することなく存立し、無関心な諸個人の相互的衝突から生じるような諸関係のもとへ諸個人を服属させることとして現れる。各個々の個人にとって生活条件になってしまっているところの、諸活動と諸生産物との一般的な交換、それらの相互的な関連は、彼ら自身には疎遠で、彼らから独立したものとして。つまり一つの物象として現れる。交換価値においては、人格と人格との社会的関連は物象と物象との一つの社会的関係行為に転化しており、人格的な力能は物象的な力能に転化している。」(「同上」

さらに生きた労働の物象的諸条件が、分離され疎遠なもとなることについて次のように展開する。

「生きた労働の物象的諸条件―――つまり自己増殖の材料となる原材料、自己増殖の手段となる用具、そして、生きた労働能力の炎を労働へと燃え上がらせ、この炎の火が消えるのを防ぎ、生きた労働能力の生活過程にもろもろの必要な素材を供給する、そのために必要な生活手段」―――が、過程そのものの中で、また過程そのものによって措定されており、しかもそれら物象的諸条件は、他人の自立した諸条件として、すなわち他人の人格の存在様式として、生きた労働能力―――これは同様に、それら物象的諸条件から隔離されて、主体として途方にくれている―――に対立して自己に固執している、それ自体として存在する諸価値として、それゆえまた、労働能力には疎遠な富である資本家の富をなす諸価値として、措定されている、という事態である。」(「要綱 資本の再生産と蓄積」)

一八六二・五八年当時のこの展開は、一八六二・六三年の「剰余価値学説史」へと引き継がれる。そこでは、物象化を物象の人格化、人格の物象化と明確に転倒として叙述される。これまでの本源的主体性の更なる展開は、物象化を、主体にとっての転倒としてつかむ、という内容に入る。

物象化を交換価値の発生という歴史的社会的前提に規定されたものとしてつかむこと、したがって、そのことによって、社会形態がどのように変化したのかということ、さらに、そのことが、いかなる否定的事態を生み出しているのかということ、このように分析する必要がある。

すでにこれまでの展開で読者におかれて解明的であろうと思うが、一方では錯認識の問題にきりつめたり(広松)、他方、物象化を実態的に「商品人間」にされるとか、労働者が商品になるとかというふうに物化を誤ってとらえて、そこから形而上学に天翔り、貧弱な「自由な王国」を描き、それを地上に実現するのだという空想的社会主義になって「革命的共産主義」を標榜したり(黒田)するような物象化論の方法と根本的に異なる方法の上に、労働者の本源的主体性が明らかになるのである。

 

Ⅴ 歴史的転倒を転倒として闘う

(1)疎外を転倒としてつかむ

①総括過程において、われわれは、主体、より正確には社会的諸主体について考察を深めてきた。そこから再度戦略論へ、という道をつけてきた。その戦略論への媒介として、階級形成論の更なる深化を課題としてきた。

このことを更に深めるために「階級形成論と認識論の統一的把握」というテーマにおいて、われわれの認識論を一段掘り下げて見る必要がある。なぜなら、われわれの内部に於いて、やはり目的主義的偏向や、または、現象学派的認識論が十分に克服されずに今日まで来ていると思われるからである。

 また先にも触れたのであるが、戦後主体性論争において、キーとなったのはやはり疎外論であった。しかし、その内容に問題がある。疎外論を扱う理論主体が抽象的個人、または、人間主義程度であることが当然にも疎外論を人間なるものの疎外の問題にしてしまった。

また、このことと密接に関連あることとして、「物象化論と疎外論の統一」の問題がある。「疎外論から物象化論へ」(廣松「ヘーゲルそしてマルクス」)という表現に端的に現れる社会的主体を欠落した客観主義の学的知なるものの外在性についても言及しなくてはならないと考える。

 我々は、フォイエルバッハのヘーゲル批判を媒介とするマルクスのヘーゲル批判の内容を掴んできた。主語と述語の転倒として端的に表現されるヘーゲルの転倒を、歴史的社会的主体を主語として転倒すること、この視点が大切である。

分かりやする説明するために次のことに言及しよう。われわれは、出発当初からレーニン主義組織論の「疎外された前衛党」批判を深めてきた。勿論、コミューン、およびレーテ、ロシア革命の中に実践的に登場したソビエト(評議会)の現実的歴史的成果とその精神の中に労働者階級の革命的内容を掴む事を基礎としてのことである。ここでいう疎外された前衛党というのは、よく疎外という言葉の安直な理解で、「疎外されていない、あるべき姿の」という意味に考えられる事が多いのであるが、我々はそのような言葉として疎外を使った事は無い。それは、同時に、我々にたいする誤った理解とその理解の仕方に現れる理論的誤謬によって、実は批判者の理論水準を自己暴露しているのとなっている。たとえば、われわれは、主語となるべき現実のプロレタリアートが、理念化されたプロレタリアートのその目的の所有者の単なる述語とされていること、この転倒を疎外として掴んできた。決してあるべき前衛党を対置してきたのではない。

ここに貫かれている方法論は、プロレタリア革命を人間の全面的解放の歴史的条件として把握するという場合にも貫かれる。分かり易く説明すればここで扱われる「疎外された労働」、「疎外された人間性」という場合は、あるべき理念的労働や、理念的人間像を対置して疎外を語っているのではない。あくまでも歴史的社会的労働の転倒を、したがって、歴史的社会的現実的生活者の転倒を問題にしているのである。そもそもヘーゲルの掴み方、その批判がしっかりしていない自称マルクス主義者において、疎外概念の理解は難しいのかもしれない。

 理念的人間像をもとにその否定態として疎外を理解する仕方においては、確かに抽象的人間主義であり、疎外の克服という課題は、歴史的社会的現実にたいするヒューマニステックな要請でしかない。しかし、ヘーゲルにおいてもフォイエルバッハにおいても、さらにマルクスにおいて、このような理念型の否定態としての疎外という展開はないといえる。外化され措定されたものが反省において否定されることによってそれを新たな前提として再措定されるという、動的な主体としてヘーゲルの神秘的主体はあるのであり、また、フォイエルバッハにおいても、主語と述語の転倒としてヘーゲル神学を喝破したのであり、マルクスの「疎外された労働」以来の資本主義的な社会的労働の転倒にたいする一貫した批判は、まさに理念型疎外論とはかけはなれた展開内容なのである。

 

②歴史的社会的労働を、したがって、そのうえに成立している各歴史段階における現実的人間の精神的肉体的諸活動を、弁証法的に把握する事、すなわち、現状の中に肯定的側面と否定的側面を同時に掴み取る弁証法的歴史的必然性を戦略的内容とするという場合、あくまでも、社会的主体において、という認識主体が前提とされること、そこにおいて否定される内容が問題なのであり、その意味において疎外の歴史的現段階における人間的活動として戦いがあるといえる。疎外は問題ではない、疎外からは何も出てこない、という論者は、疎外概念の理念型理解に陥っているばかりか、実は疎外を通して歴史は発展してきたのであり、その否定が問題なのだということ、なぜ資本主義的生産の否定が人間性の回復となるのかということが分かっていない。

 

(2)物象化論のこれまでの問題点はなにか

①疎外論、物象化論は一九六〇年代の後半から活発に論じられた。ルイ・アルチュウセールに代表された「ヒューマニズム批判」と、彼の、一八四五年におけるマルクスの「認識論上の切断」という考え方にもとづいて、イデオロギーとの断絶、「科学」の確立という見解は、他方のアンリ・ルフェーブルの「ヒューマニズムの傾向をもったマルクス主義者」という自己規定のもとでの「新たなヒューマニズム」の主張とともに西ヨーロッパでの新たな論争を生み出し、それは日本にも影響を与え、論議が重ねられた。

 この論争は、両者ともに誤れる土俵の上にたっていることにより、一面的なものになってしまっている。スターリン主義批判をレーニン主義批判として貫徹するという姿勢がないかぎり、やはり、理論が疎外された理論家の理論となってしまっている。別の言い方をすれば、抽象的個人のエゴイズム(自我主義)がつかむ世界観に過ぎないものとされてしまっている。ルフェーブルが唱える「主体」とて、社会的主体ではない。個々の個人としての主体に過ぎないという意味で個々の自我に過ぎないのである。「イデオロギーを排除した科学」とても、それは如何なる主体の認識活動としてあるのか、なぜ認識しようとするのか、何を認識しようと欲するのかという根底が不明のままであったのである。

 この論争に付随して発生したのが疎外論、物象化論である。

ルフェーブルは西洋哲学の「遺産」として「まず方法、すなわち理論と弁証法がある。いいかえると哲学者たちが練り上げてきた三つの合理性の次元、つまり論理的理性、分析的理性、弁証法的理性である。次にあげるべき物は、一定数の理論上の概念、すなわち全体性、構造、形態、機能という概念である。さいごに来るものは、人間存在とその完成に関する諸観念、疎外と非疎外、自由と決定論、必要と欲望、欠乏と豊富である。これらの観念から、人間存在についての哲学的投企が発生する。」(「フランスの哲学」)「古典哲学をひきつぐ省察によって、新たなヒューマニズムを作り出すこと、これはすでにマルクスの企てたことであった。」(同論文)(「思想」河野健二「現代マルクス主義の二つの立場」より)疎外という問題をヒューマニズムの課題として扱っている。

 ルカーチの「歴史と階級意識」は、「階級意識」と「物象化論」を基軸に展開されている。「物象化された意識」という視点を展開したのは彼がはじめてであると思われる。これは、物象化された諸関係の中に埋没した意識、または物象化された諸関係に規定された意識、という意味としてつかみ返してその意味を取れる。

 「階級意識論」において、「マルクスはこの見方に対して経済学の歴史的批判を対立させた。すなわちその歴史的批判とは、経済的・社会的な生活の物象化した対象的なもの全体を、人間のあいだの関係のなかへ解消させるということである。……社会的構成体とその歴史的運動がもつ、人間とは無縁な物象性をこのように止揚すると、その物象性はその根拠につまり人間と人間の関係に、還元されるからである。」(平井俊彦訳)と、物象化について言及している。

 さらに「物象化した意識」「虚偽の意識」に対して、「正しい階級意識」を唱え、且、それは共産党の理論であるとする。例えばこのように展開される。「日和見主義の理論は、プロレタリアートの正しい本能にたいして、資本家の理論がつねにやってきたのとおなじ機能をはたす。すなわち、この理論は経済的な全状態の正しい理解、つまりプロレタリアートの正しい階級意識―――と、その組織形態である共産党―――をば、非現実的なもの、すなわち「正しい」(直接の、個々の国民的なまたは使命に適合した)労働者の利害に反するもの、労働者の「真の」(心理的にあたえられた)階級意識とは無縁の原理だと、おどすのである。」

 当時(一九二〇年)のレーニン主義の影響のもとにある理論戦線において、レーニンの「革命的意識の外部からの持込論」を後押しする理論として展開されているのであるが、物象化を取り上げる視点は注目された。日本に於いても、一九五五年未来社より「階級意識論」が翻訳出版されている。

しかし、この物象化論は「社会構成体がとる人間には縁のない物象性を、人間と人間との関係へとこのように還元する」こととしていきなり抽象的人間においてつかまれている。ここでも残念ながら物象性そのものがいかなる原因を持っているのかということ、原因に遡って解決するという具合にはなっていない。

 このような物象化の扱われ方そのものが、物象化を認識する主体そのものの問題に帰さない限りどこまでいっても客観主義となるか、裏返して抽象的人間の自己意識からの物象化批判としての抽象的人間主義という性格を持った主観主義となってしまう。

 

②廣松は、「疎外論から物象化論へ」という視点を出しているのであるが、それと同時に、「関係主義的存在観」と即応した物として物象化論があるとしている。

「ヘーゲルそしてマルクス」(廣松著)におい以下のように述べている。

 「筆者はL・アルチュセールの謂う認識論的切断の主張を全面的には追認しないが、しかしやはり、一八四五年を境に弁証法的飛躍が生じたとは見る。それを象徴する標語して、疎外論から物象化論へ、と筆者は唱える。疎外論がヘーゲル主義的な『主体――客体』図式の埒内にあったのに対して、物象化論は『主体――客体』図式を超克しつつ、しかも、関係主義的存在観への自覚的な徹底に即応するものである。」

 さらに「マルクスの根本的意想はなにか」においては、「物象化と呼ばれる事態は、それ自身としては、とりたてて特異なことがらではない。それは日常的意識にとって物象的な存在に思えるものが学理的に反省してみれば、単なる客体的存在ではなく、いわゆる主観の側の働きをも巻き込んだ関係体の『仮現相(quid pro quo=錯視されたもの)』である事態を指す。」

 後ほど展開するが、ここで、注意しておくべきは、関係主義的存在観なるものの中味が、「学理的」知と主観をも巻き込んだ「錯視」とに分裂していることである。これは、ルカーチの「虚偽の意識」と「正しい意識」の対比と同じである。ここから当然にも廣松はレーニン主義となる根拠を持つ。廣松はたしかに認識の社会的性格については理解している。「……人々の意識実態(知覚的に現前する世界)は当人がどのような社会的交通の場のなかで自己形成をとげてきたかによって規定される。従って、『認識』は個々の主観――客観との直接的な関係として扱うことはできない。……『私が考える』cogitoということは『我々が考える』cogititamusという性格を本源的に備えているということができよう。意識主体は、生まれつき同型的なのではなく、社会交通的、社会協働を通じて共同主観的になるのであり、かかる共同主観的なコギタームスの主体I as We,We as I として自己形成をとげることにおいてはじめて、人は認識の主体となる。」「集団表象の物象化という与件は、“意識作用”の本源的な共同主観性と相俟つことによって、認識が単なるテオリアではないということを示している。認識の過程は、本源的に、共同主観的な物象化の過程であり、しかもこの共同主観性が歴史的社会的な協働において存在する以上、認識は共同主観的な対象的活動、歴史的プラクシスとして存立する。換言すれば、認識は決して単なる『意識内容』を与件とする“主観内部の出来事”なのではなく、物象化構造をもつものとして、直接的に対象関与的である。」(「世界の共同主観的存在構造」一九六九年)

 かくして、日常的意識は物象化された意識となり、物象化批判は学的知の仕事とされる。したがって、日常的意識をもつ人々が再び対象とされ、それを見る観照する主体は、ふたたび、社会から切り離された学者たる己個人の抽象的自我ということになるのである。このように、認識の社会性が語られつつも、社会的主体がどこにも現れない。

認識は、認識を必要とする実践的活動主体から切り離せない。すなわち、社会的認識という場合、その社会が分裂しているということ、現社会の中にその否定としてのあらたな社会性と活動があること、この二重の社会に我々の社会的認識は位置付くのであり、この、現状の中にその肯定的側面と同時にその否定的革命的側面をつかむ、という主体的姿勢こそが我々の認識論を基礎付けるのである。

 

③このことをふまえて、「序説 『三 経済学の方法』」に述べられている「理論的方法」に再度注目する必要がある。

「具体的な総体が、思考された総体として、ひとつの思考された具体物として、in fact《事実上》思考の、概念作用の産物であるかぎりでは正しい。しかしそれは、けっして直観と表象とのそとで、あるいはまたそれらをこえて思考して自分自身をうみだす概念の産物ではなくて、直観と表象とを概念へ加工することの産物なのである。……。だから理論的方法においてもまた、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなければならない。」

マルクスが「経済学哲学草稿」において、

「私が科学的等々の活動をするーこれは私がめったに他人との直接的共同のもとに遂行できない活動なのであるがーその倍場合でも、私は人間として活動しているがゆえに、社会的である。」「私の普遍的意識は、実在的な共同体、社会的存在を自分の生きた形姿としているものの理論的な形姿であるにすぎない。」「個人は社会的な存在である。だから彼の生命の発現は―――たとえそれが共同体的な、すなわち他人とともに同時に遂行される生命の発現という直接的形態で現れないとしても―――社会的生命の発現であり、確認なのである。」と自己の理論活動がその個別的外見にもかかわらず社会的理論作業なのだということを述べている。

 すなわち、先の文章にて表象し直観する理論作業主体の明らかにするべき事柄への関心、そのことによる自己の再対象化作業の必要性の共有が前提となっているのである。われわれは、「結合された目を持とう」ということを繰り返し述べてきた。(「滝口弘人著作集 第一巻 p四五六」)ブルジョア社会に於いては学問や科学が働く階級から分離され独立している外観を持っている。しかし、われわれにおいて、この階級の内部に築かれつつある結合された目において、理論的科学的認識を深めることこそ、われわれの認識論の地平である。

 マルクスの「フォイエルバッハにかんするテーゼ」の「10 古い唯物論の立場は『市民』社会であり、新しい唯物論の立場は人間的社会または社会化された人類である。」に示されている立場は、実践的立場なのである。このことが掴めずに、社会を外から観照し、学理的見解なるものを導き出し、錯視を正すとする啓蒙主義的立場に於いては、物象化についての把握も、主体的ではない。

 

(3)物象化を特殊な社会的関係と掴む

①物象化を広く、個と類の分裂とか、社会的関係の物化とか、いわゆる物神化と同じような意味で把握する見解が多い。たとえば、ここで4つの見解をあげてみよう。

先述のルカーチの場合は、物象化そのものについては深く言及していない。むしろ、「虚偽の意識」の説明として、「物象化した意識」という表現をとって「真の階級意識」の強調となっている。「社会構成体がとる人間には縁のない物象性を、人間と人間との関係へとこのように還元することによって・・・・・・」という形で「社会構成体とその歴史がもつ、人間とは無縁な物象性」という規定としている。

 平田清明は、経済学批判要綱の貨幣の章の世界史の三段階把握に関する展開を重視して、「ここでも、『家父長的関係、古典的古代的協同体、封建制度、およびギルド制度』が、一括して把握され、右の引用文に直接つづく前掲引用文のことば―――『人格的依存関係』―――によって特徴づけられる。そして、これに対立するものとしての市民社会は、諸個人の交互関係が物象化しているところの『交換価値』において、人格の社会的関係が物象の社会的関係行為に転化し、同じことだが人格的能力が物象的能力に転化していることによって、特徴づけられる。」(「貨幣把握と歴史認識」)として、「協同本質」の真のありかたの追求となってゆく。交換価値との関連において物象化を捉えていることは評価することができるが、そして、人格性を取り上げている点は高く評価できるのであるが、残念ながらその内容が「市民社会と物象化」という関連においてつかまれており、労働とその社会的性格としての物象化という関連においてつかまれていないので、生産関係に踏み込むことなく市民社会の否定としての人格的関係の復活という理念的方向にしか向わなくなっている。

 廣松は、「ヘーゲルそしてマルクス」において「物象化という概念を、マルクスはさしあたり『人と人の関係が、物象と物象との関係として、ないしは事物的実体として、ないしは事物的属性として、現象すること』と定式化している。が、視角を変えて言えば、物象化とは、一定の条件下にある人々の日常的・直接的意識にとって物象的関係・物象的実体・物象的属性であるかのように現象しているものごとが、実は人々相互の(物的契機ももちろん介在する)関係がそのような錯認相で現前化しているものにほかならない、ということを批判的に指摘する概念である。」と規定した。

 別の表現としては、物象化の「化」について、「学理的・反省的な見地から省察すれば『関係』である所の事が,当事者の直接的な意識にとっては、『物象』の相で現出しており、この意味において、物象的な姿態に『化して』いると言うのです。」(廣松渉『今こそ資本論を読み返す』)と説明している。

 しかし、この規定は、決定的に重要な点を欠落している。そもそも物象化がいかなる社会性において現れるのか、したがって、それは誰にとって如何なる問題を持っているのかということの欠落である。マルクスが資本主義的生産関係における転倒として物象化を規定していることを、「疎外論から物象化論へ」という掴み方で、この肝心の転倒という把握を欠落させて、更には、概念を希薄化させ、一般的に関係が物象として映現する、仮象するという独特の理論にしてしまっているのである。現実的転倒としての物象化を、たんなる仮象、錯視なのだと広げて希薄化された広松の物象化論は「経済現象の場面はもとよりのこと、権力的規制といった政治現象、法的拘束といった法制的現象、はては習慣的・道徳的・イデオロギー的規制、等々、広汎な文化現象の場面で、批判的解明・深層的説明の概念装置として機能します。」(廣松渉『今こそ資本論を読み返す』)とされる。したがって、先のはじめに示した規定も漠然と一定の条件下におけるという説明で終わっている。希薄化の完成である。

さらに言及すれば、錯視、錯認というつかみかたは、本当は(学理的見地からみれば)「人と人との関係が、人と人との関係とはおよそ異貌の、物象的実体・性質・関係の相で見えてしまうこの事態」(廣松渉『今こそ資本論を読み返す』)のこととされているのであるが、なにかしらそれらしい理論であるように装われている。だがこれは根本的なところで誤っている。

 

②マルクスが、「経済学批判」の「第一章 商品」のなかで、「だから交換価値とは人と人との関係である、というのは正しいとしても、それは物と言う外皮におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。」と注意を喚起している点を看過しているのである。

特殊な社会的関係として物象化があること、逆に言えば物象化している関係が社会的関係の現実的内容なのだということ、これを物象化的錯視としてしまい、あらゆる物象的関係を一般的に人と人との関係なのだと説明することは、学理的でもなんでもないのである。むしろ、マルクスが、物象化を転倒としてあきらかにし、解明した資本主義的生産関係の秘密を、単なる錯覚である、錯視であると水に流してしまうことになるのである。

「交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関連が、いわばあべこべに、いいかえれば物と物との社会関係として表示されるという点である。」(「経済学批判」「第一章 商品」)

これに先行する展開において、この交換価値を生み出す労働諸条件について次のように述べている。ここが重要な点である。このあとでより鮮明にするためにこれに対する対比を見ることにする。

「交換価値を生み出す労働の諸条件は、交換価値の分析からあきらかなように、労働の社会的な諸規定、または社会的な労働の諸規定であるが、社会的というのは単純にそうなのではなく、特定の様式においてそうなのである。それは特殊な種類の社会なのである。」

どのように特殊なのか―――

「これに反し、紡ぎ手も織り手もひとつ屋根のもとに住み、いわば自家需要のために、家族のうちの女たちは糸をつむぎ、男たちは布を織っていた農村的家父長制的な工業においては、家族という限界のなかで、糸やリンネルが社会的生産物であり、紡績労働や機械労働が社会的労働であった。けれどもその社会的性格は、一般的等価物としての糸が一般的等価物のリンネルと交換されること、つまり両者が同じ一般的労働時間の、どちらでもかまわない同じ意味をもつ表現として、たがいに交換されること、つまり両者が同じ一般的労働時間の、どちらでもかまわない同じ意味をもつ表現として、たがいに交換されることにあったのではない。むしろ自然発生的な分業をもつ家族的連関こそが、労働の生産物にそれに固有な社会的刻印をおしたのである。

あるいはまた、中世の賦役や現物給付をとってみよう。ここでは自然形態にある個々人の一定の労働が、つまり労働の一般性ではなくて特殊性が社会的紐帯となっている。

あるいはまた最後に、すべての文化民族の歴史のあけぼのにみられるような、自然発生的な形態での共同労働をとってみよう。ここでは労働の社会的性格は、あきらかに、個々人の労働が一般性という抽象的形態をとること、あるいはかれの生産物が一般的等価物の形態をとることによって媒介されてはいない。個々の労働が私的労働となること、および個人の生産物が私的生産物となることをさまたげ、むしろ個々の労働をただちに社会有機体の一分肢の機能としてあらわれさせるものは、そこでの生産の前提となっている共同体なのである。

交換価値に表示される労働は、個別化された個人の労働として前提されている。それが社会的なものとなるのは、その正反対の形態、つまり抽象的な一般性という形態をうけることによってなのである。

最後に、交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関連が、いわばあべこべに、いいかれれば物と物との社会関係として表示されるという点にある。」

このような脈絡において物象化の内容となる。したがって、物象化を論じることは、労働の社会的あり方との関係抜きには成立しないということが分かってくる。

このつぎのページによく注目される文書がある。

「社会的生産関係が対象という形態をとり、そのために労働における人と人との関係がむしろ物同志の関係、および物が人にたいしてとる関係として表示される。」

ここでも「労働における」ということから離れていないことに再度注意するべきである。

 

③物象化の問題は、先の①の項に明らかにしたように交換価値と交換価値を生み出す労働の社会的性格との関連において検討するべきなのである。

マルクスはしかし、「商品のばあいにはこのような神秘化はまだきわめて単純である。交換価値としての諸商品の関係は、むしろひとびとの彼ら相互の生産活動に対する関係だという考えが、多かれ少なかれ皆の頭のなかにある。もっと高度の生産関係にあっては、この単純にみえる外観も消えてしまう。」と次の生産関係へと展開することを予告して、「経済学批判」は終わっている。われわれはこの次の展開にこそ入ってゆかねばならない。

 

(4)資本主義的生産における物象化についてー物象化を転倒として掴むこと、および社会的労働の疎外について

①剰余価値学説史(資本論第四部)の「補遺 十二 資本の生産性。生産的および不生産的労働」に、物象化に関する重要な展開がある。それまで、物化とか物神性という表現で、商品、貨幣の交換価値について展開されたものが、資本主義的生産過程における価値増殖過程における物象化として捉えられている。この区別が大切である。

「補遺 十二 資本の生産性。生産的および不生産的労働」

  [(a)社会的労働はー資本と労働との交換によってー資本に合体されており、資本に属する活動として現象するのであるから、労働過程が始まるやいなや、社会的労働のあらゆる生産諸力が資本の生産諸力としてあらわれるのであって,それはまったく、労働の一般的な社会形態が貨幣においては物の属性として現象するのとおなじことである。そこでいまや、社会的労働の生産力、および、社会的労働の特殊的諸形態が、資本の、対象化された労働の、物象的な労働諸条件―――生きた労働に対立するこうした自立化した姿態として、資本家において人格化されている物象的な労働諸条件―――の、生産諸力および諸形態としてあらわれる。これも関係の転倒であって、その表現としてわれわれはすでに、貨幣制度を考察したところで物神性を云々したのである。」

「資本の生産性とは、さしあたり、資本のもとへの労働の形式的従属だけを考察してみても、剰余労働―――直接的必要をこえる労働―――への強制、すなわち、従来の生産様式にも共通しているとはいえ資本制的生産様式が生産のために一層好都合な様式で遂行し完成する強制、のことである。

 こうした単に形式的な関係―――資本姓生産の、より未発達な様式にも一層発展した様式にも共通する一般的形態―――を考察してみても、もろもろの生産手段すなわち物象的な労働条件―――労働材料、労働手段(および生活手段)―――は、労働者に従属する物としては現象しないのであって、むしろ、労働者が生産手段に従属する。労働者が生産手段を使うのではなく、生産手段が労働者を使う。だからこそ生産手段が資本なのである。」

「こうした簡単な関係だけでも、ひとつの転倒、すなわち、物象の人格化および人格の物象化である。というわけは、この形態が従来のすべての形態と異なる点は、資本家が労働者を支配するのは何らかの個人的資格によってではなく、そうした支配が生ずるのは彼が『資本』である限りでにすぎない、ということだからである。彼の支配は生きた労働にたいする対象化された労働の支配、労働者そのものにたいする労働者の生産物の支配、に他ならない。」

 この展開は、「資本論」「第一部第四篇第一三章第四節 工場」のところで示された「転倒」と同じである。「資本主義的生産がただ労働過程であるだけでなく同時に資本の価値増殖過程でもあるかぎり、どんな資本主義的生産にも労働者が労働条件を使うのではなく逆に労働条件が労働者を使うのだということは共通であるが、しかし、この転倒は機械によってはじめて秘術的に明瞭な現実性を受け取るのである。一つの自動装置に転化することによって、労働手段は労働過程そのもののなかでは資本として、生きている労働力を支配し吸い尽くす、死んでいる労働として、労働者に相対するのである。生産過程の精神的な諸力が手の労働から分離するということ、そしてこの諸力が労働にたいする資本の権力に変わるということは、すでに以前にも示したように、機械の基礎の上に築かれた大工業において完成される。」

 これまでの物象化論は賃労働と資本の関係の中からつかまれないとき、人格の物象化という面だけが取り上げられる傾向がある。そして、物象の人格化を語る際も、この人格の物象化と物象の人格化が対になった関係であることを見逃す事が多い。この関係は一対をなしているのであって、これは鮮明に人格の物象化と物象の人格化の、一対をなす転倒として掴まれねばならない。

 

②「しかし、この関係は、もっと複雑な、しかも明らかに一層神秘的なものとなる。」

 このように述べながら、言わば物象化論の第二段階―――社会的労働の疎外―――とも言うべき過程に入る。

 これは、「労働の社会的諸形態」すなわち「社会的労働」(「資本論」では、先に引用した個所において「社会的集団労働」として表現される。)をめぐる展開である。

 「独自的・資本制的生産様式が発展するにつれて、これらの直接的に物質的な物(労働のあらゆる生産物―――すなわち、使用価値からみれば物象的な労働条件ならびに労働生産物、交換価値から見れば対象化された一般的労働時間または貨幣)が労働者にたいして後足でたち、『資本』として労働者に対応するばかりでなく、社会的に発展した労働の諸形態―――協業、マニファクチュア(分業の形態としての)、工場(物質的基礎としての機械類にもとづいて組織された社会的労働の形態としての)―――が資本の発展形態としてあらわれ、したがって、社会的労働のこれらの形態から発展した労働の生産諸力が、したがってまた科学および自然諸力が、資本の生産諸力としてあらわれるからである。事実上、協業における統一、分業における結合、生産のための機械類における自然諸力と科学ならびに労働生産物の応用―――すべてこうしたものが、個々の労働者そのものにたいして、労働者から独立し労働者を支配する労働手段の単なる定在材形態として外的および物象的に対応するのと同じように、これらの労働手段そのものが、材料、用具、などとしてのその簡単な目に見える姿態のままで、資本の、したがって資本家の、機能として〔労働者に対応する〕。」

「労働者たち自身の労働の社会的諸形態、または、彼ら自身の社会的労働の諸形態は、個々の労働者とはまったく係わりなしに形成された諸関係である。労働者たちは、資本のもとに従属するものとしては、これらの社会的形成物の要素となるが、これらの社会的形成物は労働者には属さない。だから、これらの社会的形成物は、労働者にたいし、資本そのものの諸姿態として、労働者の個別的な労働能力とは違って資本に属する     ―――資本から生じて資本に合体された―――結合物として対応する。」

「この過程においては、労働者の労働の社会的性格が、労働者にたいし、いわば資本化されて対応する―――たとえば機械類のばあいには、明白な労働生産物が労働者の支配者として現象する―――のであるが、こうした過程においては、自然諸力、および、その抽象的精髄においては一般的な社会的発展の産物である科学についても、もちろん同じことが生ずるのであって、これらのものが労働者にたいし、資本の権能として対応する。これらの物は、事実上、個々の労働者の技能および知識から分離しており、―――その根源についてみればやはり労働の生産物であるにもかかわらず、―――労働過程に入り込む場合には、つねに、資本に合体されたものとして現象する。」

「労働の社会的生産諸力の発展、および、この発展の諸条件が、資本の行為―――個々の労働者の方はただ受動的な態度をとるどころか、むしろ労働者に対立しておこなわれる資本の行為―――として現象するのである。」

「この労働過程では、資本は、たんに労働を従属させ、労働を合体している労働材料、労働手段であるのにとどまらず、労働とともに、その社会的結合、および、この社会的結合に照応する労働手段の発展をも〔合体する〕。資本制生産は、まず第一に、概して、労働過程の諸条件を、その対象的条件ならびに主体的条件を―――個々の自立する労働者からひき離して―――発展させる。といっても、これらの条件を、個々の労働者を支配する権能・個々の労働者にとり外的な権能として発展させる。

 こうして資本はきわめて神秘的なものとなる。」

「だから、資本が生産的であるのは、―――(一)、剰余労働への強制として、(二)社会的労働の生産諸力および一般的・社会的生産諸力たとえば科学の、自己内吸収者および取得者(人格化)〔として〕である。」

 「社会的労働の生産諸力」が、労働手段、労働材料、機械類などが労動者を支配する物として物象することと区別されて、資本の力として、個々の労働者に対立する。このことが、「もっと複雑な、しかも明らかに一層神秘的なもの」として展開されている。

 先に人格の物象化、物象の人格化という要約をしたが、これ自体、一対の一つの事の二つの側面であることについて注意を喚起したのであるが、資本の分析は、ないしは、物象化の分析の更なる段階は、この社会的労働の疎外についての分析でなければならないのである。

 

(5)「疎外された労働」―――「物象化論」―――「社会的労働の疎外」

①「経済学哲学草稿」(以降「経哲」)の「疎外された労働」の節について、その意義と限界をどのように定めるのかということがこれまでも多く語られてきた。その場合、次の二つの点を注意しなければならない。

 第一には、疎外という概念の使われ方である。確かにフォイエルバッハのヘーゲル批判においては、人間の類的本質の外化、疎外という形で疎外がつかまれ、したがって、静止した動きの無い「本質」の疎外という論理となる。しかし、マルクスは、すでに「ユダヤ人問題」の段階において、貨幣を次のように掴んでいる。

「貨幣は人間から疎外された人間の労働と存在の本質であって、この疎外された本質が人間を支配し、人間はこれを礼拝する。」

 「人間の労働」、「人間の存在」の「本質」の疎外としている。労働という概念、存在という概念は、その後、次々と深められ歴史的社会的に捉えられてゆく。城塚登が、「経哲」の「訳者解説」においてフォイエルバッハの「類的本質」の疎外という考えかたにたいして、マルクスのGattungswesenに「類的存在」という訳語を対置していると述べている。この内容は肯首しうるところである。フォイエルバッハはヘーゲルの神秘的絶対的主体にたいして、「現実的人間」を対置した。しかし、この「現実的人間」は、非歴史的、非活動的なものであったのに対して、歴史的社会的な現実的人間を、したがって、疎外を過程として掴んでいたのである。このことにたいして、疎外と疎外されざる事態との静止的対比においてものを考える思考方法から、理想的人間像、または理想的労働像との対比において疎外を考えるというふうにゆがめられた解釈で、当時のマルクスをフォイエルバッハと同列に強引に並べて、哲学主義であったなどという誤解もあったりする。

 しかし、疎外された労働は、詳しく見れば分かるように、その第二規定が第一規定を結果として規定しなおしており、かつ、その第二規定が第三、第四規定を生み出している。すなわち、第二規定=「労働の内部における生産行為にたいする労働の関係」(「自己疎外」)と第一規定=「労働者にたいして力をもつ疎遠な対象としての労働の生産物にたいする労働者の関係」(「事物の疎外」)は、「労働の対象の疎外においては、ただ労働の活動そのものにおける疎外、外化が要約されているにすぎないのである。」という関係にある。さらに、「生産的活動は類生活である」ということを媒介に、第三の規定=「人間から彼自身の身体を、同様に彼の外にある自然を、また彼の精神的本質を、要するに彼の人間的本質を疎外する」(「類的存在」の「疎外」)を引き出す。この三つに規定からすなわち「人間が彼の労働の生産物から、彼の生命活動から、彼の類的存在から、疎外されている、ということから生ずる直接の帰結の一つは、人間からの人間の疎外である。」(「人間からの人間の疎外」)というかたちで第四規定が導き出される。このように第二規定がこの四つの規定の根幹であるといえる。

 たしかにこのころのマルクスの労働観については、必要労働と剰余労働の関係についての区別性が無く、したがって、人間の本質としての労働は労働一般となっている。この労働一般が疎外されているとしている。

 

②ヘーゲル弁証法と哲学一般の批判」の節において、ヘーゲル「現象学」のなかから「労働の本質」として掴んだものは、「ヘーゲルが人間の自己産出を一つの過程としてとらえ、対象化を対象剥離として、外化として、およびこの外化の止揚としてとらえているということ、こうして彼が労働の本質をとらえ、対象的な人間を、現実的であるがゆえに真なる人間を、人間自身の労働の成果として概念的に把握しているということである。」というものであった。疎外された労働は、「強制労働」であり、「自己活動を、自由な活動を、手段にまで引き下げる」ものとして描かれている。しかし、労働疎外論が消え去った過去のもということではなく、労働を労働力として、労働力商品、労働時間として考察し、価値論をとおして、必要労働と剰余労働とを区別して展開することにより、この労働疎外論はさらに深められていったと考えるべきである。

 したがって、物象化論は過程的に把握された疎外論からは、異質なものではなく、明確に転倒としてつかまれるべきなのである。この物象化からさらに一歩踏み込んで、先述の「社会的労働」の疎外をその更なる発展として掴み返す必要がある。そしてこの打破こそが、賃労働と資本の両極を両極ながら廃棄するという命題にとって重要なる課題として取り組まねばならない重いテーマなのである。これまでの物象化論は途中でとどまってしまっている傾向がある。それは労働疎外論と切断している場合においても、連続的に捉えている場合にもみられる。そして、物象化と物象の人格化が表裏をなす一つの事柄の二つの側面に過ぎないことを、したがって、一つのこととして解決されねばならない事柄であること、すなわち、賃労働と資本の両極の廃棄であること、物象化問題は単に物の見方なのではなく、また、形而上学的思考のたんなるきっかけやバネとしてつかむような考え方ではなく、きわめて実践的問題なのであること、さらに、物象化を自分の現実的活動の問題とする主体が、したがって、自己の運命にかかわる本質的な問題として認識、解明せざるを得ない主体が厳然と存在すること、このことが明確にされねばならない。

 

③「資本主義的生産は、それ自身に内在するこのような制限を絶えず克服しようとするが、しかし、それを克服する手段は、この制限をまた新たにしかもいっそう強大な規模で自分に加えるものでしかないのである。」(「資本論 第三部第三篇」)この利潤率低下の傾向的法則について展開されている周期的衝突が単なる循環ではなく、制限の拡大再生産が同時に進行するのだということこそ、転倒の今日的歴史的展開の本質である。制限とは、簡単に表現すれば、資本の過剰と労働力商品の過剰である。

生産力の発展と世界市場の発展と資本の集積が極端に進んでいる今日、いったん景気後退となった瞬間に、世界的規模で生産過程から労働力の極端な排出が行われる。危機のグローバル化が結果しているわけであるが、国際的な金融市場の同時性緊密性の発達が、資本の国際的流動を加速し、経済活動の内容の相互作用を強くしている。先進資本主義の失業と新興諸国の失業は連動しているばかりか、相互作用を生み出している。資本のグローバル化は、労働市場のグローバル化と表裏である。

構造的な資本過剰こそ、今日の賃労働と資本の矛盾の根幹である。金融資産の流れや、投機的資金の流れ、金融商品の危険性などの側面が語られるが、膨大な金融資産が浮遊していること、超国家巨大独占の形成がみられること、新興国に大量の先進国資本が流れ込んでいること、そして、国際的な低賃金構造の形成と大量失業の表面化、これらの根底には、資本過剰、利潤率の低下、そして国際的な相対的過剰人口が並存しているのである。これは、資本主義的生産そのものの限界を露呈している。国家、政府の経済への介入は、この矛盾に対症療法を施すが、矛盾自体は解決できないのであるから、この矛盾は拡大再生産される。

資本主義手生産の限界が眼に見えるように現れる時代、先進国の資本の側の疲労、新興諸国における急激な資本制生産の拡大と相対的過剰人口の拡大が生み出す矛盾の爆発、この両者は、覆い隠すことの出来ない本質的限界として表面化するであろう。世界市場の上で、転倒を転倒して闘う社会的主体こそ、高度に発展する社会的生産力、科学技術の高度化を人間的に解放する歴史的主体として、資本主義的生産の限界を突き抜けてゆくであろう。

資本主義的生産が、資本が価値増殖を追及するという本性を変更して、人民のためになる生産をするようになるという幻想を振りまくのは良くない。賃労働と資本の対立をそのままに、修正資本主義の可能性を語るのは誤りである。

 

Ⅵ歴史的社会的主体性の展開としての階級形成とその理論体系へ

 

①社会的主体としての賃金労働者による賃労働と資本の廃棄、このことにこそ新たな人間の解放の道である。労働者階級の解放が普遍的人間解放の質を持つということは、この歴史前提とその下における現実的社会的主体の活動として現実的歴史的行為の中にあるのであって、単なる抽象的普遍性が現在に突然現れることを願うことなのではない。

 帝国主義的工場制度の全世界的発達のもとで、資本の下への形式的実質的包摂が進み、資本の社会的力のもとへの隷属が深まる今日、この隷属に抗する団結の中から、新たな主体が登場しなければならない。労働者の本源的主体性が、肉体を待った人格性として、かつ、人格と人格の結合にもとづく共同力能の発展となる団結した諸個人の共同として、生産と社会を自己活動として展開すること、したがって、単なる特定の自己意識の延長の恣意的な理性的目的のもとにすべての個人が、無自覚な人民大衆とののしられながら、束ねられて走らされるような「個と全の統一」等とまったく異なるところの自由な個体性、諸個人の普遍的発展が生み出されるのでなければならない。「諸個人の共同体的社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえに築かれた自由な個体性」(「要綱 貨幣の成立と本質」)へと向う人格性こそが労働者の歴史的社会的主体性なのである。

 

②この歴史的社会的主体としての労働者階級から出発する全理論体系として、史的唯物論、共産主義論、および戦略論・組織論、その統一的媒介をなす階級形成論、これと結びつく認識論、団結論(コミューン論)が再構築されねばならないと考える。

 すでにソ連邦が崩壊し、ロシア革命が過去のものになり、もはや戦後という言葉も古くなり、新左翼、旧左翼という区分も過去のものとなり、新たな世界的な政治的経済的再編成の時代に入りつつある今日、この新しい時代に向けた労働者解放の理論を生み出す作業を共同で進めねばならない。

ソ連崩壊以降、資本主義、ブルジョア民主主義が、社会主義、プロレタリア民主主義に勝利したのだと言う幻想のもとに、労働者階級にたいしての警戒心をゆるめて一層強権的になり、資本の飽くなき欲求を野に放った国際ブルジョアジーのわき腹を思いっきり蹴り上げる闘いが、国政的に組織されてゆかねばならない。そのためにも、ロシア革命からソ連の崩壊にいたる世界プロレタリアートの歴史的営みと反省をも共有する国際的性格をもった、新たな希望に溢れた人間の解放の道を指し示す理論が必要である。古い理論を捨て、再度、マルクス主義を根底に置いた原理論からの理論の再構築が必要だと考える。

 われわれは、先進国、後進国を貫く同時革命として、永続革命=世界革命を捉えてきた。この戦略について、今日の世界市場の現実から再度練り直し、拡大するEU、新興国の多いアジア、再編成される南アメリカ、中東、貧困が拡大するアフリカ、没落する北アメリカの各地域の運動傾向と、ロシア、中国、キューバ等の元、現「社会主義国」の変化、国際ブルジョアジーの政治的経済的国際協調の今日の形態を踏まえた世界戦略を再構築する必要がある。

われわれは、党派を超えて理論活動が可能な形態、理論創造のネットワークを志向してゆかねばならないだろう。歪曲された贋物の諸理論を批判的に打ち破り、マルクス主義の真の復活めざしつつ、これまでの歴史的総括を踏まえた真摯な理論活動を志向する同志達との交流、コミュニケーションを深めてゆきたい。

 ブント、構造改革派、中核派、革マルなどをみても、原理論、本質論のない理論は、その時々の思いつき以上にはならないという例が多い。数年もするともう別の事を言い出す。これを他山の石としてわれわれも一層の理論的深化を進めなければならない。

そのためにも、まずわが潮流の同士において、解放派の理論の内容の共有作業を深めていくことが必要と考えている。

 

③理論的作業としては、われわれの出発点をなすところの「現実的本質」としての、生ける労働者の共同の発展の論理、すなわち階級形成論の深化が重要である。この理論的整理のうえに、生産態であると同時に、政治的権力態としての労働者自己権力の生成発展に関する理論的再整理が必要となる。二重権力的団結としての、この社会に属しつつ属さない賃金奴隷制の否定としての、新たな人間的結合の生成の全過程を照らし出す理論として再構成することが必要であると考える。

多くの理論的共同作業者が解放派の旗の下に集まることを期待している。