解放の通信「党派闘争」
「解放の通信」第2号(2002.9)



                               斉藤 明

  <目次>
   1 はじめに
   2 階級運動と宗派主義
   3 われわれの党派闘争の反省
   4 エゴイズム(自我主義)の克服



  1 はじめに
 これまでわれわれは、日本のみならず、全世界の労働者階級の経済的解放、そのための政治的解放を希求する運動の発展のために闘ってきた。資本の下への社会的隷属と、その永遠化のための政治的支配に対抗して、労働者階級の自立=政治的独立を推進してきた。階級闘争の中からの団結の発展を推進するものとして政治党派を形成し、あらゆる運動の歪曲や簒奪に抗して闘い抜いてきた。
 党派闘争という場合、われわれにおいては、他の多かれ少なかれ宗派主義であるレーニン主義の党にとってのその意味を異にするものである。したがって、今日多くの良心的な活動家が党派闘争のもたらした事態を直視する時期に来て、その結果の悲惨さ、底知れぬ腐敗、大衆的な失望を反省することを強調する意見が多く提出されている。しかし、その人々の立っているところは、はたして階級的なのであろうか。むしろ、小ブルジョア的運動の限界の露呈としての誤れる宗派的な階級運動に対する敵対と、宗派相互の殲滅戦(階級の外からの「司令部」のポジション争いとしての宗派戦争)の二つの区別も無く、且つ、そのようにのめりこんでいった現実的過程と判断を素通りして、結果の悲惨さから、これまた小ブルジョア的良心派となって、「党派闘争反対」を叫ぶ。しかし、この事態に対する反省の中身は、「唯一の前衛党」という傲慢さがいけない、民主主義を再度確認しよう、という程度のものである。
 相対的「前衛党」などという気の抜けた、その意味では比較的害の少ないものであるが、しかし、れっきとした労働者階級の外にそびえる司令部としての<影のプロレタリアート>でしかないものは、それを他の宗派主義に要求することにおいて事が解決するとは誰も思わないし本人達も自信がないことが伺われる。
 むしろ、革共同各派しかり、ブンド各派しかり、正しい指導を追及するのだと言い張り、スターリン主義を克服するのだと七転八倒しながらスターリン主義の腐敗の極へと転落してきたのではなかったのか。
 今日、ソ連邦の解体以降、レーニン主義にたいするあらゆる角度からの批判が提出されている。その多くは、ブルジョア的民主主義または小ブルジョア民主主義の側からのものである。日本の良心的活動家の中にもこの影響が多かれ少なかれあるように思える。
 これまで、事あるごとに繰り返し階級形成の推進と共同闘争の推進と党派闘争の関係について提起してきた。そして、原則的に他の党派との共同闘争を推進し、かつ大衆運動に対する反動的宗派的敵対に対する闘争を推進してきた。そういうものとして、運動を背景とした党派と党派の直接の闘争をも原則的に推進してきた。われわれは、どの戦線においても、たとえ宗派的党派であったとしても大衆運動に敵対しない限りにおいて共同闘争を、大衆的な公然たる論争を進めてきた。しかし、宗派は大衆の闘争が成長するに従って、反動に転化してきた。大衆闘争の前進のための推進力となったわれわれの党派に敵対してきた。われわれは、これをはねのけてのみ大衆闘争の前進を勝ち取ることが出来たのである。
 70年闘争に向けて<労働者階級の革命的独立>という標題から<しいたげられた全人民の前衛として行動する労働者運動>へと発展させた。そして全面的な政治的社会的再編成期にはいった情勢を、革命期に突入したと規定した。そしてだからこそ革命的階級形成が急がれねばならないと訴えた。この時期、ほとんどの小ブルジョア急進主義はブランキズムに傾斜した、「革命情勢を戦闘で切り開く」、または、「蜂起内乱への地続きの戦闘の開始」というようなものであった。これは、「階級闘争の所産としてのコミューン」を目指すわれわれの道とはかけはなれたものであった。当時、むしろ、70年安保闘争後の反動が労働者大衆を襲い、権力はもとより、日本共産党、社会党、民同をはじめ、新たに台頭した反戦・全共闘・戦闘的労働組合を中心とする戦闘的労働者学生人民にたいする、秩序派の反動の戒厳令が敷かれようとしていた。これを自らの闘いが引き出したものとして引き受け、これを突破しながらさらに階級形成を革命的に推進するのだという困難な局面を闘っていたのである。革マルの反動的敵対はこの反動の一環でもあった。
 たしかに、われわれの内部に発生した「レーニン主義」グループは、小ブル急進主義にプロレタリア性をまぶして、解放派の原則を放棄した「唯一のプロレタリア党」の思い上がりの果てに、自分達を認めない戦う労働者学生に対する襲撃を繰り返し、いまや、この思い上がりの腐朽過程において、相互に権力の手先とか、反革命とか罵り合いながら抹殺しあうという事態に到っている。
 70年代初頭において、われわれの内部に発生した、「レーニン主義」が必要だとする考え方は、一方では、ニヒリズムと労働者に対する安易な絶望の上に革命的階級形成の推進を放棄して、他方でブランキズムと空想的社会主義と疎外された前衛指導部の独裁という三項をリンクした小ブルジョア的急進主義へと転落しつつ、そのうえに弱々しく発生したのであった。
 党派闘争の激化は、当然にも非公然部門の鍛え上げを必要とした。権力のみならず革マルの執拗な組織破壊攻撃に対決する組織的活動は重要であった。組織建設を強力に進めるためにということで、「秘密警察に対決する職業革命家の党」の教訓をボルシェビキ党に学ぶということと、レーニン主義になるということが裏表に理解されてしまう傾向があったのである。非公然非合法の活動については、われわれの路線において独自的に切り開いてゆく努力を進めていた。他方、われわれ内部の産別委員会を中心とする労働者組織は、70年闘争の後の反動を跳ね返しつつ大衆運動を再構築しようとするのなかで同時に戦略的任務は一歩も二歩も前進をとげなければならないという課題を背負った。この産別委員会の運動に目に見える前進が感じられないなかで革マルとの党派闘争が激化してゆく。
 学生戦線、反戦青年委員会の活動家の中には、このことが「停滞」として受け止められる傾向があった。そして、その原因がレーニン主義批判にあるのではないかという問題意識として頭をもたげるのである。その背景には、過剰な意味付与、たとえば、現在の闘争が直接革命そのものであるかのように描きつつ、大衆と区別された特別な「革命家」として自己確認したがるようないわば上げ底した位置付けが力になると錯覚するような意識性の弱さが一部に在った。
 階級形成の遅れをいかに取り返しつつ前進するのかという重い任務をスルリとかわして、日本革命を手繰り寄せるのだという子供じみた発想から適当な「戦術」が多く披瀝された。その共通する性格は、自分達の頭の中で勝手に思い描かれた「目的主義的革命主義」とその「革命目的の担い手論」であった。この描かれた「目的」なるものは、けっして階級の主体が、戦う団結が自ら生み出した目的ではない。「団結は資本に対する労働者の最も重要な手段であるばかりではない。もっと大切なことだが、それは官僚制の突破口であり、労働者が自主的にふるまうための方策である。」(『マルクスのシュバイツアー宛の手紙』)したがって、そのブランキズムの裏側は、一方にはこのこの持ち込まれた「目的」の守護神としての官僚がおり、他方には下部党員=「目的の担い手」がおり、官僚が基準、規律を勝手に決め込んでの、連合赤軍に代表されるような「粛清」の論理であった。「目的主義」を高めれば高めるほどに、全組織一体となって、「粛清」される当人も含めて「粛清」に励む論理の中に埋没して行くのである。これは内外にわたっては「粛清」「殲滅」となる。
 しかし、現実には階級形成の遅れをも含み革命期は浅いものとして終了した。そして、これらの小ブルジョア的急進主義のつんのめりが空転したあとで、それとの関連ぬきの「内ゲバ」の反省が語られている。当時の戦略戦術との関連で整理するといいながら、実は、全く分離してしまっている。なぜなら、「目的主義」、「レーニン主義」については密かにそのまま温存しながら「内ゲバ」を扱いたいからである。「内部」の殺戮戦であって、「外部」ではないとする。レーニン主義者としての仲間内ではあるかもしれないが。
 われわれにとっては、宗派的敵対はプロレタリア階級運動の「外部」からの攻撃である。したがって、「内ゲバ」という言葉はわれわれにとっては正確ではないので使わない。
 たしかに、「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業である」ということを認めるところまで一部の流れも到達している。しかし、同時に「マルクス・レーニン主義の復権を綱領にうちかためて」とか、典型的には「共産主義と労働運動の結合」を語る。(赫旗派「結成宣言」)この<と>でむすばれる構造が外的なものの結合となっているとわれわれは繰り返し指摘してきたことなのだ。言葉のうえで進んでいるように見える潮流でさえ実はこのような地平にしか到達していない。
 反省は結果を正面から直視し、その原因へとさかのぼって貫徹されねばならない。
 われわれもまた、多くの失敗を含んできた。一部は階級運動の外に飛び出してしまった。われわれは、反省を含んで、ここに階級形成の推進という観点から、党派闘争と共同闘争の原則的指針をまとめてみることにする。 労働者階級の階級的前進を勝ち取るためには、宗派の反動的敵対を大衆的に封じつつ、撥ね退けて進む以外には自分達の解放を、全人民の解放を実現することが出来ないからである。


   2 階級運動と宗派主義
 「相互に『ウジムシ』『青ムシ』『反革命カクマル』『宗派主義』などと呼び合い、」(「革命的暴力か内ゲバ主義か」矢沢和彦)というかたちで、第4インター系の諸君は『宗派主義』を単なる悪罵のレッテルだと思っているようである。トロツキーのエピゴーネンとしてのトロツキー主義からみれば、宗派主義との闘争は真剣な課題とはならないのであるから致し方の無いことではあるが、党派闘争を扱うのであれば、さかのぼって第一インター当時からの重要問題である宗派主義について自己反省を込めて真剣に取り組んでみる必要があるのではないだろうか。このようなこともあるので念のために宗派主義について歴史的に振り返ってみることにする。
 以下に引用するのは、第一インター当時のラッサール主義にたいするマルクスの態度を端的に示すものである。
 「15年間のまどろみののち、ラッサールはドイツの労働運動をふたたびよびさました、――このことは彼の不滅の功績としてのこっている。だが、彼は大きなまちがいをおかした。彼はあまりにも当時の情勢に支配されていた。……
さらに彼は、大衆の苦悩にたいする万能薬をもちあわせていると主張するすべての人と同じように、あらかじめ彼の先導にある宗教的宗派性をあたえた。実際のところ、宗派はどれでも宗教的なものである。さらに彼は、宗派の創立者として、ドイツならびに外国の以前からの運動との、いっさいの自然的な関連を承認することを拒絶した。彼は、その煽動の実在的基礎を階級運動の現実的要素のうちにもとめず、かえって階級運動に、一定の教条的な処方にしたがって、そのなりゆきを命令しようと欲したプルードン流の誤謬におちいった。
……宗派がその存在理由をもとめ名誉をもとめるのは、それが階級運動と共有するものにはなく、それを階級運動と区別する特殊の暗語のうちにある。……
そうはしないで、君は実際には、特殊の一宗派に従属せよという要求を階級運動に提出している。君の友人でないものは、このことからして、君が万難を排して君『自身の労働運動』を保存したがっているものと結論している。」
(「シュワイツアー宛ての手紙」1868年10月 マルクス)
 20世紀に入り、ロシア革命をとおしてこの宗派主義はスターリン主義として極まった。
この疎外されたプロレタリアートの代表だと語り、指導部であると主張する外部の前衛党が、運動の指導という局面から、権力として専制的支配権を獲得したからである。党の内外に渡るところの粛清の論理は、単に反対派狩りということだけではなく、党中央を批判した廉において、すなわち、スターリンに反対したということにおいて反革命と処断されるという事態にまでに詰まっていった。
 われわれは、レーニン前衛党の「社会主義的意識の外部からの持込」論に示されるその外的構造を繰り返し明らかにしてきた。スターリン主義は、このレーニン主義の反動に転化したものである。
 「反スターリン主義」を掲げて登場した革共同は、トロツキー派を別にして、一方に小ブルジョア的急進主義としての「世俗的エゴイスト」、他方に小ブルジョア的宗教主義としての「神学的エゴイスト」に分裂して、世俗的宗派と神学的宗派となって階級運動に敵対を繰り返してきた。そしてトロツキー派は「内ゲバ反対」を唱えて、この世俗的宗派主義と手をくみつつ「漁夫の利路線」に走った。
 この世俗的宗派主義は、階級闘争としての大衆闘争に加わる態度があるので、その宗派性は覆い隠される面があるが、大衆闘争が自立的に前進するやいなやその瞬間から宗派性を剥き出しにして襲いかかる。他方、神学的宗派主義の場合は極端にその宗派性を浮き彫りにする。なぜなら、階級運動を否定することからまずは出発するからである。
 革マルは「大衆組織=改良」「革命そのもの=党」と「区別」して、その「関連」として「フラクション」なる「媒介」(党からは神学が肉を求める場所であり、且つ大衆組織の推進機関であるという二重の性格をあたえられる)をもうける。
 階級運動とは、この運動自身が発展的であり、自分自身を乗りこえて進むのであるから、個々には改良的な要求から出発しようとも、その相互関連と全体性において、国家、現社会と全面的に対決しているのである。社会的隷属と政治的支配に抗し、その全面的解放を戦い取る革命とは続いているのであり、革命への過度をなす諸要求なのである。そこに断絶があるのではない。したがって改良的であると同時に革命的なのが階級の要求なのだということ、そういうものとして階級形成は労働者階級の革命の党を生み出すのである。
 革マルもたしかに階級闘争ということを口にする。だが階級闘争をどのように捉えているのか。
 「要するにプロレタリアートの階級闘争=政治闘争は、本質上、『自由な王国』の地上的実現という普遍的目的をその基底にもち、その特流諸条件のもとにおける個別的=普遍的な実現(各国革命の永久的完遂としての世界革命)であり、プロレタリアートの革命的自覚とその実現のための組織運動である。このゆえに、無自覚な人民大衆は、彼らの組織的=階級的実践を通じて、かつ前衛党の指導にもとづいて、プロレタリア的自覚を獲得して行くのである。」(「プロレタリア的人間の論理」黒田)
 そして、実際の運動はどのように位置付けれるかというと二重の意味を与えられる。すなわち、没階級的な小ブル平和主義に訴えるものと、その背後に隠された目的とに。宗派主義は常に内外に渡っていく段にも用意された「隠された目的」を持っている。あらゆるものが高い目的の手段とされているのである。
 たとえばこうである。
 「たとえば『米・ソ核実験反対』とか『中・仏核実験反対』とは、たんなる闘争スローガンではない。われわれの世界革命戦略(<反帝国主義・反スターリニズム>)を『現実的』に適用することによってうちだされているものとして、それらは同時に、われわれの前衛党組織つくりのための前提を創造すること(大衆の革命化ないし革命的大衆の大量的つくりだし)をめざした闘争スローガン、つまり『運動=組織づくり』のためのスローガンなのである。」
 このうえにたって、「のりこえ」なる論理、その内実は、他党派および先進的組合(自治会)活動家への暴力的解体攻撃が打ち出されているのである。
 「疎外された労働という関係の中では、どの人間も、彼自身が労働者としておかれている尺度や関係にしたがって、他人を見るのである。」(「疎外された労働」マルクス)
 大衆は、単にイデオロギーによって騙されている、眠り込まされている、煽動されていると彼らは捉えている。逆には、彼らの唱える「超越的自己」の自覚がないからだとする。
 大衆は革マルにとっては、単なる「無自覚な」肉体である。正しい「頭脳」(教祖)によって導かれるべき、そして、党員になった後でも党指導部によって「思想性を付与」されるべき肉体なのである。
 他党派の活動家についての見方も同じことである。単なるイデオロギーの担い手としてしか見ない。したがって、イデオロギー闘争とはとりもなおさず特定の路線の「担い手」の解体なのである。
 われわれは、革マルとの党派闘争において、1972年4月28日、関西の沖縄返還粉砕の大衆闘争の現場において革マルが襲撃をかけてきた折に木下君が死亡した事件の際に明確に表明したように、(「滝口弘人著作集第2巻」p539参照)彼の死を「戦いの誤れる路線における<不幸な死>」とうけとめた。なぜなら、「どのような路線をどのようにとるのかは、闘う人間の人格的自由としてあり、一つの路線に終生しばりつけられた奴隷ではなくて、路線そのものを生み出すものでなくてはならない。また闘う人間は、この人格的自由を不断に鍛え上げてゆかなくてはならぬ。われわれは、誤れる路線の単なるデクノボーとして闘争者を取り扱ってはならぬということを繰り返し問題にしてきたし、いまもあらん限りの真剣さをもって問題にしている。」(「同書」)
 革マルはそもそもの人間の掴み方においてブルジョア的な見方、疎外された把握しか持ち合わせないという致命的欠陥がある。このことが、自他ともに教義の奴隷とし、作られた「目的意識性」の手段と化し、また、そのように他人を見て抹殺を実行する。
 マルクスは「ユダヤ人問題によせて」のなかで、「政治的国家が真に発達をとげたところでは、人間は、ただ思考や意識においてばかりでなく、現実において、生活において、天井と地上との二重の生活を営む。すなわち、一つは政治的共同体における生活であり、そのなかで人間は自分で自分を共同体的存在だとおもっている。もう一つは市民社会のおける生活であって、そのなかでは人間は私人として活動し、他人を手段とみなし、自分自身をも手段にまで下落させて、ほかの勢力の玩弄物となっている。」と、自分自身を手段とする社会を批判している。
 「人間の類的存在を、すなわち自然をも人間の精神的は類的能力をも、かれにとって疎遠な本質として、彼の個人的生存の手段としてしまう。疎外された労働は、人間から彼自身の身体を、同様に彼の外にある自然を、またかれの精神的本質を、要するに彼の人間的本質を疎外する。」(「疎外された労動」マルクス)
 黒田は、「推論の媒辞としての手段ではなく、認識対象として感性的存在である『手段』とは、一般的には、客観的法則性すなわち自然の立体的構造にふくまれるものである。ヘーゲルにおける手段は本質的にロゴス的存在にすぎないが、唯物論における『手段』一般とは『労働手段』ばかりでなく、人間の意識の中に形成される意志目的に対する客観的実在、主体および客体の意味である。けだし人間は存在論的には物質の個別性の契機として、自己を手段的に駆使し、もって普遍としての物質を実現するのだからである。」(「ヘーゲルとマルクス」黒田)このように神秘的「物質」の奴隷としての人間、どこからか突然ひらめく「神秘的物質の意志」の手段としての人間となる。これは宗教の構造であると同時に実存主義の自我の構造である。この社会の腐敗をそのままに、自己も他人をも手段として貶める発想は、その人間の社会性をそのまま表している。
 マルクスは、一人一人の肉体性は「生ける人格性」と捉える。
 「われわれが労働力というのは、一人一人の人間の肉体すなわち生きている人格性のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させる肉体的および精神的諸能力の総体のことである。」(「資本論 第2篇 第四章 第三節」) この生ける人格性の発展、無限の発展を資本制生産様式の今日的発展としての帝国主義的工場制度の破壊作用に抗して闘いとることこそが、労働者階級の階級闘争なのである。 これを知らない彼らは、現実の矛盾は単なる「超越的自己」なる託宣を受け入れる契機、または梃子にすぎないものとしているばかりか、賃金奴隷制に抗して立ち上がろうとする 労働者に対しては、サンジカリズムと悪罵を投げかけるのである。
 かれらは自分達こそが唯一の「物質」=「神秘的根源」の「使徒」であると思い上がり、この「生ける人格性」の否定の上に、自他ともに手段化するような堕落した荒みの果てに差別的思考体系を築き上げたとしても不思議ではない。

  3 われわれの党派闘争の反省
 われわれは、階級運動と宗派主義の敵対関係を、大衆とともに対抗として闘い抜いてきた。それは、共同闘争の推進に対する敵対にたいする抗議として、反撃として闘われた。それ以外には、われわれは路線の違いは大衆闘争の中に現実的に解決可能なもの、逆にいうならば自分達の路線が大衆的に否定されるのであれば敗北を認めざるを得ないということとして大衆闘争の推進に全力をあげてきたのである。われわれにとっての党派闘争は、大衆闘争の利害がかかっているものである。大衆闘争と切りはなされた党派闘争はない。70年安保闘争の後、革マルが、「向自的党派闘争」などと、無媒介に直接組織骨格に攻撃をかけてきた。当時の階級運動の、政府問題を課題とする時代の階級運動の革命的前進=ソヴィエト的大衆運動の推進にたいする段階を画した戦略的な敵対として受けとめるものであった。革マルは大衆運動は改良的なものに限定するのだ(革マルがすべての大衆組織を制圧したときが革命情勢と考える考え方でしかないのである)とわれわれの革命期規定を否定するばかりか、「ハミダシ」であるとソヴィエト運動の推進に敵対してきたのであった。
 これを、われわれ内部の一部の小ブルジョア的急進主義に転落したグループは、「革命と反革命の直接の全面衝突以前の先行的対決である」などと主観的に規定して、革命と反革命の闘争であると、狭い意味での直接の「革命闘争」に仕立て上げるという傾向があった。これは、一方では、宗派批判の放棄(反宗派というと大衆運動主義に逆規定されるという誤れる弱々しい理論以前の理論)、レーニン主義への回帰という傾向と背中あわせにしたものである。これ自体が、われわれの内部における党派闘争の困難さの中での歪みであった。
 これは、73年9月14日の神奈川大学に対する革マルの襲撃に対する反撃過程の中で2名の革マルの学生が死亡した事件の総括のなかから発生した。これはとりもなおさず指導性の問題であることをすりかえて、これまでの闘争組織路線が大衆運動主義であったとするものであった。したがって、「大衆運動主義」の克服とされ、繰り返された「レーニン主義の再評価」へ傾斜してゆくのである。これは当時の学生戦線の指導部の弱さであったし、組織中央が全力で克服するべき重要な局面であった。 しかし、更に次のような問題を含んだ。この党派闘争に備えつつ、非公然部門の活動を進める体制つくりを、当時の問題意識としては、「実現されるべきソヴィエトの武装=統一戦線軍形成の原則」から位置付けようとすること、即ち「特殊な党派闘争に対して特別に作るべき組織防衛組織」として性格を限定しそのようなもとして組織を作るべきことを、「党・統一戦線の恒常的軍事部門の形成」という形に直接にしてしまったことがあげられる。「軍事部門の担当」を設け、段階的に指導制を発揮するということと別のことであった。 組織内部の路線討論の当時の結論は、ひとことで集約するならば「革命的階級形成を戦略環とする」ということであった。プロレタリアートの新しい社会を生み出す解決能力、統治能力の開示、<しいたげられた全人民の前衛として行動する労働者運動>を構築することが戦略的政治的課題であった。 たしかに新左翼の内部には、小ブル急進主義とレーニン主義の結合の必然結果として、ほぼ共通に「先制的」か「先行的」かの部分的内戦内乱を人工的に形成するのだという戦術を、戦術によって戦略を手繰り寄せるのだといいながら、戦術によって逆に戦略的目的を引き出すのだとする傾向が生まれた。われわれの内部にも同様の傾向は発生した。 この問題のそもそもの根底には、情勢把握の内容にかかわる問題がある。 革命期という概念が、動揺期と区別された再編成期としての革命期という内容規定であり、階級闘争が革命にまで発展する可能性のある時期というものとして規定してきた。したがってこの意味における革命期は、その「前期」・「成熟期」・「決戦期」と3段階に段階分けして明確に段階的に推進することがわかりやすかったであろう。自民党単独政府から中間政府への移行、労使対決の激化という変化過程としては、「椎名裁定」による三木内閣の成立、その三木を当てにしての75年スト権ストまで進んだ。そこで日本労働運動は一敗地にまみれた。これを転機に階級関係はブルジョアジーの攻勢となると同時に政治的社会的再編成の課題を先送りするという自信をつけさせてしまった。そして国鉄民営化・国労解体攻撃は、この敗北の結果的事態であった。
 このように実際には<浅い革命期>として終焉していったのであった。 当時の情勢としては、当然にも組合を含む広範な大衆の統一戦線が武装するという情勢の深まりがあったわけではない。そのなかで、労働者の統一戦線的な軍事組織が政治党派単独で作れるという環境はなかった。すなわち、専従メンバーとして組織防衛組織を特別に作るということが現実的なものであった。当時の傾向として、組織全体がやはり、むしろ革命的階級形成を急がねばならないという意識が背景にあり、「現段階的なもの」と厳格に規定はしていたのであるが、革命期の広さと深さについての判断において段階的に戦略を進めるという点から見るならば、一般的な規定となり掘り下げが弱く、この「現段階」がいかなるものなのかという点についての確定が十分ではなかったために、直接的な狭い意味での革命そのものための組織を現在的に「部分的特殊的」に形成するという傾きを持っていたといわざるを得ない。ここに無理が発生する。この無理は、連鎖的に組織のあり方、戦略観に影響を与える。組織的統一性を形成する十分な討論ができないまま内部分岐が進んでしまった。さらに、一部の傾向は、立場主義、綱領主義、目的主義に傾斜し、自分こそが「革命そのもの」でありそして当然にも大衆運動(階級運動=革命運動はどこまでいっても大衆運動であるのだ。まただからこそ偉大なのだ。)と区別された別の物としての「革命そのもの」となり、勝手に規定した「遅れた部分」に対する「切り捨て」、「粛清」の論理が生み出された。独断で進められた「神奈川県委員会再登録問題(75年)」はその走りであった。
 連続的に<別の手段をもってする党内闘争> としてでっち上げの「スパイ問題」の利用、および「内部糾弾」と「スパイ摘発」を混ぜあわせたかたちでの政治利用、これらは、実はもう一つの誤りによって裏打ちされていた。すなわち、「軍事的重圧によって思想的解体を行う」とか、「たとえ誤っても効果がある」とか、「誤ってもスパイを処断すれば脅威となる」とかいう発言に示される弱い思想性の堕落が生み出されていったのである。

   4 エゴイズム(自我主義)の克服
 われわれはくり返し世俗的エゴイズム、神学的エゴイズムを批判してきた。特に70年安保闘争へ向けて意思統一を勝ち取っていった。(「滝口弘人著作集」第二巻 p239〜247)しかし、この意味は十分には組織内に浸透していなかったといわざるを得ない。エゴイズムを超えた階級的団結の形成という課題はくり返し深められねばならない。上記の問題はこの領域の課題である。
 目的主義の構造は、目的の本来の生み出す主体から目的が分離され、かつ、勝手に創り出されたもとなり、次にこの目的の担い手が作られる。このとき、この担い手がなぜこの目的を自分の主体的目的であるとするのかということが問題である。ここにエゴイズムが忍び込むのである。実存主義における「包括者」や「超越者」は、このエゴ(=自我)の疎外された普遍性への帰依である。エゴイズム(自我主義)はセルヴィズム(利己主義)と結果するが、両者は世俗的常識において同じように扱われているが別の物である。この構造でわかるように、決して真理をつかむことが出来ずに、頭からひねり出されたところの作られた目的は、これらの担い手によっては変えられないものとなっている。また、変えられてはならないものとなる。そして、この目的の守護神がこの担い手にたいして絶対的にそびえるのである。
   われわれにとっての団結は、同時に「結合された目」として認識主体であることを意味する。科学的認識の根底には、人間の普遍的結合がなければならない。したがって、われわれの目的は、階級主体から独立するものではない。<決定と執行の統一>は、この主体とその主体によって生み出された目的が在って初めて成立する。外部から持ち込まれた目的または目的意志をその手段としての担い手が見せ掛け上主体的なものとして決定して執行するということなのではない。宗教の信者たちはほとんどの場合、「主体的」と思い込んでいるのである。個はこの疎外された普遍性に滅却していると同時にその背後に薄汚く温存されている。 階級的共同利害の普遍的性格が現実に発達すればするほど、これまでのその代用品である、「超越的自己」とか「超越的有」とか「無」とかから捻出される神秘的目的のとってかわって、真実の階級的目的が現れるのである。そして団結した闘争の中で成長する生きた個々人が同時に普遍的に感性的にも精神的にも従って人格的に発展してゆくのである。このことをつかみ損ねると、革命家=理論家、労働者=無自覚な大衆というかたちで、「共産主義的に発達した労働者達」(「経済学哲学草稿」マルクス)の輝きを見失うことになる。
 ここで次の大切なことに言及することにする。これまで多く出された見解であるが、「それは、再び階級的であると主観的に思い込んだ勝手な作られた目的なのではないか。」「自己絶対化を否定したうえでの再びのより強固に固まった自己絶対化のではないか。」というものである。このことに正面から答えねばならないと考える。
 「唯一の前衛党」批判の底には、この前衛党の外的性格について不問にしているかぎり、理論の性格こそが批判されねばならないということがすっぽりと抜け落ちているのであるのだが、理論的認識の自己絶対化に対する正当な批判がある。しかし同時に、全力をあげて労働者階級自身の戦略戦術を正しく提起しなければならないという共産主義的任務をだらしなく適当なものにするという傾向が含まれる。したがって、断固としてあらゆる敵対に抗して守り抜く原則性を簡単に放棄する弱々しい相対的立場、たとえば、宗派的戒厳令に対して対決することは「内ゲバ主義」=「唯一の前衛党主義」になるからと、運動を放棄して逃げ出すことを正当化するような主張(「内ゲバ検証」の第二章)である。  理論がまず主体から切り離されないこと、このことを前提とするうえに始めるのであるが、理論が独立的理論的姿態として現れることは、発展した状態なのではなく理論にとっては実は遅れた状態を意味すること、理論性はそういう意味で止揚されてゆくのだということが大切である。ふつうの日常会話が理論的になり、したがって、理論的姿態を必要としなくなるほどに団結が発達し結合された知性が個々人の発達した理性となること、この全変化過程が階級形成の内側である。階級運動の推進力としての党の路線は、たしかに主観的なものであるし、また誤りを排除できない。それは実践を通して客観的結果において反省されねばならない。そのように限定されている。階級闘争の前進は、闘いを通してそれまでの自分達の中の幻想と誤った考え方を脱ぎ捨てて団結が成長前進することのなかにある。党組織はその自然的前提を大衆闘争、大衆組織にもっている。その大衆的運動によってのみ成長可能であると同時にその推進力となるものである。階級形成の中からの党、行動委員会を梃子とし社民内分派闘争の中からの党と要約して表現してきたが、自らを生み出す前提に対して党組織の提起する路線は、大衆的に支持されることを条件にのみ現実的なものとなる。それは、大衆組織自身が決定する方針へと高められねばならない。そういうものとして党と大衆組織の区別と同一性(これはまた共産主義者と党の区別と同一性の問題であるが)があるのである。この階級運動総体が統一戦線なのである。この統一戦線が反省し総括を深める作業をおこなうなかで、党組織はその内容において指導的でなければならない。それは相対的か絶対的かなどいうことを超えるのである。全力をあげて現階級的利害、国際的普遍的階級利害を提起するのみである。
 このことを「共産党宣言」に照らして、「共産主義者とその他のプロレタリア党との関係に関する一般的原則」との関係でとらえると、共産主義者は、生まれ出る労働者階級自身の党の現実的生成過程(プロレタリア党の自然的前提)を、独立した階級の党へと推進するものである。共産主義者が教義を与えてはじめて無自覚な肉体でしかない労働者が党員へと高まるとする考えと正反対に、労働者階級の新たな現社会に含まれつつ現社会を超えてゆく団結は歴史的必然性の中にあるのである。したがって、共産主義者は、労働者の共同闘争の推進と階級的独立を現実に判断する力が問われるのである。階級形成の現実的過程は小ブルジョア民主主義的政治のなかからの階級的独立の繰りかえされる過程である。労働者階級の外に外的に生み出された目的の担い手でしかないところの、「唯一の前衛党」にしろ「唯一のプロレタリア党」しろ、階級形成と切断された外的な宗派となるのである。これが、口先で規定し、規定されるとか、人民大衆に学ぶとか唱えてみても構造的に一方通行である。目的への従属を大衆的に拡大することが大衆運動であると考える態度からは、自分こそ唯一の「プロレタリア党」であり、その他は「小ブルジョア党」であるとして、打撃主義的に敵対するか、ズブズブに癒着するかしか知らないというだらしなさになる。
 共産主義者は、自分自身が共産主義者になる以前にプロレタリア党は成立しているのであり、かつそれによって共産主義者となる根底的同一性をふまえ、全階級の利害を明らかにし、究極的目的にむかって階級運動を推進してゆく内なる部分として自分自身を確認するのである。したがって、その理論活動、路線提起は、自分自身をもふくむ<われわれ>のためものである。そういうものとしてその個別的外見が全体の<われわれ>へと止揚されてゆかなければならないのである。したがって、限界があったり、誤りを含むものとしてあるのは当然である。これこそ総括の中で自分自身の限界として突破してゆく課題である。このことを、実践的に培われてゆく内容をめぐる相互の信頼性の発展と別のところで、「自己絶対化はいけない」などという形式論は空疎である。全力をあげて全大衆に真実を突き出すことこそ大切なのである。したがって、「唯一の前衛党」批判が、「唯一」に力点をかけて批判するかぎり、それはだらしない「ブルジョア的民主主義」へ転落するだけのことであり、だらしないふらふらの、宗派主義とも自己を相対化するような、したがって融和するような労働者階級の独立に寄与するどころかその道を「良心的に」ふさいでしまうような勢力となってしまうのである。
 われわれのなかにも、宗派主義が生み出されたと同時に、この宗派主義と対決せず融和主義的に動く部分も同時に発生した。それは、われわれの組織的深まりが不十分であった残念な結果である。
 自己意識の多数性への拡大という構造を、党派の名において展開するものこそ左翼の外見をもったエゴイストである。日本のマルクス主義陣営は哲学の止揚、特に主意主義的哲学(フィヒテに代表される)の止揚が出来ていないという傾向がある。日本の小ブルジョア社会主義が世俗的か神学的かエゴイズムとしてしか登場しないことこそ今日批判されねばならないし、われわれの痛苦でかつ真剣な反省でもあるのだ。
 普遍性が意識性ととしてのみつかまれ、個人は自我としてつかまれ、その関係を扱うということしか考えられない思想性は、だから小ブルジョア的なのであり、マルクス主義をもそのような眼でしか理解することが出来ないとすると、エゴイズム(自我主義)は克服できない。労働から離れない新たな共同のなかに形成される結合された目によって掴み取られる普遍性こそ、生ける人格性の感性的=理論的な類的発展への道なのである。日本のすべての階級的に闘わんとする党派は、なぜマルクスが「経済学哲学草稿」の中で、共産主義的労働者の生き生きとした活動、生活が光を放つ と突き出さんとしたのかということの真実を掴み取ることが出来る党派に変わらねばならないと考える。

2002年5月