われわれはいかなる時点にたっているのか 「資本主義のかくも長き延命と社会主義のかくも無残な衰退(*) ――情勢分析の方法のなにを継承し、なにを見直すのか? この20年をふりかえって |
角 行成
(1)何を前提にするのか
@ 解放派の思想的出発点の時点で、情勢分析の方法論として――体制間の対立を階級対立の疎外形態と捉えるということを党派性として出発した。
このこと自体は、「これまでの歴史はすべて、階級闘争の歴史であった」という「マルクス主義」の根本的歴史認識の原理的再確認である。それを踏まえる限りでは、今日のとりわけ資本主義的先進諸国における「階級概念」の深化ということが課題ということである。
A 『中ソ論争と永続革命=世界革命』において――ロシア革命以降の時代を「世界革命の時代」と把み、その前期が「さしあたり一国的な革命」から「一つの世界革命」へ=後進国革命から先進国革命への波及の時期、そして後期が「一つの世界革命」による「さしあたり一国的な」革命の包摂=先進国革命による後進国革命の包摂そして、「一つの世界革命」=世界的な規模での単一のプロレタリア独裁による世界的生産力の集中=世界市場の廃棄、資本主義の共産主義へのプロレタリア永続革命(=世界革命)の完遂の時期とし、現代をその前期(から後期への過渡期)と、永続革命の段階を規定し捉えてきた。
その第二段階の前期が、「さしあたり一国的な革命」から「一つの世界革命」へ、後進国革命から先進国革命への波及として、後期の「一つの世界革命」へと推展していくのではなく、権力を獲得した後進国革命の「後退」によって「中期」が出現した。
われわれは「ロシア革命以降を永続革命の第二段階」として捉えていたが、しかし同時に、スターリン・ブハーリン綱領的に「社会主義圏は世界市場から離脱した」と捉えるのではなく、「社会主義圏」は世界市場の制約下にあり「大量の商品と貨幣の弾丸が打ち込まれている」としていたのだ。
※ ソ連圏の崩壊以後を世界革命の第二段階の中期と捉えることにおいて、いかなる政治過程論の見直しが迫られるのか?
ボナパルティズム論(帝国主義社民論)は、ルイ・ボナパルトの時期のフランスの政治過程を原理的に把んだ上で、大戦間のドイツの政治過程の総括に基づいて整理された。
ルイ・ボナパルト=ナポレオン敗北以降、神聖同盟の制約下のフランスとプロシャ
第一次大戦敗北以後のドイツ・ナチスとイタリア
B 63年の『中ソ論争と永続革命=世界革命』における「恐慌の爆発=後進国におけるさしあたり一国的な革命、それに対する反革命的干渉戦争=先進国同時革命へ」という把握にもとづきつつ、70年の「戦後第二の革命期」規定のなかで「発展確立期――動揺期――再編成期(革命期)」という「主体が織り込まれた」実践的分析の方法に進んだ。
C 70年代を再編成期、すなわち「生活諸関係の総体すなわち政治的諸関係の再編成」の時期ととらえたのだが、ではその諸関係の再編成は、階級闘争の一進一退の中でいかに進行し、また進行しなかったのか。
30年代型の危機や世界戦争によって区切られることはなかったとしても、70年代以降、ズルズルと再編成期が続いていると捉えるしかないとしたら、それは分析方法の無力であろう。
戦後第二の革命期の敗北――そこには当然、国内的と国際的な過程がある。とりわけ、70年代後半においては、危機が「均質化」する過程としてではなくて「混迷」として進行したため、各国階級闘争の一進一退は同時的にというより、数年のズレをもちながら、しかし相互媒介的に進行した。
政治的諸関係の再編成期の終りの時期を「あらたな諸関係が輪郭を見せはじめた時期」としてとらえるならば、その一段の決着のメルクマールは国内的には80年頃におく。
(2)70年代から90年代の過程の素描
D 60年代以降の国際階級闘争の熱い焦点であったベトナム戦争が75年4月、ベトナムの全土の解放として、画期的な政治的前進を勝ち取りながら、78年12月のベトナム軍のカンボジア侵攻とそれにうち続く中国のベトナム侵攻という「社会主義国」間の紛争の惹起として、「世界市場を揺るがす社会革命」ではなくて、「社会主義圏の資本と商品の弾丸によって生み出された分裂と対立」という混迷に帰結した。
70年代の日本階級闘争は、三木政権下の75年12月、一週間にわたるスト権ストの展開へと押し上げつつ、決定的敗北を喫した。以後、76年〜79年の春闘三連敗にみられる敗北過程を余儀なくされ、79年に中立労連と新産別のゆるやか連合が結成、総評・同盟との本格的なブリッジ協議を進め、80年9月には「労働戦線統一推進会」が発足した。
そうした先進国プロレタリアートの状況にも規定されて、パーレビによる近代化(「後進国開発政策」)の破綻の中から決起したイラン人民の闘いは「イスラム革命」に収斂され、ホメイニ体制のもとで「左派」は圧殺されていく。
韓国は維新体制化のセマウル運動と重化学工業化路線(漢江の奇跡)が、79年の第二次オイルショック、80年米大凶作と、10・26朴正煕射殺、12・12粛軍クーデター、80年「ソウルの春」、光州事件という政治流動とあいまって終焉し、80年のマイナス成長、経済停滞をくぐりながら、民主化運動の窒息化状況の中、全斗煥政権下の「政商資本主義」(五共非理)から慮泰愚政権下への「民主化政策」への進展を要請しつつ、先端技術・ハイテク産業化による経済的離陸を開始する。
79年イギリスのサッチャー政権として先行的に登場した「新保守主義」は、79年の第2次オイル・ショックと80〜82年の世界不況を通して、アメリカ・レーガン、日本・中曽根として、世界的新潮流の輪郭をとっていく。
すなわち70年代の「繰りのべられた恐慌」の結果としてのスタグフレーション(**)、その解決として、新保守主義が登場する。
イギリスにおける労働党政権下の「社会契約」の破綻によってサッチャー政権が登場し、公共支出の削減と労働組合への攻勢を繰り広げ、84〜85年の炭坑ストは決定的な敗北を喫する。アメリカでも、規制緩和・ドル高のレーガン政策のもとで、81年航空管制官組合の敗北を転換点として労働組合は「譲歩的交渉」に引きずり込まれる。レーガノミックスは三つ子の赤字(財政赤字・貿易赤字・純債務国化)を生み出しながら、しかし日本からの資本流入と中南米NICSへの矛盾のしわ寄せによって、とりあえずインフレの終息をもたらした。
すでに70年代において日本帝国主義ブルジョアジーは延命の為に三木という保守亜流政権を登場させるに至っていたがその後の労働運動の後退に規定されつつ、保守分裂による大平政変も大平急死による80年ダブル選挙の自民圧勝によって収束し、鈴木政権のもとで第二臨調が発足する。そしてそれは中曽根政権による「戦後政治の総決算」として受け継がれ、第二臨調・行革路線が本格的に展開していく。
この過程をIFM体制の流れで概観するならば、まず、69年IMF第1次改正でSDRが創設された。71年8月金・ドルの兌換停止のニクソンショックを受け、12月スミソニアン体制が成立する。それは、固定相場の元で,変動幅を大きくするものであり、1ドル308円となった。しかし、ドルの下落は止まらず、73年2月変動相場制へ移行し、スミソニアン体制は崩壊した。78年4月IMF協定第二次改正で変動相場制が正式に認知される。また当初SDRの価値は主要16カ国の通過の加重平均とする標準バスケット方式がとられていたが、81年からはG5の5大通貨の加重平均に変更された。ここにG5を中心とする体制への移行が見られる。
70年代の二度にわたる石油ショックをくぐりぬけて、日本はME革命を柱とする先端技術の展開による新たな生産力の発達を獲得した。欧米の新保守主義もまた、この力を背景としてのみ労働組合運動の反抗を退け、「成功」を勝ち取ったといえる。産業ロボット革命といわれる多品種少量生産を可能にするフレキシブル・マニュファクチュアリング・システム(FMS)は、しかし未だプロセス革命であってプロダクト革命ではない。こうして、日米の貿易摩擦、経常収支の日米逆転を引き起こしつつ、日本の経済大国としての確認としてのG5=プラザ合意の85年にいたる。
※ 軍事技術が「バロック化」と呼ばれる肥大化の中で、民生と軍事の双頭の技術といわれる民生技術の優位が進んだ。この過程は、国独資の「経済の軍事化」としての「腐朽性」を新しい生産諸力が突破していったということで、旧来の「経済の軍事化」の延長上でしかコンピュータリゼーションを批判し得ないならば無力であろう。重厚長大の技術からから軽薄短小の技術への進展を支えた大量生産・大量消費(その両者を媒介する大量宣伝・大量販売、その結果としての大量廃棄)は軍事によってではなく「新しい型の大衆的消費」によって生み出されたものである。マイクロコンピュータ技術の本質はセンサーと駆動の情報処理による統一(制御)。フォーディズムの次に来るものは、新らしい生産プロセスとともに新たな生産プロダクトを発見しなければならない。
戦後第二の革命期の敗北によってもたらされた戦後資本主義世界体制の第二期がかくしてG5協調体制として本格的に開始された。この第二期は「農地流動化」のみならず「土地と労働の流動化」の時代である。
この第二期の先進資本主義国における政治過程論を、さらに歴史に学びつつ深化していかなければならない。
ゴルバチョフの「政治における新思考」にもとづいて開始された「ペレストロイカ」は根本的にはこの新たな生産諸力の破壊作用に対応せんとするものであったが、しかし人民の累積した不満はより急速な体制の変革を求めて爆発し、東ドイツの西ドイツへの吸収・統一、ソ連邦の解体へと帰結した。この事態は戦後第二の革命期において先進国同時革命に始まるスターリニスト圏を包摂した世界革命という課題を達成できなかった結果でもある。(東西関係)
70年代を通したNICS(韓国、台湾、香港、シンガポール、メキシコ、ブラジル、スペイン、ポルトガル、ギリシア、ユーゴスラビア)の台頭、しかし、日本と欧米のスタグフレーションへ対応の違い(***)にも規定されて、80年代にはアジアNIES(韓国、台湾、香港、シンガポール)と中南米NICSの間に経済パフォーマンスの決定的格差が生じた。
途上国にとって80年代は「失われた十年(lost decade)」(90年4月国連経済特別総会採択宣言)であった。アジアNIESも、91年日本のバブル崩壊後はその波及による低迷に悩まされる。(南北問題)
戦後資本主義の第二期は、情報化の新時代であり「大型汎用コンピュータとその端末」から「パーソナル・コンピュータのインターネットを介したネットワークの時代として、情報の大衆的消費へと進展し、IT革命が叫ばれている。その情報新時代はますます世界が一つであるように、政治と経済のグローバルスタンダードの確立が迫られる。
日本経済は80年代の発展期を経て、90年を前後して「バブルの時代」として突出し、91年バブルの破裂・精算に苦しむことで直ちに動揺期を迎えた。日本においては、再編成期を自民党政権という既存政権の存続のままに終えることによって本格的な政治的諸関係の再編成は繰り延べされていた。このゆえに、第二期戦後資本主義への対応に遅れをとり、日米の再逆転をもたらした。
※ アメリカの労働生産性(非農業部門)は、90年3月〜95年1月で、毎年2・2%の上昇率。公定歩合は90年末に7%から引き下げを始め92年半ばには3%。95年1月は1ドル100円程度、4月に1ドル79円の最高値を記録し、9月には100円台に戻す。
この動揺期の中で、新生党・さきがけの分立として始まった90年代の保守分裂は70年代の保守分裂とは異なって、本格的な政党再編成の出発であり、小党分立・離合集散を繰り返しながら、繰り延べされた政治的諸関係の本格的再編成(政治改革!税制改革)の再編成を担う政治主体とその方向性を巡る攻防を生み出さんとしている。
* 徳永重良「現代の労働問題」馬渡尚憲編『現代の資本主義 構造と動態』お茶の水書房1992.3
** 馬場宏二「繰りのべられた恐慌」東京大学『社会科学研究』第37巻第6号1986
*** 「スタグフレーションに対する日米の原因療法と対症療法の違い」として叙述しているものとして
小林正雄「現代日本の経済」馬渡尚憲編『経済学の現在』昭和堂
2001年1月記